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2017.12.28 (Thu)

『首相』になったピアニスト――ポーランドのパデレフスキ、栄光と挫折

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



パデレフスキ作曲 メヌエット 

パデレフスキの作品の中で最も親しまれているモーツアルト風の「メヌエット」。元々はパデレフスキがあるモーツァルト好きの友人にいたずらしようと作曲したもので、自分の名前を伏せてこの作品を演奏したところ、友人はモーツアルトの作曲だとすっかりだまされてしまったという。


古今東西の優れた音楽家の中には、数は少ないが音楽家を副業として全く別の職業に従事する者もいた。クラシックに限れば、有名な例として国民楽派の一つであるロシア5人組(キュイやリムスキー・コルサコフは軍人、ムソルグスキーは役人、ボロディンは化学者)が挙げられる。しかし音楽家でありながら政治家としても活躍した人物となると、果たしてどのくらいいるだろうか?政治家はいわゆる「俗な」職業、「高尚な」芸術家とは対極的なのでは…と思われる向きもあるかもしれない。ましてクラシック音楽と呼ばれる作品が登場した時代は「タレント議員」などという言葉はまだなかったのだから…

ところが20世紀前半、単なる政治家どころか、一挙に一国の首相にまで上り詰めた音楽家がいる。
その名はイグナツィ・パデレフスキ(1860 - 1941)。一般的にはポーランド出身の伝説的なピアニスト、あるいはショパンの全楽譜を編集した(『パデレフスキ版ショパン全集』)ことで知られており、日本にも彼の功績を称えて「日本パデレフスキ協会」が設立されている(故中村紘子氏が会長を務め、現会長は横山幸雄氏)。

こうした音楽的に輝かしい経歴を持つパデレフスキであるが、また第一次世界大戦直後に、ポーランド共和国の首相を一時務めている。だが何故ピアニストとして名を挙げた彼が、芸術とは「異質」な政治の世界にわざわざ飛び込んだのだろうか。音楽家は仮の姿、むしろ政治の方に関心のある野心家だったのだろうか。疑問はまだある。パデレフスキは当時のポーランド国民の支持を失い、首相をわずか1年足らずで辞任しているのだ。その理由は現代の一部の「タレント議員」のイメージにもあるように、知名度は抜群でも政治的には無能だったから、といわれたりもする。しかしさすがに首相に上り詰める程なのだから、政治的な資質が全くなかったとはいえないだろう。当時のポーランド国民が彼に失望した理由とは一体何だったのだろうか……。


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イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski) 
音楽家の間でよく云われる「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう。」の名言でも知られる。



まず第一の問い、パデレフスキが首相になった理由について考えてみよう。その前提としてまず彼が生きた当時の祖国のポーランドの状況を考えなくてはならない。
1860年、ポーランド東部の寒村でパデレフスキがこの世に生を受けた当時、「ポーランド」という国は地図上から消滅していた。同国は18世紀後半から3回にわたって、プロイセン、オーストリア、ロシアという、近隣の3大国によって分割されてしまい、それぞれに支配されていたからである(ポーランド分割)。祖国を失ったポーランド人は分割後も独立のために何度も支配者に対して武力で抵抗した。
これに関連してショパンの代表作の一つ「革命エチュード」の逸話はよく知られている.。――1831年、ロシア支配下のポーランドでポーランド人の蜂起(11月蜂起)が起きた際、ショパンはパリ滞在中で病弱であったために蜂起に参加できず、そのまま蜂起はロシア軍に鎮圧されてしまった。怒りと悲しみに打ちひしがれたショパンは代わりに「革命エチュード」を一気に書き上げた――というものだ。(しかし近年では蜂起とは無関係に作曲したという説も有力らしい)。その後も、ポーランド人は1863-1864年に再びロシアを相手に大規模な武装蜂起(1月蜂起)を起こすがこれも同様に失敗に終わっている。


Karte_polnischeteilungen4.png

3度(1772年、1793年、1795年)にわたるポーランド分割。
黒枠は分割前のポーランド領。
青がプロイセン領、赤がオーストリア領、緑がロシア領を表している。



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ショパン「革命エチュード」パデレフスキ演奏



パデレフスキ自身もまた、これら独立革命当時の混乱を直に経験していた。というのも、幼少期に地方の貴族であった彼の父親が1月蜂起に関わったという理由で、ロシア政府によって逮捕、投獄されたのである。
その時の様子をパデレフスキは次のように回顧している。


最初にコサツク(ロシア帝国)が、家を包囲した時に、私は何か恐ろしい事件が勃発すると感じたが、家に入つてくると、父が目的で来たことが解り、私は危険を自覚した。そこで再度コサツクの一番丈の高い人の側に馳せよつて、恐れながらも「お父さんを、どうするの?」と叫んだ。然し彼は答えぬばかりか、私を見ようともしない。それでも私はひるまず、どうしたのか、何故父を連れていくのか、直ぐ帰って来るか、と子供なりの考へで尋ね続けた。すると背の高いコサツクは笑って首を振ると、再び笞をピシピシとならした。

 『パデレフスキー自伝』P.15


父はその後釈放されたが、パデレフスキ一家は領地を追われた。こうした幼少時の体験に加え、幼いパデレフスキの家庭教師をしていた人物もかつて11月革命に参加していた。パデレフスキは彼らの影響などもあり、ポーランドに対する愛国心を育んだのである。
しかし彼自身は当時政治家の道は進まず、むしろ才能ある音楽家としてのキャリアを積むことになる。……彼は場合によっては、祖国愛に燃えながらも音楽家にとどまったショパンと同じ生涯を送っていたかもしれない。



20代後半という遅いデビューながら、ヨーロッパ各地で精力的に演奏会を重ね成功を収めていたパデレフスキは、政治とは無縁の世界に生きているように見えた。しかしある演奏旅行が彼を後に政治の世界に引き入れるきっかけを作る。それはアメリカでの演奏旅行であった。実は当時、経済的に貧しいポーランド人がヨーロッパから大勢アメリカを目指して移民し、デトロイトやシカゴなどの大都市で生活していたのである。
( ちなみにこの時期、チェコのドヴォルザークは、音楽については新興国であったアメリカでニューヨーク・ナショナル音楽院の院長として迎えられ、弦楽四重奏曲『アメリカ』などを作曲している。)
祖国から離れ、孤独で厳しい生活を送っていた彼らは、同じポーランド出身の世界的ピアニスト、パデレフスキの来米を誇らしい出来事として熱心に歓迎した。
ポーランド政治史研究者の宮島直機氏によれば、1891年から1914年まで合計9回アメリカの演奏旅行を行ったパデレフスキは、その度にアメリカにいるポーランド人移民と積極的に交流したという。具体的には、このアメリカという新天地でのポーランド文化やポーランド問題の知識の普及に努め、関連する雑誌の資金援助を行った、などである。彼はまた同国にある「ポーランド救済委員会」という政治組織にも加わり、その中で、徐々に頭角を現していく。こうして彼はアメリカの演奏旅行を通して政治の世界に関わり始めたのである。だが依然として彼の活動の大半は音楽活動であった。



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パデレフスキ「ピアノ協奏曲」



だが運命のいたずらとも言おうか、パデレフスキが政治の表舞台に否応なく出ざるを得なくなった、一大転機が1914年に起こる。人類初の世界規模の戦争、第一次世界大戦である。
言うまでもなくこの大戦は、1914年の6月28日のサラエボ事件でオーストリア皇太子が殺害されたのをきっかけに、ヨーロッパの大国が協商国(英・仏・露)と同盟国(独・墺)に分かれて戦争を始めたのは高校の世界史でもお馴染みのことである。

実はこの大戦はポーランドにとっても独立の千載一遇のチャンスでもあった。と言うのも、それまでポーランドを仲良く一緒に分割支配していたロシアと、ドイツ・オーストリアが争い始めたことに加え、双方共に、相手側の支配するポーランド人に向けて‘ 独立ないし統一 ’を呼びかけることで、相手側から寝返るようにはたらきかけたからである。

ポーランド人はこうした大国の思惑を逆に利用することで、‘ 独立ないし統一 ’を達成しようとしたのだ。その際,、協商国(ロシア)側についたのが、当時ロシアでも国会議員を務めたポーランドの政治家、ロマン・ドモフスキ(1864-1939)という人物であり、同盟国(ドイツ・オーストリア)側についたのが軍人で政治家のヨゼフ・ピウスツキ (1867-1935)という人物であった。


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左: ヨゼフ・ピウスツキ (Józef Piłsudski)
右:ロマン・ドモフスキ(Roman Dmowski)
二人は日露戦争の際に来日もしている。


大戦が始まるとドモフスキは大国アメリカを自らの側につける必要を感じていた。しかしここに問題があった。彼は1912年に自身が始めた、ロシア領ポーランドでユダヤ人排除のため彼らの商品をボイコットするキャンペーンを行ったことで、アメリカのユダヤ人社会から反発を買い、信用を落としていたのである(この騒動には、反ユダヤ主義とは距離をとっていたパデレフスキも巻き込まれている)。そこでアメリカでの知名度が高く、同国のポーランド移民とも密接なかかわりのあるパデレフスキの存在が重要になったのだ。パデレフスキ自身も、自らのピアニスト人生を犠牲にしても、ポーランド独立のために行動しようと決断したようである。彼は自伝で次のように述べている。


「芸術家としての生涯も、一先づ終わりだ。或は永遠の告別かもしれない。既に終わつてしまったのだ」と私は心で思つた。私はこれをはつきりと悟つたが、心は重かつた。

 『パデレフスキー自伝』 P.439


これほどの緊急事態でも、自身は政治家よりも芸術家の方に未練があったようだ...


名演奏家としての高い知名度を生かして、パデレフスキはアメリカ政府に接近し、ついに1916年に時のウィルソン大統領との会談に成功する。目的はアメリカが協商国側の一員として参戦するとともに、ポーランドの独立も支持してもらうことである。だがさすがに一介の「ピアニスト」の説得だけではアメリカはすぐに行動に踏み切れなかったようだ。

同国に最終的な決断を促したのは、結局、ロシア革命(今年100周年記念になる)が勃発したことでロシアが大戦から離脱したことであった。これによってドイツ・オーストリア側が戦力を巻き返すのを恐れたウィルソン大統領はついにアメリカの参戦を決め、ポーランドの独立を含むいわゆる「ウィルソンの14か条」を1918年1月に宣言したのである。
こうしてドモフスキ、パデレフスキの一派(国民委員会)は米英仏の協商国によって公式にポーランド代表として認められた。
だが一方で、その時は既にポーランド全域がドイツ・オーストリア側の占領下にあった。1918年11月についにドイツが降伏すると、いち早くポーランドに乗り込み、権力を掌握したのは元々ドイツ側についていたピウスツキであった。それに対してドモフスキ、パデレフスキらの国民委員会はパリにあった。これでは両者の「二重権力」状態になってしまう。だがドモフスキとピウスツキの間では長年の政治上の対立があり、とても互いに協力できる状態ではなかった。
宮島氏によればそこで仲介役として白羽の矢が当たったのがパデレフスキだった。
1919年1月にポーランドに帰国した彼は首相に就任する。
ここに歴史上はじめて、プロのピアニストが一国の首相にまでなったのである。




では続いて第二の疑問、何故ポーランド国民は独立の「英雄」であるパデレフスキに早々に失望し、彼はすぐに首相を辞めることになったのか、である。

躓きの石になったのは、彼が首相に就任する直前、パリでポーランド代表として署名した第一次世界大戦の講和条約(パリ講和条約)であったといわれている。問題になったのは、ポーランドの「 領土問題 」である。
独立は達成したものの、その領土をどこまでとするのかで連合国、ポーランド、そして敗戦国ドイツの間で交渉は紛糾したのである。
現代の世界においても、しばしば見られる「 領土問題 」だが、ポーランドの場合はよりそれが極端であった。というのもポーランドの領土がどこまでの範囲なのか、当時のポーランド人の間でさえ、意見が割れていたからである。

この問題は根深いので少々詳しい説明が必要だ。
先ほど述べたポーランド分割では一方的に外国に支配されているイメージのあるポーランドだが、実は14世紀後半~分割以前は、逆に周辺諸国を支配する「強国」であった。近年の研究ではこの「帝国」としてのポーランドの性格が注目されている。特に14世紀後半以降、同国は隣国のリトアニアと「合同」して一つの国家を形成し、周辺のウクライナやベラルーシ(当時はルテニアと呼ばれる)に進出していった。その過程でリトアニア人やウクライナ人など他民族を取り込み、14世紀には西方から呼び寄せたユダヤ人やドイツ人も定住したことで、当時のポーランド王国は今でいう「多民族国家」になったのである。


Rzeczpospolita.png

14世紀後半~分割以前のポーランド=リトアニア王国の領土。
黄色がポーランド領(そのわずか北半分が現在のポーランド!)、
赤色がリトアニア領。
周辺の桃色までが王国の最大領土。



ここで問題は、仮にポーランドが、‘ 独立ないし統一 ’を回復した場合、‘ かつての多民族の「帝国」としてのポーランド ’に戻るのか、それとも‘ ポーランド人のみのポーランド国家 ’に変わるのか、ということである。ピウスツキら多くの独立主義者が前者を支持したのに対し、ドモフスキは後者を支持した。
ドモフスキの思想を研究している宮崎悠氏によれば、彼の抱くかつてのポーランド王国像とは、中小貴族(シュラフタ)のための封建的な国家(日本の江戸時代にある士農工商のイメージに近い)でしかなかった。彼らは財力のあるユダヤ人を「優遇」して、肝心のポーランド人の経済発展に寄与しなかったと考えていたからである。――ドモフスキはかつてポーランドが支配下に置いていたウクライナ人やユダヤ人を今度は逆に将来的には領土から排除することで、真にポーランド人のための近代的な「国民国家」が生まれると信じたのである。
一方パデレフスキは、宮崎氏によれば、1916年にウィルソン大統領と会談した際、かつてのポーランド=リトアニア王国に属する民族がそれぞれ独立した国を持ちながらも、一種の連邦を構成するような「ポーランド合衆国」の案を示していたという。



しかし結局のところ、パリ講和会議で決められたポーランドの領土は、ポーランド人側の意見はほとんど反映されないまま、大国同士の外交で決着した。つまりポーランドは独立した国家ではあったが、一部の領土は未解決のまま残ったのである。その上、人口の約三分の一がウクライナ人やユダヤ人などの少数派で占められ、しかもこうした少数派は自治の権利をポーランドに要求したため、最終的にこれらの少数民族を保護する条約も調印された。しかしポーランド国民は(同様に少数派を抱える)ドイツが条約に加わっておらず、不公平であると反発した。


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第二次世界大戦前(1927年)のポーランドの言語分布図。
中央の赤色がポーランド語話者、西側の青い斜線部分がドイツ語話者、東側の黄緑色がベラルーシ語話者、黄色がウクライナ語話者である。


このように「戦勝国」でありながらポーランドに数々の制約を課す内容の講和条約を調印したことで、パデレフスキはポーランド国内の支持を失っていったのである。
パデレフスキにしてみれば、小国のポーランドが、英米仏など大国に認められた上での独立を勝ち取る為には、不十分な条約も受け入れるしかないと考えていたのだろう。
しかし彼は結局ポーランド国内で孤立し、「英雄」から今度は国の「裏切者」にも等しい扱いで首相を辞任し、祖国を離れたのである。
その後1941年9月、再びナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことを受け、パデレフスキは亡命ポーランド政府の財源確保のために、演奏活動を行う。しかしその途上1941年、ついにはアメリカで客死したのであった。



ポーランドは、その後も第二次世界大戦、そして冷戦という時代の激変を経験する事になるのであるが、その途上ではかつてポーランドに居住していたユダヤ人が大量に殺戮され、ポーランド人やウクライナ人も互いの故郷を追放されるという悲惨な出来事が続くのであった。
しかしながら、かつてピウスツキやドモフスキらを悩ませたポーランドの領土問題や少数民族問題は、逆説的だが、これら一連の暴力により「解決」をみたのである。
だが、果たして他の選択肢はなかったのだろうか……
こうしたポーランドの過去の歴史から、いかに学ぶべきかは、現代世界においても、各地で起きる紛争・領土問題・少数民族問題を抱える現代においても、重要課題となっているのである。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ショパン「英雄ポロネーズ」 パデレフスキ演奏


名ピアニスト、パデレフスキは自らの音楽家としての経歴を生かして、アメリカのポーランド移民社会で巧みに政治活動を行い、その後アメリカ政府との交渉を担い首相にまでなった、二足の草鞋を履く「音楽政治家」であったといえようが、皮肉なことに、彼は愛する祖国ポーランドで自らの支持を得ることができなかった。
彼が晩年、アメリカでショパンの「英雄ポロネーズ」を演奏している映像がある。顔には深いしわが刻まれ頬がやせこけた姿には、容姿端麗で野心的な壮年期の面影はない。しかし演奏の方は若き日を思わせるような情熱的なもので、まるで祖国に対する悲哀と、祖国愛の間で揺れる彼の屈折した思いがそのまま音に溢れているようだ。ショパンがさほど好きではない私でも、彼のショパン演奏には心を揺さぶられるものがある...




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パデレフスキ「メヌエット」自作自演


(門前小僧)


主要参考文献
イグナツィ・パデレフスキ『パデレフスキ―自伝 愛国の音楽者』(第一書房、1940年)
伊東孝之『ポーランド現代史』(山川出版社、1983年)
ティモシー・スナイダー『ブラッドランド ヒトラーとスターリンの大虐殺の真実』(筑摩書房、2015年)
宮崎悠『ポーランド問題とドモフスキ 国民的独立のロゴスとパトス』(北海道大学出版会、2010年)
宮島直機「政治家パデレフスキ」(『ロシア革命と東欧』、彩流社、1990年)




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2013.05.05 (Sun)

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲

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ヴァイオリンをやっている皆さん、3大ヴァイオリン協奏曲というとどの曲かお分かりですか。
「マツコと有吉の怒り新党」(テレビ朝日)の‘ 新三大○○ ’のコーナーの冒頭でも、有名なメロディが流れているメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルト(協奏曲)が先ず出てくるのではないでしょうか。後はチャイコフスキー?私も初めはそう思っていましたが、実はメンデルスゾーン、ベートーヴェン、ブラームスなのだそうです。(良かった~チャイコフスキーが入っていなくって?これは本当に難物です。)勿論、音楽は自分が楽しめればよいので、こういうものに左右される事もないのです。このコンチェルトの何楽章が素敵だなとか、一番好きだなとか、色々なコンチェルトを是非聴いてみて下さい。
私自身のメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトとの出会いは、だらだらとヴァイオリンを続けていた中学生の或る日、突然、先生からメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを弾いてくるよう申し渡された時です。嬉しさと同時にあまりの長さに初めは怖気ずき、生まれて初めてヴァイオリンコンチェルトなる物のレコードを親に買ってもらった記憶があります。その時、スピーカーから出てきた音楽は、エレガントにシルクの様に艶やかに歌うヴァイオリンの音色と、走馬灯のように美しい風景をめくるめくかいま見せているかの様な、詩情あふれる旋律とハーモニー…絶景でした。( vn.ピンカス・ズーカーマン)
そして、これが普段自分が弾いているのと本当に同じ楽器なのだろうか…と、つくづくイケメンヴァイオリニストの映っているジャケットを眺めながら陶然とその音色を聴いていた事を思い出します。こんな世界もあるのだな…と。



チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲
(1995/10/21)
ズーカーマン(ピンカス)

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メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトの方は、
バーンスタインが指揮を担当している。
カザルスとアイザック・スターンに見出されたズ―カーマンは
録音年代から推測すると未だ10代だったのではないか。



それにしても‘メンコン’が入っているのに‘チャイコン’は何故入っていないのだろう、などの疑問から、しばらく御無沙汰していたコンチェルトのCDを聴いたり弾いたりしてみました。何故しばらく弾いていないかと云えば、コンチェルト( 協奏曲 )は、本来、オーケストラをバックに従えて格好良く一人( ソロ )で弾いてみせる、ヴァイオリニストの名人芸を堪能する為に作曲された音楽、だからです。内外のコンクールでも最後の砦は矢張り‘ コンチェルト ’になっています。一生のうちでオーケストラを雇うお金(スポンサー)や実力がある限られた人しか弾く機会はなかなかありません。
それでも、依然としてヴァイオリンをやっている人の最終目標到達地点 として君臨し続けているのが、矢張りコンチェルトでしょう。何故あまり面白くもないスケールやエチュードなどの基本練習を繰り返しやらされているのか…?と云えば、これらのコンチェルトを初めとする難曲を弾くために必要なテクニックだからです。裏を返せば、基本に忠実にきちんきちんと積み重ねていく事によって、実は誰でも弾けるようになるのです。確かに、コンチェルトはエヴェレスト級です。が、どんなに険しく厳しい難所があっても慌てることは事はありません。何故なら、どんな難しく見える箇所も‘ 基本的なパーツ ’がちょっとややこしく組み合わさっているに過ぎないのですから…。例えば、メンデルスゾーンの冒頭の滑り出しは、わずかワンフレーズの間に第2→第4→第5→第4→第3と次々にポジションが動きます。後にはオクターブで、第1→第2→第4→第6→第8ポジション移動したりします。ギターの様にフレットが付いている訳ではないので、ヘロヘロになるか、音程がはずれてしまうでしょう。けれど、この‘ 基本パーツ ’を一度習得してしまった人には、高い山も少しも怖くはありません。楽に登れる様になる筈です。左手のそれぞれのポジションの位置と手の形が出来ていれば、その型を崩さぬよう意識して、なるべくユックリ、シズカ~ニ何回も練習してみましょう。――勿論、この‘ 基本パーツ ’は土台となるので、体にきっちりと覚えこませないといけないので、多少の根気と時間はかかります。私もいまだにスケールなどの基礎練習だけは欠かしませんが、慣れてしまえばTVを見ながらでも出来ます。(注 小さい子は真似をしないで下さい。)       
新緑の美しい時期、筑波山の山登りもさぞかし気持良いに違いありませんが、命がけで(?)登る世界の山々にチャレンジするのも、また大きな醍醐味と言えるのではないでしょうか。

「あなたは何故エベレストを目指すのか
そこに山があるから(Because it is there. )」
ジョージ・マロリー

      

イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。





アイザック・スターンの、力強さの中にも哀愁が漂う名演。




中学生の時には気にも留めなかったのだが、、メンデルズゾーン家は、ヨーロッパでは長い間差別されてきた(イエス・キリストが十字架にかけられたのはユダヤ教徒によるものだった為、また宗教的な対立などの理由による)ユダヤ人の一族である。何故ベルリンにいたのか?

三代遡ると、彼のお祖父さんは、当時「ドイツのソクラテス」「第3のモーセ」などと呼ばれた高名な哲学者モーゼス・メンデルである。(後にドイツ風にメンデルスゾーンと名乗った)
まず祖父モーゼスに関しては、貧しい聖書筆写師の子としてドイツのデッサウに生まれ、ユダヤ人の貧困階層のため就学できず、父から聖書や哲学、タルムードなどユダヤ的教育を施される。その後一家でベルリンに移住する。同地で貧困と戦いながら、ほぼ独学で哲学等を修得し、ラテン語、英語、フランス語なども修めた。また、ジョン・ロック、ヴォルフ、ライプニッツ、スピノザなどの哲学に親しみ、これらの教養がかれの哲学の下地となる。
モーゼス・メンデルは1754年には、ドイツの劇作家レッシングを知る。また、カントとも文通で交流を深めた。レッシングの数々の劇作において、ユダヤ人は非常に高貴な人物として描かれていた(なお、レッシングの代表作「賢者ナータン(ドイツ語版)」のモデルはこのモーゼス・メンデルスゾーンである)。これらはモーゼスに深い感動を与えるとともに、啓蒙思想(あらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方)へと彼を導き、‘信仰の自由’を確信せしめた。その後、処女作としてレッシングを賞賛する著作を書き、レッシングもモーゼスに対する哲学の著作を書き、互いに親交を深めた。
モーゼス・メンデルスゾーンの名声は高まり、1763年にはベルリン・アカデミー懸賞論文で、数学の証明と形而上学に関する論文でカントに競り勝つ。後にカント哲学を論難する人物とみなされるに至った。
彼は、当時キリスト教徒から蔑視されていたユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学的知識を普及させ、人間としての尊厳を持って生きることが必要であると説いた。そうした目的を成し遂げるためには、信仰の自由を保証することが必要であるとした。そしてこうした考えを、体系的でない、いわゆる「通俗哲学」として表現した。ユダヤ教徒の身分的解放という点で、モーゼス・メンデルスゾーンの果たした役割は大きい。  ~ Wikipedia による

さて、宗教的差別や人種的偏見と闘ったこの「ユダヤのソクラテス」と言われるこの偉大な祖父と、子供達だけでもとユダヤ教からキリスト教に改宗させるなどしてベルリンで銀行家として成功し大富豪となった世にたけた父親を持つフィリックス・メンデルスゾーン。しかし当時は依然として、どんなに富裕であってもユダヤ人は一歩門から出れば近所の悪童からユダ公などとからかわれたり石を投げられたりしたので、イジメや差別に合う事を怖れた両親は、当時、ドイツの貴族がそうしていた様に学校には行かせず最高の教養人を家に招いての英才教育を終日施した。
フィリックス・メンデルスゾーンは特に音楽に突出していたが、画もプロ顔負けの腕前で、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語と語学も堪能だった。( 今の日本の若者も学ばなければならない事が多く大変だが、フィリップス・メンデルスゾーンも遊ぶ暇なく勉学・習い事に日夜忙しかったのです。)唯一の遊びといえば、兄弟姉妹でやるシェークスピア劇の‘ 真夏の夜の夢 ’ごっこであった。
大邸宅である自宅の一部の大広間は音楽サロンとして開放され、小オーケストラなどが招かれ舞台が設けられるなどして「日曜音楽会」が開催された。主に古典派のモーツアルトやハイドンなどが演奏され、メンデルスゾーン兄弟もバイオリンやピアノで加わっていた。そのうちこの幼き天才フィリックス・メンデルスゾーンの作曲した音楽も演奏される事になり第二のモーツァルトとまで言われた。
このメンデルスゾーン家のサロンは、本格的な演奏が楽しめる上に贅沢な昼食付き(!)だったのでますます評判となり、ベルリンの名士はもとより、言語学者のグリム(『グリム童話』の編者)、文学者フンボルト(ベートーヴェンと同じ自由主義者、フンボルト大学を創設――後にベルリン大学となり、グリム、フィヒテ、ヘーゲル、マルクス、アインシュタイン等が学んだり教えたりする事となる。)、哲学者ヘーゲル(ドイツ観念論最大の哲学者)、詩人ハイネ(シューベルトを初めシューマン、ブラームス等ドイツリート(歌曲)に歌われた)、他にも著名な画家等が、このメンデルスゾーン家のサロンに集った。そこで行われた演奏会には、世界的な音楽家ウェーバー、パガニーニ、シュポア、フンメル、リヒャルト・ワーグナー(作曲家、実は「音楽におけるユダヤ性」を書いた反ユダヤ主義者、ヒトラーに多大な影響を与える)、ダーヴィド(メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを初演)など参加するようになり、いつの間にか私的な家庭音楽会(ハウス・ムジーク)の枠を越え、ベルリンでは貴重な公開演奏会の位置を占めるようになる。
十代の中頃より、人間的な成長と見識を高めるため、豊かな財力を持つ親は心配ながらも、ヨーロッパ各地への教養旅行(演奏旅行)に出す。各地で、ゲーテ、ベルリオーズ、ショパン、シューマン、ヨアヒム、などと知り会っており、影響を与え合っている。年老いた文豪ゲーテからはその才能を称賛され(彼はモーツァルトやベートーヴェンの演奏も生で聴いている)、彼にイタリア旅行を進められ、交響曲「イタリア」を書いたが、ラテン系のイタリア人気質と(少々享楽的で怠け者?)合わないと言ったりもしている。
話はそれるが、その頃日本では、ユダヤ人の様な桁違いの金持ちの子弟こそいないが、今より5歳早い15歳で元服( 成人の儀 )をすると、「かわいい子には旅させろ」と武家の子は他所の藩校などに‘ 遊学 ’という形で武者修行の旅に出ていた。これも教養旅行だろう。明治に入ってからは、上級武士の子であった滝廉太郎メンデルスゾーンが創設したライプツィッヒ音楽院に日本人としては二人目の留学生として留学している。ちなみに、滝廉太郎といえば、「箱根八里」と並んで「荒城の月」は、文部省編纂の中学唱歌に掲載され、も~いくつ寝ると♪ の「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などは、幼稚園唱歌に収められた。また最近になって「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったと判明したそうである。という事は、滝廉太郎の曲を初め、今でも私たちに馴染み深い文部省唱歌は、当時すでに十分世界に通じる質の高いものであったということになろう。
メンデルスゾーンの曲は、ヴァイオリンコンチェルトの他にも、あげたらきりのない程の、親しみやすい名曲を数〃残している。劇音楽「真夏の世の夢」、序曲「フィンガルの洞窟」、交響曲「イタリア」「スコットランド」、宗教曲では、3時間以上の大作オラトリア「エリヤ」、室内楽では、弦楽八重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノ曲では「無言歌」…。

人気があり引張りだこだったメンデルスゾーンだが、他にもいろいろ意義深い仕事を成し遂げている。

・バッハとベートーヴェンを深く敬愛し、研究した。
・当時は古臭い教会音楽だった筈の、100年前のバッハ「マタイ受難曲」を掘り起こし研究し、初演した
(このことがなければ、今日、ここまでのバッハブームや研究は行われていないかも知れない。)
・他国に先駆けて産業革命が起こった近代都市ロンドンにおいて、特に歓迎された。
 反響の大きかった「エジプトのイスラエル人」などヘンデルの曲が、逆輸入の形でドイツで紹介される事になった 。 ( その頃ロンドンには有名なユダヤ人銀行家ロスチャイルド家の三男が政財界で権勢を振っていた。)
・ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団――世界初の市民階級による自主経営オーケストラとして発足した。身分や階級に関係なく入場料を払えば誰でも聴く事ができた。――の指揮者に招かれ、音楽面だけでなく、市と何度も交渉し、市立オーケストラに昇格させ、年金制度を導入するなど、一流のオーケストラに育てた。
指揮棒を使っての細かな表情を出す指揮をする、初めての人となる。(それまでの指揮者やコンサートマスターは、拍子や強弱位しか指示をしなかった)
・ドイツ初の音楽学校となるライプツィッヒ音楽院を創設。ユダヤ人にも門戸を広げ、貧しい人には奨学金を出すなどした。教師陣にはシューマンやその婦人でピアニストのクララ・ヴィークも名を連ねた。(ユダヤ人であった神童ヨアヒムは12歳で入学した。後にシューマンにブラームスを紹介したバイオリニスト)
・メンデルスゾーンが資金を集め、聖トーマス教会(西側)にバッハの胸像を彫った「バッハ記念碑」建てた。除幕式では、全バッハ作品によるオルガン特別演奏会を開いた。
・シューベルトの交響曲第8番「グレイト」を初演する。

バッハからベートーヴェンとドイツ音楽の伝統を受け継ぎ、その継続と発展に日夜努力を惜しまず貢献し、自身の優れた作曲以外にも、欧州各地の演奏旅行とで、終に過労の為早くに早世してしまったメンデルスゾーン。またユダヤ人の地位向上のため常に戦い続けたもう一つの顔のメンデルスゾーン。けれど彼は、本当はキリスト教徒でもユダヤ教徒としてでもない、ユダヤの一音楽家として、また一人の人間として生きる、という芸術家の誇りと衿持をもって世界の人に認めて欲しかったのではないか。その彼の魂の依り所であり彼を支えていたのは、‘ バッハ ’などの 音楽ではなかったか。
100年後に起きたユダヤ人の過酷な運命を思うと、この音楽が特別なものに聴こえてくる…。




メンデルスゾーン:VN協奏曲メンデルスゾーン:VN協奏曲
(1996/10/21)
ボストン交響楽団

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演奏:スターン(アイザック) ボストン交響楽団
指揮:小澤征爾

名匠であり、イツァーク・パールマン、ピンカス・ズーカーマン、シュロモ・ミンツという
ユダヤの天才ヴァイオリニストの師匠でもある。
自身もウクライナで迫害を逃れる為、幼い頃よりアメリカに渡ったユダヤ人だが、
世界に散らばる、祖国を持たないユダヤの同朋を常に気にかけ、音楽家として政治的にも尽力した。2001.9.11ニューヨークで起きた同時多発テロの数日後、心臓発作で亡くなった。
1948年には、正式にイスラエル国が誕生している。





メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人
(1985/11)
ハーバート・クッファーバーグ

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三代にわたるメンデルスゾーン家の実像と苦悩に迫る。
翻訳は、金田一耕介扮する「犬神家の一族」などでお馴染みのミステリー作家の横溝正史
の長男横溝亮一氏。クラッシック通で知られている。


(爽)




 引き続きクラシック万歳!!

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2010.09.25 (Sat)

バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



バッハのピアノ( クラヴィア )協奏曲5番 Largo 


「最近 車の中でよくバッハ無伴奏バイオリンソナタのレコードをかけて聴いているんです。」「子供が帰ってくるとバッハを聴きながらおやつを食べるんです。」など若い世代のこのようなお話を耳にし初めは驚きました。
以前、ドラマ‘ 喰いタン ’でクラヴィア (ピアノ) 協奏曲第5番のLargoがテーマ曲として使われていました。東山紀之扮する主人公の探偵が、趣味でバッハ無伴奏チェロ組曲第1番のPrelude (前奏曲) をいつも弾いていましたが、とてもカッコ良かったです。そういえばキムタク (スマップ)はグレン・グールドのファンでよく聴くのだそうです。お子さんは、ヴァイオリンを習っているのだとか…。






グレン・グールド/バッハ全集[紙ジャケBOX完全版]グレン・グールド/バッハ全集[紙ジャケBOX完全版]
(2008/12/24)
グールド(グレン)

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天才グールドのバッハのピアノ協奏曲はCDも出ている。
You Tubeでは演奏している様子いろいろ見る事が出来る。後にブラームスの協奏曲の解釈をめぐってグールドが一切演奏活動を止めてしまうきっかけを作る事になったバーンスタインと共演している映像も残っている。存在感のある若き日の二人によるバッハのピアノ協奏曲第1番の競奏・共奏が見事だ。
ヴァイオリンを習っている人のお馴染みのヴァイオリン協奏曲第1番 ( 鈴木の教本7巻に出てくる ) は、バッハ自身がクラヴィア( ピアノ )用にピアノ協奏曲第7番として、書き換えた。



韓流ではチャン・グンソクが、ドラマ‘ ベート―ヴェンウィルス ’で、こわーい指揮者(モデルはチェリビダッケ?)と対抗する若手指揮者を演じていましたが、イケメンとクラッシック音楽は似合うのでしょうか(笑)。
イケメンというのではないのかも知れませんが、元首相小泉純一郎氏は「キラキラ星位なら…」とTVでヴァイオリンを弾いて見せたり、ⅩJAPANも聴くけれど歌舞伎もオペラも見に行くと言っていました。
女性では最近、資生堂リバイタルグラナスのコマーシャルで、白いドレスを着て美しいモデルとして ‘クロイツェルソナタ ’と言われるベートーヴェンヴァイオリンソナタ第9番弾いていたのは、チャイコフスキーコンクールの覇者 諏訪内晶子さんでした。
気を付けて見ていると、TVやコマーシャルでは、たびたびクラシックが使われていたり、それをアレンジしたりされている様です。J-popの世界でも、カバー曲としてクラシックが歌われていたりパッヘルベルの‘カノン’のコードを使って大ヒットさせている某アイドルグル-プもいる様ですが、時や場所を超え、いいものはいい!ので、これからの若い皆さんもジャンルの区別なく、クラシック方面も大いに楽しんで欲しいと思います。
クラシック音楽はバターくさい、ヴァイオリンはお金持ちのやるもの、という昔の様な偏見はもうさすがになくなりましたが、まだまだ堅苦しい、インテリやクラシックマニアの楽しみに限られています。勿体ない…。先にご紹介した奥さんの様に自然体で、普通のお母さんや子供が、‘ 日常の豊かな楽しみ や 一服の清涼剤 ’として、上手く取り入れて聴いたり弾いたりして欲しい。
日本人というのは、世界中の美味しいものを何でも食べてみるような持ち前の好奇心と、それを消化して自分達のものにしてしまおうとする強靭な胃袋を持っている――ミシュランの三つ星レストランはフランスを抜いて日本が最多となったという事で、美食王国と言ってもいいと思いますが――きっと美味しいものや美しいものを好む美意識の高い貪欲な民族であると思うからです。








バッハの無伴奏は一つの楽器だけで旋律を奏でる、という意味でモノトーンの世界で、ある種の静寂感に貫かれている。けれどよく聴いてみるとそこには、幾つかの旋律が複雑に絡み合い、追いかけ合い、対話をしながら和声的に進行し、多彩に音楽を織りなしていく。( 和声的対位法による多声的な様式。) 人の手による人工の造形物なのにバッハという天才にかかると、そこには自然界の又は神秘のとでも言いたくなるような調和と均衡が保たれた美しい世界が広がり、その音楽に身をゆだねる事は脳の快感ですらある。また一方、声楽を聴いているかの様に切実に、人間的な感情を語っているようなところもあり、たった一つの旋律楽器のその音色に引き込まれ集中せざるを得ないような、何か求心的な精神――善きもの――に導かれているような心地よさとともに、‘生’の喜び、苦悩、慰め、カタルシスといったようなものも味わうことのできる、至福の一曲である。( 第1~6番のいずれも最初の部分=前奏曲Preludeは、印象的で聴きやすいです。)




バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)
(2007/06/20)
カザルス(パブロ)

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<試聴用サンプル付>   

  
バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)
(1999/09/22)
ビルスマ(アンナー)

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<試聴用サンプル付>

※上記はこの曲を世に紹介した事でも功績のある巨匠カザルスの名盤。録音は古い。下記のアルバムは和声的な響きが楽しめるビルスマの古楽器によるお勧め盤  


  



バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ(全6曲)バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ(全6曲)
(2001/10/24)
シェリング(ヘンリク)

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<試聴用サンプル付>



     

    シェリングの弾く、無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番
    フーガ( アレグロ )

バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータは演奏会だけでなくプロへの登竜門となるコンクールや音大受験などで課せられる機会が多い。つまりテクニック的に非常に難しく、音楽的な解釈や内容も問われ、伴奏が付かないので己のむきだしの音といやがおうでも対峙するところとなり、甘いところがそのまま演奏に反映されてしまうという誤魔化しのきかない曲である。
曲はほとんど和音で出来ているので、それらすべての音が、倍音を伴う様な純正音程に美しく響くよう、調律師のように細心の注意をはらって練習しなければならなず、しかもバッハ自身がヴァイオリンの名手だった、と思えるのだが腱鞘炎になるのもいとわず和音を一つももらさずしっかり押さえ、かつ弾き飛ばし、難しい音も簡単な音も区別なく、常に安定して美しく完璧に響かせることが要求される。おまけに、横に連なるメロディーラインを美しく出すためには、縦に並んでいる和音の構成音の中から、旋律を担っている音符一個だけを浮き立たせる様にし、同様に残りの音もそれぞれの受け持ちの声部に弾き分けなれば聞こえてこないところが、最も苦労するところだ。そしていざ本番になると、これらの似たような和音の羅列で出来たこの曲は、今のところすべて暗譜で弾くことが慣習となっている。(演奏会で間違えでもしたら直ちに演奏者も聴衆も息が止まる様な体験をすることになる!?)
また、教会の音楽を書き続けたバッハを弾くに当たり、そのスケールの大きさ、高い精神性、懐の深さを構築・表現するには、テクニックの面だけで片付けられるものでもなく、‘神の存在’ と ‘自分’ という風に位置付けて、演奏者の、それ相応の人生経験・知識、また迫力のある生き様といったものさえ問われるのかも知れない。
……とこれはすべてシェリングの――合理的で非のうちどころのない完璧なテクニックの美と不屈の魂の音色、そしてその向こうにある崇高で愛にみちた自由で平和な境地に至るような高い理想を持った演奏――を聴いて感じるところなので、これが、バッハ像なのか彼自身の個性なのかは分からない。が、私は、シェリングのバッハを模範とし、それを手本に繰り返し聴きながら、ボーイング、ヴィブラート、アーティキュレーションなど一音一音すべてをチェックしては真似をし ――絵画でいえば模写に当たる――悪戦苦闘した、若き日の辛くも懐かしい思い出とともに時々このレコードをかける。

   
バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(全曲)バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(全曲)
(2005/06/22)
クイケン(シギスヴァルト)

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<試聴用サンプル付>


レオンハルト (チェンバロ奏者) のもとで古楽器の先駆的役割を担ってきたバロックヴァイオリンの名手、ジギスバルト・クイケン。 (先日つくばのノバホールにも来てくれた。) バロック楽器の弓は軽く、弦 (羊の裸の腸) は張りが弱いので音量こそ出ないものの、ピュアな澄み切った音 (ヴィブラートをむやみにかけない為。) 、放物線を描くように良く伸びていく弾力のある音、 音の発音の切れのよさ、はモダン楽器を上まわる。手の力を入れずとも和音は柔らかくよく響くので、低音などは通奏低音の役割を楽に果たしている。こんな事ならバロックの音楽は、初めから楽器を古楽器に持ち替えた方が無駄な努力をしなくていいのに、と思う。学生時分によく弾かれる無伴奏パルティ―タ第3番のLoureなどは、こんな素敵な弾き方があるのか、と思わずバッハの生きた時代にタイムスリップする。確かに現代楽器で弾く時、ヴァイオリンの美しく気品のある音色自体を楽しむ人もいるだろうし、エネスコ、シゲティー、ミルシュテイン、ハイフェッツ、パールマン、クレーメル、ムター、若いところでは五嶋みどり、ヒラリー・ハーンと弾く人の個性・考えが表現されやすく、そこを聴くのが面白いのは事実である。( バッハ無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番シャコンヌの部分は特に有名でそこだけをダイジェストで録音される事も多いので、You Tubeや試聴などで聴き比べをすると面白いです。)このように、彼らによってストイックで精神的に弾かれる事が多かったバッハ無伴奏だが、クイケンのオリジナル楽器によるパルティータの演奏などは、バロック時代の‘ 舞曲である事 ’ を再認識させる様な古雅な世界に聴く者を誘い、石でできた教会や王宮や劇場にいるかのようにバッハを聴き、その時代に思いをはせる事ができる、という 新たな楽しみを与えてくれた。








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2010.06.24 (Thu)

雨の日はロマンチックな気分で ブラームスのヴァイオリンソナタ

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運動会や遠足など春の行事も一段落すると、時折はらはらと小雨が降るようになる。走り梅雨( はしりづゆ )または菜種梅雨( なたねづゆ )というらしい。それが終わるといよいよ本格的な梅雨の到来である。冬は乾燥し過ぎにより楽器が壊れやすいので気を使うが、音は良く鳴ってくれる。しかし梅雨という時期は、ヴァイオリンが全くご機嫌ななめで嫌な音しか出してくれず、人間の方も湿気と暑さのストレスでヴァイオリンを弾こう、という気力自体が起きない。教師もこうなのに、生徒さんにだけ、やれやれと厳しくするのは……。この際、楽器を入院させてしまおうかな(メンテナンスに出す)など考える。
こんな時には、TVの前でサッカーワールドカップの選手の華麗なプレーに酔いしれて――いやいや音楽教師としては、じっくり音楽でも聴きながら日頃の英気や勉強不足を補い蓄えておかなければならないのだろう。

家で簡単にヴァイオリンの湿気対策を施すのなら、先ずは洗濯物と一緒でもいいので除湿をかけている部屋に置いておく、梅雨の晴れ間はすかさずケースを開けて干す、など。ドライヤーで一気に湿気を飛ばす手もある。( 楽器に直接、日光や熱を当ててはいけません。)
指板( 指を押さえる黒い長い板のところ )が下がってきたりしたら、楽器をしまう時に、ダンボール紙のような厚紙を切って何枚か重ねて5㎜位にして、指板と本体の隙間にしっかりそれを噛ませて固定しておくと良い。ペグ( 糸巻き )が回りにくい時は、ペグソープなどといわれる専用滑り剤を弦を緩めてからミシン油のように接点に塗っておく等々。(注意:本当の油を塗ってはいけません!?)


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ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」
有名なピアニストでもあったシューマンの未亡人クララが
好んでいた彼自身の歌曲を第3楽章に使った事による。
演奏はオイストラフ






バッハ、ベートーヴェンに並んで‘ ドイツ3大B ’といわれるブラームスは、しがないコントラバス奏者の息子として生まれた。才能もあったのだろうが、十歳で演奏会を開き、十三歳で可哀相にも酒場でピアノを弾いて家計を助けながら作曲もするという貧乏生活を続けていた。二十代に入り、ハンガリーのヴァイオリン奏者レメ―二と知り合い彼との演奏旅行中に、ヴァイオリニストのヨアヒム( モーツアルトやベートーヴェンの協奏曲のカデンツァを書いている )と出会い、彼の紹介であのシューマン――作曲家。ヴァイオリンの鬼才パガニーニの演奏を聴き音楽家になることを決意。音楽雑誌を発行し、評論でショパンやブラームスを世に知らしめた。メンデルスゾーンも友人。――に弟子入りする。この人間関係はスゴイ。なぜあんな昔の時代に、我々現代人など足もとにも及ばない天才たちが、キラ星のごとく次々に出たのだろう。楽譜や演奏を通じてしか、彼らに会うすべもない我々には羨ましい時代である。
ブラームスは、シューマンの病死後もその妻クララとの交際は続き、ブラームスの彼女へのプラトニックで不健全な思慕が、創作の原動力の一つとなり、深い情念の、あるいは深い愛を作品に盛り込む事に成功した、と思えるふしもある。
ちなみに、何故そうなったのか分からないがブラームスが若いころ婚約破棄をしてしまった相手の女性は、シーボルトの姪にあたるという。日本の歴史教科書に載っている日本地図――伊能忠敬が全国を歩いて調査したかなり正確な地図 ――を国外へ持ち出した事で、妻のお滝さんを残したまま日本から追放された、シーボルト事件のあのオランダの医者シーボルトである。世間は狭いのか。彼は、初めてピアノを日本に持ち込んだ人とも言われている。
今放映されているNHKの‘ 龍馬伝 ’は幕末のペリーの黒船来航からわずか15年のうちに「 明治維新 」という、天皇を戴く中央集権国家に再構築するという偉業を成し遂げた、正に日本の激動の時代を生き抜いた若きサムライ達を描いているが、丁度その頃ブラームスは、「 市民革命 」を起こし王様をギロチンにかけたり追放したりして市民が台頭する、混乱のヨーロッパに於いて、ドイツ、ウィーンで徐々に成功を収めていく事になる。




ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ(全曲)ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ(全曲)
(2007/03/28)
ショルティ(サー・ゲオルグ) クーレンカンプ(ゲオルグ)

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古き良き時代の、サロン音楽( 知人宅に知り合い関係が集い、家庭音楽会があちこちで行われていた時代 )を想わせるような愉しい演奏。ショルティはかなりピアノも個性的で上手い。





ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ集ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ集
(1999/03/25)
ブラームス、

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数多い録音の中で最もすぐれていると評判の演奏。ヴィートの澄んだ自然な音色がロマンチックで心地よい。





ブラームス:ヴァイオリンソナタ第1番&第2番ブラームス:ヴァイオリンソナタ第1番&第2番
(2002/12/18)
クレーメル(ギドン)

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ピアノのアファナシエフの飛び抜けて遅いテンポ設定に、ヴァイオリンのクレーメルがけたはずれにスケールの大きな美音で響かせ応じ、ブラームスのよどむ情念の世界を表現している様な奇特な演奏。








ブラームスのヴァイオリン協奏曲の初演は
1879年ライプツィヒ・ゲヴァントハウスにて、
ヨーゼフ・ヨアヒムの独奏、ヨハネス・ブラームス指揮
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により演奏された。
上記のものはエジソンに頼まれ初めて蓄音器に録音された
ブラームスのハンガリア舞曲第1番。演奏は、ヨアヒム。





ところでソナタというと何を思い浮かべるだろうか。ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」、バイオリンソナタ、チェロソナタ……そんなのどうでもいい、何といってもぺ・ヨンジュン冬のソナタ! 最後のは置いておいて、これらのソナタは、ソロ楽器( 独奏楽器 )にピアノを伴って演奏され、1楽章、2楽章、3楽章(または4楽章)からなる器楽曲である。1楽章が、ソナタ形式で書かれている事が絶対条件である。そして、1楽章は急(きゅう)・緩(かん)・急(きゅう)の最初の‘ 急 ’の部分つまり速いテンポになっている。2楽章は‘ 緩 ’つまり緩やかなテンポで作られていて3部形式になっている事が多い。3楽章(時に4楽章)はまた‘ 急 ’で速いテンポ、ロンド形式やソナタ形式になっている事が多い。
交響曲( シンフォニー )も管弦楽のソナタだといえる。ヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲など( コンチェルト )も、ソロ楽器に管弦楽の伴奏が付いたソナタといえる。
伴奏を伴わないヴァイオリンソナタは無伴奏ヴァイオリンソナタという。
( ソナタは、ハイドン以降、モーツァルトやベートーヴェンなどの古典派といわれる時代に整った楽曲形式なので、それより古いバッハなどバロック時代のトリオソナタや無伴奏ヴァイオリンソナタ,或いはもっと古い時代のソナタは、カンタータ‘ 声楽曲 ’に対するものとして‘ 器楽曲 ’位の意味であり、ソナタと付いていても、上記のソナタとは異なる。)









ブラームスの交響曲第3番より





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