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2018.08.02 (Thu)

ショスタコーヴィチ戦争の終わり?

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 引き続きクラシック万歳!!



 ショスタコーヴィチの証言

今更紹介するほどもない有名な本である。それまで社会主義体制下で生きることを通じて得られる「歓喜」を描いているとされていた交響曲第五番でのフィナーレを、一転、「強制された歓喜」と呼び、それを含めて社会主義賛美であるとされていた彼の交響曲について、「わたしの交響曲は墓碑である」と述べるこの本は、それまでのショスタコーヴィチ像を180度転換させるのに十分な衝撃を西側世界に与えた。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ショスタコーヴィチ作曲 交響曲第5番 4楽章
モスクワ市交響楽団
指揮ドミトリー・ユロフスキー



朝鮮戦争は、休戦協定は結ばれたものの平和条約が未締結なまま、今なお継続されていることが話題となったが、実は休戦協定にさえ至らず、三十年以上も続いている「戦争」が存在する。
もっとも、これは、「ショスタコーヴィチ戦争」とも呼ばれる‘論争’の事であり、一方の側の当事者である音楽学者タラスキンは、昨年度音楽分野での京都賞を受賞している。(因みに同部門での受賞者はメシアン、ケージ、ルトスワフスキ、クセナキス、リゲティ、アーノンクール、ブーレーズ、セシル・テイラーという大物中の大物ばかりである)。
タラスキンは、オックスフォード大でその記念講演を行い――「スターリン賞の取り方(How to win a Stalin Award)」そのアブストラクト――論文の要旨には「冷戦も終わった今、・・・多くの識者は「ショスタコーヴィチ戦争」の休戦を求めている」との文言が記されている。しかし、この講演を聴く限り、この戦争は終わらない・・・少なくとも、当事者間での「休戦」は無理であると思われる。

さて、「ショスタコーヴィチ戦争」とは何か。

ショスタコーヴィチは、様々な意味で今は消滅した‘ ソ連 ’を代表する音楽家である。かつてはショスタコーヴィチと言えば‘ ソ連の体制派 ’の音楽家の代表であった。例えば、彼が作曲した十五曲の交響曲中最も有名な第五番は、「革命」とも呼ばれ、社会主義体制を讃える曲であると看做されていた。だが、現在そのように考える人はまずいない。むしろ、‘体制の受難者 ’の典型であったという意味の当時のソ連の代表者であると考えられている。
このような「転換」を齎したのは1991年のソ連の崩壊ではなかった。それに先立つ10年以上前の1979年に米国で出版された『ショスタコーヴィチの証言』がそれを惹き起こしたのである。


『ショスタコーヴィチの証言』は、晩年のショスタコーヴィチが若き音楽学者ヴォルコフに語った言葉をヴォルコフが編集し、ショスタコーヴィチ自身がその内容を確認した後、その原稿は密かに西側に持ち出され、ショスタコーヴィチの死後、米国に亡命していたヴォルコフがその英訳を出版したというのが、ヴォルコフの説明である。
出版と同時にソ連当局は、それを贋物だと述べ、家族や知人にもそう言わせたのは、当然予想される反応であり、そのことは信憑性を揺るがすものではなかった。早くも出版の翌年、米国の音楽学者フェイは『証言』に疑義を呈し、その後、タラスキンが彼女に加勢をし、‘『証言』は贋作だとする ’反ヴォルコフ勢の大将となった。

他方、ヴォルコフ自身は、直接の反論を為さず、代わりに最近邦訳もされた『ショスタコーヴィチとスターリン』を著した。反ヴォルコフ勢と剣を交えて戦ったのは、実際は他の人々である。

ウェブには、この「論争」に関係する情報が、とにかくたくさんあり、どれをどう見れば良いのやら途方に暮れるが、ヴォルコフ派の闘将の一人、故イアン・マクドナルドが運営していたサイト、Music under Soviet Rule(http://www.siue.edu/~aho/musov/musov.html)には、2000年4月までの論争のまとめもあり(彼が亡くなったのは2003年)、当然ヴォルコフ派の主張を知ることも出来て便利である。このサイトは以前から気になっており、偶々最近その一部を読んで感心していた一方、先ほど紹介したタラスキンの講演をYouTubeで見たのだから、最初に述べた私の感想も、ヴォルコフ側に偏ったものである。広く文献を渉猟した専門家の意見を聞きたい所だが、どこにそれがあるのやら、今はマクドナルドのサイトで感心した所をまずは綴っていきたい。

『証言』の真贋は論争の発端であり、今もそれは争われている。しかし、ショスタコーヴィチもヴォルコフも亡き人となった今、真相は幾ら求めても得られるものではない。
それよりもむしろ問題なのは、先程述べたショスタコーヴィチ像の「転換」に、何故『証言』という書物が必要だったのかという問題である。つまり、『証言』の出版以前は、ほとんどの西側の人間は、見れども見えず、明き盲の状態にあった訳で、何が解っていなかったからそうなってしまったのかということの方が大切だと私には思われるのである。そう考えていた私にとっては、イアン・マクドナルドのThe Question of Dissidence という文章はまことに納得の行くものであった。

その冒頭で彼は、『証言』の真贋は論争の本質ではないと明言する。(彼の著したThe New Shostakovichの改訂版では盟友HoとFeofanovに従って真作説を取っているが、初版では『証言』はヴォルコフの創作だという前提の上で議論を進めている)。

『証言』から浮かび上がるショスタコーヴィチ像は、当時のソ連の音楽家たちの多くが共有するものであったのであり、だからこそ、出版当時すでに西側に亡命していたアシュケナージやコンドラシンらの音楽家たちはそれを真作だと看做したのである。
つまり問題は、ソ連政府当局が喧伝し、それを西側の人間も信じていたショスタコーヴィチ像が正しいのか、それともソ連国内で密かに、しかし広く音楽家そして聴衆が、漠然と抱いていたショタコーヴィチ像が正しいのかという争いなのである。後者が正しければ、たとえ『証言』がショスタコーヴィチによるで書物ではなく、‘彼に関する書物’であっても、――つまり、「証言」としては贋物であったとしても、そこに描かれた、体制への迎合者とは全く逆の、その批判者・反抗者(dissident)であり続けたというショスタコーヴィチ像は「真実」となる。考えるべきは、彼が、ソ連体制の批判者であったか否か、そして、彼の音楽をそのような体制に抗する音楽として聴くべきか否かである。



ソ連の水爆の父原子物理学者サハロフ、そして小説家ソルジェニーツィンは、ソ連体制を公然と批判し、弾圧され、更にソルジェニーツィンは国外に追放された。しかし、それだけが批判者としての在り方なのだとしたら、西側にも知られる「有名人」であるが故に生命を奪われることはなかった二人とは違い、西側からの援護を期待できない無名の一般人はどうすればよかったのか。更に、この二人がそのような批判が出来たのも、スターリン亡き後だったからである。有名無名を問わず、そうした援護が全く期待出来なかったスターリン時代にはどう処すればよかったのか……体制に迎合する他なかったのか。

1934年に初演されたたオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』は、ソ連国内のみならず世界各地で上演され好評を得て、ショスタコーヴィチは、新生「 ソビエト社会主義共和国連邦 」が生み出した初めての本格的なオペラの作曲者としての栄光を手にした。しかし、1936年1月、時の権力者スターリンを観客に迎えて行われたモスクワ公演の二日後、ソ連共産党機関紙『プラウダ』紙上、スターリンの口調を思わせる文体の論評記事の中で、このオペラは「音楽ならざる荒唐無稽」であると評された。
この評言は単にショスタコーヴィチの名声を危うくするだけではなかった。この1936年秋から始まり、翌1937年に本格化する、スターリンによる大粛清は、政治家や軍人だけではなく、全てのソ連国民を巻き込むものであり、如何なる意味であれ党に反するとの嫌疑をかけられた者は、逮捕され、その多くは処刑され、また、収容所送りとなった。『マクベス夫人』批判に際してショスタコーヴィチを擁護した、赤軍の英雄トゥハチェフスキーも、世界的な高名を得ていた演出家メイエルホリドも、逮捕され、惨たらしい拷問の後、処刑された。ショスタコーヴィチは生命の危機の淵に立たされたのである。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します



「スターリン賞の取り方(How to win a Stalin Award)
この講演には、YouTubeでの日本語の同時通訳版もある。
が、英語版の方でついていけない所だけ聴くというように使った方がよいと思われる。通訳の方には失礼になるかもしれないが、言語だけではなく、内容の学習も大切だと考えさせられる翻訳であるので。



彼は、『マクベス夫人』と同様に、‘ 不協和音に満ち、いびつな構成を持つ ’交響曲第四番の初演を断念し、スターリンがかねてより提唱していた‘ 「社会主義リアリズム」に沿う ’交響曲第五番を作曲し、無名の新人であったムラヴィンスキーを指揮者として1937年に初演し、その「改心」を認められるのである。
更に、1940年に作曲したピアノ五重奏曲は、第一回スターリン賞の第一位を獲得した。
「社会主義リアリズム」によれば、芸術は広く人民に理解されるものでなければならず、歴史は共産主義の理想に向かって進むという世界観に沿ったオプティミズムを基調とするものでなければならなかった。

このような基準に照らせば、当時の前衛芸術は、頽廃したブルジョワジーの自己満足のための音楽に過ぎないとされ、『マクベス夫人』もそのような音楽として断罪された。そして、交響曲第五番は、そのような「形式主義」的な音楽という逸脱から「社会主義リアリズム」という正しい道への軌道修正として、共産党に容認された訳である。
他方、この事は、一部の西側の人間の目には、芸術家としての屈服と恥辱として映った。
だが、ソ連国内の人間、特に、この曲の初演を、全員が既に最終楽章が演奏されている中で起立し、その終わりを鳴りやまぬ拍手喝采で迎えたレニングラード市民は、どのようにこの曲を聴いたのだろうか。葬送の曲と聞こえる第三楽章では聴衆の間に嗚咽が広まり、それが最終楽章での熱狂に結びついた。彼らは、何をそこに聴いていたのだろうか。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します



ティルソン・トーマスによる、「交響曲第五番」についてのKeeping Scoresから。これは第四部だが、そこでの第三楽章の分析は、なるほどと納得させられる。更にこれに続く第五部では、問題の第四楽章について、それが「強制された歓喜」を表現するものであることを証明する興味深い「実験」が行われる。それは、DVDを購入して視聴する他ないのだが、そこでの全曲の解説、また、演奏もそれに十分値するお薦めのDVDである。

彼らには、ショスタコーヴィッチと同様に、家族、親戚、友人の中にスターリンによる粛清の犠牲者がおり、自らも恐怖の中で生活していた。特に第三楽章は、その悲しみ、苦しみに共感する音楽であるからこそ、彼らの感動を惹き起こした。そして、革命の勝利の歓喜を表現するとされた第四楽章には、実は様々な‘仕掛け’が施されており、今もなおその‘意味’を多くの音楽学者が解明しようとしており、単純に喜びを表現する音楽とは程遠いものである。
もちろん当時、聴衆はその‘工夫’を知る由もなかったが、それが単純な歓喜の音楽ではなかったことだけは理解したはずである。



「ショスタコーヴィッチ戦争」の話に戻れば、ショスタコーヴィッチがこのような危険な賭けを行ったということを否定する者も多くいるらしい。しかし、各種の引用に満ちた工夫の存在を否定することは学者には出来ない。表向きの意味とは異なる裏の意味を持つ「イソップ的言語」をショスタコーヴィッチがここで用いている事実は、反ヴォルコフ派の主将であるタラスキンも認めている。
さらに、彼は、この交響曲に大粛清時代の「抑圧された悲しみ」を聴き取っている('Public lie and unspeakable truth interpreting Shostakovich's fifth symphony' in Shostakovich Studies 1195)。初演時の聴衆の反応を考えてもこれが妥当な解釈である。
しかし、タラスキンはそこに「反抗」の要素を認めない。タラスキンによれば、ショスタコーヴィチは、「不正と政治的抑圧を憎み、社会への関与と民衆との連帯を高く評価する」‘ロシアの伝統に則ったインテリゲンチャ’であり、‘体制の批判者(dissident)’とは異なる「『市民的な』芸術家("civic" artist)」であると言う。('Who was Shostakovich?' The Atlantic Monthly, February 1975、Defining Russia Musically1997でもこの文章は使われているとのことである)。
だが、マクドナルドによれば(The Question of Dissidence) このような「インテリゲンチャ」は、19世紀のロシアにも、20世紀のソ連にも存在しない。19世紀のインテリゲンチャは、帝国政府への反抗をその本質的要素として持っていたし、20世紀になってからは、レーニンが、非ボルシェヴィキであり自らの敵である知識人を「ブルジョワ・インテリゲンチャ」と呼んでいたが、それが「ブルジョワ」を省略して「インテリゲンチャ」と呼ばれるようになったので、つまり、「インテリゲンチャ」とは、いずれにせよ体制への反抗を意味する言葉なのである。そして、ショスタコーヴィチは、この正しい意味での「インテリゲンチャ」なのである。

もちろん表立って体制批判、スターリン批判の言葉を口にする訳には行かない。仲間内でそれをした場合でさえ密告によって逮捕されるのが日常茶飯事であった時代である。しかし、言動に表さなかったと言って、反抗は存在し得ない、精神まで屈服させられていた、などと考えるのは人間性への侮辱である。あらゆる批判の言動が弾圧の対象となったスターリン時代にあっては、批判は存在しなかったと断ずるタラスキンの考え方はまさにこの侮辱となっており、マクドナルドが彼を批判するのももっともである。



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スターリンの演説をYouTube で探していたらこんなものを見つけた。五ヶ年計画の成功を喧伝するプロパガンダ用のアニメーションであり、ソ連を批判する資本家たちが醜悪に描かれているが、その醜悪さは作り手のそれを反映していると思わせる仕上がりとなっている。


さてそのタラスキンが講演で述べた「スターリン賞の取り方」とはどんなものなのか。マクドナルドの文章を読み直した直後に偶々この講演をYouTubeで視聴した私には、マクドナルドがタラスキンを批判し続けた所以が分かる気がする。
タラスキンによれば、要は、ショスタコーヴィチが迎合したから栄えあるスターリン賞を受賞したということになる。1940年作曲のピアノ五重奏曲において、ショスタコーヴィチが社会主義リアリズムの求める古典的な形式を守ったこと、そして、スターリンがヒトラーとの協力をし始めて世界を驚かせた時期にあって、ドイツ的な趣を備えさせたことを受賞の原因に挙げている。そして、悲劇的な始まり方をしたこの曲が明るい長調で終わるこという事実を、ショスタコーヴィチが、スターリンの「生活は改善された」という言葉を思い出し、それに沿うように曲を完成させたからだと述べる。
よりにもよって「生活は改善された」とは…と思わざるをえない。スターリンは1928年工業化を推進する第一次五か年計画を発表し、それを強引に実行した。翌1929年に発生した世界恐慌で苦しむ資本主義国を尻目にしつつ工業化を成し遂げたことは、社会主義の勝利として称えられた。この成功を祝って1935年の演説で述べた言葉が、「生活は改善された」である。そして、ショスタコーヴィチは確かにその演説の場にいた。
しかし、現在ではその成功よりもそれが齎した負の側面でこの計画は有名である。農業では悪名高い「集団化」が強制的に行われ、その結果として惹き起こされたウクライナを始めとするソ連国内各地での飢饉は「ホロドモール」とも呼ばれ、ナチスによるホロコーストと並ぶ二十世紀の悲劇の一つに数えられている。
この悲惨な結果は、当時としてはむろん知る由もなく、ショスタコーヴィチもそれを知らずにスターリンの演説に耳を傾けていた筈である。しかし、大粛清により周囲の人間が次々と名誉と生命、人間としての尊厳を奪われ、自らもその危機にあったという経験を経た1940年に、スターリンのこの言葉をその字義通り‘受け容れる’ことが出来た、と想像することが私には信じられない。



 ショスタコーヴィチとスターリン 

タラスキンはこの講演でヴォルコフの『ショスタコーヴィチとスターリン』を批判し続けている。だが、この本には次のような、ピアノ五重奏曲に関する美しい言葉が見出される。門外漢の私がこのように長々と文を綴っているのも、この言葉を紹介したいと思ったからに他ならない。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します



1941年の 「スターリン賞」第一位に輝いたショスタコーヴィチ作曲 ピアノ五重奏曲op.57
演奏  ヤンセン(第二ヴァイオリン)とその仲間たち



この五重奏曲の決して絶える事のない魅力は、皮肉を気取った姿勢やグロテスクなもの影が全く見当たらない事の内にある。・・・この五重奏曲は、重い病から回復したばかりの人間の疲れ果てた知恵で息づいている。・・・ソヴィエトのインテリゲンチャは、大粛清の恐怖の波に溺れかけていたが、ほんのつかの間、水から頭を上げ、周りを見渡し息をつきたいと願っていたのだ。ある同時代人は、新聞が書くことやプロパガンダが自らの頭に叩き入れようとするものへの不信と恐怖に満ちている中で、この五重奏曲が「時を超えた貴い水晶」のように現れたと述べている。(『ショスタコーヴィチとスターリン』第四章)

この本は最近最高の訳者たちを得て、邦訳されているのだが、唯一の欠点は値段が高すぎること(!)で、以前英訳を購入したのだが、その英訳から重訳をせざるを得ず、この美しさを伝えることが出来ずもどかしい限りだが、この「溺れかける」という比喩は、大粛清を辛うじて生き延びた人々の心情を手に取るように解らせてくれると思う。ヴォルコフによれば、この曲の初演を聴いていたある年老いた聴衆は、涙が頬を伝わるのを気づくことなしにこの曲に聴き入っていたという。

全体主義が支配する中での、音楽、あるいは芸術を通じた反抗とは何を意味するのだろうか。外面だけではなく、内面でも信奉、順応を求めるのが、共産主義を含む「 全体主義 」一般の恐怖である。全体主義の下では、真実とは党が定めるところのものである。何が正しく、何がよいのかは、全て党が決定し、何が事実であるのかさえもそうである。従って、「(全体主義下にある)ソ連邦において、「批判者」であるということが表すのは、誠実であるということ(truthfulness)であり、検閲されていない現実であり、道徳上の諸価値である。それは、社会主義リアリズムの幻の現実やソビエトでの公的な言論の蔓延する虚偽に反対するものである」とマクドナルドは言う。
外的なもの、公的なものだけが価値があるとされる中で、内的なものの美しさを表現すること自体が反抗なのである。第五楽章は確かに明るい。しかし、その明るさは飽くまでも個人的なもの、内面的なものであり、スターリンの演説などとは無縁なものである。



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ショスタコーヴィチ自身がピアノを演奏している。




政治的ならざる道徳的な反抗とは何なのだろう。
ヴォルコフはショスタコーヴィチを、同時代の詩人たち、マンデリシュターム、アフマートヴァ、そしてパステルナークと同様の精神の持ち主としている。そして、この本のエピローグで、パステルナークと彼に共通する考えとしてイエスの有名な言葉、「カエサルのものはカエサルに」を挙げている。ショスタコーヴィチはこの格言を基にしたティツィアーノの絵の複製を書棚に飾っていたとのことだが、この言葉には、「神のものは神へ」という言葉が続き、政治と宗教との峻別を教える言葉として有名である。そして、芸術は宗教の側に属するのは、我が国でも福田恆存が再三再四説いたところである。



  ドクトルジバゴ

政治と芸術とが峻別されなければいけない事は、エピローグでヴォルコフが語る、パステルナークの晩年の悲劇から学ぶことが出来るだろう。パステルナークが反体制側に属することは、スターリンも承知しており、その上で「あの雲の上に住む人間に触ってはいけない」と秘密警察に語っていたことをマクドナルドが紹介しているが、政治的人間とは程遠いパステルナークは、共産党の支配下で生きる人々の現実から目を背けることはしなかった。スターリンの死後、それを描いた小説『ドクトルジバゴ』を、その原稿を密かに西側に持ち出し出版するという、当時としては奇想天外の策を通じて発表することが出来た。西側での大きな反響の結果ノーベル文学賞受賞という結果が齎されたのだが、フルシチョフの共産党政権からの圧力により、パステルナークは受賞を辞退する事になり、国内での様々な批判に晒され、癌に侵されていた彼は世を去った。
この受賞辞退という事件は、そして、彼の死という出来事でさえも、冷戦下にあっては、西側の政治的なプロパガンダに利用されるだけであった。死の前日彼は「自分を苦しめているのは、故国では全く知られていない時に世界的な名声を得ることの持つ二面性を知ったことだ」と述べたいう。アイザイア・バーリンを始めとする自分を理解する友人も西側には確かにいるが、多くは自分を知らず政治的に自分を利用する者であり、他方、自分の作品を理解し共感を寄せる筈の多くの同朋に、この作品が届いていないという事実は、彼を苦しめたであろう。
パステルナークは、国外での出版という事を通じて、心ならずも自らが政治の場に立つことを選択したことになった訳だが、ヴォルコフによると、ショスタコーヴィチはこのようなパステルナークの晩年の逸脱とそれが齎した苦悩を、心を痛めながら見ていたということである。



さて、このような状況下、ショスタコーヴィチはフルシチョフ政権下で、反ユダヤ主義の悪を鋭く批判するエフトゥシェンコの詩を用いた、交響曲第十三番を作曲し、表向きはナチズムを批判しつつ共産主義をも批判することがかなり明らかになっている曲を発表した。しかし、時は、既に移り変わっていた。先に述べたようにサハロフやソルジェニーツィンが党批判を公言しても、直ちに死を以って沈黙させられる時代ではなくなっていた。
そのような新しい人間たちとショスタコーヴィチとの距離をも、ヴォルコフはこのエピローグで伝えてくれる。彼らからすれば、ショスタコーヴィチの振舞いは、微温的で歯がゆいものであった。だが、反体制運動は、体制が押し付ける正義に対して、自らの正義を主張する単なる政治運動となりがちである。それは、反体制の言動ではあるが、体制側の持つ政治の悪をむしろ共有するものである。ヴォルコフが伝える若い世代の人間たちの言動は、体制側の人間と同様に、正義を振りかざして他者にそれを押し付けるものであったのではないか。
晩年のショスタコーヴィチの、「老い、死、忘却、自然への回帰という主題を扱う、反ソヴィエトではなく非ソヴィエトの音楽」を彼らが理解できなかったことがその証左である。そして、サハロフやソルジェニーツィンの活動こそが真の抵抗であるとして、ショスタコーヴィチにその語を与えることを拒むタラスキンもまた、そのような政治の悪を根本的に剔抉する芸術の在り方を知らぬ正義漢の一人であると私には思われる。



西側の人間が見逃していたのは何であろうか。
マクドナルドは、反ヴォルコフ派の人間がソ連の現実をあまりにも知らない無知を嘆いているが、それは単に事実に関するものではない。全体主義、あるいは、政治の悪とは何なのかということに関する無知であると思われる。しかし、彼の音楽から聴き取るべきものを聴き取った人もいる。
ヴォルコフは、その著の序文で、ローレンス・ハンセンという人の(ショスタコーヴィチの音楽は)「我々の最も根源にある、原初の恐怖、つまり、外部の力による自我の破壊、生が意義も意味もないものになるのではないかという恐怖、自分の仲間の人間の内にも見出されるかもしれない全くの悪に触れるものなのだ」という言葉を引いている。自分が自分として生きることは決してたやすいことではない。弾圧、抑圧、あるいは洗脳、自分を失わせるものは幾らでもある。そして、共産主義、あるいは全体主義とはその極端な例である。
ヴォルコフによれば、ショスタコーヴィチは、「一見するところ壊れやすく、気取るところのない人間だが、その外見にも拘らず、複雑で矛盾に満ち、しかし究極には勇気ある人物であることがあきらかになった」のであり、マンデリシュタームの妻ナジェージダが語るように、「内面の自由、記憶、そして恐怖を持つ人間は、押し寄せる川の水の流れを変える葦、小枝である」のだ。

苛酷で非人間的な状況の中であっても、音楽に人々が共感を寄せつづける限り、人間性を押し流そうとする川の流れに人は抗することが出来るだろう、ことをショスタコーヴィチの音楽は我々に教える。
戦争はどんな形であれ終わればいいというものではない。少なくとも「ショスタコーヴィチ戦争」はこのまま終わって欲しくはない。単なる事実ではなく、それが意味する所が明らかになるまで続いて欲しいものである。


(ネモローサ)



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2017.08.02 (Wed)

旧ソ連の音楽(1)クレーメルとその仲間たち (2)イヴァシキンと1920年代の音楽

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旧ソ連の音楽(1) クレーメルとその仲間たち


ギドン・クレーメルと言えば、私の世代の人間にとっては若手の演奏家というイメージがどうしてもあるのだが、その彼も今年の二月で七十歳の誕生日を迎えた。それでも、やはり、クレーメルには若さが似合う。それかあらぬか、今から十年前の2007年、つまり、彼が六十歳を迎えた年には、Sempre Primavera(英語で言えばAlways Springつまり、常に春)という演奏会を開いていて、YouTubeでそれを視聴することができる。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



58分頃から、Sempre Primaveraと題してベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『春』の編曲版を始めとして春の音楽を集めたメドレーを演奏する姿は若々しい。



クレーメルは、現在最高のヴァイオリニストの一人であり、昨年は、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞し、巨匠たちの仲間入りをしたとも言えそうである。しかし、巨匠然としたところがなく、永遠の青年といった趣があるところに彼の魅力がある。かつて「権力誇示の一部としての称号、勲章および賞状を伴う過剰な表彰狂詩曲」といった表現で彼はソ連体制下での褒章を評したのだが(『クレーメル青春譜 二つの世界のあいだで』アルファベータ)、世界文化賞受賞後のインタヴューで述べた次の言葉は、この辛口の批評と矛盾するところはない。

私は受賞すべくして受賞するアーティストの群には属していません。以前のソ連では、多くのセレブ・アーティストが名声に名声を重ねるべく何度も賞をもらったものです。私は受賞するたびに、これはサプライズではなく、私が正しいことしていることに対するモラル・サポートだと思っています。正しいことをする、これは五十年のキャリアを通して容易ではないことを知っています。それは往々にして、一般的な慣習や考え方に逆らうことになるからです。自分が自分自身であり続けるため、自分が信ずる価値を守るためには、戦う必要があるからです。(産経ウェブより)

ギドン・クレーメルは1947年2月27日、旧ソ連統治下にあったラトビアのリガに生まれ、モスクワ音楽院でオイストラフの下で学び、1970年23歳でチャイコフスキーコンクール優勝する。当時のソ連での特権であった国外での活動も徐々に許され、天才として世界中で認知され始め、1977年、ドイツ滞在中にソ連政府に「二年間の国外滞在」を申請し、ドイツの雑誌とのインタヴューでこの希望を明らかにする。これは当時にあっては、国家への反逆と看做され、ソ連国籍を剥奪されかねない行為である。だが、この申請は例外的に認められ、二年近くは、鉄のカーテンの内外で活動することができた。しかし、二年後、結局のところはソ連市民権を放棄させられる。彼が音楽家としてこの「故国」に戻るのは、冷戦終結後の1988年であった。
これらの出来事の詳細は、上で言及したクレーメルによる自伝、『クレーメル青春譜』(以下では『青春譜』)から知ることが出来るのだが、この書は(この時期での三度の結婚と三度の離婚を含む)彼に関する事実だけではなく、それら及び時代全体に関するクレーメル自身の考察を含んでいる。この書を読むことで、クレーメルという人物をいささかなりとも理解することができ、彼の魅力を知ることが出来る。
彼が敢行したソ連から西側への脱出という行為を考えてみよう。一見勇気ある行為だが、そこには厄介な事情も存在する。
「誤った」音楽活動が直ちに芸術家としての生命ではなく、端的に粛清や収容所送りといった生命の危機をも意味したスターリン時代とは異なり、ブレジネフ時代にあっては、不満を抱きつつも、反体制の活動にさえ加わらなければ、ソ連に留まって、命の危険を感じることなくある程度の生活が送ることが出来た。
しかし、そのブレジネフ時代のソ連から、自由を求めて多くの演奏家が西側へ逃れた。彼らの多くは社会主義体制に批判的な考えを持っていたが、‘ 体制批判の発言の自由 ’という政治的な自由を求めてと言うより、芸術上の自由、つまり、‘音楽家としての自由な活動 ’を求めて西側へ逃れた。
これは考えようによっては我儘で贅沢な話だとも言える。彼らは、世界的に見ても一流の演奏家で、西側へ行けば、演奏の機会も曲目も自由に選ぶことができ、なおかつ、西側ではソ連での生活を遥かに超える豊かな生活を送ることが可能である(当時クラシック音楽で社会的な名声と富が保証される時代であった)。他方、普通のソ連国民、そして、外国に知られてはいない音楽家たち(作曲家たちはたとえ才能があっても大抵はこちら属していた)には、そのような贅沢な選択肢は存在しない。

なぜクレーメルは社会主義体制を逃れて西側へ逃れたのか。それは彼の芸術上の野心あるいは金銭的な欲望を満たすためであったのか。
『青春譜』には、「ムジクス・ソヴィエティクス」(ソヴィエト的音楽家)という章がある。ここには、「理知の人」としてのクレーメルの真骨頂が見られるのだが、そこにその答えが見出される。

まず彼は、「体制のせいで、平均的なソ連国民の心の仕組みと生活態度に何か根本的に不道徳なことが根づいてしまったのである」と述べる。「ソヴィエト体制は――皇帝専制政権と同じように圧制機構であり・・・(悪しき)人間の特性を強化した。体制が加えた圧力によって、追従主義の傾向が促された。・・・(辛うじて残った)誠実さは、しばしば偽善、二重道徳、卑下、虚偽、自己保護および尊大さのあいだの、まさにさまざまな振る舞いの束に変形された。」ソ連体制は、人間があらゆる搾取から解放される理想的な状態に到るまでの階梯の一段である。しかし、この階段を上るように導くのは、真理を既に所有している一部の選良たち、つまり、共産党であり、党は、単に経済のみならず、政治、学問、芸術、思想あらゆる場面で“正しさ”の規準を示した。それは完璧に正しいものであり、それを批判し、そこから逸脱することは許されない、逸脱は死をも意味する――結局の所は、強大な権力を持つお上のいう事には従わざるを得ないという点では皇帝専制政治と何ら変わるところはない。そのような圧政下では、「毎日の生活は、密告や上司の好意を得ようとする努力・・・および力の誇示から成る巧妙な振る舞いの網を紡ぎだしていた。個人の弱点は、人間を強くするはずだった体制をほとんど侮辱する。」相手が皇帝であれ、共産党であれ、権力を持つものに対して媚び諂うのは、人間の性である。だが、単に阿諛追従が要求されただけではない。党は単に強大な力を有するだけではなく、‘ 正しさの規準 ’でもあったのである。体制は常に“正しい”のであり、それに従う者も“正しい”人間でなければならなかった。個人は自らの弱さを示してはならない。

秀でた芸術家は、スポーツで鍛えられ、丈夫で模範的でなければならなかった。そして、レパートリーもまた・・・古典的で保守的な基準とイデオロギー的に「健康な」基準との混合である。ソヴィエトの音楽はつねに進歩し、パイオニアであり、空想上のより良い未来における曖昧な何かのために戦っていた。演奏もまた、軍旗のように掲げられていた――ポスター風で説得力があり、一元的だった。

このような体制下では、芸術が存続することは極めて困難である。というのも、

すべてが党の価値に従属させられ、党の旗の下には大衆文化、分かりやすさ、「健全さ」およびあの不吉な「社会主義リアリズム」なる用語が謳われていた。問題のあるテーマや、未解決あるいは解決不可能なテーマと取り組んだ音楽や文学あるいは他の芸術形態は、いずれも不審とされた。

人間は不完全な存在であり、人間がその中で生きる世界も不完全である。それ故に生まれる様々な感情、悲しみ、苦しみ、喜び、憧れが形となったものが芸術である。「問題のあるテーマや、未解決あるいは解決不可能なテーマと取り組」む所にその存在理由があるのであり、明白な解答しか存在しないならば、芸術は単なる気晴らしの道具に成り下がる他ない。

このような体制下で音楽家として生きることは、人間性を何かしらの形で歪める。
「ムジクス・ソヴィエティクス」の中で、クレーメルが描く著名な音楽家の肖像、例えば、ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人であるだけで迫害の対象となったスターリン体制をも(恐らくはKGBの協力者となって)生き延びたヴァイオリニストのコーガンや、内なる反抗心を隠し続け、念願の西側への亡命を果たした直後心臓発作でこの世を去った指揮者のコンドラシンのそれらは痛々しい。


本の紹介 ➡ クレーメルの青春譜


それでは、西側世界、あるいはソ連邦崩壊後のロシアであればもう問題はないのか。残念ながらそうではない。共産主義という妖怪の代わりに、今度は‘ 商業主義 ’という魔物がそこには存在する。上に述べた社会主義体制が齎した悪は「自由主義体制」にも存在する。『青春譜』のエピローグにある言葉を引こう。

巨大な売り上げをもたらすスター・システムが、音楽界を推進する駆動力である。量が質に勝り、知名度が音楽的内容より重要になっている・・・芸術が我々の感情を開く道であり、その感情とは当然ながら純粋な喜びや明るい気持ちだけではないことが、ますます理解されなくなっている。思いを致す媒体としての音楽は、深みのない‘ 娯楽 ’という機能のために排除される・・・この宇宙からはすべての問題や不安が押しのけられる。

二つの体制を比較した、次のような言葉も、自らと同じく西側へ逃れたチェリストであるロストロポーヴィッチのことを語る「のるかそるかの大勝負」の章に見出される。

ソヴィエト・ロシアでは、・・・ツァ―リ(皇帝)であれスターリンであれ、‘ 父親としての理想像 ’が崇拝の対象で、不可侵の人物だった。これに対して西側では、一種の‘ 人気 ’を強要する傾向が支配している――できるだけ多くの人に気に入られ、誰にでも話しかけ、誰の声にも耳を傾けようと努力する人――これが社会の規範だった。その裏には・・・商売の原則も隠されている。この法則は、芸術の世界においても支配している。・・・ラジオやテレビはオペラや交響曲の断片で「クラシック・ヒット」や「心地よい音楽」、音楽の体験をメンタルヘルスのための消耗品に低下させ気に入るような形でつまみ食い文化を提供している。 

クレーメルの面目躍如たる所は、西側に移住した後も「自分が自分自身であり続けるため、自分が信ずる価値を守るために」戦い続けた、と言って言葉が強すぎるならば、自らの理想を追い求め続けた所にある。
オーストリアのロッケンハウスという場所に自分の友人たちを集め、‘ ソ連に留まり続けていた作曲家たち ’の作品も含めて、「三十年にわたり、室内音楽の頂点を目指し・・・新・旧、有名・無名をふくめて二千曲」を演奏し、営利とは可能な限り離れた形で音楽祭を主催し続けた(現在では運営を若き後輩に譲っている)。また、故国ラトビアを始めとするバルト三国出身の若き演奏家たちを集め、クレメラータ・バルティカというアンサンブルを結成し、後輩の育成に努めると共に、彼の「仲間」の作曲家の作品の演奏に携わっている。もっとも、下に紹介するヴィデオで語られているように、彼はそこで指導者ではなく、先輩ではあるが、「同僚」である。『青春譜』の言葉を藉りれば、そこは、皆で築き上げた「我が家」である。このヴィデオではこの「我が家」でくつろぎ、伸び伸びと活動するクレーメルとその若き仲間たちの姿を見ることが出来る。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



クレメラータ・バルティカとロッケンハウス音楽祭が主な主題となっている。本文では触れなかった、クレーメルが紹介し有名になったアルゼンチンの作曲家ピアソラの曲の演奏も出てくる。(9:50~)



クレーメルは、『青春譜』で「臆するところのなさ、感情の赴くままにできる能力」を持つアルゲリッチやバーンスタインを自分とは「まったく異質な音楽家」であると言い、自分には「自分が音楽を演奏することでのみ表現できる内的な悩みを、いわば感情的に許容し、自制し、思索する傾向が多分にある」と記している。ここから、「知的な」演奏家としての彼のイメージが生じるが、最初に紹介したインタビューでは、「私は自分を知的な演奏家と思ったことはありません。知的なことが勲章とも思いません」と述べる。『青春譜』を読んでもその通りであると思う。例えば、彼にとってヒーローであったロストロポーヴィッチに関して、反体制派の代表である小説家ソルジェニツィンを匿い、国外退去を余儀なくされる等々の彼の華々しい行動について、「社会的なポーズでもありうる」という疑念を表明する鋭い洞察を示しながら、この書物には他人の悪を糾弾する冷たさ、あるいは、暗さは全く感じられない。彼は鋭い理知を持ちながら、その限界も弁えており、その理知は彼の感情を支配することはない(再びロストロポーヴィッチを例に取れば、彼の傑出した様々な面は素直に認め、一時は不仲となった彼と再び和解出来た事を心から喜んでいる)。クレーメルに最も相応しい名称は、理想家であり、感情・情熱がその元にあり、理知はそれを支える補助に過ぎないのではないか。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



マルティノフの作曲  Come In! for 2 Violins and Orchestra (1988)
クレーメルとクレメラータ・バルティカ

マルティノフはクレーメルの最初の妻タチアナの再婚相手、作曲家であり神学者でもある。


ソ連滞住中から、彼は努めてソ連での新しい非体制派の作曲家たちの作品を紹介し、インタヴューでは「ソ連を離れたとき、ソ連に残した友人たちに仕えたいと思いました」と述べている。彼がそこで名を挙げた旧ソ連出身の作曲家には、ペルト、シュニトケ、グヴァイドゥ-リナがおり、多少なりともその曲も聴いたことがあるが(私事だが、ペルトは若い頃よく聴いていた)、カンチェリ、シリヴェストロフ、ラスカートフ、デシャニコフ、ヴスティンとなるともう駄目である。しかし、是非とも彼らの音楽を聴いてみたい。というのも、『青春譜』のエピローグは次のような言葉で終わる・・・

私にはひとつのことがますます意識される――それは人格の役割であり、厳格な規則に屈せず、自らの使命に責任を負い、各自の生きる道を求め、理想を持ち、その理想を惑わずに追求する、人間の偉大な意義である。‘ 自分自身の内なる声 ’・・・を探し、小さな声であれ、大きな声であれ、美しい声でも、それほど美しくなくても、見つけられたなら、人は勝利したのである・・・ソヴィエト国家が強要した巨大なコーラスにおいて、ともに歌うのをひたすら拒否した、あの個人的な声が、今でも、最も美しかったように思える・・・「道はない、だが我々は歩まなければならない。」そしてこの道に対しては、結局は体制ではなく、ひとりひとりが自分で責任を負うのである。

真の意味での音楽芸術は、このような意味での個人の間で成り立つ営みである。そのような音楽、「ソヴィエト国家が強要した巨大なコーラスにおいて、ともに歌うのをひたすら拒否した、あの個人的な声」とはどんなものであったのか・・・。
次回以降、これらの作曲家の音楽の試聴記を綴ろうと思っているのだが(その前に、彼らの紹介者でもあるチェリスト、イヴァシキンのことに触れようと思う)、何か一つ旧ソ連時代の音楽を紹介したい。共産主義は歪んだユートピア思想であるが、超越的なものを一切認めない唯物論である。その反動として、超越的なものを求める宗教心がその体制下で高まるのは当然である。クレーメル自身には信仰はないが、クレーメルとクレメラータ・バルティカが演奏したマルティノフの曲を聴く時、美しい曲なのだが、この強烈とも言える美しさは一体どこから来るのだろう、と思わず考えさせられる曲である。

(ネモローサ)



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旧ソ連の音楽(2) イヴァシキンと1920年代の音楽



「旧ソ連時代」の音楽全般を紹介する邦語の書籍というものがなかなか見当たらない中で、ロシア文学者の亀山郁夫氏の『チャイコフスキーがなぜか好き』(PHP新書)は、グリンカから現代音楽の作曲家に到るまでのロシア音楽を論じていて真に有益な、また、楽しく通読出来る本である。ドストエフスキーの作品の翻訳で有名になった亀山氏であるが、ロシア革命前後のロシア・アヴァンギャルド芸術(前衛芸術)の研究の第一人者であり、しかも、自身がチェロを奏する氏は、本編全体に亘って、深い学識に基づきながらも個々の作品への愛着を情熱を籠めて語り、読者をして飽きさせる事がない。
氏は、ロシア音楽の特質として「熱狂」と「ノスタルジー」、そして往々にして現れる「アイロニー」の三つを挙げる。ロシア正教、そして、キリスト教以前の異教という精神的な風土の中から「全体の幸福という『黄金時代の記憶』」が生まれ、この「黄金時代」を求めて「熱狂」と「ノスタルジー(感傷)」の両極端の間を揺れ動き、また、それらによって無意識に流されようとする際に「風刺の毒」、アイロニーを以って時にそれを押しとどめる、このような図式の中で、二百年に亘るロシア音楽史を氏は語る。

ソ連体制下の現代音楽もその流れの中の一齣である。
 

  亀山郁夫著 『チャイコフスキーがなぜか好き』(PHP新書) 



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旧ソ連の一部であったアルメニア出身の作曲家、アーヴェト・テルテリャーン(1929-1994)による『交響曲第6番』(1981)。
彼は、前回のブログで名前を挙げたカンチェリの友人であり、アルメニアを代表する作曲家である。彼を顕彰するホームページがあり(http://www.terterian.org/en/)、多くの作品をダウンロードして聴くことが出来る。



現代音楽は難解であると言われる。実際今紹介したテルテリャーンの交響曲も何回か聴いているが、耳に馴染むというには程遠いものである。もっとも多くの現代音楽とはそのような慣れを拒否するものであるから当然と言えば当然であるが、しかし、鐘のような音に続いて、不穏な持続する不協和音の背後からお経のような人声や陰鬱なメロディーが交じり、途中で少し盛り上がるが、それも中途で終わり、結局は鐘の音の中で静かに終わっていく…という様なこの曲をどう理解すればよいのか。この曲のことは、チェロ奏者アレクサンドル・イヴァシキンの文章(Alexander Ivashkin: "The paradox of Russian Non-Liberty "The Musical Quarterly 1992)で知ったのだが、彼は、「ゴーゴリやドストエフスキーからマンデリシュタームやアフマートヴァに到るどんな時代のものであってもロシア芸術を『氷山』と呼ぶことが出来るかもしれない」と記し、この曲を含めてロシア・ソヴィエトの音楽を氷山に喩えている。確かに耳に聞こえるこの音楽の底に、耳には聞こえない巨大な何かが潜んでいると思えば、無意味な音の響きではないと思うこともできよう。
上の文章でイヴァシキンの言う「氷山」の意味ついては、後で紹介するとして、それから離れても、旧ソ連の音楽を理解するに際して、この氷山の喩えはなかなか役に立つ。現代音楽とは言っても、そこにはそれまで培われてきたその場所特有の文化の痕跡が残っているのであって、その音楽文化の伝統という目に見えない水面下の部分があってこそ、水面より上にあり目に見える、つまり耳に聞こえる音楽の部分のあり方も決まるのではないか。
社会主義体制下での「反体制派(dissident)」としての現代音楽作曲家を、何世紀にもわたるロシアの文化と歴史という文脈の中で理解するという姿勢は、イヴァシキンにも通じる。
1985年に時の共産党書記長ゴルバチョフによりペレストロイカが始まり、1989年にはベルリンの壁が崩壊、1991年、ソ連邦解体、社会主義体制は終焉しが、まだペレストロイカの熱気が冷めやらぬ1990年に、イヴァシキンは、先ほど触れた文章を掲載した音楽雑誌に「スターリンの恐怖と社会主義リアリズムのキッチュ(古臭く通俗的なけばけばしさ)」の時代の終わりを寿ぐ一文を寄せている。("Letter from Moscow Post October Soviet Art: Canon and Symbol" The Musical Quarterly 1990) その文章の中で彼は、今目前で生み出されている芸術は、社会主義リアリズム以前の1920年代、1930年代初期の前衛芸術の 直接の継承者であると語る。

‹注›マンデリシュターム(1891 - 1938年)は、 ロシアのユダヤ系詩人。高踏的な象徴主義の詩から離れ、より親しみやすい「アクメイズム」をアフマトーヴァらと共に始め、多くの人にその詩が愛された。スターリンの政権下で収容所に送られそこで死亡した。死後もその詩は、アフマートヴァの詩と共に人々に愛され続け、ソ連邦体制下で苦しむ人の希望の灯である続けた。
‹注›アフマートヴァ。(1889年 - 1966年)、ロシアの詩人。マンデリシュタームとともに20世紀前半から中葉のロシアを代表する詩人。アフマートヴァの作品は初期の叙情的な短詩から後期のスターリン政権下で圧制に喘ぐすべての人を代弁した普遍的な作品まで幅広く、特に後者にはスターリンによる大粛清の犠牲者に奉げたため、長らく封印された連作長詩『レクイエム』などがある。
‹注›アレクサンドル・イヴァシキン   クレーメルと同じくソ連出身で、体制に付和雷同することを潔しとしない音楽家であるイヴァシキンは、ロストロポーヴィチとグートマンと並び称されるソ連のチェロ奏者であると同時に、文学・思想にも造詣が深く、ソ連崩壊後は国外に去り、最後はロンドン大学でロシア・ソ連音楽の研究、紹介にも尽力した。多数のCDを録音しているが、シュニトケやロストロポーヴィチの伝記をも著し、ロシア・ソ連音楽に関する論文も多数物する才人である。クレーメルの一歳年下であるが、2014年にその生涯を終えた。


  アレクサンドル・イヴァシキン著 『シュニトケとの対話』



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ニコライ・ロースラヴェツ(1881~1944)のチェロソナタ第1番(1921)、第2番(1921~1922)、チェロはイヴァシキン。
ロースラヴェツは、スクリャービンの影響の下、「音組織の新しい体系」を提唱し、ロシア革命後の芸術上の革命を追求するロシア・アヴァンギャルド(前衛芸術)の代表的な芸術家となるが、他の前衛芸術家と同様に、人民には理解不能な作品を創作する「形式主義者」との烙印を押され、作曲家としての活動を不可能にされ、不遇のうちに生涯を終えた。



さて、ここで簡単に二十世紀のロシア・ソヴィエト音楽の流れに触れておこう。
グリンカ、ムソルグスキー、ボロディン、また、チャイコフスキーを輩出した十九世紀に続く、二十世紀においてもロシア音楽の泉は涸れることはなかった。
文学の上では二十世紀初頭は「銀の時代」と呼ばれ、象徴主義とアヴァンギャルドの詩人たちが活躍したが、(ちなみに「金の時代」と言われるのは、プーシキン、トルストイ、ドストエフスキーらの十九世紀)、音楽でも、革命前にはスクリャービンがおり、ロシア革命(1917年)の混乱の中で、ストヴィンスキーやラフマニノフは亡命者となったが、故国に残った多くの音楽家が、芸術上の革命を果たそうと様々な試みを為した。
しかし、スターリンが政権を取ると、「社会主義リアリズム」が提唱され、芸術家の受難の時代が始まった。多くの芸術家が、「反革命」の断罪を受け、自己批判を迫られ、収容所に送られ、また、場合によると、拷問の末に処刑されもした。音楽家も例外ではなかった。革命初期の様々な新たな芸術上の試みは中断され、キッチュと形容されるべき作品が持て囃される中で、ショスタコーヴィチやプロコフィエフらは、様々な工夫を重ねながら真正な芸術作品を作り続けた。1953年のスターリンの死によって恐怖と屈辱の時代がひとまずは終焉し、フルシチョフ政権の下で「雪融け」の時代を迎え 西欧の同時代の現代音楽が紹介された。公認の音楽は依然として「社会主義リアリズム」に沿うものであり続けたが、多くの若者がこの現代音楽に引き寄せられ、ブレジネフ政権下、60年代、70年代を通じて「反体制派(dissident)」の音楽家として生きることとなった。この大勢はペレストロイカが始まるまで変わらなかった。

イヴァシキンによると、「 ‘雪融け’に始まった新たなソヴィエト音楽は、1980年代になってようやく革命初期の1920年代に達した高みに再びたどり着いた 」とのことである。それでは、20年代の高みとは何であったのか。
革命期の前衛芸術家たちは確かにプロレタリア芸術を唱えたが、それは、政治社会の革命に追随するのではなく、むしろそれに先行し、「知性が辿るべき、遠い未来に到る道を切り拓くべきものであった。」(画家フィローノフの言葉)慣れ親しみ手垢のついた現実は、偽りの現実であり、‘根源にある真の現実 ’に到る道を示すのが芸術である。
ウラジーミル・ヴェルナツキー(1863-1945)という科学者思想家によれば、地球の進化は、「ジオスフィア(無生物の物体)」から「生物圏」へと進み、更に「ノウアスフィア(精神圏)」に到るという。生物の出現が地球上の酸素の増加を齎し、その環境を不可逆的に変えたのと同じように、人間の精神的な活動が今後地球のあり方を決定的に変え、「ノウアスフィア(精神圏)」を創出する。このような考えは当時の有力な思想家、例えば、フロレンスキイも共有する所であり、彼は芸術家に大きな影響を与える存在であった。フロレンスキイは、また、未来に目を向けると同時に過去へ、民族の根源への探求が為されるべきだとした。実際、当時の人類学・心理学・言語学は、人間の心理・神話・言語の深層に、精神的な世界を見出せるとしたからである。芸術とは、このような精神圏(ノウアスフィア)を指し示す象徴である。
精神、物質、神話、科学が一体となった新たな世界像を創造するという営みを芸術が担うのに相応しい人物が、実際当時の音楽家にはいた。ロシア革命の僅か二年前に亡くなったスクリャービンである。彼の交響曲五番『プロメテウスー火の詩』(1910)は、生者と死者、精神と物質が一体となった世界を夢見る彼の神秘主義的な思想を表現するものであり、音に対応する光も同時に演奏されるのである。

〈注〉フロレンスキイ(1882年 - 1937年)は、ロシア正教会の司祭、神学者、宗教学者、哲学者、歴史家、文献学者、詩人、数学者、技術者、発明家、音楽家、言語学者。モスクワ神学大学の教授を務めた。学者・芸術家としての彼に向けられる多くの称が示すように、神学・哲学のほか、理系分野、芸術領域においても才能を発揮したことから、ロシアのレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれる事もある。



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スクリャービン作曲 『交響曲第5番プロメテウス』
現代のテクノロジーを使って彼の「色光ピアノ」を実現したもの。
(演奏は、9;45~)



スクリャービンは言う、「次のことが理解されねばならない、宇宙は我々の想像力、我々の創造的な思考、我々の意志という質料から成り立っているのであって、それ故に、我々がわが手の中にある石と呼んでいる意識の状態と、我々が夢と呼んでいる意識の状態は、その材料に関する限り、違いはないのだ。石も夢も同じ質料から出来ているのであり、その二つは、同様に現実的なものなのだ。」物質と精神を一体化するこの言葉を引用し、現代芸術の創造原理だとするのは、ボリス・アサフィエフ(1884-1949)である。彼は作曲家であり、音楽学者、批評家であり、革命前後の音楽界に大きな影響を与えた人物であった。若き日のショスタコーヴィチも『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を彼に捧げた(但し後に不幸なすれ違いでそれを取り下げることとなる)。

イヴァシキンによると、『プロメテウス』の初演の際にチェレスタ (小型のアップライト・ピアノのような形態の楽器。)を演奏していたのが、作曲家シチェルバチョフである。彼がロシア象徴派の詩人ブロークの詩を基に作曲した『交響曲第2番』について、「即興、開かれた形式、均衡の欠如、慣習的な平衡との訣別、これらすべてにより機械的な法則によっては支配されない生物のような交響曲となっている」とイヴァシキンは言う。調性を保ってはいるが、既存の明確な形式に従わず、合唱とソプラノとテノールの独唱とオーケストラが、ブロークの詩の世界を描き出すこの交響曲を、イヴァシキンは「自然の一要素としての音楽」とも評する。

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残念ながらシチェルバチョフの『交響曲第2番』はYouTubeにはないようである(2008年にBotstein指揮アメリカン交響楽団によるライブ演奏の録音がデジタル化されiTuneその他で聴くことが出来る)。代わりにやはりブロークの詩に基づくピアノ曲を見つけた。再び残念ながら録音状態が良くないが、それでも魅力的な曲である。


シチェルバチョフはレニングラード音楽院の教授となり、ポポーフらを育て、前述のロースラヴェツやアサフィエフ、また、若き日のショスタコーヴィチらと共に20年代のソ連での新しい音楽世界を創出した。イヴァシキンの言葉を引くと、「1920年代は、無制約の実験の時期であり、音は、不自然な文脈が洗い落とされ、根源的な音楽の要素の世界に深く、より深く分け入った…1920年代は、精神圏への探求の第一歩が踏み出された時であった。」



今回僅かではあるが、色々と調べてみて印象深かったのは、この「銀の時代」の精神文化の豊かさである。ロシア革命の故に多くの著名な、ベルジャーエフのような知識人や、ストラヴィンスキーやカンディンスキーのような芸術家が亡命したが、そういう人間を生み出した、革命前に確かに存在していた土壌が、革命後の‘ ソ連に留まった ’知識人、芸術家をも生んだのであるから、この豊かさは考えてみれば当然のものである。イヴァシキンは、若き日のショスタコーヴィチを含めた当時の音楽家や聴衆の音楽に関する考えに影響を与えたとして、前述のフロレンスキイやアサフィエフと共にドストエフスキー研究で有名なバフチンの名前も挙げている(Ivashkin: ”Symbols, Metaphors and Irrationalities in Twentieth-Century Music” in Mimesi Verita e Fiction 2007)。アサフィエフの文章には明示的ではないが明らかにバフチンの影響があるとのことであるし(David Haas: “Boris Asaf’yev and Soviet Symphonic Theory” in Musical Quarterly 1992)、ショスタコーヴィチのペトログラード音楽院での学友であったピアニストのマリヤ・ユーディナはバフチンの教え子であり、バフチン・サークルの一員であったそうである。イヴァシキンの言葉は決して牽強付会ではない。



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この時代の文化の豊かの証拠として、やはり録音の状態はあまり良くないのだが、ルリエー(1892-1966)が、古代ギリシアの女性抒情詩人サッフォーの詩に作曲した歌曲(Grečeskie Pesni 1914)を聴いてみたい。この詩をロシア語に訳した、ヴャチェスラフ・イワーノフの名は亀山氏の先の本にも見ることが出来るが、彼は象徴派の詩人であると共にギリシア古典から始まるヨーロッパ文学・思想に該博な知識を有し、その知識を基にロシア民族の使命を論じた思想家でもあった。革命により亡命し、ローマがその終焉の地となった。



作曲者のルリエーは、クレーメルがその再評価に努めた作曲家の一人でもあるが、ロースラヴェツと同じく革命後もソ連に留まり、革命政府の一員となった。しかし、その前衛的な姿勢が批判され、亡命の途を選び、イヴァシキンによると、パリに亡命していた音楽家たち(ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、後者は後にソ連へ戻ることになる)と共に「ユーラシア主義運動」に参加し、「西欧のモダニズムとは異なる、ロシア音楽の、新しく正しいアイデンティティを確立する」ことを目指した。

キリスト教以前の異教文化が残り、西のカトリックに比べ、神秘的、儀式的な要素をより多く持つ東方正教を奉じると共に、タタールの軛と呼ばれるモンゴル人の支配を長く受け、帝国の発展に伴い東のアジアに向けて膨張し、域内に多くの非ヨーロッパ民族を抱えるロシアは、西欧とは異なる存在であらざるを得ない。この状況を肯定的に捉え、そこにロシアの本質を見ようとするのが、このユーラシア主義である。
この「ユーラシア主義」は日本とも無縁ではない。そこに参加していたアレクサンドル・チェレプニン(1899-1977)は、革命によりパリに亡命した後、日本及び中国を訪れ、その滞在中に伊福部昭や早坂文雄を始めとする、多くの音楽家の指導に当たった。伊福部に大きな影響を与え、また、彼の主催した「チェレプニン賞」で優勝したことが伊福部が作曲家としての経歴を歩むことを決定的なものにしたという話は有名である。


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チェレプニン作曲 チェロ・ソナタ第1番(1924)。
チェロ演奏 イヴァシキン。
因みにアレクサンドルの息子イヴァン・チェレプニンも作曲家であり、、最近テレビでよく見かけるモーリー・ロバートソン氏のハーヴァード大学での師であった。ニコニコ動画での「モーリーチャンネル」でこのイヴァンのことを面白おかしく語るモーリー氏の動画が今は見られないのが極めて残念である(モーリー氏のような人だけを「タレント(才人)」と呼ぶべきだろう)。



さて冒頭の話に戻らなくてはいけない。新たな音楽言語を通して、西欧だけではなく、東のアジアにも亘る人類全体の記憶の根源にあり、物質と精神の二元論を超える精神世界を表現しようとする芸術上の大胆な試みは、スターリンの下で、平板な音楽を求める「社会主義リアリズム」により中断を余儀なくされた。しかし、先に記したように、スターリンの死後の「雪融け」により当時の同時代の様々な前衛的な音楽技法が紹介された。若き音楽家たちは、それらの摂取、消化に努めたが、単なる模倣に甘んじることはなかった。根源的な世界(ノウアスフィア(精神圏))の象徴としての音楽を創作するという20年代の課題、あるいはロシア音楽全般の課題を、それらの新たな技法を活かしながら果たすこととなった。ロシア音楽をイヴァシキンは氷山に喩えたが、その意味するところは、ロシア音楽は、耳に聞こえる音に尽きるものではなく、自らを超えた何かを表す一種の暗号であり、その音楽を理解するためには、聖書解釈と同様の解釈行為が必要とされる。60年代70年代は、このような音楽を創造するための準備期間であり、80年代にこの努力が花開き、身を結ぶことになった。
最初のテルテリャーンの交響曲に戻ろう。イヴァシキンによると、テルテリャーンは、アルメニアこそが人類の文明を育んだ揺籃であり、アルメニア語はインド・ヨーロッパ語の原型である信じているとの事である。(ノアの箱舟の行き着いた先は、アルメニア人にとっての聖山アララト山であり、確かに印欧祖語はこの地域から西はヨーロッパ、南はペルシア、東はインドに人間の移動と共に広がったと考えられる)テルテリャーンは、この交響曲にアルメニア正教での祈りの言葉や自然界の音を取り込むと同時に、楽譜にはアルメニア語のアルファベットが記されており、この音楽は、「ヨーロッパ文化を葬る葬送」と名付けてもよいとイヴァシキンは言う。

イヴァシキンは、まだペレストロイカが希望を人々に与えていた1990年の文章(Letters from Moscow)を、20年代の音楽を受け継ぐ80年代の音楽のさらなる発展を願いながら希望に満ちた調子で終えている。しかし、その2年後の文章(The paradox of Russian Non-Liberty)では早くも自由化による社会全体の混乱の中で、改革への幻滅が語られる。だが、この状況においてこそ、ロシア音楽の本質が見えてくる。このことに関してはまた回を改めて紹介したい。

(ネモローサ)
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2016.06.01 (Wed)

積読の効用(前)~ルーマニアの陰影 エネスコそしてシオランの見たもの (後)~ルーマニアの陰影 エネスコそしてシオランの見たもの 

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「つんどく(積読)」とは、明治時代にできた学生言葉であるそうだ。が、今やインターネットで全国いや全世界から、新刊でも古本でもその場で注文して取り寄せることができ、しかも、電子書籍ならば、恐らく生きているうちは、入手可能かも知れないと安心できるのだから、このつんどく(積読)という言葉も死語になりつつあるのかも知れない。
評論家の福田恆存は、日本人が読書を、修養のためと捉えて 趣味 とはなしえない心の貧しさを指摘したことがある。そう考えてみると、「つんどく(積読)」は、修養の点からいえば、向上心の現れとも言えなくもないが、貧しさ、さもしさの証しでもあり、さらに言えば単なる物欲、所有欲の結果でしかない。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



エネスク作曲 ヴァイオリンソナタ第3番  
演奏 コパチンスカヤ



それでも、積読をしていて良かったと思うことがたまに起こる。
最近では、今は閉店してしまった、つくば市内の友朋堂書店で、音楽学者である伊東信宏氏の『中東欧音楽の回路』を購入して、「積読」していたことがある。題名に何となく惹かれ、目次を一瞥すると、興味深い見出しが並び、しかも音資料としてCDが付いているという魅力的な本であったため、思わず買ってしまった。帰宅後、序文と第一章だけとりあえず読むと、あとはゆっくりと手に取る暇もなく、「積読」となっていた。
さて、この本を再び繙くことになったのは、音楽雑誌『レコード芸術』で、伊東氏が「東欧採音譚」という連載を始め、その第一回に、ヴァイオリニストのコパチンスカヤと指揮者のクルレンツィスによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のCDを激賞するのを読んだからである。今更ここで触れる必要もないだろう、この衝撃的な演奏を私も耳にし、たちまち二人の演奏家のファンとなった。早速、思い出して先の「積読」していた伊東氏の本を取り出してみると、その第七章「妖しく高貴なヴァイオリン」において、東欧のエネスクのヴァイオリン・ソナタ第三番を論じており、付属のCDがあのコパチンスカヤによる演奏を収めていた。しかも、この章のコラムは、彼女に関する魅力的な紹介文となっていた。この紹介文とCDのおかげですっかりと彼女の魅力の虜となった次第である。
しかしながら、題名に掲げた「積読の効用」とは、このことではない。一般人向けのこの伊東氏の本には、学者らしくしっかりとした注釈が施されており、演奏と同時にエネスコの曲自体にも興味を覚えた私は、 [注]に挙げられていた、ヴィオレル・コズマによる『ジョルジェ・エネスク 写真でたどるその生涯と作品』を早速アマゾンで取り寄せた(古本でしか今は入手できない)。こちらは小著であったこともあり、「積読」せずに直ちに読むこととなった。

本書は現代ルーマニアを代表するという音楽学者ヴィオレル・コズマ氏によるものであり、簡にして要を得た、優れた書物である。原著は2000年に出版されたが、それまでのエネスクに関する研究を踏まえ、更にそれらに加えて、それまであまり触れられなかった彼の輝かしい生涯にある影の部分にも言及しながら、より深い理解をもたらすエネスクの伝記的著作となっている。
 
では、「積読の効用」とは、この本を知ったことなのかと言うとそうではない。それは後に擱くとして、1881年、ルーマニアのモルドヴァ地方に生まれ、1955年パリで死去した、ジョルジェ・エネスク――「エネスコ」 の方が我々にとっては馴染みがあり、私も以前、「エネスコの弾くバッハの無伴奏」など愛聴していたが――二十世紀最高、いや、史上最高のヴァイオリニストと矢張り言えるのではないか。

著者コズマ氏によれば、

……エネスクの世代になると、かつての趣味(パガニーニやサラサーテ時代の)とは、別の方向に向かってきていた。聴衆を、技術面(テクニック)だけで喜ばすような方法では満足させられなくなっていたのだ。 (中略) この二人(フリッツ・クライスラーとジャック・ティボー)は、演奏のスタイルで最もエネスクに近いと言える。優雅さと親密さ、上品で洗練された資質の点でこの三人は、共通性がある。
だが、それらに加えてエネスクの演奏には確かな自然さ、シンプルさ、誠実さ(オイストラフのような)、さらに独自の才能が備わっており、この点で彼の友人であり、理解者でもあったパブロ・カザルスだけがエネスクに比肩しうる演奏家であった。(『ジョルジェ・エネスク 写真でたどるその生涯と作品』)

本書には、エネスクの弟子であるメニューインの「エネスクはいかなるヴァイオリンの曲芸的な技も嫌っていたが、スピードに関しては誰も寄せ付けなかった」という言葉も引かれている。エネスクは、誰よりも優れた技術を持ちながらも、いや、だからこそ、技術自体には重きを置かず、技術はあくまでも‘音楽’のために用いる音楽家であった。(しかも、そのテクニックは彼のオリジナルなものであったそうだ。本書には訳者補遺として、「エネスクのヴァイオリン技術は百パーセント彼の独自なものであって、それ以前のどんなアカデミックな基本奏法にも基づいていない。右腕は身体から遠く離し、肘も少し高めにして弓を持つ。したがって手首はヴァイオリンよりも高い位置にある。こういう姿勢はこれまでのどの流派にも見られない」というある音楽評論家の言葉が引かれている)
彼は「わたしにとってヴァイオリンは生活のため、経済的な基盤を作るための単なる道具にすぎないのだ」と公言していた。、逆説的であるが、この姿勢の故に、彼は史上最高のヴァイオリニストであったと言えるかもしれない。つまり、エネスクは「‘音楽’すべてを愛することができるが、しかし、ヴァイオリンだけを好きになるというような器用な思い入れはできない」真の音楽家だったのである。 本書には、指揮者、ピアニスト、そして何よりも作曲家としてのエネスクの活動が詳しく記されている。エネスクは、フルトヴェングラーや、近いところではグレン・グールドと同じく作曲家としての創造を最も重んじた音楽家でもあったのだ。もっとも、彼は、この二人とは違っていたのは録音を嫌ったために、健康を害した晩年の「生活のために」止む終えず残したわずかな録音があるだけにとどまり、後世の我々にとってこれが貴重なものとなっている。
エネスクは作曲家の意図を重んじる演奏家であった。バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明氏は、バッハの無伴奏の器楽曲を演奏するのに、全カンタータを参照しながら演奏する誠実なる人物として、ヴァイオリンのエネスク、チェロのカザルスの名を挙げていた。
ヴァイオリニストとしてだけではなく、作曲家として全ヨーロッパ、そして大西洋を越えアメリカでも高く評価されたエネスクは、祖国ルーマニアの誇りとして生前も、そして、現在も故国で高く評価されているー但し、その晩年から始まる一時期を除いてである。コズマ氏によれば、 没後十年後にルーマニアで記されたあるエネスクの伝記も、「……注目に値するが、王室、大戦間の宗教界や財界、西欧特にアメリカ上流社会 (とエネスクとの関係)を意識的に避けて」記している。エネスクに祖国で十分な光が当てられるようになったのは1989年つまり東西の冷戦の終結以降、、特にルーマニアにおいては独裁者チャウセスクの死後以降と言える。
つまり、エネスクの栄光は、祖国ルーマニアでの共産主義政権成立とともに終わりを迎え、実は晩年の悲劇はそこから始まっていたのである。
 
次回稿を改めてそのことと「積読の効用」を紹介しよう。

(ネモローサ)



(後)~ルーマニアの陰影 エネスコそしてシオランの見たもの 


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

 

ルーマニア詩曲第一番 
1898年パリで初演され、その成功が、作曲家としてのエネスクの名を全ヨーロッパに知らしめることになった。



コズマの本に は、エネスクの弟子であるメニューインの次のような言葉が引かれている。

 「先生は戦後の政府をまったく認めてはいませんでした。いまだに忠実な王政主義者でしたから、時の共産党政府の陰謀や策略、ごまかし、不誠実などを認めることができなかったのです。」

当時のルーマニア国王ミハイ一世は、1947年(第2次大戦の2年後)に共産党政権下で銃口を突き付けられ退位の書類に署名させられた。そういう状況下では、早くから王室の庇護を受け、西欧でも米国でも名声と尊敬を集めていたエネスクが、その前年に亡命の途を選んだとしても何の不思議もない。私くらいの年代であれば、1989年の東欧革命で失脚・処刑されたチャウセスクの暴政を記憶している人も少なくないと思うが、その前任者で当時の共産党書記長であったデジも彼に優るとも劣らない酷薄非情の独裁者であった。

しかしながら、第二次大戦下の危機の時代のルーマニアにあって、「王政主義者」であるとは、いかなる意味を持つか。
エネスクの作品解説を中心とした詳細な伝記を物したノエル・マルコムは、次のように記している。

「 (第二次大戦勃発後)再びエネスクは長く血腥い戦争の期間祖国に閉じ込められた。彼は愛国者であり、他のどの場所にもいることを望まなかったであろう。しかしながら、彼が自分の身を捧げたのは、首都での音楽活動であり、当時の政治の進展(それは必ずしもルーマニアの名誉とはならなかったのだが) からは距離をおいた。政治は決して彼の興味を惹くことはなかったのである。彼は個人的な信義を重んじる人間であり、彼の為に多くを為した王室に忠実であり続けた。」
(Noel Malcolm “George Enescu” 1990 Toccata Pressー マルコムは本書刊行後、政治ジャーナリストとして活躍しながら、論議を捲き起こしたボスニアの歴史に関する本を著し、更に学究の道に戻り、英国の思想家ホッブスの著作の校訂を行うという才人である)

前回、‘ ヴァイオリンはあくまでも生活の為だ ’というエネスクの言葉を紹介したが、それは、「ヴァイオリンのおかげで政治の影響を受けることもなかった。私は政治家たちには絶対に依存したくなかった」ということも意味する。
かような非政治的人間でありながら、個人的信義によって「王制主義者」であるということは、我が国の乃木大将を思わせるが、しかし長い歴史と伝統に支えられている我が国の皇室とルーマニアの王室は全く異なる存在である。

ルーマニアをアルファベットで記せば、Romania、つまり、ローマ人の国である。ローマ皇帝トラヤヌス(紀元1~2世紀初め。ローマ帝国の最盛期を支えた『五賢帝』の1人)による遠征の結果、ルーマニアはローマ帝国の属州となり、ルーマニア語も、ラテン語系の言語である。それならば、古代ローマ以来連綿と続く長い歴史を持つ国かと言うと、正反対である。アジアとヨーロッパのつなぎ目に位置するルーマニアの大平原は、常に侵略者の通り道であった。ローマ人の侵略に続き、フン族が侵入し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、オスマン帝国(オスマン・トルコ)、ハプスブルグ帝国(オーストリア)、ロシア帝国といった帝国のはざまでの合従連衡と戦いの連続の中で、従属と独立の交代を繰り返した土地である(吸血鬼ドラキュラのモデルになったヴラド三世伯はオスマントルコとの戦いに明け暮れた君主の一人である)。
中世以来、ルーマニア人の国としては、ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの三つの公国が分立し、諸帝国とのせめぎあいの中でほんの一時三つが統一されたことがあったにせよ、前二者が統一されたのがようやく19世紀であり、そこに新たに異国ドイツのホーエンツォレルン家よりカルロ一世を王として新たに迎えて成立したのが「ルーマニア王国」である。
第一次大戦では、その子息フェルディナンド一世の妃がイギリス出身であったこともあり、英仏側につき勝利を収めたのだが、いわば漁夫の利で、敗戦国のオーストリア・ハンガリーからトランシルヴァニアの割譲を受け、ロシアからもベッサラビア(現モルドバ)を手に入れ、初めてルーマニア人の統一国家「大ルーマニア王国」を形成することができた



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紫色が第一次大戦前のルーマニア領土、赤色が戦後新たに獲得した「大ルーマニア王国」の領土


ルーマニアの歴史はさておき、エネスクは、この新興国が文化面で世界で認められる事に多大なる貢献をした。演奏家として早くからウィーン、パリで認められていたのに加え、作曲家としても「ルーマニア詩曲」の初演を‘パリ ’で成功させ、それ以降ルーマニア色の強い作品を数多く発表した。更に、積極的にルーマニア作曲家の作品を紹介し、名付け親となったディヌ・リパッティやその姉弟子であるハスキルを初めとした、祖国の若き音楽家への支援・教育を通じて、生まれたばかりの祖国ルーマニアの音楽の顕彰、発展に尽くした。彼は音楽を通じての「愛国者」であったと云えるだろう。



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前回も紹介したヴァイオリン・ソナタ第三番 
今回はヴァイオリンはエネスク、ピアノはリパッティ



しかし、マルコムが言うように、第二次大戦時のルーマニアは、政治という面から言えば、お世辞にも褒められる国ではなかった。民主制が機能せず、右翼の過激派や国王を巻き込む権力闘争が続く中、ヒットラーのドイツとスターリンのソ連に挟まれて、ドイツ側に与することを選んだルーマニアは、その独裁的指導者アントネスクの下、率先してユダヤ人虐殺・収容所への収監を行い、カロル・ヨーンクという人によれば、大戦前夜ルーマニアには60万人ほどのユダヤ人がいたが、そのうち26万人以上(43パーセント)が犠牲となった。
この暗い時期のルーマニアが興味を惹くのは、このようなファシズムに一時的にも魅了され関わった人間に、後年二十世紀を代表することとなる知識人がいたいう点である。サルトル以降のフランスで最も高く評価された思想家の一人であり、フランス語散文の最高の書き手の一人であるとも評されるフランスへの亡命者シオラン、同じくフランスに亡命し最終的には米国へ移り、シカゴ大学教授となり、『世界宗教史』を著して全世界の宗教学の祖となったエリアーデ、この二人は若い時からの友人であるが、二人は共に、ルーマニアのファシズム運動とも言える鉄衛団運動(てつえいだん)のイデオローグであったのである(不条理劇で高名な作家のイヨネスコも彼らの友人であったが、二人とは違い、若い時からイデオロギーに対しては懐疑的であった)。

さて同じ時期を祖国ルーマニアで過ごした三人であるが、活躍した分野も違い世代も異なる、エネスク、シオラン、エリアーデを共に論じる本はあるのだろうか。とてもありそうもないそんな本を――今となっては何をキーワードにして探し当てたのか分からないのだが、ネットで探してみると何とそれがあったのである!しかも、その刊行は今年の二月。前回の冒頭に述べた「積読の効用」である。伊東氏の本を今年まで「積読」していたから、この本にも出合えたという次第である。
その本とは、ロバート・カプラン著 「ヨーロッパの影の中で」(Robert Kaplan: “In Europe's Shadow: Two Cold Wars and a Thirty-Year Journey Through Romania and Beyond” Random House (2016/2/9))である。
カプランは、世界の紛争地を実地に歩いて物した数々の著作で名を上げ、つい先頃まで米国のシンクタンク、ストラトフォー(ある訳書を刊行した日本の出版社の宣伝文句によれば陰のCIAと呼ばれているそうだ)の主任研究員を務めた硬派のジャーナリストであるが、歴史、文学に関する幅広い読書がその活動の基礎になっており、その著作は、ジャーナリストという言葉から連想される際物的な読み物とは程遠い。
この本での鍵となる語は、‘ ナショナリズム ’である。第二次大戦当時のルーマニアでのナショナリズムは、自国の栄光を得るために、自国内にルーマニア人以外の民族、殊にユダヤ人の存在を許さず、それを排除する為には、殺戮することも厭わない醜悪なものであった。この意味でのナショナリズムは、現在の米国、欧州でまさに問題となっているものであり、また、民族浄化の思想は、全世界的に悲惨な紛争を惹き起こしている。ドイツのナチズムに基づく反ユダヤ主義は、優生学の影響があり、病的で特異なものであるとも言えるが、当時のルーマニアに見られたナショナリズムは、近代以降、全世界的に見られる現象の一つであると言えよう。

「ナショナリズムとは、詰まるところ、大文字で書かれた近代主義であった。男も女も文字通りの神への信仰を失い、その結果、個人としての永遠不滅への信念を失った時に、彼らは集団としての永遠不滅に逃げ道を見出したのだ」とカプランは言う。少なくともヨーロッパ圏に於いて、人々が世俗化し、信仰を失った近代以降、宗教の代替として国家、民族集団を崇め、それに尽くし、他人にもそれを強制するナショナリズムは、近代人が避けることのできない宿命的なものである。 しかし、これに続いて「ナショナリズムがそれ自体として悪しきものだというのではない。自らの価値を他の諸価値の上に置く類のナショナリズムだけが破壊的なのだ」ともカプランは言う。

国家(ネイション)を至上のものとする悪しきナショナリズムと、他の価値を認める良きナショナリズムが在る事をカプランは区別している。前者の悪しきナショナリズムが横行したのが第二次大戦下のルーマニアであり、それに続く共産主義政権でありながらモスクワから独立した「独自の道」を追求したデジとチャウセスクのルーマニアであった。
それでは、良きナショナリズムとは、どのようなものなのか?
個々人を民族・国家毎に分類し、その集団の特徴を押し付け、そこから逃れられない存在とすることは、人間の自由、人間性の冒瀆ではないか。しかしながら、カプランは続けて言う、
 
 「独自の言語、音楽、美術、建築、主に東方正教的なキリスト教信仰を持つ、他とはっきりと区別される、ラテン的なルーマニア文化、そして、そこに特有の地理的な諸事情を通じ共有される歴史的な経験に根差す、人々が共通して持つ希望、夢、恐れ、これらが存在しないと述べることもまた冒瀆なのである。個々人に道徳上の決定権への権利を拒むのが彼らの人間性を否定することになるのと同様に、自らを、他人と共有する文化的素材と民族性を通して表現する権利を拒むことも、同様に人間性の否定である。」

つまり簡単に言えば、人間は民族集団に埋没すべき存在ではないと同時に、自然と歴史に根差す民族の文化を通じて自らを表現する存在でもある。個人の尊厳を重んじながら、一方で民族の文化の存在も認めるナショナリズムこそが健全なナショナリズムである、と言えるだろう。
カプランは、ルーマニア文化の存在を、ビザンツ、トルコ、西欧の影響が混淆している歴史的な建築物の中に認めると共に、エネスクの音楽にもそれを聴き取っている。




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ルーマニア狂詩曲第一番 エネスクの曲といったらこれという有名な曲

 「(エネスクの二曲のルーマニア狂詩曲)が想起させるのは、ワラキアの生気あふれる広大な原野であり、そこは春にはチューリップの明るいオレンジ色で埋め尽くされる。彼の音楽が心に呼び出すのは、私が特にルーマニアから連想するものの中でも、ブコヴィナの修道院にある、混じり気のない植物性の染料で描かれた聖書を題材とした絵画であり、そして、ブランコヴェアヌの建築に特有の魅力の基となっている、西と東の様式の独自の混淆である。」



カプランは、こう言いながらも、単一の民族文化の存在を主張することに慎重である。個々人は多様だが、彼らの属する民族文化の特徴を言い募れば、その多様性をどうしても単純化せざるを得ない。カネッティの「群衆と権力」を参照しながら、「民族のシンボル」――例えばイギリス人に対する海、オランダ人に対する堤防、ドイツ人に対する森、フランス人に対する革命――の持つ単純化の危険性を彼は指摘する。チャウセスクの下でのルーマニア人のシンボルは、慎ましやかなテーブルを囲む家族であったが、それ自体としては美しくもあるこのイメージが、実際、現実に国民全てにそれに従うように強制されたときの文化と人心の荒廃は測り知れないものであった。
人々の多様性を認めながらも、彼らに共通の文化を見出すという綱渡りの難しさをカプランは承知しており、ルーマニア音楽を創造しながら、そこからユダヤ人の音楽もロマ(ジプシー)の音楽も排除することのなかったエネスクは、彼に とって人間と文化への希望を保証する人物であると言えよう。

マルコムはエネスクの次のような逸話を紹介している。ある演奏会で、ユダヤ人作曲家エルネスト・ブロッホの曲を演奏しようとしたところ、聴衆の中にいた鉄衛団の学生たちが、それに大声で抗議した。エネスクは分かったと答え、喝采を浴びた。そして、彼が代わりに演奏したのは、ラヴェルのカディッシュ、つまり、ユダヤ教の祈りの音楽であった。聴衆は黙って聴く他なかった・・・
他方、カプランは、若き日のエリアーデが物したルーマニア通史の小著を取り上げ、その著作の中で、ルーマニアの歴史を、ラテン語の伝統と正教会のキリスト教を東方のトルコ人から守るという一貫した使命を果たしてきた歴史と見ていることを、悪しき単純化、神話化であるとし、その歴史には、一貫した目的ではなく、偶然の出来事と、人々のその都度の対応の重なりを見るべきだと述べる。

エリアーデやシオランたちの若者たちは、 1927年世代という名前で呼ばれる。才気に富みながらも危険な道を突き進んだこの世代の若者たちをエネスクがどう思ったのかは、推測する他はないが、両者の対比は、若者と成熟した大人との対立という問題を提起する。また、両者には意外な接点もあったことも今回判かった。このことも含めて、シオランのこと、まだ紹介していないエネスクの作品のこと等は次回に回すことにしたい。


(ネモローサ)



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 引き続きクラシック万歳!!



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ジョルジュ・エネスコ作曲 交響曲第四番 

ヒトラーがドイツで政権に就いた1933年頃に主に取り組んだが、第一楽章と第二楽章の一部を除いて、未完のまま遺された。
後にルーマニアの作曲家であり、エネスコの残した楽曲に関する詳細な研究書を著したベントユ(Pascal Bentoiu) が補筆し、全曲が演奏されるようになった。

―前回ブログの続き― 新しい世代の三人の紹介

  エリアーデ(Mircea Eliade,1907年ブカレスト - 1986年)に初めて逢ったのは一九三二年ごろ、ブカレストでのことだが、折しも私(シオラン)はこの都市で愚にもつかぬ哲学の研究に一区切りつけたところだった。当時、彼(エリアーデ)は、<新世代>の偶像であり――私たちは鼻高々にこの魔法の呪文を唱えていたものだった。私たちは〈老いぼれ〉や〈ぼけなす〉どもを、つまり三十歳を過ぎた大人たちをことごとく軽蔑していた。私たちのオピニオン・リーダーは彼らに対して論陣を張り、彼らをひとりひとり叩きのめしたものだが、その攻撃はほとんど常に正しかった。・・・私たちにとって若いということはそのまま才能があるということであった。・・・私たちの場合ほど極端なうぬぼれがかつてあったとは思われない。うぬぼれとなって現われ、うぬぼれとなって激化していたのは、「歴史」を切り開こうとする意志であり、「歴史」に参入し、是が非でもそこに新たなるものを生起せしめようとする欲求であった。この熱狂で当時はもちきりだった。(シオラン『オマージュの試み』)

1925年ブカレスト大学に入学したルーマニア人のミルチャ・エリアーデは、1928年宗教学の研究のためにインドへと旅立ち、当地でサンスクリット語、パーリ語、ベンガル語とインド哲学を学び、1931年に帰国、1933年にはヨガ学派に関する研究で博士号を取得し、それが出版されると国際的にも評価された。更に、インド留学中の恩師の娘との悲恋に終わった恋愛を描いた小説『マイトレイ』はルーマニア国内でセンセイションを捲き起こし、また、留学前から新聞に記事を寄稿し続け(シオランは知り合う前からそれらを貪るように読んでいたという)、まさに「<新世代>の偶像」であった。
インド留学前の1927年、当時二十歳であったエリアーデは、「精神の道程」という題名のもとで十二編の記事をルーマニアの新聞『言葉』に連載し、「≪若い世代≫、すなわち戦争(第一次世界大戦)中、少年期あるいは思春期を過し、今、一九二七年に二十から二十五歳になっているあらゆる人々の精神の道程を描き出した。」(『エリアーデ回想』上巻)そして、新たなる使命を持つ自分たち<新世代>の存在を高らかに宣言した。

前回の記事で述べたように、ルーマニアは英仏側に与することにより、自らは大きな犠牲を払うことなく、ハンガリー、ロシアから領土を獲得し、史上初めての「祖国の統一」を果たした。エリアーデによれば、これにより祖国の統一を目指してきた旧世代の「歴史的使命」は果たされてしまった。―――前世紀から目標としてとして追求されてきた祖国の統一が果たされてしまった今、何を目標とすればよいのか。
この事は、吾が国においても、明治の日露戦争の勝利後、国家の独立が一応なりとも保証され、人生の意義を国家に委ねることが出来なくなり、個人、特に青年の煩悶の時代が訪れたことを思い起こさせる。更に、第一次大戦後のヨーロッパ全体が、深刻な価値観の危機を経験していた。『回想』の言葉を藉りれば、

「無際限の進歩の神話、世界平和と社会正義を創設しうる科学と技術の力への信仰、理性主義の優位、不可知論の威信、これら全ては・・・(第一次大戦の)あらゆる前線で吹飛んでしまったのである。」

近代において科学技術を飛躍的に発展することを可能にした‘ 理性 ’は、この大戦の中で戦いに奮い立つ人心を抑えることには無力で、逆に科学技術が生み出した機関銃、毒ガス、戦車、飛行機、飛行船、潜水艦は、比類のない惨禍をヨーロッパにもたらした。戦後の人々の心を捉えたのは、戦争の中で露呈した非理性であり、宗教、霊性、精神分析、東洋思想であった。
「戦争の世代の諸価値はもう流通しない・・・私たち、≪若い世代≫、にこそ新しい存在理由を見出すことは属しているのである。」

労せずして手に入った統一された祖国という器に盛るべき中身はどのようなものであるべきか、ルーマニアとは、あるいはルーマニア人であるということは何であるのか。ブカレスト大学の政治学者トゥルカヌによれば(Florin Turcanu “Southeast Europe and the Idea of the History of Religions in Mircea Eliade” in Hermeneutics, Politics and the History of Religion: the Contested Legacies of Joachim Wach and Mircea Eliade 2011)、1920年代後半、ルーマニアのアイデンティティをめぐる論争、より具体的に言えば、東方正教と国民性、キリスト教と農民の宗教性、正教とカトリック的あるいは合理主義的な西欧との関係をめぐる論争が行われていたが、≪若い世代≫の代表エリアーデがこの論争に加わることになったのは、インドからの帰国後、1930年代であるそうだ。というのも、このインド滞在が、ルーマニアの文化の深層にエリアーデの目を向かせることになったからである。古代に駐屯したローマ人の言語を守り通してきたルーマニア民族ではあるが、彼らは、当然、西方のカトリックではなく、東方の正教を奉じ、ビザンツ(ギリシア)文化圏に属している。確かに正教は、ルーマニアの民族性の形成に大きな影響を及ぼした。しかし、エリアーデの関心が向かったのは、正教というよりも、その根底にある「宇宙的キリスト教」である。トゥルカヌは、このエリアーデ宗教学の鍵語=宇宙的キリスト教がその中で初めて使われた、エリアーデが滞在先のインドから友人に送った手紙を紹介している。

 君も知るように、我々ルーマニア人がローマから受け継いだのは、制度と言語のみである。我々の精神の実体は異質なものであり、トラキア的なものであり、スラブ的なものだ。我々は自分たちはローマの子孫だと考えてきた。しかし、これは千年に亘る支配者(トルコ人やハンガリー人たち)に対する政治上の自己防衛にすぎない。第一次大戦後、国家の統一を果たした今、我々はその過ちを悟った。何よりもまず、我々が生まれながらに向かうのは、言わば「宇宙的なキリスト教」である。我々が感じているのは、宇宙の万物が、主の愛のまじないをかけられている、鳩は洗礼を受けることが出来るのだし、木々は我々の兄弟であるということだ。我々のいくつかの愛らしい民謡は、人間と、丘や森や獣たちとの間の友愛を歌うものだし、この兄弟愛を作り出したのは、我々ではなく、吾れらが主の恵みなのだ・・・ルーマニア語では、「キリスト教徒」という語は、「人間」という語と同じだ。ルーマニアの農民の考えでは、唯一の義務は、『正しき人』『よき人』であることだ・・・そして、そうあるとき、彼はキリスト教徒である。彼にとってキリスト教は、教義、外的な規則と脅しの総体ではない――創造の基礎であり、この地上の生の唯一の感覚なのである・・・私にはこれらすべての中に一つの意味が見える。これが、「宇宙的な」キリスト教と私が呼ぶものであり、それは、教会のそれとは対立するものなのだ。

大学の卒業論文では、ルネサンス期の魔術思想の哲学者カンパネラを取り上げ、第一次大戦後の様々な非合理主義思潮に影響を受けたエリアーデは、こうして、「キリスト教」と名付けられてはいるが、自然と人間が一体となり、そこに超越的なものが姿を現しているという、正統的なキリスト教からみれば異端であり、むしろキリスト教以前とも言うべき心性に関心を向ける。それは、教義や書かれた言葉の中に見出すべきものではない。インドでの宗教体験の中に、そして、ルーマニアの古くから伝わる伝承の中に彼が見出したものである。この心性は、新石器時代の人類が陸上および海上の移動を通じてユーラシア大陸全域に持ち運んだものであり、中国にも日本にも見出せるものだエリアーデは考えた
ルーマニアの非西洋的、東洋的な要素をエリアーデは肯定的に捉えた。「我々(ルーマニア人)が『東洋人』にこれほど似ているとするならば、それは我々が(オスマントルコの支配下で)『トルコ人化』したからではなく、ルーマニアでは、東南ヨーロッパやアジアにおいてと同様に、新石器時代的な創造性が最近まで存続し続けたからである。」このことは、西欧と異なり、歴史的な文書が多く残っている中世を持たないが、伝承や神話、宗教的な象徴が豊かに残るルーマニアの文化にこそ、全世界の人類の普遍的な歴史を解明する鍵があるということを意味する。 

<新世代>の青年たちとは、第一次大戦の戦勝国側でありながらも、ルーマニアは西欧から見れば文明が遅れた小国に過ぎないという現実に正面から立ち向かった世代だとも言える。エリアーデは、今見たように、この「遅れ」にこそ、人類の普遍的な歴史の中でのルーマニアの存在意義を見出したのだが、彼の周囲に集まった若者たちの、この現実に対する反応は様々である。

第二次大戦後のフランスで、不条理演劇の代表的な作家として知られることになるイヨネスコは、ルーマニア人の父とフランス人の母との間に生まれ、当時はフランスからルーマニアに移り住み、高校生時代から詩人として世に知られ、ブカレスト大学でフランス文学を専攻し、エリアーデたちの<新世代>の仲間の一人であった。トゥルカヌの文章が載った論文集に同じく文章を寄せた、ルーマニアから米国に亡命した比較文学者カリネスクは、若き日の才気渙発なイヨネスコの批評集の文章を引いている(Matei Calinescu “Eliade and Ionesco in the Post-World Ⅱ Years: Questions of Identity” in op.cit.)

・・・あなた方(ルーマニアの既存の知的エリートたち)こそ責めを負うべきなのである、私(イヨネスコ)には堅固な教養文化の基盤が欠けているという事実の責めを、私の読書には喜びではなく労苦が伴うだけで、それは単に情報を得るためだけだという事実の責めを、ルーマニア文化の中で卓越するために自らに過大な要求をする必要もないのだから、私の行き着く先は軽薄さでしかないという事実の責めを負うべきなのはあなた方だ、良くも悪くも、ルーマニアの文化の一員であるとき、私は真剣になろうと願うこともないし、真剣になることも出来ないのは、あながたのせいなのだ。
 私の宣言はこうだ、私がヨーロッパの知識人たちの貧しい親類であり続けざるを得ないということ、我々がたった三百人の個人で観念とインクとペンに夢中になっているにすぎないということ、そして、読者がいない故に、仲間内で互いのものを読んでいるに過ぎないということが、私をたとえようもなく苦しめているのだと・・・(イヨネスコ『否』(1934)より)

夏目漱石の『それから』の主人公代助が、自分が働かないのは西洋と日本の関係が駄目だからだと嘯くのを、我々は身勝手な理屈だと一笑に付すことは出来ない。イヨネスコがこうして毒づくのも軽薄才子の言として片づける訳には行かない。成り上がりの国において、しかつめ顔をして西欧由来の学芸を論じる悲哀と滑稽は国籍の如何を問わぬものである。 
シオランの『ルーマニアの変容』に序文を寄せた、ルーマニア人の著作家ペトレウによれば、「イヨネスコと同じように、彼(シオラン)は、自分が無意味な歴史と二流の文化の小国に帰属することに屈辱を感じていた。」彼女によると、その書物に先立つ時期に発表した幾つかの雑誌論文において既に彼特有の激しさでルーマニア文化の「本質的無能」にシオランは辛辣な批評を加えていたという。
1936年に出版されたシオランの著作『ルーマニアの変容』は、小文化しか持ち得なかった祖国への執拗なまでの非難と大文化を持つ他国への羨望の言葉に満ち溢れている。つまり、ルーマニアが、外から押し寄せる運命を従順に受け入れるだけの農民の文化しか持ち得なかったことへの絶望と、己を信じ、自己の個性を発揮し開花させ、他国にもそれを押し付け、世界の歴史を形作ってきた、また、作りつつある少数の文化(エジプト、ギリシャ、ローマ、フランス、ドイツ、ロシア、日本(!?)等)への羨望である。

このこと自体は、懐疑と逆説に満ち溢れているシオランの著作に少しでも親しんだ人間にとって何ら驚くべきことではない。
この書物をシオランの著作の中で特異なものにし、問題の書にしているのは、ルーマニアを「歴史」に参入させ、「中国の人口を擁し、フランスの運命を持つルーマニア」たらしめるための処方箋――シオラン流のだが――を書き記していることである。
1933年シオランは奨学金を得てドイツに留学した。この年にヒトラー政権が成立し、ドイツ全土がそれを歓迎する熱狂の渦の中にあった。この熱狂を目の前にして、シオランはこの熱狂こそがルーマニアの本質を変容させると信じるに至った。「二十歳から三十にかけてファナチズムに、狂気に、熱狂に賛同しないやつは間抜けだ」とは、後年当時を振り返って彼が述べた言葉である。(「祖国」邦訳『ルーマニアの変容』に所収、1940年代の後半から50年代初頭に書かれのだが、『歴史とユートピア』(1960)にもほぼ同じ言葉が見出される)
ペトレウによると、シオランはドイツ留学前には先にも述べたようにルーマニアの文化と歴史に絶望しながらも「『どんな社会理論にもどんな政治方針にも』加担するするつもりはない」と語っていたが、このベルリン留学中の1933年十月末から十一月初頭にかけて、「この政治蔑視はヒトラー体制への公然たる賛美に変わる。」ドイツから故国の雑誌にシオランはヒトラー賛美の文章を寄せ、故国の極右団体、暴力を揮うことを厭わない鉄衛団(1933年には時の首相デュカを暗殺している)に希望を託すことになる

鉄衛団運動(てつえいだん)   ルーマニアのファシズム運動の主要な団体の一つ

「1927年代」の若き知識人たちは、留学前のシオランと同じく非政治的な人間であったが、シオランの「転向」後次々と仲間が彼に倣い、エリアーデも36年に彼に続くことになった。――最後までこの熱狂に流されることのなかったイヨネスコは、後年この時の体験を基に、人間が犀に変わるという奇病に次々と侵されていくという『犀』という劇を書いた――1936年、シオランは『ルーマニアの変容』を公刊し、そこでの主張にも拘らず、鉄衛団の首領コンドレアヌを始めとして、多くの人間に好意的に受け止められた。「拘らず」と述べたのは、鉄衛団は、正教を中心にするルーマニアの伝統的精神を守ることを第一義とする極右団体であるのに対して、シオランは、この農民的伝統精神を粉砕し、ドイツ、また、日本を見倣い近代的工業国となって世界の歴史に参入することを説いたのである。――この点では、より「伝統的」であるエリアーデの思想の方が、鉄衛団の考えに親和的であり、実際エリアーデの関与の方が深かったようである――しかし、シオランにとって大切であったのは、鉄衛団が体現していた「熱狂」であり、祖国のどうしようもなく鈍重な文化を打ち破り、文明にもたらすためには、この「熱狂」が必要だと彼は断じた。  

私たち、つまり私の国の若者たちにとって、『無分別』こそ生きる糧であり、日々のパンであった。ヨーロッパの辺境に押し込められ、全世界から軽蔑され、あるいは無視されてきた私たちは、私たちのことを話題にしてもらいたかったのであり、そのために、ある者は拳銃を使い、ある者は有害この上ない世迷いごとを、突拍子もない理屈を並べ立てたのだ。(シオラン「祖国」)

カリネスクの別の論文によると(‟‟How Can One Be What One Is?”: Reading the Romanian and the French Cioran” Salmagundi Fall 1996)、シオランのこの本は、「世に出ると同時に古典の位置を占め、それに続く、『ルーマニア精神』やルーマニア流の生の哲学に関するどんな著作であってもシオランに対する応答であると言っても過言ではない。」
しかし、シオランは出版の翌年、1937年パリへと旅立ち、以後二回ほど故国を訪れた他はフランスに留まり、その生涯を1995年パリで終えることになる。
他方、1938年、時の国王カロル二世が憲法を廃止し独裁制を布く中で、鉄衛団は弾圧され、指導者コンドレアヌは、仲間と共に処刑される。1940年、鉄衛団はアントネスク将軍とともに、国王を退位させ、政権に就いたが、翌41年、アントネスクによってドイツの承認の下で鉄衛団は粛清され、以後歴史の舞台からはその姿を消す。この間、鉄衛団とその敵との間では文字通り血で血を洗う報復の応酬が続き、ユダヤ人の虐殺が行われた。「彼らは流血を好む殉教者であった・・・彼らは殺人の力を信じていた。だからこそ殺されたのだ。」(シオラン「祖国」)そして、ルーマニアは枢軸国側に立って第二次大戦に参戦することとなる。



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ジョルジュ・エネスコ作曲 交響曲五番第三楽章第四楽章 
1941年頃に取り組んでいたが、これはスケッチのみが遺された。やはり、ベントユが補筆した。終楽章では、十九世紀のルーマニアの国民的詩人、エミネスクの詩を用いている。(自国の文化を糾弾して止まないシオランにとってもこの詩人はその例外であった)

さて、シオランを鉄衛団から引き離したのは何だったのだろうか…このような歴史上の出来事ではなかった。シオランの伝記(Searching for Cioran 2007)を著したザリフォポル・ジョンストン(Zarifopol-Jonston)によれば、注目すべきは、宗教的熱狂を以ってユートピアを自ら論じ、ルーマニア国民にもそういう熱狂を求めた『ルーマニアの変容』を書きながらも、同時に宗教上の熱狂に心惹かれながらそれを彼に特有の懐疑と絶望を以って分析、批判する――従って『ルーマニアの変容』を批判する含意を持つ、『涙と聖者』(1938)の著作にも同時に携わっていたという事実である。(邦訳は仏語訳からの重訳だが、仏語訳作成の際、シオラン自身が三分の二の削除を指示しており、邦訳を見てもこの意味合いがなかなか伝わって来ない)熱狂と懐疑とは互いに矛盾するものであり、その両立し得ない二つが心の中に巣食い、互いを極限まで深め合うというのが、シオランの著作の魅力である。ここでも、あるいは、ここでこそ、この矛盾は大きな役割を果たした。ザリフォポル・ジョンストンによれば、「1930年代のルーマニアに於いて、若き日のシオランの魂は、(政治的および宗教的な)二つの絶対に付き纏われていたが、その両者ともに彼は信じてはいなかった。この状況を考えれば、(『ルーマニアの変容』と『涙と聖者』の二つを世に問うた後の)次の歩みは、不可避的に、自殺でなければ、自己追放・亡命(self-exile)である。」37年にパリに移住したのは、自らの抱える矛盾の故に、自らを祖国から追放したのであり、それはある意味での「亡命」である。

一方、エリアーデは、38年の鉄衛団の弾圧の際に、一時収容所送りとなったが、病気と既に手にしていた学者としての国際的な名声の故に釈放された。その後40年鉄衛団らによるクーデターの五か月ほど前に、ロンドンのルーマニア大使館へ、更に、ルーマニアが第二次大戦に参戦しイギリスの敵国となる前後に、ポルトガルの大使館へその館員として派遣されることなった。中立国ポルトガルでは自国の立場を宣伝し、シオランとは異なり、祖国の兵士が、1941年スターリングラードでドイツ兵士と共にソ連の恐怖に対して戦う苦難に思いを馳せた。これは、それまでの東洋観に新たな要素を付け加えることに通じた。即ちそれまでインドやルーマニアに探し求めていた「人類の偉大な文化的諸伝統の、真の東洋」に加えて、スターリン麾下のソ連軍に、東洋の野蛮を、すなわち、「草原の精神、(ヨーロッパを脅かした)アッティラの諸侯たち、ジンギスカンやティムールの騎馬戦士たち、そして、スターリンの侵略軍を突き動かした精神」を見ることとなり、それが「歴史の恐怖」というもう一つのエリアーデ宗教学の鍵概念となる。前回に見た、エリアーデによるルーマニア小史はこの時期に書かれたものである。
他方、鉄衛団と自分の仲間たちとの関係を苦々しく眺めていたイヨネスコの母親はユダヤ系のフランス人であった。危険を避けるため、フランスに移り住み、身の安全の為にユダヤ系の出自を隠して、傀儡政権のあるヴィシーで、ルーマニア公使館に勤めることとなった。

第二次大戦が終結した1945年、三人はフランスのパリで再会する。シオランとエリアーデは文字通りの亡命生活を送るこことなり、イヨネスコは、フランス国籍を取得し、その後、各人それぞれが、宗教学者、思想家、劇作家として世界的な名声を手にする。
ルーマニア人であるという事実が、三人それぞれの生涯を形作った。宗教学者としてのエリアーデはあくまでも自分がルーマニア人であると認識し、その底にあるものを探求することで普遍的な次元に到ろうとした。シオランは、ルーマニア人であるということは何なのかという問いを、そもそも自分であることとは何かという形而上学的な問いへと変容させ、「無国籍者」として絶対への憧憬と懐疑の間を激しく行き来する思想家となった。イヨネスコにとってルーマニア人であることは、一時のエピソードに過ぎなかったが、それでも、ルーマニアでの経験は、サルトルを代表とする、口先だけのお手軽な批判に終始する現代フランスの知識人から自らを引き離すのに十分で、モリエールの系列に連なるフランスの文人らしい文学者となった。
 


さて、前回のブログ(2)から大分話が逸れ、いささか音楽家エネスコを取り巻くルーマニアの思想的政治的背景に字数を費やしすぎた感があるが、それではこのような<新世代>の青年たちを、既に西欧や米国で名声を得ており、ヒューマニスト(言葉本来の意味での)でもあったエネスクはどのように見ていたのだろうか…どこにもこのことを教える言葉はないが、かと言って、彼らと全く無縁であった訳でもない。上で紹介した交響曲第五番の終楽章でその詩句が用いられたエミネスクという十九世紀ルーマニアの国民的詩人のことを、前回紹介したカプランは、エリアーデと同様の排外的で保守的な知識人として、エネスクと対極にあるものとしたが、事はそう単純に割り切れない。コズマによれば、エネスクはエミネスクのことを「常々崇め敬愛しており、」ある友人の手紙の中で、「エミネスクの詩に存在する高い峰を飛べる翼なくしては、音楽でエミネスクに近づくことは不可能であり、また、その権利も持てない。無力な音楽をつくってもよいのだろうか」とさえ述べて、この第五番が未完に終わったのも、エミネスクの詩に見合うだけの音楽となってはいないのではないかとて推敲を止めなかったからである。
ルーマニア人であることは、エネスクにとって自己の存在の中心に位置する事柄であった。
次回では、ジョルジュ・エネスコの晩年の「名曲の森」を紹介したい。


(ネモローサ)


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ジョルジュ・エネスク作曲  交響詩『イシス』

エネスクの恋人であり、後に妻となるマルカ・カンタクジーノに捧げられた曲。「イシス」とはエネスクが彼女に付けたニックネームである。1923年に書かれたこの曲のスケッチは、1996年まで誰もその存在すら知らなかった(演奏可能な形にしたのは、交響曲第四番、五番の補筆を行ったベントユ)
イシスは、エジプト神話の女神であり、愛と魔術、また生と死の神である。イシスの兄であり夫であるオシリスは、弟によって殺され、その遺体はばらばらにされてナイル川に投げ込まれたが、彼女は、その遺体の断片を拾い集め、それをつなぎ合わせて魔術で蘇らせた。オシリスは以後冥界の王となる。



さて、1946年共産主義政権下のルーマニアから亡命を果たしたエネスクは、翌年エリアーデをパリの自宅に招いたことがあった。(Mircea Eliade,1907年 - 1986年、ルーマニア出身の宗教学者・宗教史家、民俗学者、作家)
エリアーデの『回想』には次のような短い一節がある。

私はまたマルカ・カンタキュゼーヌ(カンタクジーノ)とジョルジュ・エネスコ、彼らのベルヴェ街のアパルトマンに招かれた。こうして私はこの伝説的な夫婦をより間近から知ることが出来たのである。彼らとは―― ―九三一 ~ 三二年の ≪ナエ・イオネスク・エピソード≫ のおかげで――数々の想い出によって結び付けられていた。

ナエ・イオネスク――エリアーデとシオランに、また、エネスクにも、異なった意味であるが、災厄をもたらした人物である。
ナエ・イオネスクは、ブカレスト大学で哲学を講じ、当時の流行思潮である生の哲学、つまり、合理主義を批判し、理性で解き明かすことのできない生を尊重する哲学を唱道していたが、その講義も、大半の教授連の堅苦しい講義とは対蹠的であり、即興で行われることもしばしばで、聴講する若者たちは、‘ 新しい思想 ’が眼前で生まれるのを目撃する興奮を味わった。彼はカリスマであり、惹きつけられた若者の中には、エリアーデやシオランがいた。ナエ・イオネスクは、新聞『言葉』を編集し、そこに寄稿するジャーナリズムの人間でもあった。――エリアーデは編集部に加わり、前回紹介した『精神の道程』もそこに連載された
――ナエ・イオネスクは鉄衛団を支持し、取り巻きの若者がそれに続いた。  
  
鉄衛団(てつえいだん、1927年から第二次世界大戦の初期にかけて、ルーマニアで起こった極右の反ユダヤ主義民族運動、およびそれを推進した政党。1940年から1941年まで政権を獲得した。王党派とさえ激しく対立し、あまりにも非道な方法で勢力の拡大をしたために、ルーマニアでは政情が乱され、国民からも恐れられた。)


ナエ・イオネスクは1940年病の為に世を去るが、前回見たように、この若者たちが一時の熱狂と一生続く長い悔恨を味わうこととなったのは、この師の影響によると言ってよい。――彼らに同調することのなかったウジェーヌ・イヨネスコ(Eugène Ionesco, 1909年11月26日 - 1994年、フランスで主に活躍した劇作家、不条理演劇を代表する作家)は、1945年のある手紙の中に「ナエ・イオネスクがこの世に存在していなかったならば、我々は三十五歳から四十歳の素晴らしい指導者の世代となっていたのに」と記した。



他方、エネスクは、マルカ・カンタクジーノと第一大戦中に知り合い、「エネスクは出会ったその日からマルカに魅せられ、彼女を盲目的にあがめ、毎日午後には彼女のもとを訪れてそれが何年も続いた。」しかし、十年以上の時が経った後、「当時、五十六歳だったマルカ・カンタクジーノが、こともあろうに四十三歳だった先のナエ・イオネスクと浮名を流すという事件が持ち上がった。驚いたことに、この二人の関係は数年続き、終生のパートナーとして近く夫婦になると誰もが思っていたエネスクとこの『女王』との関係は断絶したかと思われた。・・・だが、ナエ・イオネスクは突然マルカを捨て、その結果彼女は極度の神経症にかかり・・・エネスクはあらゆる演奏会や仕事をキャンセルし、見事なまでの献身ぶりでマルカを看病した。10年近い看病の末、1937年二人はブカレストで密かに結婚した。」(コズマ) 二人の結婚生活は、エネスクの死まで続くが、特に第二次大戦後の亡命生活では、マルカの我儘と彼女が作った借金とがエネスクを苦しめることとなる。

『エリアーデ日記』の1947年11月9日の項には、エネスクとマルカに招かれた際のことについて、『回想』よりも詳しい記述を見出すことが出来る。
 
マルカは大文字で≪絶対≫、≪生≫、≪理想≫について語った。彼女は決して馬鹿でも凡庸でもない。観察的精神、見事な言い廻し。私を魅惑したもの、この婦人の何としても優れていると思われたいという虚栄心。彼女は卓越した人間たちによってのみ取り巻かれ、会話を≪頂上≫に向ける。・・・サロンこそ彼女にふさわしいと思った。・・・これは(マルカが別れ際にエリアーデに渡したタイプ原稿)、ナエの肖像である。出来は決して悪くない。彼女はナエのデモニズム(悪魔主義)、無への恐怖、ニヒリズムを強調している。彼のうちにしばしば悪魔を見たと・・・告白している。


マルカも矢張り、エリアーデやシオランと同じくナエ・イオネスクの発する非合理の妖気、ニーチェ風に言えばディオニュソス的なものに魅せられた一人であった。


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エネスクの旧宅はエネスク博物館となっているが、そこで制作したドキュメンタリー(Youtubeでは4部に分かれているが、上は2番目である)。ルーマニア語とフランス語しか話されないが、英語字幕が常についており、他のエネスクに関するドキュメンタリーとは違って理解可能であると同時に、エネスクの晩年に焦点をあてており、興味深い。エネスクの弟子であるメニューインも登場するが、フランス語で話している。

前回見たようにエリアーデは、ルーマニアを「ユーラシア大陸の東端にまで亘る東の一部として捉え、合理主義の西欧とは異質な場所」と見ていた。作曲家であり、音楽学者であるステファン・ニクレスク(Stefan Niculescu)によれば(上のヴィデオの3分30秒あたりから)、エネスクの音楽の源泉は、ドイツ音楽、フランス音楽、そして、古代から続くルーマニア音楽であり、最後のものは、インド、日本、中国、アフリカの音楽といった非西洋の音楽と比較しうる(英語字幕だと正確な意味合いが分からないのだが)「 伝統 」であり、この三者の音楽を融合した所にエネスクの音楽の偉大さがあるという。
エネスクにとっても、1927年世代の若者たちにとってと同様に、‘ ルーマニア ’とは西欧の文化の枠では捉えきれないものであり、しかも、それは自分の存在の深みに位置すると同時に、全人類の文明という広がりの中に確固とした位置を有するものであった、あるいは、そういう位置を占めるようにすることが彼の努力の目標であったのではないか。この最後の点は措くとしても、西欧とは異なる「東」が、彼の本質の一部を成していたことは、この曲を聴けば明らかであろう。


『オイディプス王』 
エネスク畢生の大作(magnus opus)である。数ある古代ギリシア神話の中でも最も有名な物語を題材にして、構想から25年かけて作曲され1936年にパリで初演された。古代ギリシアの劇作家ソフォクレス作の『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』が有名だが、このオペラの第三幕、第四幕は、それぞれこの二つの戯曲に基づいている。ユダヤ系のフランス人、フレッグが台本作者であったが、彼は、オイディプスの誕生とテイレシアスの予言の第一幕、コリントスからの旅立ち、三叉路での不幸な遭遇、スフィンクスとの対決とその勝利故のテーバイ王への即位の第二幕を書き加え、オイディプスの全生涯を扱う作品とした。
このオペラは、上に紹介したヴィデオの中では、二十世紀最高のオペラであり、オペラの中のオペラと呼ばれている。また、その価値にも関わらず、上演されることが少ない作品でもある。その数少ない公演の中で、ラ・フラ・デルス・バウス(La Fura dels Baus)によるものがYou tubeで見ることが出来る。抜粋であるが何と歌詞の日本語訳が付されていて、有難い。更に、有難いことに、ソフォクレスの『オイディプス王』に基づき、この作品の中心である第三幕だけは、全幕をYoutubeで見られる。


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ジョルジュ・エネスコ作曲  オペラ『オイディプス王』作品23

フレッグは、ソフォクレスの二作品に二つの幕を追加したのだが、更に、ギリシア以来の伝承に大きな改変を加えている。スフィンクスは、テーバイに入ろうとする旅人に謎かけをして正しい答えを出せぬ者を文字通りの餌食としていたが、オイディプスはその謎に正しく答え、スフィンクスが命を失う。フレッグが改変したのは、答えではなく、問いの方である。即ち、元々「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足になるものは何か」とスフィンクスは問うて、オイディプスは「人間」と答えたというのが、伝承であるが、このオペラで答えは同じく「人間」であっても、スフィンクスの問いはこうである、「運命よりも強いものは何か。」
人間は運命よりも強いという答えを得てスフィンクスは「時だけが、死に行くスフィンクスが自らの敗北を嘆いているのか、自らの勝利に笑っているのかを教えるだろう」と言いながら、嘆きとも笑いともとれる不気味な声を立てながら死んで行く。そして、オイディプスは、予言に示された運命から逃れられなかったことを知り、自らの目を突き、盲目となり国を出て放浪の旅に出る。
しかし、神は彼を見捨てはしなかった。最後には神に嘉せられて光の中で彼はこの世を去る。マルコムの言うように、「オイディプスが運命に打ち勝ったのは、・・内面的な意味においてであり、苦しみとその償いとして(世界と自己に対する)理解を得たというものである。」
卑屈な人間には、悲惨が生じることはあっても、悲劇は起こらない。悲劇は、高貴で強い人間が運命に抗い、それに敗北する時に生じる。オイディプスこそそういう人間の典型である。だからこそ、『オイディプス王』は、悲劇の傑作であり、感動をもたらす。
シオランは、運命に従順なだけの卑屈さがルーマニア文化の本質であるとしてそれを憎んだ。他方エネスクは高貴なる強者であるオイディプスを描くのに、ルーマニアの音楽の伝統を用いた。ドイツ、フランスの音楽の影響をこのオペラの随所に聴くことが出来るが、「エネスクのスタイルの真の源泉は、彼の生まれたルーマニアの民衆音楽にある」と『オイディプス王』のCDに解説を寄せたジュリアン・アンダーソンは語る。
この作品に描かれたオイディプスの生涯に、私はエネスコの生涯を重ね合わせて考えたくなる。この作品を完成し、上演した時のエネスクは、栄光の絶頂にいたのだが、その後、数々のつらい運命が彼を襲う。しかしながらその中に於いて、苦難の後にのみ得られる類の内面の豊かさを、オイディプスのようにエネスクは手にしたのではないか。晩年の傑作がそれを物語っていると思われる。



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『室内交響曲』
エネスクが最後に完成させた曲の第一楽章。因みにこの写真は、以前見た劇でオイディプスを演じた俳優を戯れに真似したエネスクを映したもの。.

鉄衛団の跋扈、第二次大戦への祖国の参戦と敗北、共産党政権の樹立と王制の廃止、余儀なくされた愛する祖国からの亡命生活と共産党の支配下にある祖国からの心無い仕打ち、演奏家生命を終わらせた病、亡命と妻の浪費がもたらす貧窮、そして、妻の冷酷な態度と行動、晩年のエネスクを襲った不幸は数知れない。しかし、そのような中で彼が作曲した特に室内楽曲は、愛弟子のメニューインが言うように歴史に残る傑作が揃っている。ピアノ五重奏曲(1940)、ピアノ四重奏曲第二番(1944)、弦楽四重奏曲第二番(1951)、そして、室内交響曲(1954)である。これらの曲は外面的な華やかさは全くなく、内面の豊かさを感じさせるものとなっている。
『室内交響曲』のルーマニアでの初演の際に、指揮者は聴衆が理解できないのではないかと虞れて同じ演奏会の中で二回演奏したというが、いわゆる現代音楽に慣れている我々にとっては、かなり聴きやすい曲であるとも言える。しかし、手垢にまみれたところが全くない新鮮な音楽である。エネスクは、当時の十二音音楽を批判し、「音楽は、こころからこころへと伝わらなければない」と述べたそうだが、これらの晩年の曲は、彼のオペラのオイディプスが晩年苦難の運命の後に光に包まれて天に昇ることを得たのと同じように、真の意味での明るい光に満ちた豊かな内面をエネスクが得ることが出来たことを我々のこころに伝えてくれると思う。


エネスクの死後、共産党政権は彼を自国の偉人として顕彰し始め、それがエネスクに対する西側の人間の誤解を生み出したということである。……死後に到るまで、共産党政権はエネスクに災いを齎したが、それも消滅し、エネスクの真価が認められ始めた。それでも、まだまだ十分であるとは言えない。我が国の演奏会でも、彼の名曲がしばしば演奏される日が来てほしいと心から願う次第である。


(ネモローサ)



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2013.12.31 (Tue)

R・シュトラウス「ばらの騎士」とホフマンスタール――ある芸術家の夢見た世界

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R・シュトラウス作曲「ばらの騎士組曲」。指揮は20世紀前半の大指揮者ピエール・モントゥ―。



今年は作曲家リヒャルト・シュトラウス( 以下、R・シュトラウスと記す )の生誕150周年にあたる。R・シュトラウスと言えば、映画『 2001年宇宙の旅 』の輝かしい冒頭でお馴染の、交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を多くの人は思い浮かべるのではないだろうか。他のハリウッド映画音楽にも多大な影響を与えたと言われているが、彼の溢れる天才ぶりではなく、今回は 楽劇「ばらの騎士」のもう一人の立役者――彼と共に共同作業を行った台本作者フ―ゴー・フォン・ホフマンスタールを中心に取り上げたい。彼の人生や思想を理解することにより、楽劇「ばらの騎士」の魅力や時代、そしてモーツァルトの時代にわざわざ回帰させたこのオペラを書いた謎が少しでも分かるのではないか、と思ったからである。(作曲家R・シュトラウスと「ばらの騎士」については岡田暁生著『ばらの騎士の夢』(春秋社、1997年)を参照 )

さて、この「ばらの騎士」は筋書きだけを見ると、ただのゴシップのように思われてしまう作品である。登場人物は不倫中にある男女を初め、助平親父の男爵、体面ばかり気にする商人上がり、とろくでもない人物ばかりだ。しかし同時にこの作品には、人間なら恐らくいつかは誰でも経験するであろう場面も織り込まれている。
例えば衰えゆく自分の若さと美貌を失うことに苦しみ、愛人を失うことを怖れる元帥夫人の第一幕の場面。一方ではじけるような若さの騎士オクタヴィアンと若く美しい娘ゾフィーが運命的に出会い恋する第二幕の場面などである。そしてその途中で登場する田舎貴族のオックス男爵もまた、何とも言えない人間臭さを出している。第三幕のクライマックスでは、三角関係にある元帥夫人と若い二人との美しい三重唱の後に、毅然と元帥夫人は身を引くのだが、その姿は凛々しさとともに人生のはかなさも感じさせ、この作品を‘ 昼ドラ ’ではない正しく‘ 芸術作品 ’として感動させる。このように一見 大衆的な娯楽と思われながらも、芸術的要素も充分に堪能できるこの作品の魅力はどこから来るのだろうか。




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ではまず、作品の成立した時代背景を知る為に、上の写真を見てみよう。
音楽や芸術の都として名高いウィーンの街を歩くと(別にウィーンに限らないのだが)時々ギリシャ神殿に見まがうような立派な建物にでくわすことがある。上の画像もその一つで、これはオーストリアの国会議事堂である。見ての通り正面玄関はギリシャ神殿そっくりだが、類似点はそれだけではない。入口の前にはギリシャのパルテノン神殿に祀られている女神アテネの像まであるのだ。ではなぜこのようなものがわざわざオーストリアの国会議事堂になくてはならないだろうか。
ここで日本の国会議事堂と比較してみよう。日本のこの建物の中にも3つの像があるが、それらはいずれも伊藤博文、大隈重信、板垣退助と日本の民主主義の発展に尽力した偉人のものである。一方オーストリアは?というと実は彼らに相当する人物がいないのである。
以前にも書いた(”まやかし”としてのラデツキー行進曲)、1848年にオーストリア(当時は帝国)では絶対君主制に抵抗し、民主主義を求めて民衆が立ちあがったものの、この革命は皇帝軍によって鎮圧されてしまう。このウィーンの国会議事堂は、1861年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が自国の近代化の必要性からしぶしぶ開設した議会のために建てられたものである。しかしあくまで「上からの」改革で出来上がった議会に、まつるべき民主運動家もいないため仕方なく、古代の民主制の象徴 アテネの女神像が代わりに置かれたわけである。つまりいくら議事堂のファサード(正面)を輝かしいギリシャ建築や美術で飾ってみたところで、革命にも失敗しているオーストリアには真の民主主義的伝統は実はなかったのである。
これは議事堂に限らない。ウィーンの市庁舎は中世の自治的伝統をほうふつとさせるゴシック様式で、大学は学問が華やいだルネサンス期の様式によってそれぞれ19世紀後半に建てられたが、肝心の中身は…というとどれも心もとなかったのである。
お役所に限らず同時代の市民もまた外面を飾り立てることに躍起となった。彼らは19世紀後半、ウィーンの市街地に貴族のような館を続々と建て、金がない分、 内部を区切ることで、大勢が住める様に設計し、それぞれの家の内部は狭くても外観はまるで宮殿のような建物に住んだ。いわば現代の高級マンションのはしりといったところか。室内もありとあらゆる装飾で埋め尽くし、古今東西の名画を飾った。つまり当時のウィーンには「まがいもの」とはいわないまでも、昔風の建築や装飾が氾濫していた。




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19世紀のウィーン市街(当時は市街地の大改造が行われていた)



この様な風潮は、その他のオーストリアの芸術や文化にもよく表れた。同時代の哲学者F・ニーチェが「 教養俗物 」とののしる程、この当時の市民は様々な「 古典 」を中身もよく分からずとにかく「 崇めたてまつった 」。民衆が求めた古典的な‘ 芸術 ’は、真の価値を問うことがほとんどないままであった。
こうした芸術もどき(?)をオーストリアの作家で文芸評論家のH・ブロッホは「 非様式(つまり時代特有の芸術様式がないこと)」と呼び、19世紀を様々な芸術的価値が称揚されながら、一方で決定的な芸術的な価値が不在であるという意味で芸術における「 価値真空 」の時代であると指摘した。つまり、オーストリアの民衆は、革命が失敗に終わった後、まだ新しい物や価値を作り出そうとする気概を持っていなかったのだ。
「ばらの騎士」はそうした時代の中で生まれたものだった。



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R・シュトラウス(1864~1849)



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フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874~1929)



先ほど芸術における「 価値真空 」について書いたが、すべての芸術家がこれに甘んじていたわけではない。いや、むしろ有名な「 世紀末ウィーン 」と呼ばれる芸術運動はこうした時代の雰囲気に抗い、新たな価値を創造するために生まれたのである。例えば、画家のクリムト。彼は若いころは天才画家と称され、人々が喜びそうな古典的で端正な絵を描いていたが、ある時期になると突然女のエロティックな裸体画を描きまくり、そのために正統画壇から追放された。しかしこれも彼なりの「 価値真空 」に対する抵抗といえよう。今では世紀末ウィーンを代表する画家として有名である。彼の他にもこの「 価値真空 」を埋めるべく、様々な芸術家が登場したのである。
そして今回の主人公ホフマンスタールもそうした抵抗する芸術家の一人であったとH・ブロッホは言う。以下彼の記述に従いながら、台本作家ホフマンスタールの思想をおおまかにつかんでみることにしよう。



ホフマンスタールは裕福なユダヤ人の家系に生まれ、小さい頃から成績はいつも学校内でトップという‘ 天才児 ’であり、しかも美貌でもあった。また彼は名前に「von」が付くように貴族の血筋を継いでおり、ブロッホの記述によると「 先生や同級生達よりは、教室の壁から見おろしている金ぴかの飾りをいっぱい身につけた肖像画の皇帝の方と、余計密接な現実関係をもっていた 」少年だったという。このように書くと、読者は嫌味なナルシストだとホフマンスタールを捉えてしまうかもしれない。しかし彼は決してそのような単純な人間ではない。ブロッホによると彼は常に「 孤独な 」人間であった。そして自分のナルシシズムを打ち消すために「 死 」をいつも念頭に置いていた。
彼は作家として芸術家稼業を始めるが、その初期の作品『 痴人と死と 』は 「死にたい」とつぶやく自分のことしか頭にない放埓な若者に死神が訪れ、若者によって人生を狂わされた人々の幻影を死神が見せながら、その若者が死に絶える、というものである。一見奇妙な筋書きであるが、これも若きホフマンスタールが自分のナルシシズムの戒めとしてつづった作品と考えられる。同時に彼はまた若い頃に流行していた、芸術的な美のみをひたすら追求する「耽美主義」に対しても徐々に距離をとるようになっていく。そして耽美主義の代表的な表現方法の一つである抒情詩も書くのを止めた。彼がそのような転換を図った理由は彼の代表作である『チャンドス卿の手紙』から分かるようだ。
『チャンドス卿の手紙』は短編だが、内容的には難しい問題を含んでいる。端的にいえば、ホフマンスタールはその書で「抽象的な言語表現は果たして物事の本質を表しているのか」という問題を投げかけ、言語ですべてが表現しきれないことを示したのである。そうであるならば、今までのように単に言葉だけの文学作品で十分ではない。彼はこうして言葉を補完する新たな表現素材、例えば音楽との融合を考えるようになった。これが彼がオペラに接近した理由の一つとなった。


耽美主義者にはもう一つ問題があった。それは自らの美を追求するあまり、社会から乖離した存在になってしまうことである。ホフマンスタールはまさにそれを危惧したのだとブロッホは主張する。つまりホフマンスタールの目指したものとは、そうした社会から乖離した芸術をもう一度社会の中に位置づけなおし、活性化しなおすというものであったのだ。芸術家は、社会や民衆に根を下ろした者でなくてはならない。そのためには素人に分からない抽象的表現ではなく、あくまで、‘ 目に見える具体的なもの ’に固執すること、無定形ではなく、ある種の ‘ 秩序( 調和と言い換えてもよいかもしれない )’を志向することが重要である――それがホフマンスタールの考える芸術の理想像であった。ただここで注意してほしいのはここでいう「社会」の意味である。これはあくまでホフマンスタールの構想する「理想社会」であり、現実そのままの社会ではなかった。ではその理想社会とは一体、どのようなものなのか。それはハプスブルク皇室を中心とした政体で、オーストリア・ハンガリー帝国内に住む様々な民族と各階級が平和裏に共存するという、ユートピア的で幻想に近いものだった。しかしそれは完全に現実離れしていたわけではない。現にその社会はホフマンスタールが生きていた19世紀後半には、オーストリア・ハンガリー帝国として不完全ながらも実在していた。彼の「夢」は同時に「現実」でもあったのだ。
では、「社会に根付いた芸術」という彼と似た主張を掲げ、民衆を満足させる後の時代の社会主義的リアリズム芸術家とホフマンスタールとはどのような点で異なるのか。ここで忘れてはならないのはホフマンスタールは貴族的精神の持ち主であったという点だ(彼がもとは貴族の家系であったことを思い出そう)。彼はブロッホが書いているように、民衆を「 お伽話の集団人物 」と考えていた。つまり彼にとって「民衆」は現実の実体ではなく、あくまで自分の理想とする社会の一員として「教養」を与えなければならない対象に過ぎなかった、というのだ。そのため彼は自分の芸術作品が、実際の民衆に「理解」されるかどうかはどうでもよかったのである。ホフマンスタ―ルが目指したのは、自らが階級に属さない自由な芸術家でかつ、様々な階級から疎外されるユダヤ人であることを踏まえ、代わりに、芸術活動を通し民衆全体の「精神」の中に故郷を持ち、民衆全体の「指導者」になることであった、とブロッホは強調している。


今からみると、ホフマンスタールの理想社会や「 社会の中の芸術 」というものは、細部では検討を要すべきものである。しかし私がこうしたホフマンスタールの思想をとりあげる理由は、その是非うんぬんではなく、それが今回の「 ばらの騎士 」誕生の秘密を、少なくとも一部は解き明かしてくれると考えているからである。
例えば、意味の難解な抽象的作品によってではなく、社会と共に在る芸術を、という彼の考えは、この作品の分かりやすい筋書きにも現れている。また時代設定を18世紀にしたのは、一般的にはモーツァルトの時代の音楽様式に戻りたかったからという説明がされるが、これまでの議論を踏まえると別の理由も推測できる。すなわち、ホフマンスタールにはまだ、血なまぐさい革命や階級闘争が存在せず、貴族・市民・民衆が平和裏に共存していた(もちろん実際は表向きに過ぎなかったのではあるが)自分の理想に近い18世紀の社会を描くことで、この作品を見る人々に、そのありし日を思い起こさせる、という目的があったのではないだろうか…。


ホフマンスタールの夢見る18世紀の貴族社会はもはや作品が初演された1911年には既に形骸化していた。そしてその貴族社会の代わりに勃興し、この「ばらの騎士」を喝采をもって迎えた19世紀の市民社会や多民族が共存する帝国もまた、第一次世界大戦後には崩壊し、文字通り‘ 夢幻 ’に終わったのである。
だが私たちは「 ばらの騎士 」という芸術作品を見ることで、少なくとも過去の残照を垣間見、人生や人間のはかなさを知り、ホフマンスタールの夢に思いをはせることができるのである。




 

1960年にザルツブルクで収録された「ばらの騎士」のオペラ映画。元帥夫人はエリザベト・シュヴァルツコップ、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。



カラヤン/R.シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」全3幕 [DVD]カラヤン/R.シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」全3幕 [DVD]
(2009/12/09)
ヘルベルト・フォン・カラヤン、エリーザベト・シュヴァルツコップ 他

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元帥夫人にエリザベト・シュヴァルツコップ、指揮者に若きヘルベルト・フォン・カラヤンを起用した「ばらの騎士」のオペラ映画の金字塔。






世紀末ウィーン―政治と文化世紀末ウィーン―政治と文化
(1983/09/09)
カール・E.ショースキー

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世紀末ウィーンの政治と文化を論じた代表的な書物。






ホフマンスタールとその時代―二十世紀文学の運命 (1971年) (筑摩叢書)ホフマンスタールとその時代―二十世紀文学の運命 (1971年) (筑摩叢書)
(1971)
ヘルマン・ブロッホ

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ホフマンスタールの人生・作品・思想を論じた浩瀚な評論。著者自身も有名な作家である。




写真はwikipediaから転載

( 門前ノ小僧 )




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2013.01.16 (Wed)

頑張れディヴァン、頑張れバレンボイム!

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イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ディヴァンオーケストラによるベートーヴェン全集(Beethoven for all)の紹介ヴィデオより



Nine Symphonies [DVD] [Import]Nine Symphonies [DVD] [Import]
(2013/08/06)
Beethoven、Barenboim 他

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レコード芸術10 月号の海外盤Reviewに、ダニエル・バレンボイム指揮、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ演奏のDVDのベートーヴェン交響曲全集(ドキュメンタリー付)――CDによる全集(Beethoven for all)録音の翌年に2012年のロンドン夏の音楽祭プロムスで演奏されたものを収録している――の批評が載っている。好意的な批評で、このオーケストラのファンである私としては嬉しいが、また、ここで紹介されている海外盤を既に購入しているのだが、ここに載ったということは、日本盤としては発売されないだろうと思うと少々残念な気がする。ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラの魅力は、CDよりもDVDのほうがより伝わるかもしれないからだ。しかも、演奏の方(2012年のロンドン夏の音楽祭プロムスでのもの)はYouTube でも視聴できるが、付属のドキュメンタリーの方はそうは行かない。そのさわりだけが見ることができる。









イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ベートーヴェン交響曲第7番。
バレンボイム指揮、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ

ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラとは、ユダヤ系イスラエル人であるバレンボイムが、1999年にパレスティナ人の学者エドワード・サイードと共に創設したオーケストラである。二人は、ゲーテが嘗て活躍したドイツ、ワイマールの地で、夏のサマースクールを開き、室内楽を含むマスターコースのワークショップに、紛争の絶えないイスラエルとアラブの両国から若い音楽家を招き、共にクラシック音楽を演奏する事を通して互いの理解を促すことを企画した。これに、アラブ側からだけでも二百人の応募があった。その反響に応えて、オーケストラのワークショップも行うことにしたのがその始まりである。(ウェスト=イースタン・ディヴァンとは、ゲーテの詩集『西東詩集』のことである) 単に音楽を一緒に演奏するだけではなく、学者サイードが中心となり、若者が互いに‘ 討論 ’を行うワークショップもそこでは行われた。このワークショップはその後も続き、拠点をスペインのセヴィリアに移し、今に至っている。毎年七月の終りから約五週間、セヴィリアに始まり主にヨーロッパ各地での演奏会に出かけるのである。




イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



バレンボイムとウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラの初めてのドキュメンタリー Knowledge is the beginning の冒頭。途中、チェリストのヨーヨーマも登場。続きもYouTubeにあります。


なぜ、イスラエルとアラブなのか。紛争の絶えないこれらの諸国に音楽を通して平和を齎そうというのだろうか。
バレンボイムもしばしば注意を促しているが、彼らの目的は中近東に平和を齎す事ではない。幾ら、ベートーヴェンの第九に感動したから、つまり、ベートーヴェンが言うところの‘ 人類は皆兄弟 ’だからとて、彼らが直ちに、武器を捨て去る事はあり得ない。この中東の若者達は、そんな甘い幻想を求めて、十数年に亘り、このワークショップに毎年訪れているのではない。彼らはその解決の難しさを痛い程理解しているのである。そもそも、後に述べるように、イスラエル、パレスチナの双方の国から彼らに対する批判は存在し、ディヴァン・オーケストラに参加するには、批判を撥ね退ける勇気、何かを犠牲にする覚悟が必要とされるのだ。甘い幻想だけでこんなに長続きするはずがない。
それではこの両国間の、政治的な解決が目的でないとすると、一体このオーケストラが目指しているところは何なのであろうか。
バレンボイムとサイードは、自らの活動を「無知」に対する戦いだと述べる。多くのイスラエル人にとってアラブ人は、そして、アラブ人にとってイスラエル人は、個人的な感情も思想もない、自分たちの生存を脅かす敵でしかない。彼らを隔てる壁の向こう側には、自分達とは価値観や立場を異にするが、悲しみも苦しみも感じ、考え、行動する同じ‘人間’がいる事を知らないのである。「知ることが始まりである」(Knowledge is the beginning)とは、彼らの初めてのドキュメンタリーの題名であるが、彼らが目指すのは、「知ること」、つまり相互理解である。。

相互理解を齎すところに‘ 音楽 ’の意義があると彼らは考える。クラシック音楽から学ぶことが出来るものの一つに、力(power)と強さ(strength)との区別があるとバレンボイムは言う。強さと言っても勿論、音量の大きさをいうのではなく、主声部だけではなく他の声部が聞き取れる透明さがあって初めて、全体としての強い響きを得る事が出来る。音楽での対位法と同様に、社会に於いても、一つの主張で塗りつぶすのではなく、複数の主張が存在し響き合う事で、真の秩序は保たれる事が可能となる――自らの主張を保ちつつ同時に他の主張を理解すること、つまり「相手を重んじつつ語り、つらいことでも耳を傾ける(talk sensitively, listen painfully) 」こと――それが相互理解には必要な事であり、互いの信頼に通じる事を、この若者達は音楽を通して身をもって学んでいるのである。
互いの違いを認めながらの‘ 相互理解 ’など、きれいごとのように思われるかもしれないが、そういうごまかしの相互理解はここでは通用しない。
このオーケストラの一員である著者Elena Cheah ( 以下エレーナ女史 )がそれを紹介した書物、『国境を超えるオーケストラ(An Orchestra beyond Borders)』には、二十人ほどの団員がそれぞれに自分の経験を著者エレーナ氏に語るという体裁を取っているが、読み進めて行く途中で、それぞれが自分の考えや意見を持ち、これではこのオーケストラは分裂してしまうのでないかと思う程の意見や思想の食い違う場面もしばしばであった。こういう事を全く誤魔化さず隠さず描き出されるところに、このオーケストラ及びバレンボイムの強み、魅力がある。このような意見や思想の違いが存在するにも関わらず、次第に人間同士としての絆を持ちそれを深めて行くのである。


An Orchestra Beyond Borders: Voices of the West-Eastern Divan OrchestraAn Orchestra Beyond Borders: Voices of the West-Eastern Divan Orchestra
(2009/10/05)
Elena Cheah

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現在はピアニストとしても指揮者としても活躍するダニエル・バレンボイム――7歳でピアニストとしてデビューし、11歳の時マルケヴィッチに指揮法を教えられ20歳で指揮者デビューした早熟の指揮者――は、偽善を嫌う。彼は、紛争が終わることのない中近東についてこんな警句を記している。
  
「我々中近東人は、歴史の知識を濫用して、自分が被害者であると見せつけ、自己憐憫に陶酔することにかけては 皆大芸術家である。」(An Orchestra Beyond Borders での序文)

バレンボイムは、アルゼンチンに生まれたが、ユダヤ人であるために、両親と共に祖国イスラエルに移住し、その国籍を得、欧米での活躍と共に中東イスラエルでも長らく演奏をしてきた。しかし、パレスチナとの紛争に関し、自国イスラエルの入植政策を批判し、パレスチナの西岸地区やガザ地区で演奏し、前者ではその音楽教育に携わり、パレスチナのパスポートも持つ。正に、グローバルな「中近東人(Middle Easterner)」である。
さて、イスラエルと云えば、ヨーロッパから逃れてきたユダヤ人たちが第二次大戦直後樹立した国であるが、その基には、第二次大戦中どの国も自分たちを助けることはなかったという、ホロコーストの「被害者」としての「歴史」がある。その為、自分たちの安全・生存は自分たちで守る他ない。この「歴史」は、幾ら批判を他国から浴びようとも、自分たちの安全・生存のために彼らが取るあらゆる手段を正当化する。
一方ユダヤ人が移住してきたパレスチナの地は、無人の地ではなかった。そこには長い歴史を有して生活してきた人々が既に居た。彼らを放逐することでイスラエルという国家は成立した。こちらはこちらで、自分たちパレスチナ人こそ、このイスラエル建国により放逐された「被害者」であるから、失われた正義を回復するためには、ユダヤ人を全員パレスチナの地から放逐しなければいけないと主張し続ける。
こうした主張を双方が続ける限り、共存、和平はあり得ない。バレンボイムは続けて次のように語る。

「我々の好奇心と知識に、よりよい未来を創造しその条件を創造させるほうが、はるかに生産的だろう。」

自己正当化のために過去にこだわり続ける愚かさは、果たして中近東に限られるかどうか…、極東にも存在するのではないかと言いたくもなるが、それはともかく、このような耳の痛い真実を捉えた発言は、イスラエルとパレスチナの双方に当然賛意と共に反感も引き起こす。イスラエルでは裏切り者とも呼ばれ、他方パレスチナ側からもイスラエルの生存権を認めるのは敵だと名指される。しかし、バレンボイムは「私の活動の前提は、(イスラエルとアラブとの)双方から同じだけの激しさで批判される場合の私の言動は正しいものだということだ」と述べて(BBC Reith Lectures 2006)、ひるむことはない。イスラエルの名誉あるウルフ賞を受賞すると、その授賞式で、諸民族の平等を謳うイスラエルの独立宣言を引用してイスラエルの大臣を怒らせ、他方、彼が応援しているパレスチナの音楽院の子供たちが上演するオペラに、一部のパレスチナ人の反対があった時も、上演の妨げになってはいけないと公には参加のキャンセルを表明したが、お忍びで結局は聴きに行くといった具合で決して負けることはない。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終曲「愛の死」



このような活動をバレンボイムは、何のために行っているのだろうか。バレンボイムがインタヴューを受ける際にしばしば持ち出すのが、音楽の‘ 二つの効用 ’である。仕事から家に帰り、ウィスキーをグラスに注ぎ、足を楽にし、CDをかけて(出来ればバレンボイム演奏のショパンを、と言ってにやりとするのが彼の十八番である)一日の嫌なことを忘れる、つまり、現実からの逃避が一つ、逆に、現実を学ぶというのがもう一つである。クラシック音楽の衰退が嘆かれるこの頃であるが、バレンボイムはその原因を、クラシック音楽が前者の目的にのみ演奏されたり聴かれるようになったこと、現実逃避的効用だけを目指すようになり、クラシック音楽が単なる装飾品になってしまったことにあると言う。つまり、クラシック音楽が最早人生に関わる感動を与えられなくなったことがその衰退を齎したと言うのである。ディヴァン・オーケストラとの演奏で彼が目指しているのは、‘ 人生に関わる音楽 ’,真の感動を弾き手にも聴き手にも与える音楽である。そのためには、徹底した音楽的な訓練と共に、現代に生きる人間としての成熟も図る場が必要である、それが、ディヴァンのワークショップが目指す所である。専門家を養成するための、技術に偏した音楽教育に対しては、自分はテロリストだと彼は態と物騒な比喩を持ち出すと確かガーディアン紙で紹介されていたが、このような専門家嫌いなところも、彼の友人サイードが繰り返し強調していた所に通じる。
これは、政治をアクセサリーにするような厭らしい趣味とは正反対のものである。冒頭に紹介したDVDの続きには、幾人もの団員が登場するが、その中の一人がディヴァンへの「現実からの逃避」を語っても、それは、戦いの国から音楽への逃避であり、ワークショップの夏が終わり、戦いの国へと帰らなければいけないと語る彼女の言葉には、心に深く残るものがある。豊かで平和な国とは異なり、彼らには、「現実からの逃避」と「現実を教えるもの」との対比はないとも言える。政治とは別の、人間としての個人同士の交わりの中で成立するものとして‘ 芸術 ’が彼らには確固としたものとして存在しているのだ。
そう考えると、音楽に対する彼らの純粋な献身の姿勢は、戦争という彼らの生きる過酷な現実と無関係ではない。中東の情勢は一向に改善の兆しが見られないのに比例して、彼らの純粋さが輝くと言うのは人間性というものが持つ皮肉である。先ほど紹介した本の著者 エレーナ女史によれば、プロのオーケストラの団員にとって、音楽は生活の糧であり、音楽への献身といったものをいまや見出すことは出来ないが、このディヴァンオーケストラにはそれがある…夏のディヴァンのワークショップが終わり普段の生活に戻るとどうしても空白感を持ってしまう「ディヴァン病」に罹ってしまったと彼女は言う。――彼女は両国とは関係のない米国のチェリスト、4歳でチェロを学び初め、7歳でデビューコンサートを開いたという神童であったが、様々なオーケストラのチェロのトップに短期の契約で就くという自由な生活を選択し、ちょうどベルリン・シュターツカペレにいた時、その音楽監督であるバレンボイムに誘われ、このディヴァンオーケストラの指導に協力すると同時に演奏にも参加したのだが、筆も立ち、クラシック音楽の専門家という枠に嵌らない女性である)
冒頭にDVDは彼らの魅力を伝えると書いたが、付属のドキュメンタリーで聞く彼らの言葉と共に、ベートーヴェンを演奏する彼らの姿には、エレーナ女史の言う彼らの純粋さが見て取れる。しかも、女史の本を読んだ後では、画面の中のこの人はこんな事を語っていたな、あの人はあんな経験を経た人だ、などと団員一人一人の個性がよく分かるのも楽しい。
ディヴァンのファンには、現在最高のイゾルデ歌手と言われる、メゾソプラノのヴァルトラウト・マイアーがいる。エレーナ女史の本によれば、彼女もやはりディヴァンの純粋さに惚れ込んでいるらしい。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終曲「愛の死」のリハーサル中に、それを聴いていた彼女が舞台に進み、歌をそれに添えたというエピソードが紹介されているが、この時ほど感動的なワーグナーを演奏したことも聞いたこともないとエレーナ女史は言う。幸い、同じメンバーでのこの曲の演奏をYouTubeで視聴する事が出来る


不可能と思えることに次々と挑戦し続ける彼らの活動は、我々に希望を与える、少なくとも、絶望するのを先送りにさせ続ける。現在のところ彼らの活動も、政治情勢だけを見れば梨の礫(なしのつぶて)といえるかも知れない。それなのに希望を持ち続けられるのは、‘ 音楽の力 ’のゆえだという物語がそこにある。できるだけ長くディヴァンの活動が続いて欲しいと願う所以である。頑張れディヴァン!頑張れバレンボイム!




(ネモローサ)



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2012.08.09 (Thu)

古本屋で見つけたクレンペラー

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ゲオルク・ジンメルがベルリンを離れシュトラスブルク大学に教授として赴任した際に若き友人としてその無聊を慰め、マックス・シェーラーとも親しく交わり結婚の証人にもなってもらい、更には、エルンスト・ブロッホとは、ジンメルに頼まれその最初の著書『ユートピアの精神』の草稿を読み高く評価したことがその出版を促し、後には終生の友人となった――こんなマニアックな話からはじめた訳は、三人とも当時のドイツの哲学者なのだが、そんな彼らと親しく親交を深めていたのが、今でも多くのファンを持つ大指揮者オットー・クレンペラーだと知って少なからず驚いたからである。
クレンペラーと言えば、マーラーの弟子であるということ以外には、オーケストラに対してひたすら厳しい、前時代の指揮者(その奇行にまつわる逸話は豊富)というイメージしか持ち合わせておらず、実はあまり関心がなかったのだが、偶々近所の古本屋で見かけて購入した、稀代の読書家 生松敬三の『二十世紀思想渉猟』(岩波現代文庫)で、先のジンメルら哲学者と指揮者クレンペラーの交流が書かれているのを読み、クレンペラーについて知りたくなった。
しかし、そこで紹介されていた、この話の元となっている『 クレンペラーとの対話 』をアマゾンで調べてみると、古本で7000円以上しており読むのを諦めかけたが、原著の方はドイツ語ではなく英語なので( 編著者のヘイワ―スはイギリスの音楽ジャーナリストであるため)、Book Finder で調べると古本がなんと送料込みで1000円台で購入できることが分かり、早速注文して取り寄せた。(Conversations with Klemperer, edited by Peter Heyworth) クレンペラーという人は無駄な言葉は一切口にしない人間であるので、インタヴューで紡ぎだされた彼の断片的な言葉を、編者のヘイワ―スがつなぎ合わせ、意味が通じる英語対談に仕立て上げたのが本書である。という事から、平易ではあるが、一語一語を寡黙なクレンペラーを思い浮かべながら読むと味わいのある、興味深い内容に満ちており、一読、巻を擱く能わず( 面白くて止められない )という言葉がぴったり当てはまる本である。






Conversations with KlempererConversations with Klemperer
(1985/05/13)
Otto Klemperer

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クレンペラーは、晩年イギリスの老舗オーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団の常任指揮者としてベートーヴェンの作品を始めとして古典的な作曲家の録音を多数残しており、巨匠の時代の指揮者というイメージを抱いていたのだが、本書「クレンペラーとの対話」ではそれ以前の時期が中心となっており、壮年期までのクレンペラーを知るにつれ、その印象は大きく変わった。
クレンペラーは、商売人だがその才覚のない芸術家気質のユダヤ人の父と同じくユダヤ人のピアニストの母の下に生まれ、音楽の才能を早くから現わした。頭も良く、数学を除けば学校での成績も良かったが(本人の言葉によればユダヤ人であるために試験の点数がいくら良くても一番とはされなかったとのことである)、音楽の道に進むためにアビトゥーア(大学受験資格)を取ることなく音楽院に進んだ。読書がとにかく好きで(晩年ヘイワ―スがインタヴューした際にもその合間に、気がつくと読書に没頭するクレンペラーがいたという)、しかも、正式な学歴がないことの引け目を持つことが、逆に冒頭に紹介した三人の哲学者との交流に彼を導いたとヘイワ―スは言う。ヘイワ―スも注意しているように、三人とも学者というよりも、文筆家として有名な人物であったのである。
クレンペラーはマーラーを尊敬しているが、その尊敬の念は、彼がマーラ―の推薦状を得ることにより指揮者の経歴を始めることが出来たということによるものではない。音楽家というよりももっと広い意味での芸術家としてのありかたに感銘を受けたからであろう。
本書の白眉は、両大戦間期にクロル劇場の音楽監督を務めたベルリンでの活動を語ったところにある。彼は当時の前衛音楽であるシェーンベルク、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、ヤナーチェク等次々と紹介する一方で、古典的なベートーヴェンのフィデリオを始めとするオペラの演出に於いて、新機軸を打ち出した。また、ワーグナーの新演出(戦後のヴィーラント様式の先駆けと言われる)も手がけるが、ナチの反感を買い、反ユダヤ主義の標的となった。
マーラーもまたユダヤ人であり、同様に、万事が保守的なウィーンでオペラの改革を行い結局のところウィーンを去らざるを得なかったのに、類似している。
ヘイワ―スは、本書の序文で「 クレンペラーのベートーヴェンは、もしも彼がシェーンベルクの下で学び、かれの音楽を演奏しなかったならば、同じものになっていただろうか、」(クレンペラーはアメリカに亡命中にシェーンベルクに作曲を学んでいた。シェーンベルクにUCLAでの教授職を紹介し、ブラームスのピアノ四重奏曲のオーケストラ版への編曲を促し、その他様々な面で気難しい彼を助けたのはクレンペラーであった。) 「クロルオペラは、 もしも彼がストラヴィンスキーの反ロマン主義的な美学を受け入れていなければ、あのような伝統との決然とした断絶をその特徴としていただろうか」と記している。クレンペラーはむしろ新し物好きと言える程であり、対談当時の前衛であったブーレーズやシュトックハウゼンの音楽にも耳を傾けており、全面的ではないにせよ肯定的な評価を与えている。新しいものに対し閉ざされた態度を取ることは決してしなかったのである。
しかし、ヨーロッパ音楽の伝統の下で演奏しているとの意識も強かった。クレンペラーは言う、「若い世代の指揮者の問題は、進むべき道筋を忘れているということだ。(ベルクの)ヴォツェックから始めてハイドンの交響曲で終わることは出来ない。ハイドンから始め、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトに進まなければいけない、それからは、更に新しく、もっと複雑な音楽に進んでもよい・・・問題は、彼らに成熟の感覚がないということなのだ、彼らはいきなり頂上に行こうとしている。」 亡命中のアメリカでの生活が苦々しいものでしかなかったのも、その根本はクレンペラーがヨーロッパの伝統を背負い過ぎたためである。
さて、本書は、カナダのテレビ局のドキュメンタリー制作のためにヘイワ―スが行ったインタヴューが元になっているが、そのドキュメンタリーが一時YouTubeで視聴出来た。(Otto Klemperer's Long Journey through His Times)クレンペラーはその番組では半分以上ドイツ語で語っているが、その部分は英語で字幕があるので、むしろ我々にとっては分かりやすいかもしれない。ともかく、必見のドキュメンタリーであるのだが、最近はYoutubeで見ることが出来ない。DVDか何かの形で、再販売してほしいのだが、ここでは、別のBBCでのインタヴューを観てみたい。 




クレンペラーは素行も悪く政治音痴で音楽馬鹿だったのかもしれないが、それゆえの明察があったように思われる。戦後彼はアメリカからヨーロッパに戻ったが、まず、ハンガリーのブダペストでの指揮者を務めた。しかし、直ぐに共産主義下での活動に耐えられず、ハンガリーを離れてしまう。共産党政府下ではよい音楽を作ることを出来ないということが、今から見れば政治的にも正しい行動をさせたのである。
更にまた時代と彼との関係を考えさせられたのは、西武で行われていた古書展で見つけて購入したCDのリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を聴いた時である。リヒャルト・シュトラウスの音楽をクレンペラーは高く評価しながらも、その人物像に対しては、「人当たりのよい」が、「何かが欠けている・・・その性格には、便乗主義的なものがある」と言い、反ユダヤ主義を標榜するナチスが権力を手にした時期に、彼は臆面もなく(ユダヤ人である)クレンペラーに向かって「今こそユダヤ人のために立ち上がるべき時だ」と言ったこと紹介している。周知のようにリヒャルト・シュトラウスはナチスの政権下で、ドイツ音楽院の総裁ともなりその政権に協力した人物なのに、である。芸術家は時に政治音痴であることが多々あるが、シュトラウスの場合もまた実際の音楽に於いては、ナチのイデオロギーに賛同する所は全くなく、と言ってそれに反対する所も全くない。政治とは全くの無縁の‘ 音楽職人 ’であったと言える。その彼がドイツの敗戦時において作曲した「メタモルフォーゼン」は、滅びゆくものへの想いに満ち真に美しい音楽である。しかしクレンペラーは感傷を交えず、言わば厳しく美しくこの曲を響かせるのである。
この同じCDには、反ユダヤ主義者であり、ナチにも利用されたワーグナーのジークフリート牧歌も収録されているが、この演奏もまた自己陶酔に陥ることのない厳しく美しいワーグナーをそこに聴くことが出来る。
時代に飲み込まれることなく、また、それから逃れることもない彼の音楽がそこにある。
クレンペラーは、甘く感傷的なものとはおよそ対極にある音楽を作ったと言える。
彼がマーラーを深く尊敬しながら、その全ての作品を同様に高く評価せず、演奏しなかった曲があることは有名である。生松敬三氏の本には、ヴェリスムス(真実主義)またはノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)といわれる画家によるシェーラーの肖像画のことにも触れているがいるが、そのシェーラーとも親しかったクレンペラーの音楽は、マーラーよりも若い世代の彼らの美学を体現していたとも言える。しかし、それが飽くまでも伝統の上の「成熟」として結実したところに彼の偉大さがある。
などと、つれづれにこんなことを考えながら、最近話題となった、フランスEMIから発売された、マーラーのCDボックスの演奏を聴いているが、音質も演奏も素晴らしいものである。これは中古ではなく新品で買ったが、限定版であり、HMVにはもう在庫は無さそうである。中古CD屋を巡る手間が省けてよかったと思っている。



 

Mahler: Symphonies Nos. 2, 4, 7 & 9; Das Lied von der Erde; LiederMahler: Symphonies Nos. 2, 4, 7 & 9; Das Lied von der Erde; Lieder
(2011/10/17)
Otto Klemperer、Elisabeth Schwarzkopf 他
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R.シュトラウス / 管弦楽曲集R.シュトラウス / 管弦楽曲集
(1998/06/24)
フィルハーモニア管弦楽団、R.シュトラウス 他

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二十世紀思想渉猟 (岩波現代文庫)二十世紀思想渉猟 (岩波現代文庫)
(2000/12/15)
生松 敬三

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(ネモローサ)






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2010.11.26 (Fri)

岡田暁生氏の「音楽の聴き方」を読む

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 引き続きクラシック万歳!!



秋も深まれば、芸術の秋といわれる。人間の感性が――五官がいろいろ触発される変化に富んだ季節である。五官とは、広辞苑で調べるまでもないが、一応調べてみると、眼・耳・鼻・口(舌)・皮膚の事である。五と漢字を変えると、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の事になる。よく、研ぎ澄まされた感性!などと芸術家を褒める文句に出会うが、すべては五官から始まるならば、動物の方がより研ぎ澄まされてやしないか。そして子供など動物的な方がより芸術に向いているという事になるのか……。我家の子供は専ら臭覚と味覚のみを研ぎ澄ましている。

さて、秋は読書の秋でもある。去年、岡田暁生氏が「 音楽の聴き方 」という本で吉田秀和賞( 音楽評論家吉田秀和氏に因んで毎年優れた評論に与えられる )を受賞したので読んでみた。その本の中で、クラシック音楽を聴く( 或いは表現する )際に必要なのは、身近なものから得た感覚を頼りに、言葉にする大切さを力説している。よくクラシック音楽は、‘ 精神的で高尚なもので、言葉では説明出来ないがゆえに、その存在価値がある ’と言うようなカッコイイが観念的なとらえ方を批判し,‘ 音楽も言葉で捕えられる範疇にある ’と言い切る。それは何もベートーヴェンの曲だからドイツ語で分からなければならない、という意味ではなく、我々がクラシック音楽を聴いた時に、素直に感じたままを身近なものとして捕え、自分自身の言葉を使って感じ取れれば良いのだと……。例えば、聴きながらいろいろな情景を思い浮かべてみたり、雪のしんしんと降る真夜中の一本道のような…とか、兵隊さんが誇らしげにに勇ましく行進して行くようにとか、夕暮れ時の真っ赤なこぼれ落ちそうな夕日の映える景色がどこまでも果てしなく広がり、だとか――私達は日本人なので日本語に置き換えるのであるが――このように音楽を言葉に置き換える作業を通して、クラシック音楽も身近なものとしてとらえ感じる――大切さを語っている。そう言えば、先日のNHKのスーパーレッスンでピアニストのシフが、生徒に身振り手振りを交えながら、実に表現豊かな言葉を駆使して教え、時には笑ってしまう程であったが、そういう表情豊かな言葉を通して説明を受けた生徒が言葉からの刺激を受けると、もともと豊かなのであろう感受性を大いに発揮し、音色が不思議と違ってくるのである。感受性が先か言葉が先か、鶏と卵の議論になってしまうが、矢張り、先に言葉ありきなのだろうか…。 (爽)


音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
(2009/06)
岡田 暁生

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「音楽の聴き方」の読み方

音楽について書くのは難しい。音楽は文章やせりふでなりたっておらず、絵画のように視覚化もできないので言葉で表現しにくいからだ。例えば私たちは素晴らしい音楽を聴いた後にその感想を言おうとするが、その道の専門家でもない限り、「よかった」や「素晴らしかった」以外に何も言えずもどかしい思いにかられる。私達が小説や詩についてならいくらでも話せ、書けるのに(小学生でさえ読書感想文を書くのだ)音楽については沈黙してしまう理由も、そのような点にあるのだろう。
そもそも「読む」行為がともなう小説や、「演じる」行為がその根幹をなす演劇に比べ、音楽は耳だけで聴く受動的な芸術と思われがちである(三島由紀夫はこれをマゾヒスティックと表現している)。能動的な体験を通して作品の内面性に迫るというよりは、人の感覚にじかにダイレクトにうったえかけてくるものなのだ。そのため何が芸術的に良い作品でどれが名演奏なのかどこか判然としないことがある。ベートーヴェンの第九交響曲とCMソングの違いは何か、と問われてすぐに答えられる人はそういまい。私達が音楽に対して持っている「好き嫌い」の理由を問われても同様だろう。このような、‘ 音楽の特性 ’にまつわる疑問を「言葉」で丁寧に説明してくれたのが本書である。
 
筆者の岡田暁生氏は、音楽を理解するためには、音楽がもつ様々な「 型 」を意識する必要があるという。これが本書の前提だ。そのために筆者はまず聴き方に注目し、これを感性面と言語面に分ける。
まず極力言語を介在させない「 感性面 」について筆者は、私達の中に存在する「 内なる図書館 」――周囲の環境や社会によって形成、蓄積された自らの内面性――それにある音楽が適合するかしないかが「 好き嫌い 」を生むという。いうなれば小さいころからロック音楽に親しんできた人にとってはクラシック音楽は意味不明であり、その逆も同様であるわけだ。
次に「言語面」についてだが、最初に筆者は、音楽を言葉を通じて聴く事を軽んじていた19世紀ロマン派の西欧の音楽評論を批判する。当時はワーグナーを中心として音楽は他の芸術を超越する――なぜなら音楽は言葉などで表現しきれないものでありそれゆえ神なき時代における神的存在であるからだ――と大真面目に主張されていた( ちなみに、それ以前のカントなどはこれと正反対のとらえ方をして音楽は語れないがゆえに下等なものと考えていた )。彼らは一方で音楽作品を論じながら、一方では「 それでも音楽は語りきれない 」と言い続けたのである。この姿勢は現在の音楽評論家や私達一般にもみられるものだ。だが筆者はそれに疑問を投げかける。はたして音楽は本当に語れないものなのか。評論家達の使う音楽専門用語や形而上学の語彙なしには音楽は語れないものなのか…。筆者は指揮者がオーケストラのリハーサルの時に発する言葉や、日本舞踊の指導の際に使われる、音楽を身近な比喩でたとえる「 わざ言語 」に注目し、私達も「自らの‘ わざ言語 ’を用いて、音楽を聴き理解すべき」、と主張するのである。
筆者は続いて音楽自体の特徴に注目することで音楽の「 型 」を浮かび上がらせる。ここで指摘されるのが‘音楽’と‘言語’の類似性だ。言葉は一見平易なようで実は単語、文節、文章と多様な文法構造のうえに成り立っている。同様に音楽にも守られるべき「文法」が存在する。ソナタ形式やロンド様式はその一例だろうし、曲の中でも交響曲の四楽章構成等はそれに当たる。曲の節回し、ラッパの使用一つとってもそれには多様な意味が含まれているし、固有の歴史的背景もあるだろう。このような背景を多く内包している音楽が一般にいう芸術的な作品であると筆者はいう。
確かにそれぞれの音楽に優劣をつけるのは難しく、するべきでもないだろうが少なくとも聴いてなんとなく理解できる曲とそうでない曲の差は、どれだけ‘音楽言語’で語れるものなのか、という点にあるのだろう。
だが19世紀以後になると、音楽の言語的構造はあまり顧みられず、音楽=サウンドという考えが広まり(それを助長したのが先に見た同時代に成立した音楽評論である)、ついにはジョン・ケージの「音楽の響きそのものに注目する」思想まで飛び出したわけである。
それでは演奏はどうか。これもまたその作品における「文脈」にそっておこなえば良いのだが問題がある。演奏者は基本的に、楽譜を通して音楽を再創造するわけだが、それ以外に参考できる、作曲した当時の慣習などは時代を下るにつれ忘れられ失われいく…。現代では、アドルノのいう「作品はよそよそしく、既に冷たくなっている」状態だ。この問題を自らの主観の投入によって克服しようとしたのが名指揮者フルトヴェングラーだという。彼については以前別の文で述べたことがあるが、彼の思想と本書を対比するのも面白く、彼の演奏ははそれこそ「精神的な演奏」といった形而上学的な賛辞が寄せられやすいが、実際の彼の「ベートーヴェンと私達」という論稿を読むと、「わざ言語」こそ出てこないが、その音楽の形態の必然性の究明――つまりは言語的な意味づけ――が見られると個人的には思う。ただ彼は、音楽云々よりもまずその背後にある混沌を理解せよ、と主張したからその意味からすると、音楽の言語性を超えた事を彼は考えていたようだ。
それはともかく以上の事実から、筆者は「音楽は国境を超える」という考えの虚構を指摘するのである。興味深い推論だが、音楽が筆者の言うとおり一種の言語だとするなら演奏の巧拙はともかく、それを深く理解できるのは結局はその音楽が生まれた国や地域、あるいは作曲家の故郷においてではないのか。いくら外国人が三味線を上手に奏しようと、独特の節回しの意味をはたしてどれだけつかんでいるか疑がわしい。反対に日本人演奏家でどれほど難技巧の曲を弾きこなそうとも、少しもその演奏がいわば「歌えていない」人もよく見かける。( 筆者の岡田氏によると西洋ではそういう演奏は下手なのではなく、そもそも「 音楽になっていない 」のだそうだ )
筆者にとって「音楽を聴く」行為とは、意味を探すこと、つまり他者を探すことだという。とすればそのために音楽が言葉である理由はおのずと見えてこよう。
最後に音楽と社会の関係について筆者は述べる。音楽は単なる作曲家や演奏家の専有物ではない。それを聴かせる対象は誰で――18世紀なら貴族、19世紀以後なら主として市民――どこで聴かせるか――コンサートホールのみならず宮殿や教会、サロン、それに家庭内である時代もある――によって音楽の形態は変わってくるだろう。つまり音楽は社会の規定を受けるのだ。
逆に音楽が社会に与える影響も見逃せない。聴衆が音楽を聴き、互いに共有することで一体感が醸成され、それが大きなエネルギーに成り得るのだ。私見ではこの方面の音楽の適用例では、まず国歌がまさにそうであると思う。時として音楽は政治的事件にも繋がる。ドイツでナチスがワーグナー音楽をプロパガンダとして利用しようとしたのはあまりにも有名であり、後の空襲のなかでもフルトヴェングラーの演奏を聴こうとして会場へ集った聴衆の熱意も推して知るべきである。
だが現代において問題なのは、正ににこうした音楽と社会の関係性がすでに失われており実感できないでいる事である。音楽は単なる「商品」として世界中に出回り、主に個人の趣向にとどまるのみだ。だからこそ前項のような聴くだけの「受け身」のものとして音楽が認知されてしまう。かつては家庭でピアノの連弾などの‘ 行為 ’を通して音楽を共有しながら、知り楽しんでいった人々が、いまやCDなどの記録媒体で孤独に聴くのみになってしまった。人々はそのように変化していった音楽から次第に離れて行き、ともに踊るといった‘ 行為 ’を通して音楽と関われるジャズヘと向かっていく。現在のクラシック不人気の理由もこうしたところからきているのだろう。
筆者の結論は音楽の「する人」(演奏家)、「聴く人」(聴衆)、「語る人」(評論家)の特権的分化が人々の音楽離れを加速させ、音楽を‘ わけのわからないもの ’に変化させた、ということである。では、どうすればよいかはもう自明だろう。筆者の提案は音楽を「する人」、つまりアマチュアの存在意義を積極的に認めこれを復活させる事だ、とする。そして、臆することなく自らの言葉で「語り」(すなわち‘わざ言語’で)音楽を自分なりに表現していこうということである。
 このように音楽は単に無機的に空間と時間の中を流れるものではなく、さまざまな「型」の存在を知ることでより愉しめるものへとなり得る事が分かった。自分の知らない音楽も「内なる図書館」に合わないからと言って拒絶することなく「型」の存在を意識しながら聴いて理解すれば、もっと自分の趣味を広げられる。筆者が本書で問うたことは音楽との付き合い方があまり上手でない(特にクラシック音楽については)私達日本人にとって大事なことかもしれない。

( 門前ノ小僧 )



 引き続きクラシック万歳!!

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2009.08.22 (Sat)

マーラー嫌いをいかに克服したか。

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 引き続きクラシック万歳!!



毎月のCDの新譜には必ずマーラーの作品の演奏が含まれているが、果して彼の作品は万人に受け入れられているのだろうか。現に最近このような文章を目にした、
  
脈絡なく行進曲調になったかと思うと、突然、叙情的になったり、必然性なく激しいメロディになったりする。次々に曲想が変わり、メロディ全体が統一を取らない。さらに、自己陶酔ぶりにもあきれた。どっぷりと自分に漬かり、自分の感情を表に出し、まるで自分を悲劇の主人公であるかのように音楽を作っている。(中略)そうこうするうち、不愉快になり、我慢できなくなってくる。(「ヤバいクラシック」樋口裕一 幻冬舎)
私にはこの文章はよく解る。以前は私も全く同じで、マーラーを聴くことは上の筆者と同様「拷問を受けるに等しかった。」のだから。それが今では幾ら聴いても聴き足りないほどのマーラーファンに変貌してしまったのである。
この変貌、転向の契機となったのは、偶々身近な図書館にあり借り出して読んだ「文化史のなかのマーラー」( 渡辺裕著 ちくまライブラリー、現在では「世紀末ウィーンとマーラー」という書名で岩波現代文庫に収められている )であった。



マーラーと世紀末ウィーン (岩波現代文庫)マーラーと世紀末ウィーン (岩波現代文庫)
(2004/02/19)
渡辺 裕

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この本によれば、ちぐなぐな纏りのなさ、また、旋律の通俗性に対する批判は、マーラー当時のものからであり、それは一般の聴衆も批評家も変わりはなかった。音楽学者として名高いハンスリックはマーラーの第一番交響曲の演奏を聴き、「 われわれのうち一人は気が狂っているにちがいない。そしてそれは私ではない 」と皮肉をこめて言ったとのことである。何故か。「 一つの流れに沿って統一された作品という古典的な作品象 」を正しいものだとする限りはマーラーの作品は支離滅裂なものであり、その前提を共有する一般聴衆や批評家の拒否反応は当然のものであったからだと言える。マーラーの曲を受け容れる為には謂わば新しい耳あるいは頭が必要なのである。
マーラーはシェーンベルクと親しく、シェーンベルクと自分は山の反対側からそれぞれトンネルを掘っているとマーラーが語ったことは夙に有名であるが、調性を破壊して現代音楽を創めたシェーンベルクと同様に、あるいはそれ以上にマーラーは新しい音楽を創造したとも言える。実際、渡辺氏の本に名前がマ―ラーの音楽との共通性の故に言及され、或いはマーラーの本質を衝くその発言が引用されている現代作曲家は、ベリオであり、リゲティである。  

さて、マーラーの音楽はどのようなものであるのか…。

渡辺氏の言葉を少し長いが引くことにすると、
(古典派以降の音楽)作品は・・・主題と出来事の織り成す統一的なドラマであり、そのドラマは時間軸に沿って直線的に展開するのである。(中略)だがいったんこの強固なドラマ性の世界から離れてみる時、そこには全く別の世界がたちあらわれてくる。因果論的・必然的な連鎖から自由になったとき、個々の事象は輝きはじめる。ソナタ形式の中では主調を準備する「機能」の一部にすぎなかった序奏の一つ一つの音がそれぞれ独自の音色や肌触りを持つものとして、自己主張をはじめる。そしてそうしたさまざまな音があるときは遠くに、あるときは近くに置かれながら徐々に空間を満たしてゆく、そんな音の世界が繰り広げられるのである。

マーラーの音楽がこのようなものであるならば、とにかくまずはその細部の一つ一つに耳を傾けることである。それらの相互の関係は唐突な変化であっても構わない。細部のメロディーが通俗的なものである時には、それが突然中断され、唐突に変化がある故に却って曲全体は通俗的であることを免れる。 
 


マーラー:交響曲第4番マーラー:交響曲第4番
(2002/06/21)
インバル(エリアフ)ドーナス(ヘレン)

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さてこのようなマーラーの新しさを表現する演奏はあるのだろうか。
この本の最後にはレコードを通しての指揮者たちの比較が為されており、これもまた甚だ興味深い。従来マーラーの直弟子であったワルターの「端正でバランスのとれた」演奏が模範的なものとされることが多いが、渡辺氏は、ワルターの演奏は保守的な聴衆に革新的なマーラーの音楽を受け入れさせるためにマーラーを「平板化」させたものであるとし、むしろ恣意的な演奏と看做されていた、テンポを変幻自在に変えるメルゲンベルクがむしろマーラーの意図に近いのではないかという最近の研究を紹介している。更に、近藤秀麿からバーンスタイン、カラヤンも含んでベルティーニに至る、交響曲第四番三楽章二十種類の演奏のテンポの変化を数値化して比較する。そこで浮かび上がったのは、三十九年のメルゲンベルクと八十年代の新しい演奏家、就中、インバルの演奏に多くの共通点があるということであり、彼らの演奏がマーラーの本来の新しさを表現する演奏なのではないかという結論である。マーラーに関する名著、柴田南雄「グスタフ・マーラー」(岩波新書、後に岩波評伝選)に於いても、マーラーは両大戦間の新古典主義の時代に合わないのは当然として、戦後直ぐの前衛音楽の時代にもそぐわない作曲家であり、七十年代以降の新ロマン主義の時代に合致するところの多い作曲家であるとされている。



マーラー:交響曲第3番マーラー:交響曲第3番
(2003/03/26)
インバル(エリアフ)ソッフェル(ドリス)

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マーラーの音楽の魅力とは何なのだろうか。あるいは、彼の音楽の「新しさ」とは何なのだろうか。それは新しさの為の新しさではない。柴田氏の言葉を借りれば、「 古典派のソナタや交響曲は、‘ いかに美しく、いかに巧妙に ’のための既成の枠組みであり、そこでは美と巧妙さのために全体の有機的統一が図られた。(中略)(マーラーはそこに)‘ 何を表現するか ’の観念を導入し、必然的にその枠組みを破壊した。」例えばニーチェのツァラトストラの「酔歌」を歌詞とした歌を含む交響曲第三番の、最後には撤回された表題が、一時ニーチェの書物の題名である「喜ばしい知識(華やぐ知慧)」となっていたことからもわかるように、マーラーの音楽は、音楽のための音楽ではなく、 人生、そして世界を表現するものである 。しかも、それは単なる自己陶酔ではない。ド・ラ・グランジュの言葉を引けば、「チャイコフスキーとは違って、彼は自分の個人的な悲しみを拡大して音楽の素材として使う人では決してなかった。・・・元来マーラーは慎み深かったから、憐みに身をさらすようなことはしなかったのである。」(「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて」草思社)
彼の音楽は心に深く訴えかけるものであるが、それは、その音楽が感傷的だからではない。
彼は「日々の現実世界から距離を置き、音楽家には珍しく人間の運命について根源的な問題にあれこれ思索をめぐらし、作品を精神の世界に開くことができた。」(グランジュ)
マーラーは文学のみならず、ショーペンハウアー、ニーチェ、更にはロッツェ、フェヒナーの哲学書を濫読し、科学にも興味を向ける人間であった。そして、周知のようにウィーンの宮廷歌劇場の芸術監督となり、しかも、自分の信じる新しい芸術をそこで実現するために闘い、その闘いに敗れてその地位を去った人物であった。その彼が全人生を賭けて作曲した曲は、当然彼の生きた時代を表現するものともなっている。音楽に留まらない、人間そして時代を聴くことが出来るということがマーラーの魅力である・・・
冒頭に掲げた動画は、テンシュテットによる交響曲第八番第一楽章の一部であるが、柴田南雄氏が「(マーラーの交響曲)が生み出された時代が、生き生きとした姿でわれわれの生活の中に再構築されるのを体験したいと望む」と書きながら、褒めていたテンシュテットによる演奏である。実際マーラーの真の魅力を伝える演奏であると思う。

(寄稿・ネモローサ)





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2009.03.29 (Sun)

グールドが教えてくれる後期ロマン派の名曲

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グールド・コンダクツ&プレイズ・ワーグナーグールド・コンダクツ&プレイズ・ワーグナー
(1994/06/22)
グールド(グレン)

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どうしようもなくロマンティクと自称していたグールドが、好んだロマン派の作曲家とは、ワーグナー以後の後期ロマン派の作曲家たちであった。その「後期ロマン派の時代に、大変悲劇的事態が生じた」と彼は云う。(「ぼくはエクセントリックじゃない」(音楽之友社刊))  「この時代の作曲家たちは――ワーグナーもリヒャルト・シュトラウスも、時にはマーラーでさえそうなんだけれども――音楽言語の和声的要素と主題的要素とを合体させることに驚くべき名人芸をそなえていたこれらの人々が、何故かピアノのためにはほとんど何ひとつ書かぬことを選んだのです。」
ここから彼の有名なピアノ編曲が始まる。ワーグナーの作品を自ら編曲し演奏した生前のアルバムに、彼自身が指揮をした「ジークフリート牧歌」も加えたCDが現在入手できる。 (晩年身体上の不調のために指揮者への転向を考えていたそうである。)

しかし、特にグールドの好んでいたロマン派とは、ワーグナーに留まらず、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、また、初期のシェーンベルク (グールドが録音したピアノ曲は、無調または十二音技法時代のもの ), こうなるとグールドがそういう曲を編曲して弾くのを想像する他ない。(昨年十二月に発売されたDVDにそのほんの一部を観て聴くことが出来たのは幸いである )。
そこで私は、上にも引いた本やコットとの対談、また、彼の著作集などから知ることの出来る、グールドの好みの曲を聴いていくことで、彼の秘密に少しでも近づくことが出来るのではないか、と聴き始めたわけだが、それらの曲はグールド云々とは関係なくとも、それ自体として深い満足を与える名曲の数々であった。





Bruckner: String Quintet; Intermezzo; Strauss: Prelude to CapriccioBruckner: String Quintet; Intermezzo; Strauss: Prelude to Capriccio
(1994/10/25)
Andrea Hess、

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ここに紹介するのは、ブルックナーの弦楽五重奏曲である。
グールドは、自作の弦楽四重奏曲がブルックナーやリヒャルト・シュトラウスの影響を受けている、と言っており、また、上に引いた本の中では 「彼の世代で、本来ピアノのために書かれたどんな曲よりも、ブルックナーをピアノで弾く方が楽しいのです 」と語っている。そして、この弦楽五重奏曲については「これは彼がかつて書いたもっとも驚くべき作品です。昂揚の度毎に雷鳴が轟くことのない唯一の作品・・・一個の奇跡です 」とさえ言っている。ブルックナーファンには申し訳ないが、この「雷鳴」のゆえにどうしても敬遠しがちであったブルックナーの作品であったが、この作品を聴いて初めてブルックナーの良さを知ることとなった。
この曲と共にこのCDに収められているのはリヒャルト・シュトラウスの 歌劇「カプリッチオ」序曲 である。この歌劇序曲に関してグールドは「信じがたいほど心打たれる作品で、また、丹念に書かれていますが、つねにあの異常な自発性とあの異常な自由につらぬかています」と評している。このCDでは、この序曲から、その透明で穏やかながら生命にあふれた世界に入ることになる。二曲目のブルックナーでもその同じ世界が続いている。



MetamorphosesMetamorphoses
(2007/03/27)
Antoine Lederlin、

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「 カプリッチオ 」はシュトラウス晩年の作品であるが、同様に晩年の代表作「 メタモルフォーゼン 」でも透明な世界が展開される。この二つの曲についてグールドは「 ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲群 」と並ぶ「 究極の哲学的平安を照らす光の変貌を表現する音楽 」と評している。グールドはこの「 メタモルフォーゼン 」に「すっかり中毒し 」て、「 少くとも、一日に一度は、どうしてもこの曲を聴かずにはすませなくなった 」時期があったと語る。この曲はベートーヴェンの交響曲第三番の葬送行進曲のテーマを変奏するものであるが、第二次大戦で崩壊した‘ 西欧文化への追悼の曲 ’として有名である。音楽に与える時代の影響を敢えて軽視したグールドが、この作品に関しては、この追悼の意味をめずらしく饒舌に語っているのは( 「グレン・グールド発言集」みすず書房 )、この音楽の与える感動のせいであろう。
初期のシェーンベルクと云えば「 浄夜 」である。グールドはシェーンベルクに関するラジオ番組を制作した際、(その台本が本になっており 「グレン・グールドのシェーンベルク」筑摩書房 )、その中で、シェーンベルクと云えば「浄夜」しか聴こうとしない相手をからかっているのだけれども、グールド自身が「浄夜」を好きなのは疑いない。




上記の演奏は、ブルックナーの五重奏曲とリヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」序曲がラファエルアンサンブル、「メタモルフォーゼン」と「浄夜」の方はヴァイオリン奏者のグリマルが率いるレディソナンスである。両者俱に近現代音楽を得意としているアンサンブルのようである。
レディソナンスは、演奏の際には指揮者が存在せず、演奏者の自由を重んじる、ということを特色としているが、この「浄夜」はオーケストラ版ではない弦楽六重奏版であるということと相俟って、カラヤンのそれらの名盤と対極にある、やはり名演奏と云えるだろう。

(ネモローサ)




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2008.09.15 (Mon)

アンド・セレニティ/グレン・グールド

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グールド晩年の、「ゴールドベルク変奏曲」

イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。




アンド・セレニティ~瞑想するグレン・グールドアンド・セレニティ~瞑想するグレン・グールド
(2003/12/17)
グールド(グレン)

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このCDはグールドの死後二十年を経て編まれた、彼の演奏の選集である。バッハは意外と少ない(マルチェロのオーボエ協奏曲のバッハによる編曲の第二楽章とイギリス組曲からの一曲のみである)のだが、それでも彼の魅力を十分に伝えるものとなっている。
グールドと言えばまずバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」が思い浮ぶが、そのデビューアルバムに続く第三作目のベートーヴェン後期ソナタ集での演奏に関し、確か吉田秀和氏は「息をつめたような速さ」といったような表現をしていたように思う。確かに、グールドが時に途轍もなく速く弾く時、それは肉体的な爽快さというようなものとは無縁のものである。聴き手は演奏者の「息をつめ」ている精神の集中に共感するのだ。グールドの魅力は肉体的な爽快感といったものの対極にある。
このCDの題名は、次のようなグールドの発言から取られている、


芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、驚きと穏やかな心の状態(wonder and serenity)を、生涯かけて築いていくことにある。

実際このCDの全曲が「穏やかな心の状態」に相応しくゆっくりとした曲であり、しかも、「どうしようもなくロマンティック(incorrigibly romantic)だ」と自称したグールドの好んだロマン派の曲(ブラームス、グリーク、シベリウス、リヒャルト・シュトラウス、スクリャービン)が多く採られている。
グールドの本質を捉えたこのCDの選者は誰なのだろうか。

(ネモローサ)





     

     若きグールドの、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」





 引き続きクラシック万歳!!

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