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2018.08.25 (Sat)

シュッツとドイツ三十年戦争——戦乱の中の祈りの音楽

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



若きシュッツの処女作「イタリア・マドリガーレ集」の「春は微笑み」。
ヴェネツィア留学時代のイタリア音楽の影響が色濃いといわれる。


クラシック音楽で数々の大作曲家を生んだドイツ。その中で特に「ドイツ音楽の父」と呼ばれる作曲家がいる。実はバッハではない。彼の時代よりもさらに100年前の17世紀に活躍した作曲家、ハインリヒ・シュッツ(Heinrich Schütz, 1585年- 1672年 ドレスデン)その人である。
一般的には、バロック時代のバッハや、古典派からロマン派にかけて活躍したベートーヴェンなどに比べれば、彼の知名度は低いと言えるだろう。我々が、ドイツの古い時代の音楽に耳慣れていないせいもあるが、彼の残した宗教的な声楽曲を中心とした作品群がどれも至って、行儀が良く物静か、悪く言えば強い印象を与えるような作品が少ないのも、一般的に広く知られない理由の一つだろう。




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ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)。テューリンゲン地方の宿屋の息子に生まれ、その美声から合唱隊に入隊後、マールブルク大の法学部に進学。その後ヴェネツィアに留学し、作曲家ジョヴァンニ・ガブリエーリの下で研鑽を積んだ。
1614年にザクセン公に請われドレスデンに移住、宮廷楽長に就任した。その後はデンマークなどの滞在を挟みながらも終生その地に暮らした。



しかし、地味な彼の作風とは裏腹に、シュッツの生きた17世紀のドイツはバッハはもとより、ベートーヴェンの生きた革命の時代と比べても、より過酷で苦悩に満ちたものだった。何しろ、当時の同国を襲ったのは、30年にも渡る、ひたすら人が死んで行くばかりで中々勝敗も決まらない文字通り‘ 絶望的な戦争 ’、いわゆる「三十年戦争」と呼ばれるものだったのだから。シュッツ自身が「われらの愛する祖国ドイツにおいて絶え間なく進行する危険な戦争によって、素晴らしい音楽が後退しただけでなく、所によっては完全に止まってしまった……」と書くほど、当時黎明期にあったドイツの音楽文化は、この戦争によって早くも消滅の危機に瀕した。
ではドイツを物質的にも精神的にも瀕死の状態に追い込んだ三十年戦争とは一体どのようなものだったのか。そしてその中でシュッツはいかにして自らの音楽を守り抜こうとしたのだろうか。



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三十年戦争時の日常。集団処刑の様子を表している。



くしくも三十年戦争は今年、開戦から400年目を迎えるが、過去に起こった出来事、と簡単に済ませられるものでは決してない。
近年の研究者が注目している、この戦争の特徴をいくつか挙げてみると、

① 宗派対立
② 権力をめぐる国内の政治対立
③ 「民間軍事企業」の活動
④ 隣国の大国を巻き込こんだ、出口の見えない長期戦


…正に現在の中東のシリアやイラクで起こっていることそのものではないだろうか。(実際、ドイツの政治学者ヘルフリート・ミュンクラーも近著『三十年戦争』の中で現代の中東紛争との類似性を指摘している)。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



シュッツ 「十字架上の七つの言葉」SWV 478
指揮 グスタフ・レオンハルト モンテヴェルディ合唱団



以下ではこれらの特徴を、もう少し詳しく検討してみよう。

まずは①の宗派の対立である。

そもそも「宗派」とは同一の宗教の中で異なる教義を持つ集団を指す(仏教では浄土真宗や日蓮宗などがあり、イスラム教ではスンニ派とシーア派がそれに当たる)。
一方、16世紀のドイツではキリスト教のカトリック対するプロテスタントが代表的であった。両者の違いは様々な点にあるが、その一つが聖職者と平信徒(一般の信者)の関係である。

カトリックでは神と平信徒を仲介する「聖職者」の権威が強い。そして「ローマ教皇」を頂点として、司教・神父へと権威が格付けされるヒエラルキー体制が築かれた。
一方、プロテスタントはそうした聖職者の特権的な地位を廃止し、「万人司祭」の原則の下、牧師も平信徒も平等であるというのが原則である。
またカトリックでは、平信徒は壮麗な教会の中で行われる‘ミサ’に毎週参加しなくてはならない――しかも彼らには分からないラテン語で!
これに対し、プロテスタントは教会の儀式に参加することそのものよりも、平信徒が「聖書」を実際読んで内容を理解することを重視していた。そのため聖書もラテン語から平信徒にも分かる俗語――この場合、英語やドイツ語などを指す――に次々と翻訳されたのである。



 プロテスタンティズム(中公新書)



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世界史でもおなじみの、プロテスタントを代表する二人、
マルティン・ルター(左 Martin Luther, 1483-1546)とジャン・カルヴァン(Jean Calvan, 1509-1564)。

ただプロテスタントは、カトリックと違って一枚岩ではなく、「正統」や「異端」の考え方もない(そもそも‘ プロテスタント ’の語源は、カトリック的な政策に反対(プロテスト)した人々を全てひっくるめてカトリック側がつけた(侮蔑的な)名称だという)。
そのプロテスタントの中で、世界史の教科書でもおなじみなのは、ルターとカルヴァンだろう。ルターは宗教改革の口火を切った人物であり、権威は「聖職者」ではなく「聖書」にあるとして、民衆にも分かるように聖書の‘ ドイツ語訳 ’を行う一方、政治的にはローマ教皇の権威を否定することで、各国の君主の下に教会が従属することも容認した。
他方でカルヴァンは神の救いを得られる者があらかじめ定められているという独特の「予定説」を唱えた。またルターとは違い世俗の権力を否定し、教会による一種の神政政治をジュネーヴで行った。



このカトリックとプロテスタントによる宗派対立が、三十年戦争の引き金になったというのが一般の「通説」である。しかしそれだけで30年もの間、戦争が続いたわけではない。
ここで、現在の我々の生きる世界を顧みてみると、中東を二分するイスラム教におけるスンニ派とシーア派という宗派対立がある。これについて、中東研究者の池内恵氏が「教義の正しさをめぐる争いというよりも、宗派コミュニティ同士の争い」であると指摘していることは、三十年戦争の原因を考える際にも参考になる。


 シーア派とスンニ派 (新潮選書)   



カトリックの教義が正しいか、それともプロテスタントの教義が正しいのか――について、実は、三十年戦争が始まる数年前、1555年の「アウグスブルクの宗教和議」という取り決めで既に「妥協」が図られていた。その結果、カトリックとプロテスタントは教義の内容を問わず‘対等’なものとされ、どちらを選ぶかは、その地を治める‘ 君主 ’に委ねられる(一般の民衆ではない)ことになったのである。(「それぞれの君主にそれぞれの宗教 cujus regio, ejus religio」)。この時点で少なくとも教義に関する問題は棚上げにされた。

しかし一方で「アウグスブルクの宗教和議」で‘ 君主に宗派の選択権 ’が与えられたことで、その君主の‘ 領地全体 ’がカトリック化、もしくはプロテスタントだけに占められることになった。( 改宗に反対する住民はその領地を出ていかなくてはならなかった)
こうした君主によって一つの宗派がある領地に均一的に広げられる過程を「宗派化」という。このような過程を通して、ドイツではカトリックとプロテスタントの地域が次第に明確に二分され、双方の「宗派コミュニティ」の形成が進んでいったのである。



Konfessionsverteilung 1560

当時の神聖ローマ帝国の宗派分布図。桃色がルター派、黄色がカルヴァン派、紫色がカトリック。北部はプロテスタントが、南部はカトリックが多いことがわかる。この分布自体は、現代でもあまり変わっていない。


「宗派化」の形成は、上記の②「権力をめぐる政治対立」とリンクすることで三十年戦争が拡大する要因になった。

これを考える際、当時のドイツが「神聖ローマ帝国」と呼ばれる、一種の「連邦制」的な政治的枠組みを持つ国家、であった点に注意しなくてはならない。
当時300以上の‘ 領邦 ’――諸侯が治める領地や都市国家などを指す――から構成された、この複合的な国家では、政治的な最終決定は、領邦の代表者(「等族」)が出席する帝国議会で図られていた。帝国の行政上のトップである皇帝でさえも、領邦と常に利害を調整しながら政策決定を行わなくてはならなかったのである。
先ほどの「アウグスブルクの宗教和議」も、ハプスブルク家出身でカトリック教徒である皇帝と、カトリックやプロテスタントの領邦の代表の間の交渉によって決まったものだった。つまり双方の宗派は、交渉や合意を通して慎重に互いの勢力のバランスをとっていたのである。


だがこうした交渉と合意の政治に不満を持ち、自らの信仰するカトリックと‘皇帝’の権力の一方的な拡大を望んだのがハプスブルク家の皇帝フェルディナント2世だった。彼は「プロテスタント」が多かったベーメン(現在のチェコ)王国において、自らが信奉する「カトリック」の宗派化を強引に進めようとした。しかしプロテスタント貴族がこれに反発し、皇帝の代官を廊下の外に放り投げるという、前代未聞の事件を起こしてしまう(1618年の「プラハ窓外放擲事件」)。
これを契機にベーメン各地で発生した反乱に対し、皇帝側もスペイン軍やカトリック諸侯の連合軍を率いて鎮圧に乗りだした。これが三十年戦争の始まりとなる。

皇帝軍は1620年の「白山の戦い」で反乱軍を破ると、プロテスタント側を支援するデンマーク軍にも、後に述べるヴァレンシュタインの活躍で勝利した。勢いにのる皇帝側は帝国全体でカトリック側に有利な「復旧令」を1629年に発布する。
だがこの勅令に対してドイツ全土のプロテスタント諸侯は(それまで皇帝に友好的だった者も含めて)、既存の宗派のバランスを崩すような、皇帝の独断専行であると激しく反発した。
こうして、キリスト教内の‘ 宗派対立 ’に、皇帝 対 等族(領邦の代表)の間の‘ 権力闘争 ’が絡み合い、三十年戦争は激化していったのである。



この三十年戦争では、現代でいう③「民間の軍事企業」が特に目覚ましい活躍を見せた。
最近では米軍において、通常の正規軍とは別の「プライベート・ミリタリー・カンパニー」の存在がイラク戦争などでメディアに注目されたが、17世紀のヨーロッパではむしろそちらの方が主流である。‘君主’は基本的に莫大な金を払って「民間軍事企業」、つまり当時の傭兵及び傭兵隊長と契約し、全線で戦わせたのだ。


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アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(Albrecht von Wallenstein, 1583-1634)の胸像(オーストリア軍事史博物館蔵)

この三十年戦争で最強の傭兵隊長として名をはせたのがヴァレンシュタイン
元はベーメンのプロテスタントの貧乏貴族からカトリックに改宗し、妻の資金を元手に一大傭兵軍団を擁するまでにのし上がった彼は、‘皇帝’と契約し、プロテスタント側を各個撃破していた。特にプロテスタント側のデンマーク王クリスチャン4世を破ったことは、ヴァレンシュタインの威信を大いに高めた。また彼は支配した領地に徴税制度を敷くことで、軍事物資の安定的な供給に努める等、当時では先進的な兵站を整備した(ただしその取り立ては厳しく、農村部は疲弊したという)。しかしそれでも傭兵の生活は苦しく、多くは農村での略奪や強盗によって糊口をしのいでいたという。

当時、彼ら傭兵たちの様子を歌った歌が『ジンプリツィスムスの冒険』(邦訳 『阿呆物語』 )という小説の一節にある。

「飢えも乾きも、暑いも寒いも、苦労も文無しも、
あなたまかせのおいらの世界、
火つけ強盗で日を送る、
おいらはけちな傭い兵」

 阿呆物語 上(岩波書店)


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当時の傭兵の服装(オーストリア軍事史博物館蔵)



皇帝側とヴァレンシュタインが率いるカトリック側の一連の勝利に対して、周辺諸国は危機感を覚えた。それはプロテスタントに限ったことではない。
例えば隣国のフランスなどはカトリックながら、オーストリアとスペインを有するこのドイツ ハプスブルク家に挟み打ちにされるのを常に恐れていたため、ハプスブルクの力を弱めるべく、プロテスタント側を暗に支援していた。

一方当時、北方でプロテスタントの強国として成長していたスウェーデンは、『獅子王』の異名を持つ国王グスタフ・アドルフを先頭に北ドイツに侵攻した。
このスウェーデン軍の強さの理由の一つにマスケット銃の「三段戦法」があった。この戦法については、既に織田信長が1575年の長篠の戦いで世界史上初めて採用していたことは以前のブログにも書いた。( 「トルコ行進曲」と二つの帝国(1)―世界史を変えた17世紀 )



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スウェーデンの「獅子王」、グスタフ・アドルフ(Gutavus Adolphus, 1611-1632)


ドイツのプロテスタント諸侯からは、「解放者」として歓迎され、破竹の勢いを見せるスウェーデン国王、グスタフ・アドルフに対して、皇帝フェルディナント2世は当時臣下の讒言でいったんクビにしていたヴァレンシュタインを急いで呼び戻す。
こうしてグスタフ・アドルフとヴァレンシュタインが相まみたのが、1632年のリュッツェンの戦いである。両軍合わせて2万人。この内、半数近くが死傷するという激戦を制したのは、スウェーデンの方であった。
しかしその代償も大きかった。国王グスタフ・アドルフが戦死したのである。指揮官を失ったスウェーデン軍はやがて三十年戦争から離脱せざるを得なくなる。
一方のヴァレンシュタインにも悲劇が待ち受けていた。完全勝利を諦め、敵軍と和平交渉を進めようとしたところ、皇帝によって再び罷免されたのである。しかもその後、彼は皇帝側の刺客によって暗殺されてしまう……フェルディナント2世が彼の反逆を疑ったからとされている。

グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインという両雄を失いながらも、戦争はまだ続いた。ドイツを牽制すべく暗にプロテスタントを支援していたフランスが、ついに皇帝側に対して攻撃をしかけたからである。一方皇帝側も負けてはいない、スペインの援助を仰いだため、戦況はますますの膠着状態に陥った。
こうして現代の中東紛争さながらに、④「隣国の大国を巻き込こんだ、出口の見えない長期戦」がその後も延々と続くことになり、泥沼の様相を呈していく事となった。



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三十年戦争時のヨーロッパ。中央の、紫色の太線の内側が、当時の300の領邦をかかえる神聖ローマ帝国であり、その南東部分がハプスブルク領オーストリア(濃緑色)、フランスの南がハプスブルク領スペイン(オレンジ色)。
帝国にフランス(ピンク色)は挟まれた形になっている。


さて、三十年戦争では‘ 戦い ’ばかりが、人々を苦しめたわけではなかった。最近、異常気象 のニュースをよく聞くが、実は当時のヨーロッパも、1560年頃から「小氷河期」という気候変動が起こり、作物の不作が続いていたのである。それに加えて、先に述べた戦中の傭兵による農村の略奪が起こり、ドイツ全体が‘ 食料不足 ’に陥った。やがて‘ 疫病も蔓延 ’し始め、次々に人々は死んでいく……。
その結果、戦中に全ドイツの人口はなんと、3分の1にまで減少してしまったのである。



本題に戻ろう。このような戦乱に明け暮れた地獄絵図の中で、‘ 芸術活動 ’など本来ならば望むべくもないだろう。
三十年戦争当時、ドイツ人シュッツはザクセン公の下に宮廷楽長として仕えていたが、この様な状況下、当然音楽活動のための資金は削減され、楽団員の援助をシュッツ自ら筆を執って公に‘ 懇願 ’しなくてはならないほどであった。シュッツ自身も旺盛な創作意欲がありながら、やはりオペラなどの大作はとても書けない状況だった。
代わりに彼が取り組んだのは「小教会コンツェルト集」(Kleine geistliche Konzerte)と呼ばれる、声楽曲の作曲である。
この曲は3~5人程度の小規模な編成で、イエスへの賛歌を淡々と歌ったものだ。が、シュッツ自身の「神から受けとったわずかな才能」を辱めないように精魂を込めて生み出した作品、と言われている。彼がそこまで情熱を注いだ背景には、やはり戦争による悲惨な状況があった。ブログの最初の「われらの愛する祖国ドイツにおいて絶え間なく進行する危険な戦争によって・・・」というシュッツの言葉は、この曲の「序言」に載っていたものである。だが彼は続けて次のような力強い言葉を述べている。


「 とりわけ自由な芸術作品や素晴らしい音楽などの形をなしているものはいずれも、呪わしい戦争に必然的に伴う、全般的な崩壊やバラバラの混乱の傍で、人間の眼前に存在している。私はそのことを、いくつか作曲した自らの音楽作品から、自身で経験している。 」



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「小教会コンツェルト集」から。
指揮 ヴィルヘルム・エーマン。シュッツの再評価と録音に先駆的に取り組んだ。
彼もまた第二次世界大戦という、シュッツと同様の戦乱の時代を生きた人物だ。
(ただしエーマンはナチスともかかわりがあるという、中々複雑な背景の持ち主だが・・・)。



意外にも、この曲の音色からは、当時の戦火の暗い影があまり感じられない…むしろ彼の音楽には一抹の光を灯すべく、温かさや明るささえ感じられないだろうか。それが共感を呼んだからだろうか、1639年に最初の第一集が発表されると、当時の聴衆から大きな反響が寄せられたという。



長期に渡って続いた戦争は、ようやく1648年のウェストファリア条約によって終結した。これは無意味な宗教戦争に終止符を打ち、各国の主権とバランスを尊重した初の国際条約として、後世に高い評価を得ている。これ以降、西欧で宗教や宗派の対立を原因とする戦争はなくなったのだ。

( 近年は条約が過大評価されているという研究も現れている。内容をよく見てみると、宗教の寛容については1555年のアウグスブルクの宗教和議の内容をほぼ繰り返したもので、新しいのはルター派に加え、カルヴァン派にも平等が認められたくらいである。また「各国の主権の尊重」も正確とはいいがたく、既に述べた神聖ローマ帝国の300以上の領邦の複雑な権利関係が改めて確認され、皇帝の権力がこれまでよりも制限された程度で、現代の主権平等の原則とはおよそかけ離れたものあった。この「ウェストファリアの神話」は主権国家に基づく国際秩序の起源を見出したいと望んだ19世紀以降の学者が「創作」したものではないか、というのが現在の研究の主流である。)



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ミュンスターでのウェストファリア条約の調印式の様子。



条約の評価はともかく、ドイツにようやく平和が訪れた。
シュッツは同年、「教会合唱曲集」(Geistliche Chormusik)を発表した。これは一説には彼なりに「平和の年に貢献」するために作曲したのではないかともいわれている(Gregor-Dellin, S. 280.)。しかし長引いた戦乱からドイツが回復するには、その後も長い月日を必要としたのである。



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「教会合唱曲集」
指揮ヴィルヘルム・エーマン、ウェストファリア・カントライ演奏。


三十年戦争の終結から300年以上が経過した今の私たちの世界はどうだろうか。
中東を初め世界各地において、宗教上、政治上、経済上の合意やバランスは無視され、いまだ終わりのない対立や戦乱が、再び世界を不安に陥れているではないか。21世紀に於いてさえも、先の見えない状況への焦りや苛立ちに人々は日々苛まれているように見える。
そんな時こそ、シュッツの音楽に一度耳を傾けてみてはどうだろうか。戦乱の最中に生まれた彼の作品の、どこまでも穏やかな調べの根底には、平和と安定への切実な祈りが通奏低音のように響いている、と私には思われる……。


(門前小僧)


参考文献

明石欽司『ウェストファリア条約 その現実と神話』(慶応大学出版会 2009年)
池内恵『シーア派とスンニ派』(新潮社 2018年)
グリンメルスハウゼン『阿呆物語 上』(岩波書店 1953年)
テラール、ロジェ『シュッツ(不滅の大作曲家)』(音楽之友社 1980年)
Gregor-Dellin, Martin, Heinrich Schütz. Sein Leben, sein Werk, seine Zeit, Piper, 1992.
Münkler, Herfried, Der Dreißigjährige Krieg. Europäische Katastrophe, deutsches Trauma 1618–1648, Rowohlt Berlin, 2017.
Schmidt, Georg, Der Dreißigjährige Krieg, C. H. Beck, 2010.


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2016.03.16 (Wed)

㈠ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(ハンブルク編) ㈡ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(ポーランド編) ㈢ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(西ウクライナ・オーストリア・チェコ編)

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ドイツのハンブルクに来たのは丁度一年前の三月。大学で一年間の語学と歴史の勉強を兼ねての留学であった。
ドイツはまだ日中でもコートなしでは要られない寒さで、何日かの晴天を除けば、空は墨を流した様にどんよりとした暗い雲が覆う日が――ハンブルガー・ヴェター(天気)と云われる――続いていた。が、着いた当初の私は、昔から憧れ思い描いていた西欧の街並みや名所にすっかり心を奪われ、ドイツでの新たな生活への期待に胸がふくらんでいた。



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来たばかりのハンブルク



語学の勉強やドイツでの慣れない新生活にあたふたしているうちに5月になった。この月には「港の誕生日」(Hafengeburtstag)と呼ばれる祭りがハンブルクで開かれる。
ハンブルクといえば、まずドイツ最大の港湾を備えている産業都市として知られているが、このお祭りでは、昔ながらの帆船や軍艦など、普段はお目にかかれないような船が次々に来航する。最終日にはそれらの船がパレードを行うと聞いて、私も港へ駆け付けた。
岸辺一体は見物人で埋まるほどの大人数である。普段の悪天候とは打って変わって、雲一つない澄み渡るような快晴の中で、帆船が号砲を打ち鳴らしながら、ゆったりと目の前を航行している。そのような様子を見ていると、帆船が数多く行き来していた18世紀当時のハンブルク港が目に浮かんできた。



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「港の誕生日」祭りで航行している帆船 (動画)



その18世紀当時(1721年)、ハンブルクに移り住んだのが、作曲家のゲオルグ・フィリップ・テ―レマンであった。彼は死ぬまで当地で暮らし、「ハンブルクのさざ波」や「ハンブルク鎮守府の音楽」などハンブルク港にまつわる音楽を作曲している他、ハンブルクの教会やオペラ座のために、カンタータやオペラも作曲した。 
彼の博物館がハンブルクにようやくオープンしたのは2011年。つい最近のことである。



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夏のハンブルク港




こんな私でも人並みにホームシックに近いものがやってきたのは、留学からしばらくしてからである。生活にも普段の授業にも慣れていくと、最初の頃の物珍しさが次第に薄れていく。初めの頃はただの散歩でさえ時間を忘れるくらい楽しいものであったのに、暇な時間を持て余し始めると、遠い異国の地に一人居る事がことさらに意識されてくるのだ。一緒に時間をつぶせる知合いは、未だそれほどいなかった。まして話が合う友人となるとほとんどいなかった。ドイツ語もまだ中途半端で言いたいことも言えない。焦燥感が次第に募っていった…。

しかしそのような中で、心の支えにもなったのは他でもない、クラシック音楽だった。ハンブルクの中心地から電車(バス)で20分位の所に他人とシェアする形の民家を見つけ、住むことが出来たのだが、そこの自分の個室に備え付けのステレオが置かれていたのである。日本でも好きでよく聴いていた、全く同じクラシック音楽がそのステレオから流れてくることで、心に或る種の落ち着きが生まれたように思う。NDR(北ドイツ放送)のラジオが流す音楽専門番組は毎日のように聴いていた。



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ヤコビ教会のオルガンを弾くオルガニスト、ルドルフ・ケルバー(引退直前の彼の演奏を聴くことができた)



ハンブルクで最初に行ったコンサートはオルガンのものだった。何故オルガンかといえば、ドイツのオーケストラやオペラなら、日本でもしばしば来日公演が行われるが、オルガンは当地でしか聴けないと思ったからだ。ハンブルクではヤコビ教会のオルガンがシュニットガー・オルガンという歴史的に名高いタイプのものだと云うので、2,3回聴きに行った。(17世紀末にアルプ・シュニットガー(Arp Schnitger)が製作し、1990年代に時代的オルガンの修復家として知られるユルゲン・アーレント(Jürgen Ahrend)が修復した。)
5月に近郊のリューベックを旅行した時には、かつてブクステフーデがそこで演奏し、バッハもその音色を聴いたというマリエン教会も訪ね、戦後新たに作られたというドイツ最大級のオルガンも聴いた。これも人を圧倒するような大音響で聴きごたえがあったが、どちらかと云えば、私はより小ぶりなヤコビ教会の方が気に入った。トランペットのような輝かしい高音から地を震わせる様な重厚な低音まで、多彩な音色をすぐそばで堪能できたからだ。その音色は演奏会の間じゅう、教会の中一体にこだましており、教会の壁につるされた歴史的な絵画とともに、私をあたかも遠い昔の時代にいざなってくれているようであった。




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ヤコビ教会のオルガン



しばらくすると夏休みが終わり、新学期が始まった。その時期ドイツでは難民問題に関するニュースで持ち切りで、ハンブルク市内でも新たにやってきた難民の姿をしばしば目の当たりにした。中央駅の前には彼らのために食事を提供するボランティアのテントが設置され、難民用の住宅も各地区に建てられ始める。一方で他都市では難民排斥のデモも起き、パリのテロ事件やケルンの襲撃事件(ハンブルクでも同様の出来事があった)はドイツ社会に衝撃を与えた。難民受け入れをめぐる議論の対立はドイツ国内で先鋭化する一方だ...。
ハンブルクは、だがそうした戦争や迫害から逃れてきた人々を受け入れてきた歴史がある。ハンブルクにはかつて遠くスペイン・ポルトガルから宗教的迫害を受けたユダヤ人が移り住んでいた。そのためこの街はユダヤ人音楽家とも関係が深い。有名なものでは作曲家フェリックス・メンデルスゾーンや指揮者のオットー・クレンペラーがいる。メンデルスゾーンは1809年にハンブルク有数の銀行家の家に生まれ、クレンペラーは幼少期をハンブルクで過ごしていた。
その後、第二次世界大戦のナチスによる迫害で、ハンブルクのユダヤ人口のほとんどは失われてしまったが、彼らがこの街に残した文化的遺産は、近年改めて注目されてきている。



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フェリックス・メンデルスゾーンの生誕記念碑


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ハンブルク国立歌劇場にあるマーラーのプレート




身を切るような寒さの中、11月にはオペラ「死の都」で有名なコルンゴルトを聴きに、ハンブルク国立歌劇場に行った。
ハンブルクには様々な音楽関係の施設があるが――本格的なコンサートホールであるライスハレや現在港湾に面した場所に建設が進められているエルプ・フィルハーモニー(ただし完成がたびたび延期され、建設費も膨らんだことから地元では不評を買っているようだが)
――ハンブルクでオペラを見るなら、ここが定番だろう。シュテファンプラッツ(Stephanplatz)というバス停のすぐそばで、市役所などがある街の中心部からも近い。戦災でかつてのオペラ座の建物が焼失したため、現在ではガラス張りの近代的な建物となっている。歴代の音楽監督には、グスタフ・マーラーや、ベルリン・フィルの初代常任指揮者であるハンス・フォン・ビューローなどがいる。今シーズンからはケント・ナガノが音楽監督を務めている。
チケットは安いものでは1000円台 (!) と学生にとっては手ごろな価格であるとはいうものの、劇場に行ってみると観衆は年配の人がほとんどで、大学生などの若者は自分を入れてもそれほど多くはなかった。劇場が若者向けに安い席を提供したりなど、客層の開拓の試みを行っているというのもうなずける。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します



ハンブルク国立歌劇場の「死の都」のプロモーションビデオ



演奏はダイナミックなものというよりは、手堅い印象であったが、十分に楽しめるものだった。
「死の都」はハンブルクで1920年に初演された。内容としては亡き妻マリーを思い続ける主人公のパウルが、妻にそっくりな女性マリエッタに思いを寄せつつも苦悩する、というものである。そうしたパウルの姿に業を煮やしたマリエッタが、パウルの前でマリーの遺髪をもてあそぶと、彼は激高しマリエッタを殺害してしまう。これでは何とも陰鬱だが、結末でしかし実は、マリエッタや彼女の殺害はパウルの「夢」に過ぎなかったことが分かる。夢から覚めたパウルが二度と戻ることのないあの世の妻への未練を絶ち、新しい人生を歩もうとするところでオペラは終わる。

私の中で特に印象に残ったのは、倒錯したパウルの心理が「夢」という一風変わった形で表現されている点である。公演の解説によれば、「夢」を作品の根本に据えたオペラは、「死の都」の登場までほとんどなかったという。19世紀までのオペラでは、夢はあくまで作品中で登場人物によって語られたりするだけで、副次的な役割しか果たしていなかった。まして人間の心理をそれで表そうという試みは皆無であっただろう。しかし20世紀に入るとストリンドベリの『夢の戯曲』(1902)など夢そのものを題材にした作品が現れる。同時代に精神分析家のフロイトが『夢判断』(1900)で普段見る夢から人間の無意識を探ろうとしたことは有名であり、「死の都」もフロイトからの影響が指摘されている。

しかしこの今回のハンブルク・オペラの演出には少し違和感を覚えた。というのも、オペラの筋書きをかなり変更しているからだ。例えばマリエッタと女中を同じ歌手が演じたり、マリエッタを殺した後もパウルの夢は覚めずに続いたままで、人生を悲観し絶望した彼が、自ら死を選ぶという悲劇を暗示させる形で終わらせている、などなど...。特に後者の演出は曲想やオーケストレーションが煌びやかで明るいコルンゴルトの音楽にそぐわない。確かにオペラの原作であるジョルジュ・ローデンバックの小説「死都ブルージュ」は悲劇で終わるので、それとは符合しているのであろうが…。




12月になると、この時期にしては予想外に暖かい日が続いた。どうもこの冬は異常気象だったらしい。
そんな中、ハンブルクの歓楽街 ‘ レーパーバーン (Reeperbahn) ’に友人と一緒にでかけると、面白いものを見た。それはこの歓楽街で開かれているクリスマスマーケットである。他のクリスマスマーケットがもっぱらクリスマスのための買い物や食事をするためのものであるのに対し、ここでは軒を連ねた飲み屋はもちろんのこと、野外ディスコのようなものまであり、深夜まで人々が暖かいグリューワイン(Glühwein)を飲みながら、おしゃべりに興じたり、ダンスをしたりしているのである。私もおかげでそこで楽しい一晩を過ごすことができた。

ハンブルクという都市は、特に近代以降ドイツの最も重要な貿易港として発展するに従い、都市自体も拡大していった。かつて船員が日中の辛い肉体労働を終え、夜な夜な繰り出していた、港付近にある歓楽街もその発展の一つである。
その一角で幼いころ、荒くれ者の船員相手にピアノを弾いていたのが、1833年にハンブルクに生まれたヨハネス・ブラームスである。彼は貧しい自らの家庭を支えるため、ピアノの演奏でお金を稼いでいたのだ。やがて才能が認められ、ウィーンへと移住したブラームスは、故郷への郷愁を感じつつも、死ぬまで帰ることはなかったという。現在では戦災で焼失した生家付近に記念碑が建てられている他、博物館も別の場所にある。



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幼少期のブラームス(ブラームス博物館より)



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ブラームスの生家跡に立つ記念碑


 
次回は、夏休みに出掛けたポーランドなど東欧の音楽について紹介してみたい。

(門前ノ小僧)



㈡ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(ポーランド編)


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 引き続きクラシック万歳!!



留学先のドイツの大学の夏休みがそろそろ始まろうとする頃である。折角夏休みが取れるからと、ドイツ国外の旅行をあれこれ考えていた。やはりヨーロッパといえば華の都パリか、それとも千年の都ローマか…。だが当時、ある地域が私の頭の中から離れられなくなっていた。それはヨーロッパとはいってもその東にある、東ヨーロッパ」と言われる地域、特にポーランドとその周辺である。現在では「中央ヨーロッパ」とも呼ばれる地域である――この地域は共産主義勢力が支配する東側に属し、冷戦――アメリカを中心とする資本主義勢力とソ連を中心とする共産主義勢力の対立――が崩壊するまでは(1989年)、日本をはじめ西側諸国の人々がなかなか足を踏み入れる事のない、ベールに包まれた存在だった。
近年になってようやく、人の往来が活発化し、経済も成長している。私もこの地域の光と影が複雑に入り混じる歴史が徐々に明らかになっていくにつれ、ぜひ一度は訪れてみたいと思っていた。その矢先、ハンガリーのとある大学のセミナーに参加しないか、という誘いが舞い込んできたので、これを機会にポーランドやハンガリー辺りでも旅行しよう、ついでにその地域の音楽も聞いて回ろう、ということで私の中央ヨーロッパ(中東欧)への旅が始まった。



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現在の「中央ヨーロッパ」と呼ばれる地域。冷戦崩壊後は、ロシアと同一の地域とみなされるのに反発したポーランドやチェコの人々は従来の「東ヨーロッパ」よりもこちらの名称をよく用いる。


とは言うものの、私事になるが、中央ヨーロッパ(中東欧)旅行はハプニングの連続であった。失敗について書き出すときりがないのだが、何しろ私がどうにかこうにか話せるのは英語とドイツ語だけ。ポーランドのワルシャワで乗ったバスは、乗客は自分の目的地を見つけると、運転手の近くに行って合図し降車していく。バスにはアナウンスが無く、私は目的地を一度も見たことがないため、どこで降りてよいか大いに困った。
同じくポーランドのクラクフからブダペストに行くときはアナウンスがあったにはあったのだがポーランド語が分からず、予定のバスに乗り遅れ、急きょ夜行列車で移動することに。これで安心と思い列車の中でその晩は熟睡したが翌朝、起きてみると何かがおかしい。見ると腰に着けたままのポシェットが見事に開いており、そこにある財布がそっくりなくなっているではないか。目を移すと脇のリュックサックも開けられてしまった。スリだと、思わずその場で飛び上がったが、ドイツの銀行のカードも一緒に持って行かれてしまった。ブダペストに着くと、すぐに宿泊先に直行し、カードを止めてもらうよう国際電話を掛けたが、おんぼろ電話なのか回線が途中で切れてしまう。何度やっても同じだったので、業を煮やして自ら中央駅まで出向いて、今度は公衆電話を片っ端から試してみたが結果は同じ。そのためブダペスト滞在中はカードをひょっとして犯人に使われてしまうのではないか、と気をもむ日々を送らざるを得ず、旅行を楽しむどころではなかった。(幸いカードの残高はドイツ帰国後変わりがないことを確認できた)。



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ポーランドの寝台列車。


しかしそれをもってしても、洗練された西欧とは異なる、中央ヨーロッパ(中東欧)のもつ圧倒的な印象は私の中で損なわれなかった。
例えばポーランドに於いては、戦災で破壊された後に再建された美しいワルシャワの旧市街がある一方で、クラクフなどの市街地を歩くと、薄汚れた住宅も度々見かける。だがそれら住宅地も言葉を換えれば、観光客向けに小奇麗に修復されていないため、もと社会主義国らしい昔のままの古びたたたづまいがそのまま残り、生々しいまでの歴史的な存在感を醸し出していた。訪ねた季節が夏だったせいもあるが、東欧というと連想しがちな暗く寒い荒涼とした雰囲気はみじんも感じられない。周辺の自然も非常に豊かで、バスの窓から眺めた、どこまでも伸びる丘陵地帯とその先に見える古城を黄金色に照らす夕日の風景は、見とれる程美しいものだった。



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第二次世界大戦で破壊され、のちに再建されたワルシャワの旧市街。



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クラクフ、カジミェシュ地区の路地裏。



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ポーランドの夕暮れ。



だが、中東欧で本当に興味深いのは、そこに住む、あるいは住んでいた人々の歴史だろう。
古来この地域に住んでいたのはスラヴと呼ばれる言語を話す人々であった。
中世初期になると、大小の国家が勃興した後に、現在のドイツ・オーストリア・スイス・チェコ・オランダ・ベルギーなど包括する神聖ローマ帝国、それを構成するボヘミア(今のチェコ)王国など西部一帯、そして中部にポーランド王国とリトアニア大公国(後に合同)、南部にはハンガリー王国が成立し、現在の中央ヨーロッパ地域の基本的な国々が形作られた。




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14世紀頃のヨーロッパ。地図中央右の水色の地域がポーランド王国、その右隣の薄緑色がリトアニア大公国、左隣の茶色がボヘミア王国、ポーランドの下の青色がハンガリー王国である。




ここで重要なのは、この中東欧地域が割合平坦な地形であるため、東西南北から人の移動が盛んに行われていたことである。
これによって非スラヴ系の人々も、中世以降、この地域へ続々と流入していく。特に重要なのは、西から来たドイツ人とユダヤ人である。
前者はドイツ商人やカトリック・キリスト教を布教する修道士などである。
後者のユダヤ人は事情がより複雑で、元々はドイツ等西ヨーロッパに住んでいたのだが、12世紀以降に活発化した十字軍に激しい迫害を受けた。その頃、金融業で豊かであったユダヤ人の財力に注目し、彼らにポーランドへ移住を進めたのが当時のポーランド国王カジミェシュ3世であった。彼の招きに応じて多くのユダヤ人が東欧に移住した。彼らは安全を保障される代わりに、市街地の中のユダヤ人街やユダヤ人だけが住む「シュテトル」という町で非ユダヤ教徒から隔離された生活を送った。そのためユダヤ人は当地で独特の宗教文化をはぐくむことになる。
一方で13世紀には、東からモンゴル軍が来襲し、ワールシュッタットの戦いでヨーロッパ連合軍を破るも、中東欧支配には失敗する…。
より大きな脅威は、16世紀に南から侵攻してきたオスマン帝国であった。オスマン帝国はバルカン半島、そしてハンガリーを支配下に置く。こうして東欧にイスラーム文化の要素も加わったのである。
その後、ポーランドの混乱に乗じて18世紀には、教科書にも登場するいわゆる プロイセン・オーストリア・ロシアによる「ポーランド分割」が行われ、この地域の文化事情をさらに複雑なものにしていく。後にショパンが、ポーランド独立を訴えたのも、この出来事が背景にある。
この分割以降プロイセン、オーストリアから共にドイツ語文化が、ロシアからはロシア語文化が中東欧に入ってくるのである。
その後ポーランドは1918年に独立を達成するまで(ワルシャワ公国による一時的な独立を除けば)、100年以上もの長きにわたり、祖国を失ったまま三国に統治されることとなる。



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18世紀頃の「ポーランド分割」以降のヨーロッパ。
前記の地図と見比べると一目瞭然だが、水色のポーランドは消え、地図中央だいだい色の地域がプロイセン、緑色がオーストリア、き緑色がロシアとなる。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



「革命エチュード」は、1830年にワルシャワでロシアの支配から独立を求めてポーランド人が起こした「11月蜂起」の失敗を、当時パリに住んでいたショパンが聞いた際に、祖国を想い作曲したものといわれている(もっとも真偽のほどは定かではないが…)。
演奏者のホロヴィッツはポーランドの隣国ウクライナの生まれで、ユダヤ系の父を持っていた。




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2013年に開館したワルシャワにある「ポーランド・ユダヤ人」博物館。手前にあるのは第二次世界大戦時にナチス・ドイツに鎮圧されたポーランド・ユダヤ人の蜂起記念碑。



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ポーランドのヴロツワフの市庁舎。かつてはドイツ領であったため、ドイツ語名で「ブレスラウ」と呼ばれ、ドイツ人やユダヤ人、ポーランド人など多くの民族が混住する町であったが、現在はほとんどがポーランド人人口である。




ちなみに、ポーランド第二の都市であり、中世にはポーランド王国の宮廷が置かれていた古都、クラクフには「カジミェシュ地区」と呼ばれる街区がある。これがかつてのユダヤ人街で、現在でも多くのユダヤ教会堂であるシナゴーグが残されている。その中でとりわけ私が強い印象を受けたのが、「寺院シナゴーグ」と呼ばれる改革派ユダヤ教徒が19世紀に建てたものである。外観は西欧風ながら、内部は天井がムーア(イスラム)様式、細部の装飾はポーランドの伝統的様式を踏まえたものといわれ、さながら中東欧の多彩な諸文化の混合を一つの建築に見るようである。



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「寺院シナゴーグ」の内部。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



若手のクレズマー楽団 Tempero のプロモーションビデオ。


こうした文化の混淆は ‘音楽’にもみられる。東欧ユダヤ人の作り出した民族音楽「クレズマー」は東欧の様々な音楽の影響を受ける一方、アメリカ等に移民したユダヤ人によって、新大陸にも広まる。現在でも人気の高いミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』はそうした東欧ユダヤ人の音楽を下敷きにしている。また東欧ユダヤ人の音楽は日本でもある曲として影響を与えた。それが 『ドナドナ』で、これももとは東欧ユダヤ人の歌曲である。そこで歌われる彼らの言葉「イディッシュ語」はドイツ語の方言をユダヤ伝統のヘブライ文字で表したハイブリッド言語であった。

こうして中東欧の多文化性を体現していたと言ってよいユダヤ人社会は、第二次世界大戦のホロコーストでほとんど消滅してしまう。いや、ユダヤ人だけではない。かつて東欧一円に暮らしていたドイツ人も第二次世界大戦後はドイツへ追放され、ムスリムの居住していたボスニア・ヘルツェゴヴィナでは冷戦後凄惨な民族浄化も行われた。
だが忘れてはならないのは、こうした悲惨な結果に至る以前の中央ヨーロッパには、各民族の共存が不完全な形であれ、形成されていたということである。民族問題に苦しむ現代世界において、この中東欧の歴史が私たちに教えるものは多いのではないだろうか。

今は失われたユダヤ人の遺産である 「クレズマー」音楽を直に聴く機会を得たのは、私がクラクフを訪れた時であった。場所はかつてユダヤ人の富豪が建てた私的なシナゴーグ。近年修復され、現在でも数は少ないがユダヤ教徒の祈りの場となっているが、見学も自由に出来る。そこで演奏していたのは若手のクレズマー楽団「Tempero」。聴衆は私を入れて3、4人ほどで何となく地味な演奏会が予想された。ところがいざ始まった演奏は、奏者全員が息をぴったり合わせ、一分の隙もない。曲はジャズ風にアレンジされお洒落な印象だが、白熱する個所ではまるで火を噴くような激しさであった。礼拝の準備をしているはずのユダヤ教徒さえもいつのまにか足を止めて演奏に聞き入っていた。後で聞いたところ奏者は全員ポーランド人であるそうだ。しかしこれも本来多文化的なものであったクレズマー音楽が、ユダヤ人の枠を超えて広がっている証しなのかもしれない。


私の中東欧の旅はまだ続き、しまいにはウクライナまで足をかけることになるのだが、その辺りについてはまた機会を改めたい。


(門前ノ小僧)



㈢ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(西ウクライナ・オーストリア・チェコ編)


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



チェコの作曲家ドヴォルザークによる オペラ「ルサルカ」より「月に寄せる歌」
歌唱はルチア・ポップ



前回はポーランドの町と音楽を、中央ヨーロッパの歴史を交えながら紹介してみたが、今回も西ウクライナ、オーストリア、チェコなど、かつて中央ヨーロッパの大帝国であったハプスブルク帝国を構成していた国々を紹介してみたい。

ウクライナ西部の都市リヴィウの町を訪ねたのは、去年10月初旬頃だっただろうか。何故急にウクライナに行く事になったかというと、夏にハンガリーの大学のセミナーで知り合った友人から「一度私の出身の町に来てくれたら、案内をするわ」と誘ってもらったからである。ウクライナの冬は零下30度と想像を超える寒さらしいので、どうせ行くのならまだ暖かい季節にと、さっそくドイツの大学の新学期が始まる直前に来てしまった。

ウクライナは日本人の90%が行かない国だと昔あるTV番組で紹介されていたことがある。しかも昨今ではウクライナ東部のロシアとの紛争のせいでウクライナ全体が危ないかのような印象が先行しがちだ。しかし実際私が訪ねたリヴィウは、紛争地帯からはるか遠く西にあり、別名「小ウィーン」と称されるような美しく、落ち着いた町であった。小ぶりで観光客も多すぎず、しかし街並みの多くは、市民によって、19世紀そのままのものが大切に残されているのである。

友人の案内に導かれ、石畳の狭い路地を抜けると、ふと自分の視界が開け、眼前に幅の広い車道に沿って、緑豊かな帯状の広場が広がった。その広場の真ん中に、町のシンボルであるオペラ・バレエ劇場が建っていた。その純白の大理石の壁面は、その日の澄んだ青空の下、ひときわ輝いて見えた。



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リヴィウのオペラ座


この町には一つの興味深い特徴がある。それはこの町の名前だ。ウクライナ語名では「リヴィウ」もしくはルヴィウ)だが、この名前が定着したのは実は最近のこと。その前はポーランド語名の「ルヴフ」(英語名でもこれが通用しているようだ)や、ドイツ語名で「レンベルク」<とも呼ばれていた。
実はこのリヴィウが3つの名前を持つのには、様々な国々に支配されたという過去が背景にある。
13世紀にウクライナのガーリチ(ガリツィア)公によって都市が建設された後、ポーランド=リトアニア王国に支配され、1772年以降はオーストリアのハプスブルク帝国に「ガリツィア地方」の一部として編入された。そして第一次世界大戦後には、再びポーランドに支配され、第二次世界大戦が終結して初めて、ウクライナの下に戻ったのである(ただしこの当時のウクライナもソ連の下にあり、それから正式に独立したのは冷戦後である)。ただハプスブルク帝国の一部であったという過去は、今でもリヴィウの市民に「ヨーロッパ」の一員であり、ウクライナの隣国ロシアとは異なるという意識を与えている。

このようにリヴィウを支配する国家が目まぐるしく変わる過程で、様々な民族がこの町に流入し、混住した。19世紀のハプスブルク帝国支配の時期を例にとれば、政治的支配者としてウィーンから派遣されたドイツ人の官僚の他に、貴族など上流階級を占めるポーランド人、商業・金融業に従事していたユダヤ人などがいた。ウクライナ人は主として農民を構成していたため、むしろリヴィウなど都市部には少なかった。こうした多民族性はリヴィウだけでなく、当時のハプスブルク帝国全体にいえることであった。
多民族性は、リヴィウの文化を多様なものにするだけでなく、独特な文化の形成もうながした。
一例として、互いに対立するカトリック(ポーランド人などが信仰)と東方正教(ウクライナ人が信仰)を統一し、16世紀末に誕生した 「統合教会」(ギリシャ・カトリック)がある。現在でもリヴィウには、西欧のカトリック教会に典型的であるバロック様式の建築の内部に、東方正教風のイコン(東方教会における聖像)などが置かれた、独特な様式の教会があちこちに見られる。


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近年まで統合教会の総本山だったリヴィウの聖ゲオルギウス教会


流れてきた教会音楽も、西欧の「グレゴリオ聖歌」とは異なる。言葉はもちろん、その音色には、「グレゴリオ聖歌」に聞き取れる「明るさ」よりもどこか「悲しみ」を漂わせ、神の荘厳さを静かに称える、静謐で神秘的な東欧の雰囲気が濃厚に出ている。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



統合教会の伝統的な聖歌


一方で20世紀以降、リヴィウは不幸な歴史を辿った。この町の所属をめぐって、ポーランド人とウクライナ人の間で、激しく争われたのである。第二次世界大戦中には、ナチス・ドイツに占領され、市内のユダヤ人の多くが虐殺された。その後にリヴィウを占領したソ連軍は、今度はウクライナ人を弾圧する。大戦後には、リヴィウがウクライナに属したため、市内の多くのポーランド人がポーランド領に「移住」した(逆にポーランド領に居住していたウクライナ人も、同時期にウクライナに送還された)。こうした歴史の闇は非常に深いものがあるが、冷戦後ポーランド人とウクライナ人は困難を乗り越え、「和解」に達している。「(カトリックと東方正教という違いはあるが)私たちは同じキリスト教徒。和解することを学んだのよ」と友人は後で静かに語っていた。




さて次に、今年の2月頃訪ねた都市はウィーンである。ウィーンはハプスブルク帝国の首都として発展し、芸術の都として栄えてきたことはあまりにも有名だろう。

ウィーンに来たからにはぜひオペラを観てみたいと思い、3日間という短い滞在期間中、ウィーン国立歌劇場に通った。そこで上演されていたのは、「マノン」と「ルサルカ」だった。

「マノン」は、その美しい旋律の由、皆に愛されるオペラであるが、ヴァイオリンの名曲「タイスの瞑想曲」などでもおなじみの作曲家フランスのジュール・マスネの作品である。男を迷わす魔性の女マノンと、彼女にほれ込んだ純情な騎士デ・グリューの引き起こす悲劇が筋書きだが、親しみやすい旋律のアリアも随所にあり、音楽的にも楽しめる。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ウィーン国立歌劇場の「マノン」のプロモーションビデオ




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ウィーン国立歌劇場


余談だが、ウィーンを代表する国立歌劇場で二晩もオペラを観るのに、高額な桟敷席や平土間席を買うのは、学生の私には無理だった。そこであらかじめ目をつけていたのが、‘立見席’。上演中立ったままという欠点はあるが、料金がたった3~4ユーロ、日本円では500円以下(!)なのである。当日券なので上演1時間前から行列に並び、その後2時間もの間、さながらすし詰めの満員電車のような桟敷席に立ち続けて観ていた。



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休憩時の立見席。目の前の手すりに寄りかかれるようになっているが「座席」ではない。そこで、場所取りのため観客は持ち込んだマフラーを巻いて、目印にしている。



一方、「ルサルカ」は曲中の甘美なアリア「月に寄せる歌」はよく知られているとはいえ、必ずしも日本では頻繁に上演されるような作品ではないと思われる。作曲したのは交響曲第9番「新世界から」で有名なドヴォルザークである。彼は、19世紀当時ハプスブルク帝国に支配されていた祖国、チェコの民族文化の復興のためのオペラを作曲したいと思っていた。そこで筋書きとしては、チェコ版「人魚姫」といえる、チェコの民話「ルサルカ」を題材にし、全編の歌詞をチェコ語で書いたオペラを作曲したのである。主人公の水の精ルサルカの住む非現実の世界と、彼女を愛する王子の住む現実の世界が、オペラの中で交錯し、幻想的な雰囲気を湛えた作品になっている。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ウィーン国立歌劇場の「ルサルカ」のプロモーションビデオ




3日間のウィーン観光を終えて、最後に向かったのはチェコのブルノとプラハだった。ブルノはチェコの南部モラヴィア地方の中心都市であり、ハンブルク編で紹介した作曲家コルンゴルト、あるいは作家のクンデラや「メンデルの法則」を発見した植物学者メンデルの生まれ故郷でもある。



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ブルノに居住したこともあるモーツァルトを称えて作ったというモーツァルト像(ただデザインには批判も…)


ブルノでは個人的な失敗も経験した。夜にウィーンからバスで乗ってきたのだが、その晩泊る予定のホステルに向かうと、なんとそのホステルが閉まっているのだ。予約案内を確認したところ、チェックインの時間が指定されており、その時間をとうに過ぎていたことが分かった。しまった、このままでは野宿だと焦って急いで今夜泊まれる場所を探し、一件のホステルにめぼしをつけると、連絡もせずにすぐに直行してしまった。

するとそのホステルの前に若者が一人立っている。煙草をくわえ、だらしのないみなりからすると、地元のヤンキーのようだ。だが案外ホテルマンかもしれないと思い直し、おぼつかない英語で今夜泊まれないかと頼むと、相手は自分はホテルマンではないが、今夜は泊まらせてやるという返事がきた(ホテルマンはとうに帰宅したそうだ)。どうも、彼はこのホステルの宿泊客らしく、今夜は自分は外出するから、自分の空いているベッドを貸すという話らしい。これはありがたい、と喜んだのもつかの間、彼は突然ホステル代にしては法外な金額をふっかけてきた。それなら断ろうと思ったが、このホステルの代金も知らないし、そもそもこれを逃すと野宿になってしまうではないか...泣く泣く有り金をはたいた。

ヤンキーはそれを懐におさめると、私をホステルの中へ通した。室内には既に何人か客がくつろいでいた。ここで偶然にも、その中に東洋人の顔だちをした男性が日本語のアニメを見ている。ひょっとして日本人客ではないかと恐る恐る話しかけると、やはりそうだった。そこで彼にここのホステル代を尋ねると、案の定、非常に安い。これは騙された。するとまだヤンキーが近くにいたので、問い正したところ、要領の得ない返事しかしない。彼のたどたどしい英語もよく分からない。しかし私も、彼に渡してしまった旅費を少しでも取り戻そうと、懸命である。
しばらくこのような調子でもめていると、周りの客が何事かと集まってきた。特にその中の一人のチェコ人の女学生が、私とヤンキーの間で通訳をしてくれた。他の客も私に加勢してくれた。そうこうするうちに、まだ室内に一つベットが余っていると客の一人が教えてくれ、ヤンキーの分を借りずに済むと分かった。ヤンキーも結局、しぶしぶお金を返してくれた。こうしてその夜はそのホステルに何とか泊まることができ、翌朝宿泊代をホテルマンに払って一件落着となった。私を助けてくれたお客さん達とは、この一件ですっかり仲良くなった。



最後のプラハでもホテルで土産物が紛失したり、ひと騒動あったが、無事に観光を終えることができた。残念ながらプラハでは時間もあまりなかったので、音楽をゆっくり聞く余裕もなかったが…。



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プラハの国立歌劇場


(門前小僧)



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