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2019.01.03 (Thu)

ムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」――ロシア「専制君主」の孤独と苦悩

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 引き続きクラシック万歳!!


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ムソルグスキー作曲  オペラ映画「ボリス・ゴドゥノフ」(1989年)。
「奇才」と称されるポーランドのアンジェイ・ズラウスキーが映画監督を務めている。
対象の周りを旋回するカメラワークや、舞台である16世紀のロシアに、第二次大戦後の冷戦当時のソ連兵を紛れ込ませ、ロシアの「専制政治」ぶりを強調する等、独特の演出を各所に施している。(残念ながらこの監督のDVDは日本未発売)。




今年で生誕180年を迎えるロシアの作曲家のムソルグスキー。「はげ山の一夜」や「展覧会の絵」といった曲は誰もが親しめ、オーケストラの定番曲としてしばしば演奏されている。ただ今回取り上げてみたいのは、「ボリス・ゴドゥノフ」というムソルグスキーのオペラである。



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モデスト・ムソルグスキー(1839‐1881)。
「ロシア五人組」(バラキレフ、キュイ、ボロディン、リムスキー=コルサコフ)の一人として知られる。



同曲の原作は19世紀のロシアの詩人プーシキンが書いた戯曲だが、そのストーリーは次のようなものだ―--

16世紀のロシアのツァーリ(皇帝)ボリスは、先帝の皇太子の暗殺という隠された過去があり、生涯の消すことが出来ない汚点となっていた。夜な夜な、殺された幼少の皇太子が亡霊となって枕元に立っている…ボリスはやがて白昼でも亡霊に憑りつかれ、他にも皇太子の幻影を見たという僧侶の話を聞かされると、ついに発狂し死んでしまう。


この筋書きからシェークスピアの戯曲『マクベス』を連想する人もいるかもしれない。確かに原作者のプーシキンは、シェークスピアを愛読したというから、恐らく影響は受けているのだろう。しかし『ボリス・ゴドゥノフ』には、マクベスに先王の殺害をそそのかす魔女や悪妻も登場しない。つまりボリスは自らの意志で皇太子を殺害したにもかかわらず、自分で勝手に亡霊に悩まされ、死という最期を迎えたのである。
だが、本来皇太子を殺し帝位をのっとるだけの野心に満ちた男が、急にその亡霊におびえだし、発狂するというのは少々考えにくい話である。本当にボリスは皇太子の殺害だけに悩んでいたと考えるべきであろうか。プーシキンの原作やムソルグスキーのオペラを見直すと、必ずしもそうではない気がする。
では、彼が本当に苦悩していた問題とは何だったのだろうか。ボリスが見た‘ 亡霊 ’の正体は何であったか。
それを知るには当時のロシア社会を理解しなくてはならないだろう。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



「ボリス・ゴドゥノフ」から第三幕の舞曲「ポロネーゼ」(R. コルサコフ編曲)
指揮 バーンスタイン  演奏 ニューヨーク・フィル



ここでまず確認しておきたいのは、日本と異なり、ロシアではツァーリ(皇帝)は単に臣下によって担ぎ上げられるような「お神輿」、つまり単なる象徴的存在ではないということである。文字通りの最高権力者、ツァーリなしでは政治も十分に行われなかった、のである。確かに全国会議(ゼムスキー・サボール)と呼ばれる議会のようなものも16世紀にはあるにはあったが、あくまでツァーリの諮問(相談)機関という性格が強く、西欧のように、貴族や都市・農村の代表が「君主」との間で交渉を行う「身分制議会」とも異なるものだった。
また当時のロシアの国土の半分程は皇帝直轄地であり、そこから上がる収益も基本的にツァーリ個人の「財産」と考えられていた。一方で臣下の中で自前の土地を持てたのは、貴族(ボヤーレ)等限られた者であった。つまりツァーリ(皇帝)は最高権力者であると同時に、国内で最大の地主でもあったのだ。

こうしたツァーリ(皇帝)中心のロシア社会を、米のロシア史研究者リチャード・パイプスは「家産制」という概念で説明している。
例えば、17世紀のフランスにおいて「朕は国家なり」と述べたルイ14世などの国家観に見られるように、家産制の国家では、国家や国土も、君主が自らの私的「財産」として所有し、ほぼ無制限の権力が与えられていた。ツァーリと一部の貴族にしか土地の所有権がなかったロシアは、このモデルの極端な例といえる。

これに対し西欧では、土地を私有する臣下が、君主と主従「契約」を結ぶ封建制が中世から発達し、君主の権力は次第に制限されていった(その中で君主の権力が強く、その意味で最も家産制的であったフランスでも臣民の私的所有権まで否定されることはなかった)。
では西欧諸国が家産制から封建制へ、さらに近代的な法治国家へ発展していったのに対し、同時期のロシアでは家産制が20世紀に至るまで維持され、むしろ‘ ツァーリ(皇帝)の専制 ’が進んだのは何故なのか。

パイプスはその理由について、まずロシアの地理的条件を指摘する。元々ロシアは国土の大部分の土地が痩せており(現在のロシア北部)、通商ルートからも外れた貧しい国であった。故に、12世紀になるとロシアはいくつかの公国に分かれ、土地を求めて互いに争いあう状態であった。そこで人々は、より豊かな土地を求めて南下し、現在のロシア南部に移住するようになった。
しかしそこで障害になったのが、当時その地域を支配していたモンゴル帝国である。
当時モンゴル帝国は、皇帝を中心とする専制政治を敷いており、その武力によって13~15世紀にかけて、ロシア人を支配下においた(これを「タタールのくびき」というが、それについては以前の「ボロディン「中央アジアの草原にて」と「だったん人の踊り」―― ロシア人とタタール人の物語参照)。

この強国に対抗するには、ロシア人もまた自国を統一し、強力な「専制国家」を築かなくてはならなかったのである。




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イヴァン3世(1440‐1505)   イヴァン4世(1533‐1547)


最初にロシアで専制政治を推し進めたのが、リューリク朝のイヴァン3世とその孫のイヴァン4世である。
まずイヴァン3世は分裂状態のロシアを統一するとともに、モンゴル軍を破り200年に及ぶ「タタールのくびき」からロシア人を解放した。そしてそれまでのモスクワ大公に代わり「ツァーリ」(皇帝)の称号を初めて用いたのである。
次の、イヴァン4世は、その気性の激しさから「雷帝」と呼ばれ、人々から恐れられたツァーリである。
彼はカザン・ハン国などの近隣諸国を征服し国土の拡大に努めた。一方で内政は、貴族の反対を押し切り、皇帝の直轄地や官僚制度を創設するなど中央集権化を進めていった。特に彼の治世の後期は、反対派を容赦なく処刑し、「恐怖政治」を敷いたことで知られている。しかし後継者と目していた息子の次男イヴァンを、些細な理由で怒りの余り 撲殺(!)してからは気落ちし、哀れな晩年を送ったという。

さてイヴァン4世亡き後、ツァーリ(皇帝)の位を継いだのは三男のフォードルであったが、まだ20代であったため、5人の摂政が置かれた。その一人がこの物語の主人公あるボリスであり、彼は自分の妹を皇帝フォードルに嫁がせることで実権を握った。
1591年には次期後継者と目されていた皇太子ドミトリーが謎の急死を遂げ、1598年に皇帝フォードルが亡くなると、後継ぎが断絶したため、ツァーリ(皇帝)に即位したのは義理の兄であるボリスであった。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場公演(1990年)。
「ボリス・ゴドゥノフ」の戴冠式の場面。貴族や民衆に歓迎される中で、ボリス一人が将来に対する不安を口にし、神に国民の安寧を祈っている。演出は「惑星ソラリス」などで有名な映画監督のタルコフスキーで、ボリスの孤独な立場を見事に表現している。



史実によれば、ボリスの治世はそれまでのロシアの支配者のものとはかなり異なっていた。ロシア文化史研究者のジェームズ E. ビリントンは、その特徴をロシアの「西欧化」であると指摘している。
ボリスは同国の伝統的な風習である長いあご髭を剃るよう奨励し、30人の臣下を西欧留学に派遣した。また少数派のルター派を公認し(ロシアではロシア正教が中心である)外国人を政府の要職に就けるなど外に開かれた外交・内政政策を展開する。後のピョートル大帝の西欧化政策を先取りしたような彼の改革は、英国やデンマークなど君主の権力が制限された西欧諸国のように、ロシアを「平和的に進化させる」機会であったかもしれないとビリントンはいう。


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ボリス・ゴドゥノフ(1551‐1605)。実際の史実ではドミトリーは事故死という説も現在では有力である。

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ボリスとその息子フォードル



さて、貴族の中にも当然、ボリスの政策に反対する者や、ツァーリ(皇帝)の位からの追い落としをひそかに狙う者もいた。
プーシキンの原作ではその代表として描かれるのがシュイスキー公である。
当時、死んだ筈の先帝の皇太子のドミトリーが実は生きていて、地方のどこかに隠れているという噂話が国内に広まっていた。そして隣国のポーランドに、「偽ドミトリー」――ドミトリー本人であると僭称した者が現れ(他人の身分を勝手に名乗ること。作中ではグレゴリーという一介の修道僧 )、ボリスの廃位を訴え、首都のモスクワに攻め入る。これに乗じて、偽ドミトリーをひそかに支援したシュイスキー公は、ボリスが亡霊を恐れて精神錯乱状態であることを他の貴族に知らしめたり、死んだ皇太子の幻を見たという僧を呼び出してその様を語らせるなど、次第にボリスを窮地に追い込んで行くのである。


しかしボリスを悩まし真に追い込んでいったのは他でもない、一般の‘ 民衆の存在’である。彼らは、ロシア語で「ナロード」(民衆)と呼ばれ、当時そのほとんどが農民だった。自前の土地を持たない彼らは領主から農地を割り当てられる代わりに、重税や強制労働を課されていた。しかも領主の「財産」とみなされていたために、しばしば売買の対象にもなる等、奴隷に近い状況(農奴)に置かれていたのである。

そうした彼らに「裕福と栄光」を約束し、仁政によって彼らの「愛」を得ようとしたのがボリスであった。皇太子の暗殺という汚点を抱えていた彼にとって、民衆からの支持は、自らの統治を正当化するためにも必要不可欠だったからである。
これに対し民衆も、始めは彼の統治に期待し、即位の際は歓呼の声を上げて祝福した。
しかしその後ロシアで大規模な飢饉が発生すると、今度はツァーリに対して「パンを!」と懇願する。民の父としてボリスも急ぎ食糧支援を行ったが、到底足りず、民衆の間では次第に不満が高まっていく。やがて困窮の原因として、‘ 憎悪 ’の対象にまでなる中、ボリスは自らの努力が民衆に伝わらないことを次のように嘆く。

「神はわれらが国土に飢饉を下したまい、人民は苦悶のうちに死につつ、呻吟しはじめた。余は人民のために穀倉を開き、黄金をばら撒き、仕事を探してやった——それなのに彼らは怒り狂って、余を呪った!」(プーシキン『ボリス・ゴドゥノフ』)

こうして支持基盤である民衆の信頼を失ったことで、ボリスは一人宮中で孤立した。心労のあまり皇太子の霊を見て精神を病んだとしても、不思議ではないだろう。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ボリスの独唱「私は最高権力を手に入れた」。内容は、権力を手に入れ、6年の間ロシアを無事治めてきたが、自分の心に幸福はなく、大貴族の裏切り、外国の陰謀、飢饉や疫病等次々と起こる不幸は、皇太子を暗殺した自分に対する天罰ではないかと恐れる、というものである。彼の孤独と苦悩が凝縮されている場面だ。オペラでは珍しいバスが主役になっているのも特徴的である。
エフゲニー・ネストレンコ(ボリス)、ボリショイ歌劇場公演(1987年)。



これに対し、反乱の黒幕のシュイスキーは、民衆とは「思慮なく、移ろいやすく、治め難く、信じやすい」ものと始めから見なしていた。だからこそ現状に不満を持つ民衆の‘ 移ろいやすさ ’を逆手にとり、彼らを上手く‘ 扇動 ’すればツァーリ(皇帝)の廃位も可能になる、と心得ていたのだ。


結果として、民衆が従ったのはシュイスキーに操られた偽ドミトリー皇の反乱軍側だった。
ムソルグスキーはその様子をオペラの最終幕「革命の場」で印象的に描いている。発狂の末に亡くなったボリスの宮殿に民衆はなだれ込み、略奪の限りを尽くす。そしてポーランドの援軍を伴って現れた偽ドミトリー皇太子を新たなツァーリとして迎えるのである。



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「革命の場」の一部。映像は1954年のソ連によって製作されたオペラ映画である。ラストでは偽ドミトリー皇が、民衆にボリスを倒すべくモスクワに進軍するよう呼びかけている。この映画では民衆はそれに疑りぶかい表情を見せるが、冒頭で紹介したズラウスキー版では喜んで付き従う等、監督によって解釈が分かれているのが興味深い。



ビリントンによれば、この最終幕は作曲家ムソルグスキーが生きた19世紀ロシアの時代に影響を受けているという。
当時のロシアではロマノフ家のツァーリ、アレクサンドル2世の下で農奴制の廃止など、ロシア積年の課題である「西欧化」に向けた改革が行われていた。
しかし当時の「ナロードニキ」と呼ばれる知識人の一派は、こうした上からの改革は民衆の不満を解決しないと主張し、農民の蜂起と帝政の打倒だけが問題を解決すると唱えた。
芸術を民衆との「対話」であると捉え、そのリアルな現状を音楽に描こうとしたムソルグスキーもこの運動からの影響を受けていた。そのためボリスの死で終わった原作には「革命の場」を付け加えることで、支配者を倒す力があるのは民衆であることを暗示したという。
だがその後に民衆を待ち受けていたものは何だったのか。
物語では、一人の白痴が、「ロシアよ、嘆け!」と言い、これからロシアに来る暗黒時代を予言して、幕を閉じる。


実際の史実では、ボリスの死後、貴族の間で跡目争いによる戦乱が続き、その中でのし上がったロマノフ家が、最終的にツァーリの位を手に入れた。そしてイヴァン雷帝時代と同様、やはり専制を強化していくことになるのである。また19世紀のロシアでも「ボリス・ゴドゥノフ」の初演の数年後、アレクサンドル2世がナロードニキの過激派によって暗殺されると、後継者のアレクサンドル3世はより強力な専制政治を敷き、敵対者を徹底的に弾圧した。
その後1917年のロシア革命で、共産主義者と共に立ち上がった民衆は、ツァーリ支配をついに打倒し、ソ連という新国家を建国する。しかしその後に続いたのは、またしても独裁者スターリンによる「専制」であった(これについては「ハチャトゥリアンの「剣の舞」――ソ連と祖国アルメニアのはざまに生きた作曲家」参照)。


では冷戦が終結しソ連が崩壊した後の、現在のロシアはどうであろうか。民主化に失敗し、未だに強力な指導者の支配が続いているように見える。

このように考えると、やはり専制政治は大国ロシアの宿命なのだろうか、それとも…

(門前小僧)


<参考文献>
『プーシキン全集3 民話詩・劇詩』北垣信行、栗原成郎訳(河出書房新社 1972年)
James Billington, Icon and Axe. An interpretive History of Russian Culture. (Vintage, 1970)
Richard Pipes, Russia under the old Regime. (Penguin Books, 1997)
栗生沢 猛生『ボリス・ゴドノフと偽のドミトリー——動乱時代のロシア』(山川出版社1997年)


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2017.08.02 (Wed)

旧ソ連の音楽(1)クレーメルとその仲間たち (2)イヴァシキンと1920年代の音楽

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 引き続きクラシック万歳!!



旧ソ連の音楽(1) クレーメルとその仲間たち


ギドン・クレーメルと言えば、私の世代の人間にとっては若手の演奏家というイメージがどうしてもあるのだが、その彼も今年の二月で七十歳の誕生日を迎えた。それでも、やはり、クレーメルには若さが似合う。それかあらぬか、今から十年前の2007年、つまり、彼が六十歳を迎えた年には、Sempre Primavera(英語で言えばAlways Springつまり、常に春)という演奏会を開いていて、YouTubeでそれを視聴することができる。


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58分頃から、Sempre Primaveraと題してベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『春』の編曲版を始めとして春の音楽を集めたメドレーを演奏する姿は若々しい。



クレーメルは、現在最高のヴァイオリニストの一人であり、昨年は、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞し、巨匠たちの仲間入りをしたとも言えそうである。しかし、巨匠然としたところがなく、永遠の青年といった趣があるところに彼の魅力がある。かつて「権力誇示の一部としての称号、勲章および賞状を伴う過剰な表彰狂詩曲」といった表現で彼はソ連体制下での褒章を評したのだが(『クレーメル青春譜 二つの世界のあいだで』アルファベータ)、世界文化賞受賞後のインタヴューで述べた次の言葉は、この辛口の批評と矛盾するところはない。

私は受賞すべくして受賞するアーティストの群には属していません。以前のソ連では、多くのセレブ・アーティストが名声に名声を重ねるべく何度も賞をもらったものです。私は受賞するたびに、これはサプライズではなく、私が正しいことしていることに対するモラル・サポートだと思っています。正しいことをする、これは五十年のキャリアを通して容易ではないことを知っています。それは往々にして、一般的な慣習や考え方に逆らうことになるからです。自分が自分自身であり続けるため、自分が信ずる価値を守るためには、戦う必要があるからです。(産経ウェブより)

ギドン・クレーメルは1947年2月27日、旧ソ連統治下にあったラトビアのリガに生まれ、モスクワ音楽院でオイストラフの下で学び、1970年23歳でチャイコフスキーコンクール優勝する。当時のソ連での特権であった国外での活動も徐々に許され、天才として世界中で認知され始め、1977年、ドイツ滞在中にソ連政府に「二年間の国外滞在」を申請し、ドイツの雑誌とのインタヴューでこの希望を明らかにする。これは当時にあっては、国家への反逆と看做され、ソ連国籍を剥奪されかねない行為である。だが、この申請は例外的に認められ、二年近くは、鉄のカーテンの内外で活動することができた。しかし、二年後、結局のところはソ連市民権を放棄させられる。彼が音楽家としてこの「故国」に戻るのは、冷戦終結後の1988年であった。
これらの出来事の詳細は、上で言及したクレーメルによる自伝、『クレーメル青春譜』(以下では『青春譜』)から知ることが出来るのだが、この書は(この時期での三度の結婚と三度の離婚を含む)彼に関する事実だけではなく、それら及び時代全体に関するクレーメル自身の考察を含んでいる。この書を読むことで、クレーメルという人物をいささかなりとも理解することができ、彼の魅力を知ることが出来る。
彼が敢行したソ連から西側への脱出という行為を考えてみよう。一見勇気ある行為だが、そこには厄介な事情も存在する。
「誤った」音楽活動が直ちに芸術家としての生命ではなく、端的に粛清や収容所送りといった生命の危機をも意味したスターリン時代とは異なり、ブレジネフ時代にあっては、不満を抱きつつも、反体制の活動にさえ加わらなければ、ソ連に留まって、命の危険を感じることなくある程度の生活が送ることが出来た。
しかし、そのブレジネフ時代のソ連から、自由を求めて多くの演奏家が西側へ逃れた。彼らの多くは社会主義体制に批判的な考えを持っていたが、‘ 体制批判の発言の自由 ’という政治的な自由を求めてと言うより、芸術上の自由、つまり、‘音楽家としての自由な活動 ’を求めて西側へ逃れた。
これは考えようによっては我儘で贅沢な話だとも言える。彼らは、世界的に見ても一流の演奏家で、西側へ行けば、演奏の機会も曲目も自由に選ぶことができ、なおかつ、西側ではソ連での生活を遥かに超える豊かな生活を送ることが可能である(当時クラシック音楽で社会的な名声と富が保証される時代であった)。他方、普通のソ連国民、そして、外国に知られてはいない音楽家たち(作曲家たちはたとえ才能があっても大抵はこちら属していた)には、そのような贅沢な選択肢は存在しない。

なぜクレーメルは社会主義体制を逃れて西側へ逃れたのか。それは彼の芸術上の野心あるいは金銭的な欲望を満たすためであったのか。
『青春譜』には、「ムジクス・ソヴィエティクス」(ソヴィエト的音楽家)という章がある。ここには、「理知の人」としてのクレーメルの真骨頂が見られるのだが、そこにその答えが見出される。

まず彼は、「体制のせいで、平均的なソ連国民の心の仕組みと生活態度に何か根本的に不道徳なことが根づいてしまったのである」と述べる。「ソヴィエト体制は――皇帝専制政権と同じように圧制機構であり・・・(悪しき)人間の特性を強化した。体制が加えた圧力によって、追従主義の傾向が促された。・・・(辛うじて残った)誠実さは、しばしば偽善、二重道徳、卑下、虚偽、自己保護および尊大さのあいだの、まさにさまざまな振る舞いの束に変形された。」ソ連体制は、人間があらゆる搾取から解放される理想的な状態に到るまでの階梯の一段である。しかし、この階段を上るように導くのは、真理を既に所有している一部の選良たち、つまり、共産党であり、党は、単に経済のみならず、政治、学問、芸術、思想あらゆる場面で“正しさ”の規準を示した。それは完璧に正しいものであり、それを批判し、そこから逸脱することは許されない、逸脱は死をも意味する――結局の所は、強大な権力を持つお上のいう事には従わざるを得ないという点では皇帝専制政治と何ら変わるところはない。そのような圧政下では、「毎日の生活は、密告や上司の好意を得ようとする努力・・・および力の誇示から成る巧妙な振る舞いの網を紡ぎだしていた。個人の弱点は、人間を強くするはずだった体制をほとんど侮辱する。」相手が皇帝であれ、共産党であれ、権力を持つものに対して媚び諂うのは、人間の性である。だが、単に阿諛追従が要求されただけではない。党は単に強大な力を有するだけではなく、‘ 正しさの規準 ’でもあったのである。体制は常に“正しい”のであり、それに従う者も“正しい”人間でなければならなかった。個人は自らの弱さを示してはならない。

秀でた芸術家は、スポーツで鍛えられ、丈夫で模範的でなければならなかった。そして、レパートリーもまた・・・古典的で保守的な基準とイデオロギー的に「健康な」基準との混合である。ソヴィエトの音楽はつねに進歩し、パイオニアであり、空想上のより良い未来における曖昧な何かのために戦っていた。演奏もまた、軍旗のように掲げられていた――ポスター風で説得力があり、一元的だった。

このような体制下では、芸術が存続することは極めて困難である。というのも、

すべてが党の価値に従属させられ、党の旗の下には大衆文化、分かりやすさ、「健全さ」およびあの不吉な「社会主義リアリズム」なる用語が謳われていた。問題のあるテーマや、未解決あるいは解決不可能なテーマと取り組んだ音楽や文学あるいは他の芸術形態は、いずれも不審とされた。

人間は不完全な存在であり、人間がその中で生きる世界も不完全である。それ故に生まれる様々な感情、悲しみ、苦しみ、喜び、憧れが形となったものが芸術である。「問題のあるテーマや、未解決あるいは解決不可能なテーマと取り組」む所にその存在理由があるのであり、明白な解答しか存在しないならば、芸術は単なる気晴らしの道具に成り下がる他ない。

このような体制下で音楽家として生きることは、人間性を何かしらの形で歪める。
「ムジクス・ソヴィエティクス」の中で、クレーメルが描く著名な音楽家の肖像、例えば、ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人であるだけで迫害の対象となったスターリン体制をも(恐らくはKGBの協力者となって)生き延びたヴァイオリニストのコーガンや、内なる反抗心を隠し続け、念願の西側への亡命を果たした直後心臓発作でこの世を去った指揮者のコンドラシンのそれらは痛々しい。


本の紹介 ➡ クレーメルの青春譜


それでは、西側世界、あるいはソ連邦崩壊後のロシアであればもう問題はないのか。残念ながらそうではない。共産主義という妖怪の代わりに、今度は‘ 商業主義 ’という魔物がそこには存在する。上に述べた社会主義体制が齎した悪は「自由主義体制」にも存在する。『青春譜』のエピローグにある言葉を引こう。

巨大な売り上げをもたらすスター・システムが、音楽界を推進する駆動力である。量が質に勝り、知名度が音楽的内容より重要になっている・・・芸術が我々の感情を開く道であり、その感情とは当然ながら純粋な喜びや明るい気持ちだけではないことが、ますます理解されなくなっている。思いを致す媒体としての音楽は、深みのない‘ 娯楽 ’という機能のために排除される・・・この宇宙からはすべての問題や不安が押しのけられる。

二つの体制を比較した、次のような言葉も、自らと同じく西側へ逃れたチェリストであるロストロポーヴィッチのことを語る「のるかそるかの大勝負」の章に見出される。

ソヴィエト・ロシアでは、・・・ツァ―リ(皇帝)であれスターリンであれ、‘ 父親としての理想像 ’が崇拝の対象で、不可侵の人物だった。これに対して西側では、一種の‘ 人気 ’を強要する傾向が支配している――できるだけ多くの人に気に入られ、誰にでも話しかけ、誰の声にも耳を傾けようと努力する人――これが社会の規範だった。その裏には・・・商売の原則も隠されている。この法則は、芸術の世界においても支配している。・・・ラジオやテレビはオペラや交響曲の断片で「クラシック・ヒット」や「心地よい音楽」、音楽の体験をメンタルヘルスのための消耗品に低下させ気に入るような形でつまみ食い文化を提供している。 

クレーメルの面目躍如たる所は、西側に移住した後も「自分が自分自身であり続けるため、自分が信ずる価値を守るために」戦い続けた、と言って言葉が強すぎるならば、自らの理想を追い求め続けた所にある。
オーストリアのロッケンハウスという場所に自分の友人たちを集め、‘ ソ連に留まり続けていた作曲家たち ’の作品も含めて、「三十年にわたり、室内音楽の頂点を目指し・・・新・旧、有名・無名をふくめて二千曲」を演奏し、営利とは可能な限り離れた形で音楽祭を主催し続けた(現在では運営を若き後輩に譲っている)。また、故国ラトビアを始めとするバルト三国出身の若き演奏家たちを集め、クレメラータ・バルティカというアンサンブルを結成し、後輩の育成に努めると共に、彼の「仲間」の作曲家の作品の演奏に携わっている。もっとも、下に紹介するヴィデオで語られているように、彼はそこで指導者ではなく、先輩ではあるが、「同僚」である。『青春譜』の言葉を藉りれば、そこは、皆で築き上げた「我が家」である。このヴィデオではこの「我が家」でくつろぎ、伸び伸びと活動するクレーメルとその若き仲間たちの姿を見ることが出来る。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



クレメラータ・バルティカとロッケンハウス音楽祭が主な主題となっている。本文では触れなかった、クレーメルが紹介し有名になったアルゼンチンの作曲家ピアソラの曲の演奏も出てくる。(9:50~)



クレーメルは、『青春譜』で「臆するところのなさ、感情の赴くままにできる能力」を持つアルゲリッチやバーンスタインを自分とは「まったく異質な音楽家」であると言い、自分には「自分が音楽を演奏することでのみ表現できる内的な悩みを、いわば感情的に許容し、自制し、思索する傾向が多分にある」と記している。ここから、「知的な」演奏家としての彼のイメージが生じるが、最初に紹介したインタビューでは、「私は自分を知的な演奏家と思ったことはありません。知的なことが勲章とも思いません」と述べる。『青春譜』を読んでもその通りであると思う。例えば、彼にとってヒーローであったロストロポーヴィッチに関して、反体制派の代表である小説家ソルジェニツィンを匿い、国外退去を余儀なくされる等々の彼の華々しい行動について、「社会的なポーズでもありうる」という疑念を表明する鋭い洞察を示しながら、この書物には他人の悪を糾弾する冷たさ、あるいは、暗さは全く感じられない。彼は鋭い理知を持ちながら、その限界も弁えており、その理知は彼の感情を支配することはない(再びロストロポーヴィッチを例に取れば、彼の傑出した様々な面は素直に認め、一時は不仲となった彼と再び和解出来た事を心から喜んでいる)。クレーメルに最も相応しい名称は、理想家であり、感情・情熱がその元にあり、理知はそれを支える補助に過ぎないのではないか。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



マルティノフの作曲  Come In! for 2 Violins and Orchestra (1988)
クレーメルとクレメラータ・バルティカ

マルティノフはクレーメルの最初の妻タチアナの再婚相手、作曲家であり神学者でもある。


ソ連滞住中から、彼は努めてソ連での新しい非体制派の作曲家たちの作品を紹介し、インタヴューでは「ソ連を離れたとき、ソ連に残した友人たちに仕えたいと思いました」と述べている。彼がそこで名を挙げた旧ソ連出身の作曲家には、ペルト、シュニトケ、グヴァイドゥ-リナがおり、多少なりともその曲も聴いたことがあるが(私事だが、ペルトは若い頃よく聴いていた)、カンチェリ、シリヴェストロフ、ラスカートフ、デシャニコフ、ヴスティンとなるともう駄目である。しかし、是非とも彼らの音楽を聴いてみたい。というのも、『青春譜』のエピローグは次のような言葉で終わる・・・

私にはひとつのことがますます意識される――それは人格の役割であり、厳格な規則に屈せず、自らの使命に責任を負い、各自の生きる道を求め、理想を持ち、その理想を惑わずに追求する、人間の偉大な意義である。‘ 自分自身の内なる声 ’・・・を探し、小さな声であれ、大きな声であれ、美しい声でも、それほど美しくなくても、見つけられたなら、人は勝利したのである・・・ソヴィエト国家が強要した巨大なコーラスにおいて、ともに歌うのをひたすら拒否した、あの個人的な声が、今でも、最も美しかったように思える・・・「道はない、だが我々は歩まなければならない。」そしてこの道に対しては、結局は体制ではなく、ひとりひとりが自分で責任を負うのである。

真の意味での音楽芸術は、このような意味での個人の間で成り立つ営みである。そのような音楽、「ソヴィエト国家が強要した巨大なコーラスにおいて、ともに歌うのをひたすら拒否した、あの個人的な声」とはどんなものであったのか・・・。
次回以降、これらの作曲家の音楽の試聴記を綴ろうと思っているのだが(その前に、彼らの紹介者でもあるチェリスト、イヴァシキンのことに触れようと思う)、何か一つ旧ソ連時代の音楽を紹介したい。共産主義は歪んだユートピア思想であるが、超越的なものを一切認めない唯物論である。その反動として、超越的なものを求める宗教心がその体制下で高まるのは当然である。クレーメル自身には信仰はないが、クレーメルとクレメラータ・バルティカが演奏したマルティノフの曲を聴く時、美しい曲なのだが、この強烈とも言える美しさは一体どこから来るのだろう、と思わず考えさせられる曲である。

(ネモローサ)



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 引き続きクラシック万歳!!



旧ソ連の音楽(2) イヴァシキンと1920年代の音楽



「旧ソ連時代」の音楽全般を紹介する邦語の書籍というものがなかなか見当たらない中で、ロシア文学者の亀山郁夫氏の『チャイコフスキーがなぜか好き』(PHP新書)は、グリンカから現代音楽の作曲家に到るまでのロシア音楽を論じていて真に有益な、また、楽しく通読出来る本である。ドストエフスキーの作品の翻訳で有名になった亀山氏であるが、ロシア革命前後のロシア・アヴァンギャルド芸術(前衛芸術)の研究の第一人者であり、しかも、自身がチェロを奏する氏は、本編全体に亘って、深い学識に基づきながらも個々の作品への愛着を情熱を籠めて語り、読者をして飽きさせる事がない。
氏は、ロシア音楽の特質として「熱狂」と「ノスタルジー」、そして往々にして現れる「アイロニー」の三つを挙げる。ロシア正教、そして、キリスト教以前の異教という精神的な風土の中から「全体の幸福という『黄金時代の記憶』」が生まれ、この「黄金時代」を求めて「熱狂」と「ノスタルジー(感傷)」の両極端の間を揺れ動き、また、それらによって無意識に流されようとする際に「風刺の毒」、アイロニーを以って時にそれを押しとどめる、このような図式の中で、二百年に亘るロシア音楽史を氏は語る。

ソ連体制下の現代音楽もその流れの中の一齣である。
 

  亀山郁夫著 『チャイコフスキーがなぜか好き』(PHP新書) 



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



旧ソ連の一部であったアルメニア出身の作曲家、アーヴェト・テルテリャーン(1929-1994)による『交響曲第6番』(1981)。
彼は、前回のブログで名前を挙げたカンチェリの友人であり、アルメニアを代表する作曲家である。彼を顕彰するホームページがあり(http://www.terterian.org/en/)、多くの作品をダウンロードして聴くことが出来る。



現代音楽は難解であると言われる。実際今紹介したテルテリャーンの交響曲も何回か聴いているが、耳に馴染むというには程遠いものである。もっとも多くの現代音楽とはそのような慣れを拒否するものであるから当然と言えば当然であるが、しかし、鐘のような音に続いて、不穏な持続する不協和音の背後からお経のような人声や陰鬱なメロディーが交じり、途中で少し盛り上がるが、それも中途で終わり、結局は鐘の音の中で静かに終わっていく…という様なこの曲をどう理解すればよいのか。この曲のことは、チェロ奏者アレクサンドル・イヴァシキンの文章(Alexander Ivashkin: "The paradox of Russian Non-Liberty "The Musical Quarterly 1992)で知ったのだが、彼は、「ゴーゴリやドストエフスキーからマンデリシュタームやアフマートヴァに到るどんな時代のものであってもロシア芸術を『氷山』と呼ぶことが出来るかもしれない」と記し、この曲を含めてロシア・ソヴィエトの音楽を氷山に喩えている。確かに耳に聞こえるこの音楽の底に、耳には聞こえない巨大な何かが潜んでいると思えば、無意味な音の響きではないと思うこともできよう。
上の文章でイヴァシキンの言う「氷山」の意味ついては、後で紹介するとして、それから離れても、旧ソ連の音楽を理解するに際して、この氷山の喩えはなかなか役に立つ。現代音楽とは言っても、そこにはそれまで培われてきたその場所特有の文化の痕跡が残っているのであって、その音楽文化の伝統という目に見えない水面下の部分があってこそ、水面より上にあり目に見える、つまり耳に聞こえる音楽の部分のあり方も決まるのではないか。
社会主義体制下での「反体制派(dissident)」としての現代音楽作曲家を、何世紀にもわたるロシアの文化と歴史という文脈の中で理解するという姿勢は、イヴァシキンにも通じる。
1985年に時の共産党書記長ゴルバチョフによりペレストロイカが始まり、1989年にはベルリンの壁が崩壊、1991年、ソ連邦解体、社会主義体制は終焉しが、まだペレストロイカの熱気が冷めやらぬ1990年に、イヴァシキンは、先ほど触れた文章を掲載した音楽雑誌に「スターリンの恐怖と社会主義リアリズムのキッチュ(古臭く通俗的なけばけばしさ)」の時代の終わりを寿ぐ一文を寄せている。("Letter from Moscow Post October Soviet Art: Canon and Symbol" The Musical Quarterly 1990) その文章の中で彼は、今目前で生み出されている芸術は、社会主義リアリズム以前の1920年代、1930年代初期の前衛芸術の 直接の継承者であると語る。

‹注›マンデリシュターム(1891 - 1938年)は、 ロシアのユダヤ系詩人。高踏的な象徴主義の詩から離れ、より親しみやすい「アクメイズム」をアフマトーヴァらと共に始め、多くの人にその詩が愛された。スターリンの政権下で収容所に送られそこで死亡した。死後もその詩は、アフマートヴァの詩と共に人々に愛され続け、ソ連邦体制下で苦しむ人の希望の灯である続けた。
‹注›アフマートヴァ。(1889年 - 1966年)、ロシアの詩人。マンデリシュタームとともに20世紀前半から中葉のロシアを代表する詩人。アフマートヴァの作品は初期の叙情的な短詩から後期のスターリン政権下で圧制に喘ぐすべての人を代弁した普遍的な作品まで幅広く、特に後者にはスターリンによる大粛清の犠牲者に奉げたため、長らく封印された連作長詩『レクイエム』などがある。
‹注›アレクサンドル・イヴァシキン   クレーメルと同じくソ連出身で、体制に付和雷同することを潔しとしない音楽家であるイヴァシキンは、ロストロポーヴィチとグートマンと並び称されるソ連のチェロ奏者であると同時に、文学・思想にも造詣が深く、ソ連崩壊後は国外に去り、最後はロンドン大学でロシア・ソ連音楽の研究、紹介にも尽力した。多数のCDを録音しているが、シュニトケやロストロポーヴィチの伝記をも著し、ロシア・ソ連音楽に関する論文も多数物する才人である。クレーメルの一歳年下であるが、2014年にその生涯を終えた。


  アレクサンドル・イヴァシキン著 『シュニトケとの対話』



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ニコライ・ロースラヴェツ(1881~1944)のチェロソナタ第1番(1921)、第2番(1921~1922)、チェロはイヴァシキン。
ロースラヴェツは、スクリャービンの影響の下、「音組織の新しい体系」を提唱し、ロシア革命後の芸術上の革命を追求するロシア・アヴァンギャルド(前衛芸術)の代表的な芸術家となるが、他の前衛芸術家と同様に、人民には理解不能な作品を創作する「形式主義者」との烙印を押され、作曲家としての活動を不可能にされ、不遇のうちに生涯を終えた。



さて、ここで簡単に二十世紀のロシア・ソヴィエト音楽の流れに触れておこう。
グリンカ、ムソルグスキー、ボロディン、また、チャイコフスキーを輩出した十九世紀に続く、二十世紀においてもロシア音楽の泉は涸れることはなかった。
文学の上では二十世紀初頭は「銀の時代」と呼ばれ、象徴主義とアヴァンギャルドの詩人たちが活躍したが、(ちなみに「金の時代」と言われるのは、プーシキン、トルストイ、ドストエフスキーらの十九世紀)、音楽でも、革命前にはスクリャービンがおり、ロシア革命(1917年)の混乱の中で、ストヴィンスキーやラフマニノフは亡命者となったが、故国に残った多くの音楽家が、芸術上の革命を果たそうと様々な試みを為した。
しかし、スターリンが政権を取ると、「社会主義リアリズム」が提唱され、芸術家の受難の時代が始まった。多くの芸術家が、「反革命」の断罪を受け、自己批判を迫られ、収容所に送られ、また、場合によると、拷問の末に処刑されもした。音楽家も例外ではなかった。革命初期の様々な新たな芸術上の試みは中断され、キッチュと形容されるべき作品が持て囃される中で、ショスタコーヴィチやプロコフィエフらは、様々な工夫を重ねながら真正な芸術作品を作り続けた。1953年のスターリンの死によって恐怖と屈辱の時代がひとまずは終焉し、フルシチョフ政権の下で「雪融け」の時代を迎え 西欧の同時代の現代音楽が紹介された。公認の音楽は依然として「社会主義リアリズム」に沿うものであり続けたが、多くの若者がこの現代音楽に引き寄せられ、ブレジネフ政権下、60年代、70年代を通じて「反体制派(dissident)」の音楽家として生きることとなった。この大勢はペレストロイカが始まるまで変わらなかった。

イヴァシキンによると、「 ‘雪融け’に始まった新たなソヴィエト音楽は、1980年代になってようやく革命初期の1920年代に達した高みに再びたどり着いた 」とのことである。それでは、20年代の高みとは何であったのか。
革命期の前衛芸術家たちは確かにプロレタリア芸術を唱えたが、それは、政治社会の革命に追随するのではなく、むしろそれに先行し、「知性が辿るべき、遠い未来に到る道を切り拓くべきものであった。」(画家フィローノフの言葉)慣れ親しみ手垢のついた現実は、偽りの現実であり、‘根源にある真の現実 ’に到る道を示すのが芸術である。
ウラジーミル・ヴェルナツキー(1863-1945)という科学者思想家によれば、地球の進化は、「ジオスフィア(無生物の物体)」から「生物圏」へと進み、更に「ノウアスフィア(精神圏)」に到るという。生物の出現が地球上の酸素の増加を齎し、その環境を不可逆的に変えたのと同じように、人間の精神的な活動が今後地球のあり方を決定的に変え、「ノウアスフィア(精神圏)」を創出する。このような考えは当時の有力な思想家、例えば、フロレンスキイも共有する所であり、彼は芸術家に大きな影響を与える存在であった。フロレンスキイは、また、未来に目を向けると同時に過去へ、民族の根源への探求が為されるべきだとした。実際、当時の人類学・心理学・言語学は、人間の心理・神話・言語の深層に、精神的な世界を見出せるとしたからである。芸術とは、このような精神圏(ノウアスフィア)を指し示す象徴である。
精神、物質、神話、科学が一体となった新たな世界像を創造するという営みを芸術が担うのに相応しい人物が、実際当時の音楽家にはいた。ロシア革命の僅か二年前に亡くなったスクリャービンである。彼の交響曲五番『プロメテウスー火の詩』(1910)は、生者と死者、精神と物質が一体となった世界を夢見る彼の神秘主義的な思想を表現するものであり、音に対応する光も同時に演奏されるのである。

〈注〉フロレンスキイ(1882年 - 1937年)は、ロシア正教会の司祭、神学者、宗教学者、哲学者、歴史家、文献学者、詩人、数学者、技術者、発明家、音楽家、言語学者。モスクワ神学大学の教授を務めた。学者・芸術家としての彼に向けられる多くの称が示すように、神学・哲学のほか、理系分野、芸術領域においても才能を発揮したことから、ロシアのレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれる事もある。



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スクリャービン作曲 『交響曲第5番プロメテウス』
現代のテクノロジーを使って彼の「色光ピアノ」を実現したもの。
(演奏は、9;45~)



スクリャービンは言う、「次のことが理解されねばならない、宇宙は我々の想像力、我々の創造的な思考、我々の意志という質料から成り立っているのであって、それ故に、我々がわが手の中にある石と呼んでいる意識の状態と、我々が夢と呼んでいる意識の状態は、その材料に関する限り、違いはないのだ。石も夢も同じ質料から出来ているのであり、その二つは、同様に現実的なものなのだ。」物質と精神を一体化するこの言葉を引用し、現代芸術の創造原理だとするのは、ボリス・アサフィエフ(1884-1949)である。彼は作曲家であり、音楽学者、批評家であり、革命前後の音楽界に大きな影響を与えた人物であった。若き日のショスタコーヴィチも『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を彼に捧げた(但し後に不幸なすれ違いでそれを取り下げることとなる)。

イヴァシキンによると、『プロメテウス』の初演の際にチェレスタ (小型のアップライト・ピアノのような形態の楽器。)を演奏していたのが、作曲家シチェルバチョフである。彼がロシア象徴派の詩人ブロークの詩を基に作曲した『交響曲第2番』について、「即興、開かれた形式、均衡の欠如、慣習的な平衡との訣別、これらすべてにより機械的な法則によっては支配されない生物のような交響曲となっている」とイヴァシキンは言う。調性を保ってはいるが、既存の明確な形式に従わず、合唱とソプラノとテノールの独唱とオーケストラが、ブロークの詩の世界を描き出すこの交響曲を、イヴァシキンは「自然の一要素としての音楽」とも評する。

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残念ながらシチェルバチョフの『交響曲第2番』はYouTubeにはないようである(2008年にBotstein指揮アメリカン交響楽団によるライブ演奏の録音がデジタル化されiTuneその他で聴くことが出来る)。代わりにやはりブロークの詩に基づくピアノ曲を見つけた。再び残念ながら録音状態が良くないが、それでも魅力的な曲である。


シチェルバチョフはレニングラード音楽院の教授となり、ポポーフらを育て、前述のロースラヴェツやアサフィエフ、また、若き日のショスタコーヴィチらと共に20年代のソ連での新しい音楽世界を創出した。イヴァシキンの言葉を引くと、「1920年代は、無制約の実験の時期であり、音は、不自然な文脈が洗い落とされ、根源的な音楽の要素の世界に深く、より深く分け入った…1920年代は、精神圏への探求の第一歩が踏み出された時であった。」



今回僅かではあるが、色々と調べてみて印象深かったのは、この「銀の時代」の精神文化の豊かさである。ロシア革命の故に多くの著名な、ベルジャーエフのような知識人や、ストラヴィンスキーやカンディンスキーのような芸術家が亡命したが、そういう人間を生み出した、革命前に確かに存在していた土壌が、革命後の‘ ソ連に留まった ’知識人、芸術家をも生んだのであるから、この豊かさは考えてみれば当然のものである。イヴァシキンは、若き日のショスタコーヴィチを含めた当時の音楽家や聴衆の音楽に関する考えに影響を与えたとして、前述のフロレンスキイやアサフィエフと共にドストエフスキー研究で有名なバフチンの名前も挙げている(Ivashkin: ”Symbols, Metaphors and Irrationalities in Twentieth-Century Music” in Mimesi Verita e Fiction 2007)。アサフィエフの文章には明示的ではないが明らかにバフチンの影響があるとのことであるし(David Haas: “Boris Asaf’yev and Soviet Symphonic Theory” in Musical Quarterly 1992)、ショスタコーヴィチのペトログラード音楽院での学友であったピアニストのマリヤ・ユーディナはバフチンの教え子であり、バフチン・サークルの一員であったそうである。イヴァシキンの言葉は決して牽強付会ではない。



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この時代の文化の豊かの証拠として、やはり録音の状態はあまり良くないのだが、ルリエー(1892-1966)が、古代ギリシアの女性抒情詩人サッフォーの詩に作曲した歌曲(Grečeskie Pesni 1914)を聴いてみたい。この詩をロシア語に訳した、ヴャチェスラフ・イワーノフの名は亀山氏の先の本にも見ることが出来るが、彼は象徴派の詩人であると共にギリシア古典から始まるヨーロッパ文学・思想に該博な知識を有し、その知識を基にロシア民族の使命を論じた思想家でもあった。革命により亡命し、ローマがその終焉の地となった。



作曲者のルリエーは、クレーメルがその再評価に努めた作曲家の一人でもあるが、ロースラヴェツと同じく革命後もソ連に留まり、革命政府の一員となった。しかし、その前衛的な姿勢が批判され、亡命の途を選び、イヴァシキンによると、パリに亡命していた音楽家たち(ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、後者は後にソ連へ戻ることになる)と共に「ユーラシア主義運動」に参加し、「西欧のモダニズムとは異なる、ロシア音楽の、新しく正しいアイデンティティを確立する」ことを目指した。

キリスト教以前の異教文化が残り、西のカトリックに比べ、神秘的、儀式的な要素をより多く持つ東方正教を奉じると共に、タタールの軛と呼ばれるモンゴル人の支配を長く受け、帝国の発展に伴い東のアジアに向けて膨張し、域内に多くの非ヨーロッパ民族を抱えるロシアは、西欧とは異なる存在であらざるを得ない。この状況を肯定的に捉え、そこにロシアの本質を見ようとするのが、このユーラシア主義である。
この「ユーラシア主義」は日本とも無縁ではない。そこに参加していたアレクサンドル・チェレプニン(1899-1977)は、革命によりパリに亡命した後、日本及び中国を訪れ、その滞在中に伊福部昭や早坂文雄を始めとする、多くの音楽家の指導に当たった。伊福部に大きな影響を与え、また、彼の主催した「チェレプニン賞」で優勝したことが伊福部が作曲家としての経歴を歩むことを決定的なものにしたという話は有名である。


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チェレプニン作曲 チェロ・ソナタ第1番(1924)。
チェロ演奏 イヴァシキン。
因みにアレクサンドルの息子イヴァン・チェレプニンも作曲家であり、、最近テレビでよく見かけるモーリー・ロバートソン氏のハーヴァード大学での師であった。ニコニコ動画での「モーリーチャンネル」でこのイヴァンのことを面白おかしく語るモーリー氏の動画が今は見られないのが極めて残念である(モーリー氏のような人だけを「タレント(才人)」と呼ぶべきだろう)。



さて冒頭の話に戻らなくてはいけない。新たな音楽言語を通して、西欧だけではなく、東のアジアにも亘る人類全体の記憶の根源にあり、物質と精神の二元論を超える精神世界を表現しようとする芸術上の大胆な試みは、スターリンの下で、平板な音楽を求める「社会主義リアリズム」により中断を余儀なくされた。しかし、先に記したように、スターリンの死後の「雪融け」により当時の同時代の様々な前衛的な音楽技法が紹介された。若き音楽家たちは、それらの摂取、消化に努めたが、単なる模倣に甘んじることはなかった。根源的な世界(ノウアスフィア(精神圏))の象徴としての音楽を創作するという20年代の課題、あるいはロシア音楽全般の課題を、それらの新たな技法を活かしながら果たすこととなった。ロシア音楽をイヴァシキンは氷山に喩えたが、その意味するところは、ロシア音楽は、耳に聞こえる音に尽きるものではなく、自らを超えた何かを表す一種の暗号であり、その音楽を理解するためには、聖書解釈と同様の解釈行為が必要とされる。60年代70年代は、このような音楽を創造するための準備期間であり、80年代にこの努力が花開き、身を結ぶことになった。
最初のテルテリャーンの交響曲に戻ろう。イヴァシキンによると、テルテリャーンは、アルメニアこそが人類の文明を育んだ揺籃であり、アルメニア語はインド・ヨーロッパ語の原型である信じているとの事である。(ノアの箱舟の行き着いた先は、アルメニア人にとっての聖山アララト山であり、確かに印欧祖語はこの地域から西はヨーロッパ、南はペルシア、東はインドに人間の移動と共に広がったと考えられる)テルテリャーンは、この交響曲にアルメニア正教での祈りの言葉や自然界の音を取り込むと同時に、楽譜にはアルメニア語のアルファベットが記されており、この音楽は、「ヨーロッパ文化を葬る葬送」と名付けてもよいとイヴァシキンは言う。

イヴァシキンは、まだペレストロイカが希望を人々に与えていた1990年の文章(Letters from Moscow)を、20年代の音楽を受け継ぐ80年代の音楽のさらなる発展を願いながら希望に満ちた調子で終えている。しかし、その2年後の文章(The paradox of Russian Non-Liberty)では早くも自由化による社会全体の混乱の中で、改革への幻滅が語られる。だが、この状況においてこそ、ロシア音楽の本質が見えてくる。このことに関してはまた回を改めて紹介したい。

(ネモローサ)
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2013.12.31 (Tue)

R・シュトラウス「ばらの騎士」とホフマンスタール――ある芸術家の夢見た世界

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R・シュトラウス作曲「ばらの騎士組曲」。指揮は20世紀前半の大指揮者ピエール・モントゥ―。



今年は作曲家リヒャルト・シュトラウス( 以下、R・シュトラウスと記す )の生誕150周年にあたる。R・シュトラウスと言えば、映画『 2001年宇宙の旅 』の輝かしい冒頭でお馴染の、交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を多くの人は思い浮かべるのではないだろうか。他のハリウッド映画音楽にも多大な影響を与えたと言われているが、彼の溢れる天才ぶりではなく、今回は 楽劇「ばらの騎士」のもう一人の立役者――彼と共に共同作業を行った台本作者フ―ゴー・フォン・ホフマンスタールを中心に取り上げたい。彼の人生や思想を理解することにより、楽劇「ばらの騎士」の魅力や時代、そしてモーツァルトの時代にわざわざ回帰させたこのオペラを書いた謎が少しでも分かるのではないか、と思ったからである。(作曲家R・シュトラウスと「ばらの騎士」については岡田暁生著『ばらの騎士の夢』(春秋社、1997年)を参照 )

さて、この「ばらの騎士」は筋書きだけを見ると、ただのゴシップのように思われてしまう作品である。登場人物は不倫中にある男女を初め、助平親父の男爵、体面ばかり気にする商人上がり、とろくでもない人物ばかりだ。しかし同時にこの作品には、人間なら恐らくいつかは誰でも経験するであろう場面も織り込まれている。
例えば衰えゆく自分の若さと美貌を失うことに苦しみ、愛人を失うことを怖れる元帥夫人の第一幕の場面。一方ではじけるような若さの騎士オクタヴィアンと若く美しい娘ゾフィーが運命的に出会い恋する第二幕の場面などである。そしてその途中で登場する田舎貴族のオックス男爵もまた、何とも言えない人間臭さを出している。第三幕のクライマックスでは、三角関係にある元帥夫人と若い二人との美しい三重唱の後に、毅然と元帥夫人は身を引くのだが、その姿は凛々しさとともに人生のはかなさも感じさせ、この作品を‘ 昼ドラ ’ではない正しく‘ 芸術作品 ’として感動させる。このように一見 大衆的な娯楽と思われながらも、芸術的要素も充分に堪能できるこの作品の魅力はどこから来るのだろうか。




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ではまず、作品の成立した時代背景を知る為に、上の写真を見てみよう。
音楽や芸術の都として名高いウィーンの街を歩くと(別にウィーンに限らないのだが)時々ギリシャ神殿に見まがうような立派な建物にでくわすことがある。上の画像もその一つで、これはオーストリアの国会議事堂である。見ての通り正面玄関はギリシャ神殿そっくりだが、類似点はそれだけではない。入口の前にはギリシャのパルテノン神殿に祀られている女神アテネの像まであるのだ。ではなぜこのようなものがわざわざオーストリアの国会議事堂になくてはならないだろうか。
ここで日本の国会議事堂と比較してみよう。日本のこの建物の中にも3つの像があるが、それらはいずれも伊藤博文、大隈重信、板垣退助と日本の民主主義の発展に尽力した偉人のものである。一方オーストリアは?というと実は彼らに相当する人物がいないのである。
以前にも書いた(”まやかし”としてのラデツキー行進曲)、1848年にオーストリア(当時は帝国)では絶対君主制に抵抗し、民主主義を求めて民衆が立ちあがったものの、この革命は皇帝軍によって鎮圧されてしまう。このウィーンの国会議事堂は、1861年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が自国の近代化の必要性からしぶしぶ開設した議会のために建てられたものである。しかしあくまで「上からの」改革で出来上がった議会に、まつるべき民主運動家もいないため仕方なく、古代の民主制の象徴 アテネの女神像が代わりに置かれたわけである。つまりいくら議事堂のファサード(正面)を輝かしいギリシャ建築や美術で飾ってみたところで、革命にも失敗しているオーストリアには真の民主主義的伝統は実はなかったのである。
これは議事堂に限らない。ウィーンの市庁舎は中世の自治的伝統をほうふつとさせるゴシック様式で、大学は学問が華やいだルネサンス期の様式によってそれぞれ19世紀後半に建てられたが、肝心の中身は…というとどれも心もとなかったのである。
お役所に限らず同時代の市民もまた外面を飾り立てることに躍起となった。彼らは19世紀後半、ウィーンの市街地に貴族のような館を続々と建て、金がない分、 内部を区切ることで、大勢が住める様に設計し、それぞれの家の内部は狭くても外観はまるで宮殿のような建物に住んだ。いわば現代の高級マンションのはしりといったところか。室内もありとあらゆる装飾で埋め尽くし、古今東西の名画を飾った。つまり当時のウィーンには「まがいもの」とはいわないまでも、昔風の建築や装飾が氾濫していた。




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19世紀のウィーン市街(当時は市街地の大改造が行われていた)



この様な風潮は、その他のオーストリアの芸術や文化にもよく表れた。同時代の哲学者F・ニーチェが「 教養俗物 」とののしる程、この当時の市民は様々な「 古典 」を中身もよく分からずとにかく「 崇めたてまつった 」。民衆が求めた古典的な‘ 芸術 ’は、真の価値を問うことがほとんどないままであった。
こうした芸術もどき(?)をオーストリアの作家で文芸評論家のH・ブロッホは「 非様式(つまり時代特有の芸術様式がないこと)」と呼び、19世紀を様々な芸術的価値が称揚されながら、一方で決定的な芸術的な価値が不在であるという意味で芸術における「 価値真空 」の時代であると指摘した。つまり、オーストリアの民衆は、革命が失敗に終わった後、まだ新しい物や価値を作り出そうとする気概を持っていなかったのだ。
「ばらの騎士」はそうした時代の中で生まれたものだった。



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R・シュトラウス(1864~1849)



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フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874~1929)



先ほど芸術における「 価値真空 」について書いたが、すべての芸術家がこれに甘んじていたわけではない。いや、むしろ有名な「 世紀末ウィーン 」と呼ばれる芸術運動はこうした時代の雰囲気に抗い、新たな価値を創造するために生まれたのである。例えば、画家のクリムト。彼は若いころは天才画家と称され、人々が喜びそうな古典的で端正な絵を描いていたが、ある時期になると突然女のエロティックな裸体画を描きまくり、そのために正統画壇から追放された。しかしこれも彼なりの「 価値真空 」に対する抵抗といえよう。今では世紀末ウィーンを代表する画家として有名である。彼の他にもこの「 価値真空 」を埋めるべく、様々な芸術家が登場したのである。
そして今回の主人公ホフマンスタールもそうした抵抗する芸術家の一人であったとH・ブロッホは言う。以下彼の記述に従いながら、台本作家ホフマンスタールの思想をおおまかにつかんでみることにしよう。



ホフマンスタールは裕福なユダヤ人の家系に生まれ、小さい頃から成績はいつも学校内でトップという‘ 天才児 ’であり、しかも美貌でもあった。また彼は名前に「von」が付くように貴族の血筋を継いでおり、ブロッホの記述によると「 先生や同級生達よりは、教室の壁から見おろしている金ぴかの飾りをいっぱい身につけた肖像画の皇帝の方と、余計密接な現実関係をもっていた 」少年だったという。このように書くと、読者は嫌味なナルシストだとホフマンスタールを捉えてしまうかもしれない。しかし彼は決してそのような単純な人間ではない。ブロッホによると彼は常に「 孤独な 」人間であった。そして自分のナルシシズムを打ち消すために「 死 」をいつも念頭に置いていた。
彼は作家として芸術家稼業を始めるが、その初期の作品『 痴人と死と 』は 「死にたい」とつぶやく自分のことしか頭にない放埓な若者に死神が訪れ、若者によって人生を狂わされた人々の幻影を死神が見せながら、その若者が死に絶える、というものである。一見奇妙な筋書きであるが、これも若きホフマンスタールが自分のナルシシズムの戒めとしてつづった作品と考えられる。同時に彼はまた若い頃に流行していた、芸術的な美のみをひたすら追求する「耽美主義」に対しても徐々に距離をとるようになっていく。そして耽美主義の代表的な表現方法の一つである抒情詩も書くのを止めた。彼がそのような転換を図った理由は彼の代表作である『チャンドス卿の手紙』から分かるようだ。
『チャンドス卿の手紙』は短編だが、内容的には難しい問題を含んでいる。端的にいえば、ホフマンスタールはその書で「抽象的な言語表現は果たして物事の本質を表しているのか」という問題を投げかけ、言語ですべてが表現しきれないことを示したのである。そうであるならば、今までのように単に言葉だけの文学作品で十分ではない。彼はこうして言葉を補完する新たな表現素材、例えば音楽との融合を考えるようになった。これが彼がオペラに接近した理由の一つとなった。


耽美主義者にはもう一つ問題があった。それは自らの美を追求するあまり、社会から乖離した存在になってしまうことである。ホフマンスタールはまさにそれを危惧したのだとブロッホは主張する。つまりホフマンスタールの目指したものとは、そうした社会から乖離した芸術をもう一度社会の中に位置づけなおし、活性化しなおすというものであったのだ。芸術家は、社会や民衆に根を下ろした者でなくてはならない。そのためには素人に分からない抽象的表現ではなく、あくまで、‘ 目に見える具体的なもの ’に固執すること、無定形ではなく、ある種の ‘ 秩序( 調和と言い換えてもよいかもしれない )’を志向することが重要である――それがホフマンスタールの考える芸術の理想像であった。ただここで注意してほしいのはここでいう「社会」の意味である。これはあくまでホフマンスタールの構想する「理想社会」であり、現実そのままの社会ではなかった。ではその理想社会とは一体、どのようなものなのか。それはハプスブルク皇室を中心とした政体で、オーストリア・ハンガリー帝国内に住む様々な民族と各階級が平和裏に共存するという、ユートピア的で幻想に近いものだった。しかしそれは完全に現実離れしていたわけではない。現にその社会はホフマンスタールが生きていた19世紀後半には、オーストリア・ハンガリー帝国として不完全ながらも実在していた。彼の「夢」は同時に「現実」でもあったのだ。
では、「社会に根付いた芸術」という彼と似た主張を掲げ、民衆を満足させる後の時代の社会主義的リアリズム芸術家とホフマンスタールとはどのような点で異なるのか。ここで忘れてはならないのはホフマンスタールは貴族的精神の持ち主であったという点だ(彼がもとは貴族の家系であったことを思い出そう)。彼はブロッホが書いているように、民衆を「 お伽話の集団人物 」と考えていた。つまり彼にとって「民衆」は現実の実体ではなく、あくまで自分の理想とする社会の一員として「教養」を与えなければならない対象に過ぎなかった、というのだ。そのため彼は自分の芸術作品が、実際の民衆に「理解」されるかどうかはどうでもよかったのである。ホフマンスタ―ルが目指したのは、自らが階級に属さない自由な芸術家でかつ、様々な階級から疎外されるユダヤ人であることを踏まえ、代わりに、芸術活動を通し民衆全体の「精神」の中に故郷を持ち、民衆全体の「指導者」になることであった、とブロッホは強調している。


今からみると、ホフマンスタールの理想社会や「 社会の中の芸術 」というものは、細部では検討を要すべきものである。しかし私がこうしたホフマンスタールの思想をとりあげる理由は、その是非うんぬんではなく、それが今回の「 ばらの騎士 」誕生の秘密を、少なくとも一部は解き明かしてくれると考えているからである。
例えば、意味の難解な抽象的作品によってではなく、社会と共に在る芸術を、という彼の考えは、この作品の分かりやすい筋書きにも現れている。また時代設定を18世紀にしたのは、一般的にはモーツァルトの時代の音楽様式に戻りたかったからという説明がされるが、これまでの議論を踏まえると別の理由も推測できる。すなわち、ホフマンスタールにはまだ、血なまぐさい革命や階級闘争が存在せず、貴族・市民・民衆が平和裏に共存していた(もちろん実際は表向きに過ぎなかったのではあるが)自分の理想に近い18世紀の社会を描くことで、この作品を見る人々に、そのありし日を思い起こさせる、という目的があったのではないだろうか…。


ホフマンスタールの夢見る18世紀の貴族社会はもはや作品が初演された1911年には既に形骸化していた。そしてその貴族社会の代わりに勃興し、この「ばらの騎士」を喝采をもって迎えた19世紀の市民社会や多民族が共存する帝国もまた、第一次世界大戦後には崩壊し、文字通り‘ 夢幻 ’に終わったのである。
だが私たちは「 ばらの騎士 」という芸術作品を見ることで、少なくとも過去の残照を垣間見、人生や人間のはかなさを知り、ホフマンスタールの夢に思いをはせることができるのである。




 

1960年にザルツブルクで収録された「ばらの騎士」のオペラ映画。元帥夫人はエリザベト・シュヴァルツコップ、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。



カラヤン/R.シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」全3幕 [DVD]カラヤン/R.シュトラウス:楽劇「ばらの騎士」全3幕 [DVD]
(2009/12/09)
ヘルベルト・フォン・カラヤン、エリーザベト・シュヴァルツコップ 他

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元帥夫人にエリザベト・シュヴァルツコップ、指揮者に若きヘルベルト・フォン・カラヤンを起用した「ばらの騎士」のオペラ映画の金字塔。






世紀末ウィーン―政治と文化世紀末ウィーン―政治と文化
(1983/09/09)
カール・E.ショースキー

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世紀末ウィーンの政治と文化を論じた代表的な書物。






ホフマンスタールとその時代―二十世紀文学の運命 (1971年) (筑摩叢書)ホフマンスタールとその時代―二十世紀文学の運命 (1971年) (筑摩叢書)
(1971)
ヘルマン・ブロッホ

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ホフマンスタールの人生・作品・思想を論じた浩瀚な評論。著者自身も有名な作家である。




写真はwikipediaから転載

( 門前ノ小僧 )




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 引き続きクラシック万歳!!
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2013.01.16 (Wed)

頑張れディヴァン、頑張れバレンボイム!

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イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ディヴァンオーケストラによるベートーヴェン全集(Beethoven for all)の紹介ヴィデオより



Nine Symphonies [DVD] [Import]Nine Symphonies [DVD] [Import]
(2013/08/06)
Beethoven、Barenboim 他

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レコード芸術10 月号の海外盤Reviewに、ダニエル・バレンボイム指揮、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ演奏のDVDのベートーヴェン交響曲全集(ドキュメンタリー付)――CDによる全集(Beethoven for all)録音の翌年に2012年のロンドン夏の音楽祭プロムスで演奏されたものを収録している――の批評が載っている。好意的な批評で、このオーケストラのファンである私としては嬉しいが、また、ここで紹介されている海外盤を既に購入しているのだが、ここに載ったということは、日本盤としては発売されないだろうと思うと少々残念な気がする。ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラの魅力は、CDよりもDVDのほうがより伝わるかもしれないからだ。しかも、演奏の方(2012年のロンドン夏の音楽祭プロムスでのもの)はYouTube でも視聴できるが、付属のドキュメンタリーの方はそうは行かない。そのさわりだけが見ることができる。









イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ベートーヴェン交響曲第7番。
バレンボイム指揮、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ

ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラとは、ユダヤ系イスラエル人であるバレンボイムが、1999年にパレスティナ人の学者エドワード・サイードと共に創設したオーケストラである。二人は、ゲーテが嘗て活躍したドイツ、ワイマールの地で、夏のサマースクールを開き、室内楽を含むマスターコースのワークショップに、紛争の絶えないイスラエルとアラブの両国から若い音楽家を招き、共にクラシック音楽を演奏する事を通して互いの理解を促すことを企画した。これに、アラブ側からだけでも二百人の応募があった。その反響に応えて、オーケストラのワークショップも行うことにしたのがその始まりである。(ウェスト=イースタン・ディヴァンとは、ゲーテの詩集『西東詩集』のことである) 単に音楽を一緒に演奏するだけではなく、学者サイードが中心となり、若者が互いに‘ 討論 ’を行うワークショップもそこでは行われた。このワークショップはその後も続き、拠点をスペインのセヴィリアに移し、今に至っている。毎年七月の終りから約五週間、セヴィリアに始まり主にヨーロッパ各地での演奏会に出かけるのである。




イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



バレンボイムとウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラの初めてのドキュメンタリー Knowledge is the beginning の冒頭。途中、チェリストのヨーヨーマも登場。続きもYouTubeにあります。


なぜ、イスラエルとアラブなのか。紛争の絶えないこれらの諸国に音楽を通して平和を齎そうというのだろうか。
バレンボイムもしばしば注意を促しているが、彼らの目的は中近東に平和を齎す事ではない。幾ら、ベートーヴェンの第九に感動したから、つまり、ベートーヴェンが言うところの‘ 人類は皆兄弟 ’だからとて、彼らが直ちに、武器を捨て去る事はあり得ない。この中東の若者達は、そんな甘い幻想を求めて、十数年に亘り、このワークショップに毎年訪れているのではない。彼らはその解決の難しさを痛い程理解しているのである。そもそも、後に述べるように、イスラエル、パレスチナの双方の国から彼らに対する批判は存在し、ディヴァン・オーケストラに参加するには、批判を撥ね退ける勇気、何かを犠牲にする覚悟が必要とされるのだ。甘い幻想だけでこんなに長続きするはずがない。
それではこの両国間の、政治的な解決が目的でないとすると、一体このオーケストラが目指しているところは何なのであろうか。
バレンボイムとサイードは、自らの活動を「無知」に対する戦いだと述べる。多くのイスラエル人にとってアラブ人は、そして、アラブ人にとってイスラエル人は、個人的な感情も思想もない、自分たちの生存を脅かす敵でしかない。彼らを隔てる壁の向こう側には、自分達とは価値観や立場を異にするが、悲しみも苦しみも感じ、考え、行動する同じ‘人間’がいる事を知らないのである。「知ることが始まりである」(Knowledge is the beginning)とは、彼らの初めてのドキュメンタリーの題名であるが、彼らが目指すのは、「知ること」、つまり相互理解である。。

相互理解を齎すところに‘ 音楽 ’の意義があると彼らは考える。クラシック音楽から学ぶことが出来るものの一つに、力(power)と強さ(strength)との区別があるとバレンボイムは言う。強さと言っても勿論、音量の大きさをいうのではなく、主声部だけではなく他の声部が聞き取れる透明さがあって初めて、全体としての強い響きを得る事が出来る。音楽での対位法と同様に、社会に於いても、一つの主張で塗りつぶすのではなく、複数の主張が存在し響き合う事で、真の秩序は保たれる事が可能となる――自らの主張を保ちつつ同時に他の主張を理解すること、つまり「相手を重んじつつ語り、つらいことでも耳を傾ける(talk sensitively, listen painfully) 」こと――それが相互理解には必要な事であり、互いの信頼に通じる事を、この若者達は音楽を通して身をもって学んでいるのである。
互いの違いを認めながらの‘ 相互理解 ’など、きれいごとのように思われるかもしれないが、そういうごまかしの相互理解はここでは通用しない。
このオーケストラの一員である著者Elena Cheah ( 以下エレーナ女史 )がそれを紹介した書物、『国境を超えるオーケストラ(An Orchestra beyond Borders)』には、二十人ほどの団員がそれぞれに自分の経験を著者エレーナ氏に語るという体裁を取っているが、読み進めて行く途中で、それぞれが自分の考えや意見を持ち、これではこのオーケストラは分裂してしまうのでないかと思う程の意見や思想の食い違う場面もしばしばであった。こういう事を全く誤魔化さず隠さず描き出されるところに、このオーケストラ及びバレンボイムの強み、魅力がある。このような意見や思想の違いが存在するにも関わらず、次第に人間同士としての絆を持ちそれを深めて行くのである。


An Orchestra Beyond Borders: Voices of the West-Eastern Divan OrchestraAn Orchestra Beyond Borders: Voices of the West-Eastern Divan Orchestra
(2009/10/05)
Elena Cheah

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現在はピアニストとしても指揮者としても活躍するダニエル・バレンボイム――7歳でピアニストとしてデビューし、11歳の時マルケヴィッチに指揮法を教えられ20歳で指揮者デビューした早熟の指揮者――は、偽善を嫌う。彼は、紛争が終わることのない中近東についてこんな警句を記している。
  
「我々中近東人は、歴史の知識を濫用して、自分が被害者であると見せつけ、自己憐憫に陶酔することにかけては 皆大芸術家である。」(An Orchestra Beyond Borders での序文)

バレンボイムは、アルゼンチンに生まれたが、ユダヤ人であるために、両親と共に祖国イスラエルに移住し、その国籍を得、欧米での活躍と共に中東イスラエルでも長らく演奏をしてきた。しかし、パレスチナとの紛争に関し、自国イスラエルの入植政策を批判し、パレスチナの西岸地区やガザ地区で演奏し、前者ではその音楽教育に携わり、パレスチナのパスポートも持つ。正に、グローバルな「中近東人(Middle Easterner)」である。
さて、イスラエルと云えば、ヨーロッパから逃れてきたユダヤ人たちが第二次大戦直後樹立した国であるが、その基には、第二次大戦中どの国も自分たちを助けることはなかったという、ホロコーストの「被害者」としての「歴史」がある。その為、自分たちの安全・生存は自分たちで守る他ない。この「歴史」は、幾ら批判を他国から浴びようとも、自分たちの安全・生存のために彼らが取るあらゆる手段を正当化する。
一方ユダヤ人が移住してきたパレスチナの地は、無人の地ではなかった。そこには長い歴史を有して生活してきた人々が既に居た。彼らを放逐することでイスラエルという国家は成立した。こちらはこちらで、自分たちパレスチナ人こそ、このイスラエル建国により放逐された「被害者」であるから、失われた正義を回復するためには、ユダヤ人を全員パレスチナの地から放逐しなければいけないと主張し続ける。
こうした主張を双方が続ける限り、共存、和平はあり得ない。バレンボイムは続けて次のように語る。

「我々の好奇心と知識に、よりよい未来を創造しその条件を創造させるほうが、はるかに生産的だろう。」

自己正当化のために過去にこだわり続ける愚かさは、果たして中近東に限られるかどうか…、極東にも存在するのではないかと言いたくもなるが、それはともかく、このような耳の痛い真実を捉えた発言は、イスラエルとパレスチナの双方に当然賛意と共に反感も引き起こす。イスラエルでは裏切り者とも呼ばれ、他方パレスチナ側からもイスラエルの生存権を認めるのは敵だと名指される。しかし、バレンボイムは「私の活動の前提は、(イスラエルとアラブとの)双方から同じだけの激しさで批判される場合の私の言動は正しいものだということだ」と述べて(BBC Reith Lectures 2006)、ひるむことはない。イスラエルの名誉あるウルフ賞を受賞すると、その授賞式で、諸民族の平等を謳うイスラエルの独立宣言を引用してイスラエルの大臣を怒らせ、他方、彼が応援しているパレスチナの音楽院の子供たちが上演するオペラに、一部のパレスチナ人の反対があった時も、上演の妨げになってはいけないと公には参加のキャンセルを表明したが、お忍びで結局は聴きに行くといった具合で決して負けることはない。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終曲「愛の死」



このような活動をバレンボイムは、何のために行っているのだろうか。バレンボイムがインタヴューを受ける際にしばしば持ち出すのが、音楽の‘ 二つの効用 ’である。仕事から家に帰り、ウィスキーをグラスに注ぎ、足を楽にし、CDをかけて(出来ればバレンボイム演奏のショパンを、と言ってにやりとするのが彼の十八番である)一日の嫌なことを忘れる、つまり、現実からの逃避が一つ、逆に、現実を学ぶというのがもう一つである。クラシック音楽の衰退が嘆かれるこの頃であるが、バレンボイムはその原因を、クラシック音楽が前者の目的にのみ演奏されたり聴かれるようになったこと、現実逃避的効用だけを目指すようになり、クラシック音楽が単なる装飾品になってしまったことにあると言う。つまり、クラシック音楽が最早人生に関わる感動を与えられなくなったことがその衰退を齎したと言うのである。ディヴァン・オーケストラとの演奏で彼が目指しているのは、‘ 人生に関わる音楽 ’,真の感動を弾き手にも聴き手にも与える音楽である。そのためには、徹底した音楽的な訓練と共に、現代に生きる人間としての成熟も図る場が必要である、それが、ディヴァンのワークショップが目指す所である。専門家を養成するための、技術に偏した音楽教育に対しては、自分はテロリストだと彼は態と物騒な比喩を持ち出すと確かガーディアン紙で紹介されていたが、このような専門家嫌いなところも、彼の友人サイードが繰り返し強調していた所に通じる。
これは、政治をアクセサリーにするような厭らしい趣味とは正反対のものである。冒頭に紹介したDVDの続きには、幾人もの団員が登場するが、その中の一人がディヴァンへの「現実からの逃避」を語っても、それは、戦いの国から音楽への逃避であり、ワークショップの夏が終わり、戦いの国へと帰らなければいけないと語る彼女の言葉には、心に深く残るものがある。豊かで平和な国とは異なり、彼らには、「現実からの逃避」と「現実を教えるもの」との対比はないとも言える。政治とは別の、人間としての個人同士の交わりの中で成立するものとして‘ 芸術 ’が彼らには確固としたものとして存在しているのだ。
そう考えると、音楽に対する彼らの純粋な献身の姿勢は、戦争という彼らの生きる過酷な現実と無関係ではない。中東の情勢は一向に改善の兆しが見られないのに比例して、彼らの純粋さが輝くと言うのは人間性というものが持つ皮肉である。先ほど紹介した本の著者 エレーナ女史によれば、プロのオーケストラの団員にとって、音楽は生活の糧であり、音楽への献身といったものをいまや見出すことは出来ないが、このディヴァンオーケストラにはそれがある…夏のディヴァンのワークショップが終わり普段の生活に戻るとどうしても空白感を持ってしまう「ディヴァン病」に罹ってしまったと彼女は言う。――彼女は両国とは関係のない米国のチェリスト、4歳でチェロを学び初め、7歳でデビューコンサートを開いたという神童であったが、様々なオーケストラのチェロのトップに短期の契約で就くという自由な生活を選択し、ちょうどベルリン・シュターツカペレにいた時、その音楽監督であるバレンボイムに誘われ、このディヴァンオーケストラの指導に協力すると同時に演奏にも参加したのだが、筆も立ち、クラシック音楽の専門家という枠に嵌らない女性である)
冒頭にDVDは彼らの魅力を伝えると書いたが、付属のドキュメンタリーで聞く彼らの言葉と共に、ベートーヴェンを演奏する彼らの姿には、エレーナ女史の言う彼らの純粋さが見て取れる。しかも、女史の本を読んだ後では、画面の中のこの人はこんな事を語っていたな、あの人はあんな経験を経た人だ、などと団員一人一人の個性がよく分かるのも楽しい。
ディヴァンのファンには、現在最高のイゾルデ歌手と言われる、メゾソプラノのヴァルトラウト・マイアーがいる。エレーナ女史の本によれば、彼女もやはりディヴァンの純粋さに惚れ込んでいるらしい。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の終曲「愛の死」のリハーサル中に、それを聴いていた彼女が舞台に進み、歌をそれに添えたというエピソードが紹介されているが、この時ほど感動的なワーグナーを演奏したことも聞いたこともないとエレーナ女史は言う。幸い、同じメンバーでのこの曲の演奏をYouTubeで視聴する事が出来る


不可能と思えることに次々と挑戦し続ける彼らの活動は、我々に希望を与える、少なくとも、絶望するのを先送りにさせ続ける。現在のところ彼らの活動も、政治情勢だけを見れば梨の礫(なしのつぶて)といえるかも知れない。それなのに希望を持ち続けられるのは、‘ 音楽の力 ’のゆえだという物語がそこにある。できるだけ長くディヴァンの活動が続いて欲しいと願う所以である。頑張れディヴァン!頑張れバレンボイム!




(ネモローサ)



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2012.08.09 (Thu)

古本屋で見つけたクレンペラー

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リヒャルト・シュトラウス作曲 メタモルフォーゼン
リヒャルト・シュトラウス最晩年の曲。敗戦後廃墟のようになったドイツで、このような曲が書かれたということは様々なことを思わせる。更にそれを演奏するクレンペラーが何を考えていたのかということも...

ゲオルク・ジンメルがベルリンを離れシュトラスブルク大学に教授として赴任した際に若き友人としてその無聊を慰め、マックス・シェーラーとも親しく交わり結婚の証人にもなってもらい、更には、エルンスト・ブロッホとは、ジンメルに頼まれその最初の著書『ユートピアの精神』の草稿を読み高く評価したことがその出版を促し、後には終生の友人となった――こんなマニアックな話からはじめた訳は、三人とも当時のドイツの哲学者なのだが、そんな彼らと親しく親交を深めていたのが、今でも多くのファンを持つ大指揮者オットー・クレンペラーだと知って少なからず驚いたからである。
クレンペラーと言えば、マーラーの弟子であるということ以外には、オーケストラに対してひたすら厳しい、前時代の指揮者(その奇行にまつわる逸話は豊富)というイメージしか持ち合わせておらず、実はあまり関心がなかったのだが、偶々近所の古本屋で見かけて購入した、稀代の読書家 生松敬三の『二十世紀思想渉猟』(岩波現代文庫)で、先のジンメルら哲学者と指揮者クレンペラーの交流が書かれているのを読み、クレンペラーについて知りたくなった。
しかし、そこで紹介されていた、この話の元となっている『 クレンペラーとの対話 』をアマゾンで調べてみると、古本で7000円以上しており読むのを諦めかけたが、原著の方はドイツ語ではなく英語なので( 編著者のヘイワ―スはイギリスの音楽ジャーナリストであるため)、Book Finder で調べると古本がなんと送料込みで1000円台で購入できることが分かり、早速注文して取り寄せた。(Conversations with Klemperer, edited by Peter Heyworth) クレンペラーという人は無駄な言葉は一切口にしない人間であるので、インタヴューで紡ぎだされた彼の断片的な言葉を、編者のヘイワ―スがつなぎ合わせ、意味が通じる英語対談に仕立て上げたのが本書である。という事から、平易ではあるが、一語一語を寡黙なクレンペラーを思い浮かべながら読むと味わいのある、興味深い内容に満ちており、一読、巻を擱く能わず( 面白くて止められない )という言葉がぴったり当てはまる本である。






Conversations with KlempererConversations with Klemperer
(1985/05/13)
Otto Klemperer

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クレンペラーは、晩年イギリスの老舗オーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団の常任指揮者としてベートーヴェンの作品を始めとして古典的な作曲家の録音を多数残しており、巨匠の時代の指揮者というイメージを抱いていたのだが、本書「クレンペラーとの対話」ではそれ以前の時期が中心となっており、壮年期までのクレンペラーを知るにつれ、その印象は大きく変わった。
クレンペラーは、商売人だがその才覚のない芸術家気質のユダヤ人の父と同じくユダヤ人のピアニストの母の下に生まれ、音楽の才能を早くから現わした。頭も良く、数学を除けば学校での成績も良かったが(本人の言葉によればユダヤ人であるために試験の点数がいくら良くても一番とはされなかったとのことである)、音楽の道に進むためにアビトゥーア(大学受験資格)を取ることなく音楽院に進んだ。読書がとにかく好きで(晩年ヘイワ―スがインタヴューした際にもその合間に、気がつくと読書に没頭するクレンペラーがいたという)、しかも、正式な学歴がないことの引け目を持つことが、逆に冒頭に紹介した三人の哲学者との交流に彼を導いたとヘイワ―スは言う。ヘイワ―スも注意しているように、三人とも学者というよりも、文筆家として有名な人物であったのである。
クレンペラーはマーラーを尊敬しているが、その尊敬の念は、彼がマーラ―の推薦状を得ることにより指揮者の経歴を始めることが出来たということによるものではない。音楽家というよりももっと広い意味での芸術家としてのありかたに感銘を受けたからであろう。
本書の白眉は、両大戦間期にクロル劇場の音楽監督を務めたベルリンでの活動を語ったところにある。彼は当時の前衛音楽であるシェーンベルク、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、ヤナーチェク等次々と紹介する一方で、古典的なベートーヴェンのフィデリオを始めとするオペラの演出に於いて、新機軸を打ち出した。また、ワーグナーの新演出(戦後のヴィーラント様式の先駆けと言われる)も手がけるが、ナチの反感を買い、反ユダヤ主義の標的となった。
マーラーもまたユダヤ人であり、同様に、万事が保守的なウィーンでオペラの改革を行い結局のところウィーンを去らざるを得なかったのに、類似している。
ヘイワ―スは、本書の序文で「 クレンペラーのベートーヴェンは、もしも彼がシェーンベルクの下で学び、かれの音楽を演奏しなかったならば、同じものになっていただろうか、」(クレンペラーはアメリカに亡命中にシェーンベルクに作曲を学んでいた。シェーンベルクにUCLAでの教授職を紹介し、ブラームスのピアノ四重奏曲のオーケストラ版への編曲を促し、その他様々な面で気難しい彼を助けたのはクレンペラーであった。) 「クロルオペラは、 もしも彼がストラヴィンスキーの反ロマン主義的な美学を受け入れていなければ、あのような伝統との決然とした断絶をその特徴としていただろうか」と記している。クレンペラーはむしろ新し物好きと言える程であり、対談当時の前衛であったブーレーズやシュトックハウゼンの音楽にも耳を傾けており、全面的ではないにせよ肯定的な評価を与えている。新しいものに対し閉ざされた態度を取ることは決してしなかったのである。
しかし、ヨーロッパ音楽の伝統の下で演奏しているとの意識も強かった。クレンペラーは言う、「若い世代の指揮者の問題は、進むべき道筋を忘れているということだ。(ベルクの)ヴォツェックから始めてハイドンの交響曲で終わることは出来ない。ハイドンから始め、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトに進まなければいけない、それからは、更に新しく、もっと複雑な音楽に進んでもよい・・・問題は、彼らに成熟の感覚がないということなのだ、彼らはいきなり頂上に行こうとしている。」 亡命中のアメリカでの生活が苦々しいものでしかなかったのも、その根本はクレンペラーがヨーロッパの伝統を背負い過ぎたためである。
さて、本書は、カナダのテレビ局のドキュメンタリー制作のためにヘイワ―スが行ったインタヴューが元になっているが、そのドキュメンタリーが一時YouTubeで視聴出来た。(Otto Klemperer's Long Journey through His Times)クレンペラーはその番組では半分以上ドイツ語で語っているが、その部分は英語で字幕があるので、むしろ我々にとっては分かりやすいかもしれない。ともかく、必見のドキュメンタリーであるのだが、最近はYoutubeで見ることが出来ない。DVDか何かの形で、再販売してほしいのだが、ここでは、別のBBCでのインタヴューを観てみたい。 




クレンペラーは素行も悪く政治音痴で音楽馬鹿だったのかもしれないが、それゆえの明察があったように思われる。戦後彼はアメリカからヨーロッパに戻ったが、まず、ハンガリーのブダペストでの指揮者を務めた。しかし、直ぐに共産主義下での活動に耐えられず、ハンガリーを離れてしまう。共産党政府下ではよい音楽を作ることを出来ないということが、今から見れば政治的にも正しい行動をさせたのである。
更にまた時代と彼との関係を考えさせられたのは、西武で行われていた古書展で見つけて購入したCDのリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を聴いた時である。リヒャルト・シュトラウスの音楽をクレンペラーは高く評価しながらも、その人物像に対しては、「人当たりのよい」が、「何かが欠けている・・・その性格には、便乗主義的なものがある」と言い、反ユダヤ主義を標榜するナチスが権力を手にした時期に、彼は臆面もなく(ユダヤ人である)クレンペラーに向かって「今こそユダヤ人のために立ち上がるべき時だ」と言ったこと紹介している。周知のようにリヒャルト・シュトラウスはナチスの政権下で、ドイツ音楽院の総裁ともなりその政権に協力した人物なのに、である。芸術家は時に政治音痴であることが多々あるが、シュトラウスの場合もまた実際の音楽に於いては、ナチのイデオロギーに賛同する所は全くなく、と言ってそれに反対する所も全くない。政治とは全くの無縁の‘ 音楽職人 ’であったと言える。その彼がドイツの敗戦時において作曲した「メタモルフォーゼン」は、滅びゆくものへの想いに満ち真に美しい音楽である。しかしクレンペラーは感傷を交えず、言わば厳しく美しくこの曲を響かせるのである。
この同じCDには、反ユダヤ主義者であり、ナチにも利用されたワーグナーのジークフリート牧歌も収録されているが、この演奏もまた自己陶酔に陥ることのない厳しく美しいワーグナーをそこに聴くことが出来る。
時代に飲み込まれることなく、また、それから逃れることもない彼の音楽がそこにある。




ワーグナー ジークフリート牧歌

クレンペラーは、甘く感傷的なものとはおよそ対極にある音楽を作ったと言える。
彼がマーラーを深く尊敬しながら、その全ての作品を同様に高く評価せず、演奏しなかった曲があることは有名である。生松敬三氏の本には、ヴェリスムス(真実主義)またはノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)といわれる画家によるシェーラーの肖像画のことにも触れているがいるが、そのシェーラーとも親しかったクレンペラーの音楽は、マーラーよりも若い世代の彼らの美学を体現していたとも言える。しかし、それが飽くまでも伝統の上の「成熟」として結実したところに彼の偉大さがある。
などと、つれづれにこんなことを考えながら、最近話題となった、フランスEMIから発売された、マーラーのCDボックスの演奏を聴いているが、音質も演奏も素晴らしいものである。これは中古ではなく新品で買ったが、限定版であり、HMVにはもう在庫は無さそうである。中古CD屋を巡る手間が省けてよかったと思っている。



 

Mahler: Symphonies Nos. 2, 4, 7 & 9; Das Lied von der Erde; LiederMahler: Symphonies Nos. 2, 4, 7 & 9; Das Lied von der Erde; Lieder
(2011/10/17)
Otto Klemperer、Elisabeth Schwarzkopf 他
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R.シュトラウス / 管弦楽曲集R.シュトラウス / 管弦楽曲集
(1998/06/24)
フィルハーモニア管弦楽団、R.シュトラウス 他

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二十世紀思想渉猟 (岩波現代文庫)二十世紀思想渉猟 (岩波現代文庫)
(2000/12/15)
生松 敬三

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(ネモローサ)






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2010.11.26 (Fri)

岡田暁生氏の「音楽の聴き方」を読む

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 引き続きクラシック万歳!!



秋も深まれば、芸術の秋といわれる。人間の感性が――五官がいろいろ触発される変化に富んだ季節である。五官とは、広辞苑で調べるまでもないが、一応調べてみると、眼・耳・鼻・口(舌)・皮膚の事である。五と漢字を変えると、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の事になる。よく、研ぎ澄まされた感性!などと芸術家を褒める文句に出会うが、すべては五官から始まるならば、動物の方がより研ぎ澄まされてやしないか。そして子供など動物的な方がより芸術に向いているという事になるのか……。我家の子供は専ら臭覚と味覚のみを研ぎ澄ましている。

さて、秋は読書の秋でもある。去年、岡田暁生氏が「 音楽の聴き方 」という本で吉田秀和賞( 音楽評論家吉田秀和氏に因んで毎年優れた評論に与えられる )を受賞したので読んでみた。その本の中で、クラシック音楽を聴く( 或いは表現する )際に必要なのは、身近なものから得た感覚を頼りに、言葉にする大切さを力説している。よくクラシック音楽は、‘ 精神的で高尚なもので、言葉では説明出来ないがゆえに、その存在価値がある ’と言うようなカッコイイが観念的なとらえ方を批判し,‘ 音楽も言葉で捕えられる範疇にある ’と言い切る。それは何もベートーヴェンの曲だからドイツ語で分からなければならない、という意味ではなく、我々がクラシック音楽を聴いた時に、素直に感じたままを身近なものとして捕え、自分自身の言葉を使って感じ取れれば良いのだと……。例えば、聴きながらいろいろな情景を思い浮かべてみたり、雪のしんしんと降る真夜中の一本道のような…とか、兵隊さんが誇らしげにに勇ましく行進して行くようにとか、夕暮れ時の真っ赤なこぼれ落ちそうな夕日の映える景色がどこまでも果てしなく広がり、だとか――私達は日本人なので日本語に置き換えるのであるが――このように音楽を言葉に置き換える作業を通して、クラシック音楽も身近なものとしてとらえ感じる――大切さを語っている。そう言えば、先日のNHKのスーパーレッスンでピアニストのシフが、生徒に身振り手振りを交えながら、実に表現豊かな言葉を駆使して教え、時には笑ってしまう程であったが、そういう表情豊かな言葉を通して説明を受けた生徒が言葉からの刺激を受けると、もともと豊かなのであろう感受性を大いに発揮し、音色が不思議と違ってくるのである。感受性が先か言葉が先か、鶏と卵の議論になってしまうが、矢張り、先に言葉ありきなのだろうか…。 (爽)


音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
(2009/06)
岡田 暁生

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「音楽の聴き方」の読み方

音楽について書くのは難しい。音楽は文章やせりふでなりたっておらず、絵画のように視覚化もできないので言葉で表現しにくいからだ。例えば私たちは素晴らしい音楽を聴いた後にその感想を言おうとするが、その道の専門家でもない限り、「よかった」や「素晴らしかった」以外に何も言えずもどかしい思いにかられる。私達が小説や詩についてならいくらでも話せ、書けるのに(小学生でさえ読書感想文を書くのだ)音楽については沈黙してしまう理由も、そのような点にあるのだろう。
そもそも「読む」行為がともなう小説や、「演じる」行為がその根幹をなす演劇に比べ、音楽は耳だけで聴く受動的な芸術と思われがちである(三島由紀夫はこれをマゾヒスティックと表現している)。能動的な体験を通して作品の内面性に迫るというよりは、人の感覚にじかにダイレクトにうったえかけてくるものなのだ。そのため何が芸術的に良い作品でどれが名演奏なのかどこか判然としないことがある。ベートーヴェンの第九交響曲とCMソングの違いは何か、と問われてすぐに答えられる人はそういまい。私達が音楽に対して持っている「好き嫌い」の理由を問われても同様だろう。このような、‘ 音楽の特性 ’にまつわる疑問を「言葉」で丁寧に説明してくれたのが本書である。
 
筆者の岡田暁生氏は、音楽を理解するためには、音楽がもつ様々な「 型 」を意識する必要があるという。これが本書の前提だ。そのために筆者はまず聴き方に注目し、これを感性面と言語面に分ける。
まず極力言語を介在させない「 感性面 」について筆者は、私達の中に存在する「 内なる図書館 」――周囲の環境や社会によって形成、蓄積された自らの内面性――それにある音楽が適合するかしないかが「 好き嫌い 」を生むという。いうなれば小さいころからロック音楽に親しんできた人にとってはクラシック音楽は意味不明であり、その逆も同様であるわけだ。
次に「言語面」についてだが、最初に筆者は、音楽を言葉を通じて聴く事を軽んじていた19世紀ロマン派の西欧の音楽評論を批判する。当時はワーグナーを中心として音楽は他の芸術を超越する――なぜなら音楽は言葉などで表現しきれないものでありそれゆえ神なき時代における神的存在であるからだ――と大真面目に主張されていた( ちなみに、それ以前のカントなどはこれと正反対のとらえ方をして音楽は語れないがゆえに下等なものと考えていた )。彼らは一方で音楽作品を論じながら、一方では「 それでも音楽は語りきれない 」と言い続けたのである。この姿勢は現在の音楽評論家や私達一般にもみられるものだ。だが筆者はそれに疑問を投げかける。はたして音楽は本当に語れないものなのか。評論家達の使う音楽専門用語や形而上学の語彙なしには音楽は語れないものなのか…。筆者は指揮者がオーケストラのリハーサルの時に発する言葉や、日本舞踊の指導の際に使われる、音楽を身近な比喩でたとえる「 わざ言語 」に注目し、私達も「自らの‘ わざ言語 ’を用いて、音楽を聴き理解すべき」、と主張するのである。
筆者は続いて音楽自体の特徴に注目することで音楽の「 型 」を浮かび上がらせる。ここで指摘されるのが‘音楽’と‘言語’の類似性だ。言葉は一見平易なようで実は単語、文節、文章と多様な文法構造のうえに成り立っている。同様に音楽にも守られるべき「文法」が存在する。ソナタ形式やロンド様式はその一例だろうし、曲の中でも交響曲の四楽章構成等はそれに当たる。曲の節回し、ラッパの使用一つとってもそれには多様な意味が含まれているし、固有の歴史的背景もあるだろう。このような背景を多く内包している音楽が一般にいう芸術的な作品であると筆者はいう。
確かにそれぞれの音楽に優劣をつけるのは難しく、するべきでもないだろうが少なくとも聴いてなんとなく理解できる曲とそうでない曲の差は、どれだけ‘音楽言語’で語れるものなのか、という点にあるのだろう。
だが19世紀以後になると、音楽の言語的構造はあまり顧みられず、音楽=サウンドという考えが広まり(それを助長したのが先に見た同時代に成立した音楽評論である)、ついにはジョン・ケージの「音楽の響きそのものに注目する」思想まで飛び出したわけである。
それでは演奏はどうか。これもまたその作品における「文脈」にそっておこなえば良いのだが問題がある。演奏者は基本的に、楽譜を通して音楽を再創造するわけだが、それ以外に参考できる、作曲した当時の慣習などは時代を下るにつれ忘れられ失われいく…。現代では、アドルノのいう「作品はよそよそしく、既に冷たくなっている」状態だ。この問題を自らの主観の投入によって克服しようとしたのが名指揮者フルトヴェングラーだという。彼については以前別の文で述べたことがあるが、彼の思想と本書を対比するのも面白く、彼の演奏ははそれこそ「精神的な演奏」といった形而上学的な賛辞が寄せられやすいが、実際の彼の「ベートーヴェンと私達」という論稿を読むと、「わざ言語」こそ出てこないが、その音楽の形態の必然性の究明――つまりは言語的な意味づけ――が見られると個人的には思う。ただ彼は、音楽云々よりもまずその背後にある混沌を理解せよ、と主張したからその意味からすると、音楽の言語性を超えた事を彼は考えていたようだ。
それはともかく以上の事実から、筆者は「音楽は国境を超える」という考えの虚構を指摘するのである。興味深い推論だが、音楽が筆者の言うとおり一種の言語だとするなら演奏の巧拙はともかく、それを深く理解できるのは結局はその音楽が生まれた国や地域、あるいは作曲家の故郷においてではないのか。いくら外国人が三味線を上手に奏しようと、独特の節回しの意味をはたしてどれだけつかんでいるか疑がわしい。反対に日本人演奏家でどれほど難技巧の曲を弾きこなそうとも、少しもその演奏がいわば「歌えていない」人もよく見かける。( 筆者の岡田氏によると西洋ではそういう演奏は下手なのではなく、そもそも「 音楽になっていない 」のだそうだ )
筆者にとって「音楽を聴く」行為とは、意味を探すこと、つまり他者を探すことだという。とすればそのために音楽が言葉である理由はおのずと見えてこよう。
最後に音楽と社会の関係について筆者は述べる。音楽は単なる作曲家や演奏家の専有物ではない。それを聴かせる対象は誰で――18世紀なら貴族、19世紀以後なら主として市民――どこで聴かせるか――コンサートホールのみならず宮殿や教会、サロン、それに家庭内である時代もある――によって音楽の形態は変わってくるだろう。つまり音楽は社会の規定を受けるのだ。
逆に音楽が社会に与える影響も見逃せない。聴衆が音楽を聴き、互いに共有することで一体感が醸成され、それが大きなエネルギーに成り得るのだ。私見ではこの方面の音楽の適用例では、まず国歌がまさにそうであると思う。時として音楽は政治的事件にも繋がる。ドイツでナチスがワーグナー音楽をプロパガンダとして利用しようとしたのはあまりにも有名であり、後の空襲のなかでもフルトヴェングラーの演奏を聴こうとして会場へ集った聴衆の熱意も推して知るべきである。
だが現代において問題なのは、正ににこうした音楽と社会の関係性がすでに失われており実感できないでいる事である。音楽は単なる「商品」として世界中に出回り、主に個人の趣向にとどまるのみだ。だからこそ前項のような聴くだけの「受け身」のものとして音楽が認知されてしまう。かつては家庭でピアノの連弾などの‘ 行為 ’を通して音楽を共有しながら、知り楽しんでいった人々が、いまやCDなどの記録媒体で孤独に聴くのみになってしまった。人々はそのように変化していった音楽から次第に離れて行き、ともに踊るといった‘ 行為 ’を通して音楽と関われるジャズヘと向かっていく。現在のクラシック不人気の理由もこうしたところからきているのだろう。
筆者の結論は音楽の「する人」(演奏家)、「聴く人」(聴衆)、「語る人」(評論家)の特権的分化が人々の音楽離れを加速させ、音楽を‘ わけのわからないもの ’に変化させた、ということである。では、どうすればよいかはもう自明だろう。筆者の提案は音楽を「する人」、つまりアマチュアの存在意義を積極的に認めこれを復活させる事だ、とする。そして、臆することなく自らの言葉で「語り」(すなわち‘わざ言語’で)音楽を自分なりに表現していこうということである。
 このように音楽は単に無機的に空間と時間の中を流れるものではなく、さまざまな「型」の存在を知ることでより愉しめるものへとなり得る事が分かった。自分の知らない音楽も「内なる図書館」に合わないからと言って拒絶することなく「型」の存在を意識しながら聴いて理解すれば、もっと自分の趣味を広げられる。筆者が本書で問うたことは音楽との付き合い方があまり上手でない(特にクラシック音楽については)私達日本人にとって大事なことかもしれない。

( 門前ノ小僧 )



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2009.08.22 (Sat)

マーラー嫌いをいかに克服したか。

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毎月のCDの新譜には必ずマーラーの作品の演奏が含まれているが、果して彼の作品は万人に受け入れられているのだろうか。現に最近このような文章を目にした、
  
脈絡なく行進曲調になったかと思うと、突然、叙情的になったり、必然性なく激しいメロディになったりする。次々に曲想が変わり、メロディ全体が統一を取らない。さらに、自己陶酔ぶりにもあきれた。どっぷりと自分に漬かり、自分の感情を表に出し、まるで自分を悲劇の主人公であるかのように音楽を作っている。(中略)そうこうするうち、不愉快になり、我慢できなくなってくる。(「ヤバいクラシック」樋口裕一 幻冬舎)
私にはこの文章はよく解る。以前は私も全く同じで、マーラーを聴くことは上の筆者と同様「拷問を受けるに等しかった。」のだから。それが今では幾ら聴いても聴き足りないほどのマーラーファンに変貌してしまったのである。
この変貌、転向の契機となったのは、偶々身近な図書館にあり借り出して読んだ「文化史のなかのマーラー」( 渡辺裕著 ちくまライブラリー、現在では「世紀末ウィーンとマーラー」という書名で岩波現代文庫に収められている )であった。



マーラーと世紀末ウィーン (岩波現代文庫)マーラーと世紀末ウィーン (岩波現代文庫)
(2004/02/19)
渡辺 裕

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この本によれば、ちぐなぐな纏りのなさ、また、旋律の通俗性に対する批判は、マーラー当時のものからであり、それは一般の聴衆も批評家も変わりはなかった。音楽学者として名高いハンスリックはマーラーの第一番交響曲の演奏を聴き、「 われわれのうち一人は気が狂っているにちがいない。そしてそれは私ではない 」と皮肉をこめて言ったとのことである。何故か。「 一つの流れに沿って統一された作品という古典的な作品象 」を正しいものだとする限りはマーラーの作品は支離滅裂なものであり、その前提を共有する一般聴衆や批評家の拒否反応は当然のものであったからだと言える。マーラーの曲を受け容れる為には謂わば新しい耳あるいは頭が必要なのである。
マーラーはシェーンベルクと親しく、シェーンベルクと自分は山の反対側からそれぞれトンネルを掘っているとマーラーが語ったことは夙に有名であるが、調性を破壊して現代音楽を創めたシェーンベルクと同様に、あるいはそれ以上にマーラーは新しい音楽を創造したとも言える。実際、渡辺氏の本に名前がマ―ラーの音楽との共通性の故に言及され、或いはマーラーの本質を衝くその発言が引用されている現代作曲家は、ベリオであり、リゲティである。  

さて、マーラーの音楽はどのようなものであるのか…。

渡辺氏の言葉を少し長いが引くことにすると、
(古典派以降の音楽)作品は・・・主題と出来事の織り成す統一的なドラマであり、そのドラマは時間軸に沿って直線的に展開するのである。(中略)だがいったんこの強固なドラマ性の世界から離れてみる時、そこには全く別の世界がたちあらわれてくる。因果論的・必然的な連鎖から自由になったとき、個々の事象は輝きはじめる。ソナタ形式の中では主調を準備する「機能」の一部にすぎなかった序奏の一つ一つの音がそれぞれ独自の音色や肌触りを持つものとして、自己主張をはじめる。そしてそうしたさまざまな音があるときは遠くに、あるときは近くに置かれながら徐々に空間を満たしてゆく、そんな音の世界が繰り広げられるのである。

マーラーの音楽がこのようなものであるならば、とにかくまずはその細部の一つ一つに耳を傾けることである。それらの相互の関係は唐突な変化であっても構わない。細部のメロディーが通俗的なものである時には、それが突然中断され、唐突に変化がある故に却って曲全体は通俗的であることを免れる。 
 


マーラー:交響曲第4番マーラー:交響曲第4番
(2002/06/21)
インバル(エリアフ)ドーナス(ヘレン)

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さてこのようなマーラーの新しさを表現する演奏はあるのだろうか。
この本の最後にはレコードを通しての指揮者たちの比較が為されており、これもまた甚だ興味深い。従来マーラーの直弟子であったワルターの「端正でバランスのとれた」演奏が模範的なものとされることが多いが、渡辺氏は、ワルターの演奏は保守的な聴衆に革新的なマーラーの音楽を受け入れさせるためにマーラーを「平板化」させたものであるとし、むしろ恣意的な演奏と看做されていた、テンポを変幻自在に変えるメルゲンベルクがむしろマーラーの意図に近いのではないかという最近の研究を紹介している。更に、近藤秀麿からバーンスタイン、カラヤンも含んでベルティーニに至る、交響曲第四番三楽章二十種類の演奏のテンポの変化を数値化して比較する。そこで浮かび上がったのは、三十九年のメルゲンベルクと八十年代の新しい演奏家、就中、インバルの演奏に多くの共通点があるということであり、彼らの演奏がマーラーの本来の新しさを表現する演奏なのではないかという結論である。マーラーに関する名著、柴田南雄「グスタフ・マーラー」(岩波新書、後に岩波評伝選)に於いても、マーラーは両大戦間の新古典主義の時代に合わないのは当然として、戦後直ぐの前衛音楽の時代にもそぐわない作曲家であり、七十年代以降の新ロマン主義の時代に合致するところの多い作曲家であるとされている。



マーラー:交響曲第3番マーラー:交響曲第3番
(2003/03/26)
インバル(エリアフ)ソッフェル(ドリス)

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マーラーの音楽の魅力とは何なのだろうか。あるいは、彼の音楽の「新しさ」とは何なのだろうか。それは新しさの為の新しさではない。柴田氏の言葉を借りれば、「 古典派のソナタや交響曲は、‘ いかに美しく、いかに巧妙に ’のための既成の枠組みであり、そこでは美と巧妙さのために全体の有機的統一が図られた。(中略)(マーラーはそこに)‘ 何を表現するか ’の観念を導入し、必然的にその枠組みを破壊した。」例えばニーチェのツァラトストラの「酔歌」を歌詞とした歌を含む交響曲第三番の、最後には撤回された表題が、一時ニーチェの書物の題名である「喜ばしい知識(華やぐ知慧)」となっていたことからもわかるように、マーラーの音楽は、音楽のための音楽ではなく、 人生、そして世界を表現するものである 。しかも、それは単なる自己陶酔ではない。ド・ラ・グランジュの言葉を引けば、「チャイコフスキーとは違って、彼は自分の個人的な悲しみを拡大して音楽の素材として使う人では決してなかった。・・・元来マーラーは慎み深かったから、憐みに身をさらすようなことはしなかったのである。」(「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて」草思社)
彼の音楽は心に深く訴えかけるものであるが、それは、その音楽が感傷的だからではない。
彼は「日々の現実世界から距離を置き、音楽家には珍しく人間の運命について根源的な問題にあれこれ思索をめぐらし、作品を精神の世界に開くことができた。」(グランジュ)
マーラーは文学のみならず、ショーペンハウアー、ニーチェ、更にはロッツェ、フェヒナーの哲学書を濫読し、科学にも興味を向ける人間であった。そして、周知のようにウィーンの宮廷歌劇場の芸術監督となり、しかも、自分の信じる新しい芸術をそこで実現するために闘い、その闘いに敗れてその地位を去った人物であった。その彼が全人生を賭けて作曲した曲は、当然彼の生きた時代を表現するものともなっている。音楽に留まらない、人間そして時代を聴くことが出来るということがマーラーの魅力である・・・
冒頭に掲げた動画は、テンシュテットによる交響曲第八番第一楽章の一部であるが、柴田南雄氏が「(マーラーの交響曲)が生み出された時代が、生き生きとした姿でわれわれの生活の中に再構築されるのを体験したいと望む」と書きながら、褒めていたテンシュテットによる演奏である。実際マーラーの真の魅力を伝える演奏であると思う。

(寄稿・ネモローサ)





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2009.03.29 (Sun)

グールドが教えてくれる後期ロマン派の名曲

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グールド・コンダクツ&プレイズ・ワーグナーグールド・コンダクツ&プレイズ・ワーグナー
(1994/06/22)
グールド(グレン)

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どうしようもなくロマンティクと自称していたグールドが、好んだロマン派の作曲家とは、ワーグナー以後の後期ロマン派の作曲家たちであった。その「後期ロマン派の時代に、大変悲劇的事態が生じた」と彼は云う。(「ぼくはエクセントリックじゃない」(音楽之友社刊))  「この時代の作曲家たちは――ワーグナーもリヒャルト・シュトラウスも、時にはマーラーでさえそうなんだけれども――音楽言語の和声的要素と主題的要素とを合体させることに驚くべき名人芸をそなえていたこれらの人々が、何故かピアノのためにはほとんど何ひとつ書かぬことを選んだのです。」
ここから彼の有名なピアノ編曲が始まる。ワーグナーの作品を自ら編曲し演奏した生前のアルバムに、彼自身が指揮をした「ジークフリート牧歌」も加えたCDが現在入手できる。 (晩年身体上の不調のために指揮者への転向を考えていたそうである。)

しかし、特にグールドの好んでいたロマン派とは、ワーグナーに留まらず、ブルックナー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、また、初期のシェーンベルク (グールドが録音したピアノ曲は、無調または十二音技法時代のもの ), こうなるとグールドがそういう曲を編曲して弾くのを想像する他ない。(昨年十二月に発売されたDVDにそのほんの一部を観て聴くことが出来たのは幸いである )。
そこで私は、上にも引いた本やコットとの対談、また、彼の著作集などから知ることの出来る、グールドの好みの曲を聴いていくことで、彼の秘密に少しでも近づくことが出来るのではないか、と聴き始めたわけだが、それらの曲はグールド云々とは関係なくとも、それ自体として深い満足を与える名曲の数々であった。





Bruckner: String Quintet; Intermezzo; Strauss: Prelude to CapriccioBruckner: String Quintet; Intermezzo; Strauss: Prelude to Capriccio
(1994/10/25)
Andrea Hess、

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ここに紹介するのは、ブルックナーの弦楽五重奏曲である。
グールドは、自作の弦楽四重奏曲がブルックナーやリヒャルト・シュトラウスの影響を受けている、と言っており、また、上に引いた本の中では 「彼の世代で、本来ピアノのために書かれたどんな曲よりも、ブルックナーをピアノで弾く方が楽しいのです 」と語っている。そして、この弦楽五重奏曲については「これは彼がかつて書いたもっとも驚くべき作品です。昂揚の度毎に雷鳴が轟くことのない唯一の作品・・・一個の奇跡です 」とさえ言っている。ブルックナーファンには申し訳ないが、この「雷鳴」のゆえにどうしても敬遠しがちであったブルックナーの作品であったが、この作品を聴いて初めてブルックナーの良さを知ることとなった。
この曲と共にこのCDに収められているのはリヒャルト・シュトラウスの 歌劇「カプリッチオ」序曲 である。この歌劇序曲に関してグールドは「信じがたいほど心打たれる作品で、また、丹念に書かれていますが、つねにあの異常な自発性とあの異常な自由につらぬかています」と評している。このCDでは、この序曲から、その透明で穏やかながら生命にあふれた世界に入ることになる。二曲目のブルックナーでもその同じ世界が続いている。



MetamorphosesMetamorphoses
(2007/03/27)
Antoine Lederlin、

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「 カプリッチオ 」はシュトラウス晩年の作品であるが、同様に晩年の代表作「 メタモルフォーゼン 」でも透明な世界が展開される。この二つの曲についてグールドは「 ベートーヴェンの最後の弦楽四重奏曲群 」と並ぶ「 究極の哲学的平安を照らす光の変貌を表現する音楽 」と評している。グールドはこの「 メタモルフォーゼン 」に「すっかり中毒し 」て、「 少くとも、一日に一度は、どうしてもこの曲を聴かずにはすませなくなった 」時期があったと語る。この曲はベートーヴェンの交響曲第三番の葬送行進曲のテーマを変奏するものであるが、第二次大戦で崩壊した‘ 西欧文化への追悼の曲 ’として有名である。音楽に与える時代の影響を敢えて軽視したグールドが、この作品に関しては、この追悼の意味をめずらしく饒舌に語っているのは( 「グレン・グールド発言集」みすず書房 )、この音楽の与える感動のせいであろう。
初期のシェーンベルクと云えば「 浄夜 」である。グールドはシェーンベルクに関するラジオ番組を制作した際、(その台本が本になっており 「グレン・グールドのシェーンベルク」筑摩書房 )、その中で、シェーンベルクと云えば「浄夜」しか聴こうとしない相手をからかっているのだけれども、グールド自身が「浄夜」を好きなのは疑いない。




上記の演奏は、ブルックナーの五重奏曲とリヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」序曲がラファエルアンサンブル、「メタモルフォーゼン」と「浄夜」の方はヴァイオリン奏者のグリマルが率いるレディソナンスである。両者俱に近現代音楽を得意としているアンサンブルのようである。
レディソナンスは、演奏の際には指揮者が存在せず、演奏者の自由を重んじる、ということを特色としているが、この「浄夜」はオーケストラ版ではない弦楽六重奏版であるということと相俟って、カラヤンのそれらの名盤と対極にある、やはり名演奏と云えるだろう。

(ネモローサ)




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2008.09.15 (Mon)

アンド・セレニティ/グレン・グールド

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 グールドの、「ゴールドベルク変奏曲」。このアルバムで鮮烈なデヴューを果たしたグールドだが、その鮮烈さは今でも失われていない。

イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。




アンド・セレニティ~瞑想するグレン・グールドアンド・セレニティ~瞑想するグレン・グールド
(2003/12/17)
グールド(グレン)

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このCDはグールドの死後二十年を経て編まれた、彼の演奏の選集である。バッハは意外と少ない(マルチェロのオーボエ協奏曲のバッハによる編曲の第二楽章とイギリス組曲からの一曲のみである)のだが、それでも彼の魅力を十分に伝えるものとなっている。
グールドと言えばまずバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」が思い浮ぶが、そのデビューアルバムに続く第三作目のベートーヴェン後期ソナタ集での演奏に関し、確か吉田秀和氏は「息をつめたような速さ」といったような表現をしていたように思う。確かに、グールドが時に途轍もなく速く弾く時、それは肉体的な爽快さというようなものとは無縁のものである。聴き手は演奏者の「息をつめ」ている精神の集中に共感するのだ。グールドの魅力は肉体的な爽快感といったものの対極にある。
このCDの題名は、次のようなグールドの発言から取られている、


芸術の目的は、アドレナリンの瞬間的な放出ではなく、驚きと穏やかな心の状態(wonder and serenity)を、生涯かけて築いていくことにある。

実際このCDの全曲が「穏やかな心の状態」に相応しくゆっくりとした曲であり、しかも、「どうしようもなくロマンティック(incorrigibly romantic)だ」と自称したグールドの好んだロマン派の曲(ブラームス、グリーク、シベリウス、リヒャルト・シュトラウス、スクリャービン)が多く採られている。
グールドの本質を捉えたこのCDの選者は誰なのだろうか。


こちらはブラームスの間奏曲集。、「どうしようもなくロマンティック」という言葉がぴったりと当てはまる。

(ネモローサ)











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