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2018.11.07 (Wed)

三十年戦争とハインリヒ・シュッツ――戦乱の時代の祈りの音楽

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



若きシュッツの処女作「イタリア・マドリガーレ集」の「春は微笑み」。
ヴェネツィア留学時代のイタリア音楽の影響が色濃いといわれる。


クラシック音楽で数々の大作曲家を生んだドイツ。その中で特に「ドイツ音楽の父」と呼ばれる作曲家がいる。実はバッハではない。彼の時代よりもさらに100年前の17世紀に活躍した作曲家、ハインリヒ・シュッツ(Heinrich Schütz, 1585年- 1672年 ドレスデン)その人である。
一般的には、バロック時代のバッハや、古典派からロマン派にかけて活躍したベートーヴェンなどに比べれば、彼の知名度は低いと言えるだろう。我々が、ドイツの古い時代の音楽に耳慣れていないせいもあるが、彼の残した宗教的な声楽曲を中心とした作品群がどれも至って、行儀が良く物静か、悪く言えば強い印象を与えるような作品が少ないのも、一般的に広く知られない理由の一つだろう。




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ハインリヒ・シュッツ(Heinrich Schütz, 1585-1672)。テューリンゲン地方の宿屋の息子に生まれ、その美声から合唱隊に入隊後、マールブルク大の法学部に進学。その後ヴェネツィアに留学し、作曲家ジョヴァンニ・ガブリエーリの下で研鑽を積んだ。
1614年にザクセン公に請われドレスデンに移住、宮廷楽長に就任した。その後はデンマークなどの滞在を挟みながらも終生その地に暮らした。



しかし、地味な彼の作風とは裏腹に、シュッツの生きた17世紀のドイツはバッハはもとより、ベートーヴェンの生きた革命の時代よりも、恐らくドイツ史上もっとも過酷で苦悩に満ちたものだったのである。何しろ、当時の同国を襲ったのは、30年にも渡る、ひたすら人が死んで行くばかりで中々勝敗も決まらない文字通り‘ 絶望的な戦争 ’、いわゆる「三十年戦争」と呼ばれるものだったのだから。シュッツ自身が「われらの愛する祖国ドイツにおいて絶え間なく進行する危険な戦争によって、素晴らしい音楽が後退しただけでなく、所によっては完全に止まってしまった……」と書くほど、当時黎明期にあったドイツの音楽文化は、この戦争によって早くも消滅の危機に瀕した。ドイツを物質的にも精神的にも瀕死の状態に追い込んだ三十年戦争とは一体どのようなものだったのか。そしてその中でシュッツはいかにして自らの音楽を守り抜こうとしたのだろうか。



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三十年戦争時の日常。集団処刑の様子を表している。



くしくも今年、開戦から400年目を迎える三十年戦争だが、決して過去に起こった出来事、と簡単に済まされものではない。
試しに近年の研究者が注目している、この戦争の特徴をいくつか挙げてみると、

① 宗派対立
② 権力をめぐる政治対立
③ 「民間軍事企業」の活動
④ 隣国の大国を巻き込こんだ、出口の見えない長期戦


…正に現在の中東のシリアやイラクで起こっていることそのものではないだろうか。(実際ドイツの政治学者ヘルフリート・ミュンクラーも近著『三十年戦争』の中で現代の中東紛争との類似性を指摘している)。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



シュッツ 「十字架上の七つの言葉」SWV 478
指揮 グスタフ・レオンハルト モンテヴェルディ合唱団



以下ではこれらの特徴を、もう少し詳しく検討してみよう。

まずは①の宗派の対立である。

「宗派」とは同一の宗教の中で異なる教義を持つ集団を指す。仏教では浄土真宗や日蓮宗などがあり、イスラム教ではスンニ派とシーア派がそれに当たる。
一方、17世紀のドイツではキリスト教のカトリック対するプロテスタントが代表的であった。両者の違いは様々な点にある。その一つが聖職者と平信徒(一般の信者)の関係である。

カトリックでは神と平信徒を仲介する「聖職者」の権威が強い。そして「ローマ教皇」を頂点として、司教・神父へと権威が格付けされるヒエラルキー体制が築かれた。
一方、プロテスタントはそうした聖職者の特権的な地位を廃止し、「万人司祭」の原則の下、牧師も平信徒も平等であるというのが原則である。
またカトリック教徒が、壮麗な教会の中で行われる‘ミサ’に参加しなくてはならない――しかも平信徒には分からないラテン語で!
これに対し、プロテスタントは教会の儀式に参加することそのものよりも、平信徒が「聖書」を実際読んで内容を理解することを重視している。そのため聖書もラテン語から平信徒にも分かる俗語――この場合、英語やドイツ語などを指す――に次々と翻訳された。



 プロテスタンティズム(中公新書)



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世界史でもおなじみの、プロテスタントを代表する二人、
マルティン・ルター(左 Martin Luther, 1483-1546)とジャン・カルヴァン(Jean Calvan, 1509-1564)。

ただキリスト教研究者の深井智朗氏が指摘するように、プロテスタントは、カトリックと違って一枚岩ではなく、「正統」や「異端」の考え方もない。そもそも‘ プロテスタント ’の語源は、カトリック的な政策に反対(プロテスト)した人々を全てひっくるめてカトリック側がつけた(侮蔑的な)名称だという。
プロテスタントの中でも、世界史の教科書でもおなじみなのは、ルターとカルヴァンだろう。ルターは宗教改革の口火を切った人物であり、権威は「聖職者」ではなく「聖書」にあるとして、民衆にも分かるように聖書の‘ ドイツ語訳 ’を行う一方、政治的にはローマ教皇の権威を否定することで、各国の君主の下に教会が従属することも容認した。
カルヴァンは神の救いを得られる者があらかじめ定められているという独特の「予定説」を唱える一方、ルターとは違って世俗の権力を否定し、教会による一種の神政政治をジュネーヴで行ったとされる。



この、カトリックとプロテスタントによる宗派対立が、三十年戦争の引き金になったというのが一般の「通説」である。しかしここまで述べたように宗派の問題は、本来‘ 宗教的 ’な次元に属するべきものである。が、その対立が実際は、戦争という‘ 政治的 ’な次元 に徐々に発展していく事になる。
さてここで、現在の我々の生きる世界を顧みると、中東を二分するイスラム教におけるスンニ派とシーア派という宗派対立と争いが起きているが、中東研究者の池内恵氏が「教義の正しさをめぐる争いというよりも、宗派コミュニティ同士の争い」であると指摘していることは、三十年戦争の原因を考える際にも参考になる。


 シーア派とスンニ派 (新潮選書)   



カトリックの教義が正しいか、それともプロテスタントの教義が正しいのか――について、実は、三十年戦争が始まる数年前、1555年の「アウグスブルクの宗教和議」という取り決めで既に一定の決着を見ていた。いや「決着」ではなく、むしろこの場合は「妥協」である。その時は、カトリックとプロテスタントは教義の内容を問わず‘対等’なものとされ、どちらを選ぶかは、その地を治める‘ 君主 ’に委ねられる(一般の民衆ではない)ことになったのである。(「それぞれの君主にそれぞれの宗教 cujus regio, ejus religio」)。この時点で少なくとも教義に関する問題は棚上げにされた。

しかし一方で「アウグスブルクの宗教和議」で‘ 君主に宗派の選択権 ’が与えられたことで、その君主の‘ 領地全体 ’がカトリック化、もしくはプロテスタントだけに占められることになった。( 改宗に反対する住民はその領地を出ていかなくてはならなかった)
こうした君主によって一つの宗派がある領地に均一的に広げられる過程を「宗派化」という。このような過程を通して、ドイツではカトリックとプロテスタントの地域が次第に明確に二分され、双方の「宗派コミュニティ」の形成が進んでいったのである。



Konfessionsverteilung 1560

当時の神聖ローマ帝国の宗派分布図。桃色がルター派、黄色がカルヴァン派、紫色がカトリック。北部はプロテスタントが、南部はカトリックが多いことがわかる。この分布自体は、現代でもあまり変わっていない。


「宗派化」の形成は、上記の②「権力をめぐる政治対立」とリンクすることで三十年戦争がより拡大する要因になった。

これを考える際、当時のドイツが「神聖ローマ帝国」と呼ばれる、一種の「連邦制」的な政治的枠組みを持つ国家、であった点に注意しなくてはならない。
当時300以上の‘ 領邦 ’――諸侯が治める領地や都市国家などを指す――から構成された、この複合的な国家では、政治的な最終決定は、領邦の代表者(「等族」)が出席する帝国議会で図られていた。帝国の行政上のトップである皇帝でさえも、領邦と常に利害を調整しながら政策決定を行わなくてはならなかったのである。
先ほどの「アウグスブルクの宗教和議」も、ハプスブルク家出身でカトリック教徒である皇帝と、カトリックやプロテスタントの領邦の代表この両者の間で、交渉によって決まったものだったのである。加えてその後の宗派化の進展によって、双方の宗派のバランスは、交渉や合意を通して慎重に図っていかなくてはならないものだった。


だがこうした交渉と合意の政治に不満を持ち、自らの信仰するカトリックと‘皇帝’の権力の一方的な拡大を望んだのが、ー―現在のチェコのボヘミア地方ベーメンの王、後に皇帝になるハプスブルク家のフェルディナント2世だった。
彼は「プロテスタント」が多かったベーメン王国において、自らが信奉する「カトリック」の宗派化を強引に進めようとした
しかしプロテスタント貴族がこれに反発し、皇帝の代官を廊下の外に放り投げるという、前代未聞の事件を起こしてしまう(1618年の「プラハ窓外放擲事件」)。
これを契機にベーメン各地で皇帝に対する反乱が発生する。が、皇帝側も負けてはいない。スペイン軍やカトリック諸侯の連合軍を率いて鎮圧に乗りだした。これが三十年戦争の始まりとなる。

皇帝軍は1620年の「白山の戦い」で反乱軍を破ると、プロテスタント側を支援するデンマーク軍にも、後に述べるヴァレンシュタインの活躍で勝利した。勢いにのる皇帝側は、ベーメンのカトリック化にとどまらず、帝国全体でカトリック側に有利な「復旧令」を1629年に発布する。
この勅令に対してドイツ全土のプロテスタント諸侯は(それまで皇帝に友好的だった者も含めて)、帝国議会での合意もなく既存の宗派のバランスを崩すような、皇帝の独断専攻に激しく反発した。
このように、キリスト教内の‘ 宗派対立 ’に加えて、皇帝 対 等族(領邦の代表)の間の‘ 権力闘争 ’が絡み合う形で、三十年戦争は激化していく事になるのである。



こうして始まった戦争で特に目覚ましい活躍を見せたのは、現代でいう③「民間の軍事企業」である。
最近では米軍において、通常の正規軍とは別の「プライベート・ミリタリー・カンパニー」の存在がイラク戦争などでメディアに注目されたが、17世紀のヨーロッパではむしろそちらの方が主流であった。‘君主’は基本的に莫大な金を払って「民間軍事企業」、つまり当時の傭兵及び傭兵隊長と契約し、全線で戦わせたのである。


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アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(Albrecht von Wallenstein, 1583-1634)の胸像(オーストリア軍事史博物館蔵)

この三十年戦争で最大の傭兵隊長として名をはせたのがヴァレンシュタイン
元はベーメンのプロテスタントの貧乏貴族からカトリックに改宗し、妻の資金を元手に一大傭兵軍団を擁するまでにのし上がった彼は、‘皇帝’と契約し、プロテスタント側を各個撃破していた。特にプロテスタント側の救援にかけつけたデンマーク王クリスチャン4世を破ったことは、ヴァレンシュタインの威信を大いに高めた。また彼は支配した領地に徴税制度を敷き、軍事物資の安定的な供給に努めた(ただしその取り立ては厳しく、農村部は疲弊したという)。しかしそれでも傭兵の生活は苦しく、多くは農村での略奪や強盗によって糊口をしのぐ有様だった。

当時、彼ら傭兵たちの様子を歌った歌が『ジンプリツィスムスの冒険』(邦訳 『阿呆物語』 )という小説の一節にある。

「飢えも乾きも、暑いも寒いも、苦労も文無しも、
あなたまかせのおいらの世界、
火つけ強盗で日を送る、
おいらはけちな傭い兵」

 阿呆物語 上(岩波書店)


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当時の傭兵の服装(オーストリア軍事史博物館蔵)



皇帝側とヴァレンシュタインが率いるカトリック側の一連の勝利に対して、周辺諸国は危機感を覚えた。それはプロテスタントに限ったことではない。
例えば隣国のフランスなどはカトリックながら、オーストリアとスペインを有するこのドイツ ハプスブルク家に挟み打ちにされるのを常に恐れていたため、ハプスブルクの力を弱めるべく、プロテスタント側を暗に支援していた。

一方当時、北方でプロテスタントの強国として成長していたスウェーデンは、『獅子王』の異名を持つ国王グスタフ・アドルフを先頭に北ドイツに侵攻した。
このスウェーデン軍の強さの理由の一つにマスケット銃の「三段戦法」があった。この戦法については、既に織田信長が1575年の長篠の戦いで世界史上初めて採用していたことは以前のブログにも書いた。( 「トルコ行進曲」と二つの帝国(1)―世界史を変えた17世紀 )



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スウェーデンの「獅子王」、グスタフ・アドルフ(Gutavus Adolphus, 1611-1632)


ドイツのプロテスタント諸侯からは、「解放者」として歓迎され、破竹の勢いを見せるスウェーデン国王、グスタフ・アドルフに対して、皇帝フェルディナント2世は当時臣下の讒言でいったんクビにしていたヴァレンシュタインを急いで呼び戻す。
こうしてグスタフ・アドルフとヴァレンシュタインが相まみえる決戦の時ががきたのが、1632年のリュッツェンの戦いである。両軍合わせて2万人。この内、半数近くが死傷するという激戦を制したのは、スウェーデンの方であった。
しかしその代償も大きかった。国王グスタフ・アドルフが戦死したのである。指揮官を失ったスウェーデン軍はやがて三十年戦争から離脱せざるを得なくなる。
一方のヴァレンシュタインにも悲劇が待ち受けていた。完全勝利を諦め、敵軍と和平交渉を進めようとしたところ、皇帝によって再び罷免されたのである。しかもその後、彼は皇帝側の刺客によって暗殺されてしまう……フェルディナント2世が彼の反逆を疑ったからとされている。

グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインという両雄を失いながらも、戦争はまだ続いた。ドイツを牽制すべく暗にプロテスタントを支援していたフランスが、ついに皇帝側に対して攻撃をしかけたからである。一方皇帝側も負けてはいない、スペインの援助を仰いだため、戦況はますますの膠着状態に陥った。
こうして現代の中東紛争さながらに、④「隣国の大国を巻き込こんだ、出口の見えない長期戦」がその後も延々と続くことになり、泥沼の様相を呈していく事となった。



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三十年戦争時のヨーロッパ。中央の、紫色の線の内側が、当時の神聖ローマ帝国であり、その南東部分がハプスブルク領オーストリア(濃緑色)、フランスの南がハプスブルク領スペイン(オレンジ色)。
帝国にフランス(ピンク色)は挟まれた形になっている。


さて、三十年戦争では‘ 戦い ’ばかりが、人々を苦しめたわけではなかった。最近、異常気象 のニュースをよく聞くが、実は当時のヨーロッパも、1560年頃から「小氷河期」という気候変動が起こり、作物の不作が続いていたのである。それに加えて、先に述べた戦中の傭兵による農村の略奪が起こり、ドイツ全体が‘ 食料不足 ’に陥った。やがて‘ 疫病も蔓延 ’し始め、次々に人々は死んでいく……。
その結果、戦中に全ドイツの人口は3分の1にまで減少してしまったのである。



本題に戻ろう。このような戦乱に明け暮れた地獄絵図の中で、‘ 芸術活動 ’など本来ならば望むべくもないだろう。
三十年戦争当時、ドイツ人シュッツはザクセン公の下に宮廷楽長として仕えていたが、この様な状況下、当然音楽活動のための資金は削減され、楽団員の援助をシュッツ自ら筆を執って公に‘ 懇願 ’しなくてはならないほどであった。シュッツ自身も旺盛な創作意欲がありながら、やはりオペラなどの大作はとても書けない状況だった。
代わりに彼が取り組んだのは「小教会コンツェルト集」(Kleine geistliche Konzerte)と呼ばれる、声楽曲の作曲である。
この曲は3~5人程度の小規模な編成で、イエスへの賛歌を淡々と歌ったものだ。が、シュッツ自身の「神から受けとったわずかな才能」を辱めないように精魂を込めて生み出した作品、と言われている。彼がそこまで情熱を注いだ背景には、やはり戦争による悲惨な状況があった。ブログの最初の「われらの愛する祖国ドイツにおいて絶え間なく進行する危険な戦争によって・・・」というシュッツの言葉は、この曲の「序言」に載っていたものである。だが彼は続けて次のような力強い言葉を述べている。


「 とりわけ自由な芸術作品や素晴らしい音楽などの形をなしているものはいずれも、呪わしい戦争に必然的に伴う、全般的な崩壊やバラバラの混乱の傍で、人間の前に眼前と存在している。私はそのことを、いくつか作曲した自らの音楽作品から、自身で経験している。 」



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「小教会コンツェルト集」から。
指揮 ヴィルヘルム・エーマン。シュッツの再評価と録音に先駆的に取り組んだ。
彼もまた第二次世界大戦という、シュッツと同様の戦乱の時代を生きた人物だ。
(ただしエーマンはナチスともかかわりがあるという、中々複雑な背景の持ち主だが・・・)。

意外にも、この曲の音色からは、当時の戦火の暗い影があまり感じられない…むしろ彼の音楽には一抹の光を灯すべく、温かさや明るささえ感じられないだろうか。それが共感を呼んだからだろうか、1639年に最初の第一集が発表されると、当時の聴衆から大きな反響が寄せられたという。



長期に渡って続いた戦争は、ようやく1648年のウェストファリア条約によって終結した。無意味な宗教戦争に終止符を打ち、外国の干渉を受けずに各国の主権を尊重した初めての国際条約として、後世に高い評価を得ているものだ。
( 近年はこれが過大評価されているという研究も現れている。条約の内容をよく見てみると、宗教の寛容については1555年のアウグスブルクの宗教和議の内容をほぼ繰り返したもので、新しいのはルター派に加え、カルヴァン派にも平等が認められたくらいである。「各国の主権の尊重」も正確とはいいがたく、既に述べた神聖ローマ帝国の300以上の領邦の複雑な権利関係が改めて確認され、皇帝の権力がこれまでよりも制限された程度で、現代の主権平等の原則とはおよそかけ離れたものあった。この「ウェストファリアの神話」は主権国家に基づく国際秩序の起源を見出したいと望んだ19世紀以降の学者が「創作」したものではないか、というのが現在の研究の主流である。)



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ミュンスターでのウェストファリア条約の調印式の様子。



条約の評価はともかく、ドイツにようやく平和が訪れた。
シュッツは同年、「教会合唱曲集」(Geistliche Chormusik)を発表した。これは一説には彼なりに「平和の年に貢献」するために作曲したのではないかともいわれている(Gregor-Dellin, S. 280.)。しかし長引いた戦乱からドイツが回復するには、その後も長い月日を必要としたのである。



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「教会合唱曲集」の第二集。
ハンス・オットー指揮、ドレスデン十字合唱団。


三十年戦争の終結から300年以上が経過した今の私たちの世界はどうだろう。
中東を初め世界各地において、宗教上、政治上、経済上の合意やバランスは無視され、終わりのない戦乱や対立が、再び世界を不安に陥れているのではないか。いまだ、先の見えない状況への焦りや苛立ちに人々は苛まれているようだ。
そんな時こそ、シュッツの音楽に一度耳を傾けてみてはどうだろうか。戦乱の最中に生まれた彼の作品の、どこまでも穏やかな調べの根底には、平和と安定への切実な祈りが通奏低音のように響いている、と私には思われる……。


(門前小僧)


参考文献

明石欽司『ウェストファリア条約 その現実と神話』(慶応大学出版会 2009年)
池内恵『シーア派とスンニ派』(新潮社 2018年)
グリンメルスハウゼン『阿呆物語 上』(岩波書店 1953年)
テラール、ロジェ『シュッツ(不滅の大作曲家)』(音楽之友社 1980年)
深井智朗『プロテスタンティズム』(中央公論社 2017年)
Gregor-Dellin, Martin, Heinrich Schütz. Sein Leben, sein Werk, seine Zeit, Piper, 1992.
Münkler, Herfried, Der Dreißigjährige Krieg. Europäische Katastrophe, deutsches Trauma 1618–1648, Rowohlt Berlin, 2017.
Schmidt, Georg, Der Dreißigjährige Krieg, C. H. Beck, 2010.


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2015.08.18 (Tue)

「怖い音楽」連想ゲーム~怒りの日

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嘗ての日本では、「怖い話」――怪談噺を聴き涼をとる、というのが、夏の夜の風情ある過ごし方であったが、「怖い音楽」となると人はどんな曲を連想するのだろうか。特にクラシック音楽の世界では…
  
丑三つ時(?)、死神がヴァイオリンを弾き、骸骨が現れ、うごめき自由奔放に踊り回る音楽は、サンサーンスの有名な交響詩「死の舞踏」だ。 この曲では、死神役の独奏ヴァイオリンは態々‘ 調弦 ’を変えて演奏されるのだが、同様の効果はマーラーの交響曲第4番の第2楽章などでも見られる。                    



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。
                      

                     

サンサーンス作曲 交響詩「死の舞踏」

深夜零時を告げるハープの音。続いていきなりヴァイオリンの不協和音が悲鳴の如く闇夜を突き破るかの様に響きわたり、不気味な雰囲気が醸し出される。骸骨が踊り回る音楽であるために、三拍子のワルツとなっているが、ヴァイオリンに続く、フルート・弦楽合奏が受け取るその主題は、中世のセクエンツィア「怒りの日」に基づく主題であり、これは‘ 死 ’を表すものとされていると言う。
                     



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19世紀フランスの画家べックリンの「ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像」
西洋では、中世以来、ヴァイオリンは‘ 死神 ’と結び付けられていたそうである。縁起でもないとお怒りになるかも知れないが――揺らめく音色の妖しげなところは、ヴァイオリンの醸し出すもう一つの魅力と言えよう。 



この「怒りの日」の主題はもっと直截的な形では、ベルリオーズの「幻想交響曲」第五楽章でのチューバが奏でる主題にも聴くことができる。
ここでは、現代のチューバではなく、当時のセルパン(古楽器。マウスピースコルネット族の低音・金管楽器である。蛇の様にくねった形に曲げられた長い円錐形をしており、これが名前の由来である)を使った、ガ―ディナーの指揮による演奏を聴いてみよう。



ベルリオーズ作曲 「幻想交響曲」
この楽器セルパンの蛇にも似た姿は悪魔を思わせる(3分20秒頃)
第五楽章も「魔女の夜宴」の音楽であり、むしろ騒々しいグロテスクな踊りの音楽である。



因みに「死の舞踏」とは、ヨーロッパ中世、疫病(ペスト)や戦争による死の恐怖から、人々が倒れるまで踊り狂ったという集団ヒステリーのことであり、多くの絵画の主題となった。
同じ主題に基づくリストの「死の舞踏」の方もなかなかの怖ろしさである。



リスト作曲 死の舞踏
冒頭から怒りの日の主題が出てくる。



さて、これらの曲の基となった「怒りの日」とは、一体、何であろうか?世界が破滅する終末(ハルマゲドン)において、「キリストが過去を含めた全ての人間を地上に復活させ、その生前の行いを審判し、神の主催する天国に住まわせ永遠の命を授ける者と、地獄で永劫の責め苦を加えられる者に選別する・・・日」(wikipedia)、いわゆる 『 最後の審判 』 の事である(ミエランジェロの有名な名画が描くあの日である)。



世界の破滅、死者の復活、神による裁き、永遠に続く地獄での苦しみ…今度はヴェルディの「レクイエム」から、「怒りの日」を聴いてみよう。
                    


ヴェルディ作曲 「レクイエム」
このヴェルディの曲は、中世のセクエンツィアに基づくものではなく、この恐ろしい世界の終末を自由に描写したものである。

                     

さてこれらの源流にある、中世のセクエンツィア「怒りの日」は、さぞかし怖い音楽か?というと次の様なものである。
歌詞(ラテン語)とその訳を掲げておく。(ウィキペディアに基づく)



                   
  
Dies ira, dies illa    怒りの日、その日は
solvet saclum in favilla: ダビデとシビラの預言のとおり
teste David cum Sibylla 世界が灰燼に帰す日です。  
Quantus tremor est futurus,審判者があらわれて  
quando judex est venturus, すべてが厳しく裁かれるとき 
cuncta stricte discussurus. その恐ろしさはどれほどでしょうか。

Tuba mirum spargens sonum 奇しきラッパの響きが
per sepulchra regionum, 各地の墓から
coget omnes ante thronum. すべての者を玉座の前に集めるでしょう。
Mors stupebit et natura, つくられた者が
um resurget creatura, 裁く者に弁明するためによみがえる時
judicanti responsura 死も自然も驚くでしょう。
Liber scriptus proferetur, 書物がさしだされるでしょう。
in quo totum continetur, すべてが書きしるされた
unde mundus judicetur. この世裁く書物が。
Judex ergo cum sedebit, そして審判者がその座に着く時
quidquid latet, apparebit: 隠されていたことがすべて明らかにされ、
Quid sum miser tunc dicturus? その時哀れな私は何を言えば良いのでしょう?
Quem patronum rogaturus? 誰に弁護を頼めば良いのでしょう?
Cum vix justus sit securus. 正しい人ですら不安に思うその時に。

Rex tremenda majestatis, 救われるべき者を無償で救われる
qui salvandos salvas gratis, 恐るべき御稜威の王よ、
salva me, fons pietatis. 慈悲の泉よ、私をお救いください。

Recordare Jesu pie, 思い出してください、慈悲深きイエスよ
quod sum causa tua via: あなたの来臨は私たちのためであるということを
ne me perdas illa die. その日に私を滅ぼさないでください。
Quarens me, sedisti lassus 私を探してあなたは疲れ、腰をおろされた
Redemisti crucem passus 十字架を堪え忍び、救いをもたらされた
Tantus labor non sit cassus. これほどの苦しみが無駄になりませんように。
Juste judex ultionis, 裁きをもたらす正しき審判者よ
donum fac remissionis, 裁きの日の前に
ante diem rationis. ゆるしの恩寵をお与えください。
Ingemisco, tamquam reus: 私は罪人のように嘆き
culpa rubet vultus meus: 罪を恥じて顔を赤らめま
supplicanti parce Deus. 神よ、許しを請う者に慈悲をお与えください。
Qui Mariam absolvisti, (マグダラの)マリアを許し
et latronem exaudisti, 盗賊の願いをもお聞き入れになった主は(ルカ23:39-43)
mihi quoque spem dedisti, 私にも希望を与えられました。
Preces mea non sunt digna: 私の祈りは価値のないものですが、
Sed tu bonus fac benigne, 優しく寛大にしてください
Ne perenni cremer igne. 私が永遠の炎に焼かれないように。
Inter oves locum prasta, 私に羊の群れの中に席を与え
et ab hadis me sequestra, 牡山羊から遠ざけ
statuens in parte dextra. あなたの右側においてください。(マタイ25:31-34)

Confutatis maledictis, 呪われた者たちが退けられ、
flammis acribus addictis, 激しい炎に飲みこまれる時、
voca me cum benedictis. 祝福された者たちとともに私をお呼びください。
Oro supplex et acclinis, 私は灰のように砕かれた心で、
cor contritum quasi cinis: ひざまずき、ひれ伏して懇願します。
gere curam mei finis. 終末の時をおはからいください。

Lacrimosa dies illa, 涙の日、その日は
qua resurget ex favilla 罪ある者が裁きを受けるため
judicandus homo reus: 灰の中からよみがえる日です。
Huic ergo parce Deus. 神よ、この者をお許しください。
pie Jesu Domine, 慈悲深き主、イエスよ
Dona eis requiem. Amen. 彼らに安息をお与えください。アーメン。



グレゴリオ聖歌の時代の音楽だけあって、おだやかな静けさに溢れた曲であるとも聞こえるが、歌詞を見ると、世界が破滅し、墓から屍が甦り、生前隠しおおせた筈の罪を神が暴きそれを永遠の炎で罰するという、恐ろしい終末の最後の審判の場面が歌われているわけである。
レクイエムとはこの最後にも出てくるrequiem「安息を」という言葉に由来するが、正式にはカトリック教会での「死者のためのミサ曲」と呼ぶそうである。このセクエンツィアだけではなく、キリエ、アニュス・デイ等を含む一連の曲が歌われる。(通常のミサとは異なり、グローリアやクレドは歌われない) レクイエムという呼称は入祭唱(Introitus)にあるRequiem æternam dona eis, Domine(主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ)による。
                  


グレゴリオ聖歌が出た所で、我々が良く耳にする最も人気のあるモーツァルトのレクイエムをここで聴いてみよう。
下記の内藤氏が著作で紹介している、ホグウッドの演奏である。
                   

アーメン・コーラスだが、あれ?と思う人も多いだろう。下を参照してほしい。




クラシック音楽 未来のための演奏論

クラシック音楽 未来のための演奏論(amazon)



「怖い音楽」から少々話がそれるかもしれないが、この本で、指揮者の内籐彰氏がこの曲に関係して、「レクイエム」を「鎮魂歌」と訳すことに異議を唱え次のように語っているが、以上のことを踏まえれば、もっともだと頷ける。

「レクイエム」の歌詞は・・・「魂を鎮める」どころか逆に「騒魂」といったほうがふさわしいと思えるような、凄まじい言葉が続きます。(上のセクエンツィアの歌詞のこと、引用者註)・・・ひたすら恐れおののきつつ、曲の半分以上を使って必死に赦しを願い、気も狂わんばかりに涙し、後悔して、叫んでいるのです。・・・当時のカトリック教徒にとってみれば、自分たちがいずれ厳しく裁かれることになる「最後の審判」が、心底恐ろしかったはずです。その恐怖心から、「何とか助けてほしい」と訴え、最後には「自分だけでも天国へ」と神に対し逆効果になるかもしれない本心まで丸出しにしています。
                             
魂を鎮める我々の文化との甚だしい隔たりを感じて、このように強い口調になっていると思われる節もあるが、この氏の言葉には全く同感できる。


内藤氏の本には、アーメン・コーラスのフーガの発見とその意義が興味深く説明されており、詳しくはそちらを参照して戴きたいが、かいつまんで言うと、作曲者の死により未完に終わったレクイエムにおいて、自筆の部分は「涙の日」の途中までとされていたが、それに続くアーメンコーラスの最初の16小節の草稿が新たに1961年に発見された。この16小節のスケッチはフーガを展開させるには十分であり、音楽学者モーンダーがそれを完成させ、また、モーツァルトの弟子ジュースマイヤーの補筆を多く訂正して出来たモーンダー版で演奏したのが、このホグウッドの演奏である。
このアーメンコーラスを含む版としては、モーツァルト作品の演奏者として名高いアメリカのハンマークラーヴィア奏者レヴィン(Robert Levin)によるものもある。



このレヴィン版による「涙の日」と「アーメンコーラス」を素人と半玄人による演奏で聴いてみよう。
                    


演奏 レバノン交響楽団 合唱はベイルート・アメリカン大学の合唱団 
(同大学ホール 2012年) 

弦楽器の音程が怪しかったり、管楽器の外れた音も聞こえたりするが、ベイルート・アメリカン大学での、熱の籠ったこの演奏は色々なことを考えさせる。
今話題の、新国立競技場設計者、ザハ氏はこの大学で数学を学んだ後渡英し、建築を学び、その道に進んだということを今回改めて同大学のことを調べて知ったが、この大学は、アメリカの宣教師が1866年(慶応2年)に設立し、以来アラブ世界全体に多くの政治家、学者を輩出した名門大学である。
レバノン、あるいはベイルートというとどんなイメージを抱くだろうか。ここで年齢が関わってくるが、私に華やかな文化の街というイメージがあるのは、往年の「兼高かおる世界の旅」を観た世代だからだろう。ウィキペディアによるとこの番組ではベイルートを「東洋のパリー(パリ)」と呼んで紹介したそうである。
しかし、宗教、民族の微妙な、つまり危ういバランスの上に成り立っていた繁栄と平和も1975年に始まるレバノン内戦で崩れてしまい、1984年には、学識でも人格でも真に尊敬すべき知識人かつ政治学者であり、当時ベイルート・アメリカン大学の学長であったマルコム・カー(Malcolm Kerr)が、大学の構内でテロリストに射殺されるという事件も起こった。事の次第は、彼の妻の回想録に詳しいが、その大学でこのような演奏会が、近年開かれたということには、感慨深いものがある。
                               


Come With Me from Lebanon: An American Family Odyssey (Contemporary Issues in the Middle East)


Come With Me from Lebanon: An American Family Odyssey (Contemporary Issues in the Middle East)




さらにこんなことも連想される。そもそもセクエンツィア「怒りの日」の歌詞に描かれる「最後の審判」は終末論――現世の破滅、死者の甦り、新たな神による裁き――に基づく。この終末論はある意味で‘ 一神教 ’の必然的な帰結ではないだろうか。
全能の神が正義の神であるならば、不正が横行し、勝利する現世の有様がそのまま許されるはずがない。必ず現世は罰せられ、不正の下で死んだ義しき人には改めて正しい酬いが与えられねばならない。そうなってこそ、全能で正義の神が存在する甲斐もあろうという次第である。
この理解が正しいかどうかは別として、終末論は、ユダヤ教(「エゼキエル書」「ダニエル書」)、キリスト教(数々の黙示文学、特に「ヨハネ黙示録」)だけではなく、実はイスラム教もそれを受け継いだのである。特に1990年代以降終末論はアラブ世界に流行し、現在のISを生み出す背景の一つとなったのだと云う。
                               
                               


イスラーム国の衝撃 (文春新書)

イスラーム国の衝撃 文春新書(amazon)

現在最も注目すべき気鋭の学者 池内恵氏による



確かに終末論は、文字通り受け取るならば、ある意味暴力的である。更に、D.H.ロレンスは、終末論の底にある歪んだ優越感と劣等感を憎み、その生涯の最後の著作「黙示録論」を著した。確かに、世界の破滅―ハルマゲドンーを自ら惹き起そうとしたオウム真理教や現在のISを見ると、単に外面的な暴力だけではなく、精神の歪みを感じさせる。

生の形の終末論は西洋の歴史の中では主流の中ではなく、実は周辺的にしか登場しない。(例えば紀元千年に終末を予想、期待する千年王国や、ノストラダムスの予言など。)
しかし、例えば「ヨハネ黙示録」を聖書から外すなどということは決してしなかった。そして、実際20世紀ドイツの神学者ブルトマンは、‘ 終末論 ’を「非神話化」し、つまり、現実に目前に起こる世界の破滅を説くものと解するのではなく、それを内面化し、人間の行う決断に関して厳しくその倫理を問うものとして終末論を解することになった――この私のブルトマン解釈が正しいかどうかはともかく、何かしらの形で終末論を内面化して変形しなければ文明として成熟することは出来ないだろう。

池内氏のブログにもあったが、聖書の言葉をそのまま受け容れることを「原理主義的」と言うならば、アメリカのキリスト教原理主義者や現在のイスラム教原理主義者だけではなく、「万人司祭」を唱え、全ての人間が直接聖典を読めるように現地語訳を促したルターもまた「原理主義者」の一人と言える。ルターが聖書に戻れと主張し、それが三十年戦争の惨禍を齎したのと同様に、現在クルアーン(コーラン)に戻れと唱える「イスラム原理主義者」も簡単に収まることない戦禍を引き続き世界に齎すだろう。



「怖い音楽」というテーマで始めた連想ゲームのつもりが、とんでもない所まで行き着いてしまったが、最後に、ドイツに起こった長く悲惨な三十年戦争時に書かれたシュッツの有名な「音楽による葬送」で締め括ろう。惨禍の中で、この曲は作曲されたが、ルター派の敬虔な信者であったシュッツは、カトリックの死者のためのミサ曲とは異なる形式の、この葬送の音楽( ドイツレクイエムと後世呼ばれる )を作曲した。ここでは終末論は姿を潜め、しかし、死の悲しみを歌いつつも、義しき者を必ず救う神への深い信頼が歌われる。
長い戦禍の中でもこのような曲が作曲され、演奏され、後世にそれが遺され伝えられ続けるという所に、人間の不思議さが存在すると思う。
                  



(ネモローサ)  



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2012.02.13 (Mon)

古楽器演奏・バロックの響き

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イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



  

ブリュッヘンをして‘ レオンハルトはバッハだ ’と言わしめた
バッハになりきってチェンバロを弾くグスタフ・レオンハルト。
チェロ奏者として若きアーノンクールも出演している。
淡々と曲を演奏するだけの実に地味だが秀逸な映画である。
「アンナ・マグダレーナバッハの手記」より
ブランデンブルク協奏曲第5番。




古楽とは何でしょう?古楽器で弾くとはどういう事なのでしょう?
今でこそ古楽器を使った演奏は、作曲家や時代に応じて特別の事ではなくなって来ましたが、私の学生時代は、華やかなヴァイオリンやピアノの影に隠れてリコーダーやチェンバロは、振り向かれる機会のない地味な存在に甘んじていました。当のリコーダー科の学生でさえ、ブリュッヘン( リコーダーの古楽奏法の先駆者 )の演奏はなじめないと言っていた位、初めは拒絶反応があったようです。もう二十年も前の話です。けれども、リコーダーで芸術的な表現が出来、この楽器をヴァイオリンなどの楽器と同等な地位に高めた彼の功績は非常に大きいものがあります。そもそも楽器に差別や区別などないのだと。
ヴァイオリンの楽譜も、普通の学生は、フランチェスカッティやガラミアンなどの尊敬する演奏家に校訂された、あるいは、えらい先生が使用しているものを好んで使っていて、少しずつ出回り始めていた原典版(ウアテキスト)――作曲家自身が書いたもとの楽譜――はあまり関心を持たれる事はありませんでした。バッハの装飾音も、特に注意をはらわれる事なく、慎重に取り扱われる事はありませんでした。日本では桐朋オケで指導もしていた先輩の、寺神戸亮さんや鈴木秀美さんらがバロックヴァイオリンやチェロを弾き始めていましたが、技術的な面の研究が主で、モダン楽器を古楽器(ピリオド楽器、オリジナル楽器ともいう)にわざわざ持ち替えて弾くことの意味、などを教えてくれる事はありませんでした。
他国からオランダに留学し、ブリュッヘンやその師であるレオンハルト(チェンバロ奏者で古楽の奏法を確立した創始者)の門を叩くと、まず最初に云われる事は、「 17世紀のフランスの詩人であるラ・フォンテーヌの寓話詩( イソップを素材にしている )を読み、ティツィアーノの絵を鑑賞しなさい。」なのだそうです。……つまり、古楽を、その時代に使われていた‘ 古楽器で弾く ’という事が、単に好事家的な趣味なのではなく、伝統や古いものに価値をおき継承していく、保守的な傾向のあるヨーロッパ人にとっては、歴史的・学問的・精神的に意味のある重要な事であるらしいです。留学生に対しても、当時の古典文学や絵画などに親しみ、その‘ 文化 ’――明暗、韻律やリズム、生活・宗教そしてその内に宿る精神的なる物――などを学んだ上で古い音楽を演奏しなさい、という事を要求しています。例えて云えば、ちょっと変わった外国人が日本に留学して、尺八や三味線、琴の演奏家になりたい、と言った時に、先ずは、江戸の絵画や俳諧などの古典文学、書などを勉強して、日本の心( 精神 )を学ばないと心をとらえる様な良い演奏は出来ない、形だけ上手く真似をしてもそれ以上の演奏にはならない、と言われているのと同じなのでしょう。
言うは易く行うは難しで、その大変さを考えると気が遠くなる道のりなので、とりあえず、私は自分のセカンドヴァイオリンをバロックヴァイオリンに改造し――駒を低く調整し、張力を弱めた上で羊の裸のガット弦を張り、あご当ては取り(当時は楽器はあごで挟まず左手で支えていた為)――弓だけバロック弓を購入して、気楽にバッハなど弾いて楽しんでいます。そして気付いた事は、当時の楽譜は当時の楽器と非常に相性が良い、楽器が軽いので弾きやすい、という事で、快感に近いものがありました。是非、皆さんも古楽器による演奏を聴いて、当時の香りを楽しんでみて下さい。もし機会がありましたら、バロックバイオリンやチェンバロを手にしてみると新たな発見があるかも知れません。


バッハ/ブランデンブルク協奏曲(全曲)バッハ/ブランデンブルク協奏曲(全曲)
(1997/11/21)
ブリュッヘン(フランス)

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<試聴用サンプル付き>
ごてごてしていない透き通った古楽器の音色と、バロック的正しさと美しさ。光を当てられ‘ 生 ’を謳歌しているかの様なそれぞれの楽器の存在感。バロック装飾の様な典雅で優美なバッハの代表作ブランデンブルク協奏曲。指揮とチェンバロはレオンハルト、ブロックフレーテはブリュッヘン。





    

当時、即興演奏など披露して教会に集まる人を喜ばせた
笛の達人ヤーコプ・ファン・エイクの涙のパヴァーヌ。
ブロックフレーテ(リコーダー)はフランス・ブリュッヘン。




    

チェロの前身であるヴィオラ・ダ・ガンバ。エンドピンは
付いていなかったので、足で挟んでいるようだ。
ヴィヴァルディより少し早い時期にイタリアで活躍した
コレルリのヴァイオリンソナタより「 ラ・フォリア 」。
  




    

バロックヴァイオリンの響き。バッハの音楽の捧げもの。
常に斬新な演奏をするムジカ・アンティカ・ケルン。




テレマン:シンフォニア・スピリトゥオーザテレマン:シンフォニア・スピリトゥオーザ
(2002/07/24)
ゲーベル(ラインハルト)

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こんな演奏聴いた事ない、こんなヴァイオリン聴いた事がない!異次元体験したい方にお勧めの一枚。




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2012.01.06 (Fri)

ベルサイユ宮邸の音楽

明けましておめでとうございます。今年も微力ながら、ブログを通してクラシック音楽を楽しみ研究して参りたいと思いますので、お暇な時に立ち寄って戴ければ幸甚です。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

王は踊る [DVD]王は踊る [DVD]
(2001/12/21)
ブノワ・マジメル、ボリス・テラル 他

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「太陽の王」と呼ばれたルイ14世と音楽家リュリの物語。
個性の強い登場人物のキャラクターと、音楽・演出・俳優の演技が3拍子揃って見事にマッチし素晴らしい。


ずっと見たかったDVDを買ったが、とても良かった。
国内外のすべてを圧倒する様なあの有名なベルサイユ宮殿を建造させ、そこに力を持たせぬため貴族を住まわせ常に警戒し、絶対王政という国家体制を作りあげたフランス王ルイ14世。王に認められる事こそが出世の道だった当時、イタリアからやってきた名もないリュリは、王のいとこにイタリア語を教えた事から宮殿に出入りするようになり、そこでダンスや音楽を習い覚え次第に才能を表し、王の寵愛を受けるようになる。イタリア人である事が邪魔になると、名前もフランス式に替えフランス人としてとして生きる道を選ぶ。孤独な王に対し――古今東西、王様というものは孤独な存在なのだ思うが――いつも友の様に彼に寄り添い、音楽とバレーによってその心を癒す。常に行動を共にし、そこでとり行われる行事に楽団を率いてバックミュージックを付け盛り上げ、王の権威をより絶対的なものに高める為の音楽を次々に作曲し、王に忠誠の限りを尽くしていく。野心家で強烈であるが、実に才能豊かでもあった。
音楽的にはバロック中期に当るが、フランスバロックオペラの創始者で、フランスのオペラ公開劇場組織「王立アカデミー」(現在のフランス国立歌劇場「オペラ座 」の前身)でオペラを上演。17世紀のフランス音楽で最も重要で影響力のある音楽家である。彼の作風は、ベルサイユ宮殿では常に模範とされ、後のルイ16世とマリーアントワネット(モーツアルトが幼い頃御前演奏をした事は有名。革命時、贅沢を極めた事により処刑された。)の婚姻の席でもリュリのオペラが上演された。
たびたび初心者の生徒さんが弾く‘ メヌエット’もバッハより少し前の、このフランス王ルイ14世の時代に、踊りとともに初めて作曲され演奏されたのである。
たまたまTVの正月番組で紹介されていたのだが、この時代のベルサイユ宮で行われていたすべての事は、現代のフランスヨーロッパ文化の礎石となった様である。フランス料理の真髄であるソースも、この時代に当時の一級の料理人によって、王の口に合う様吟味研究し料理され、フランス料理の源流になった。(2010年フランス料理は初めて無形文化財として世界遺産に登録された。)
宮殿は一般市民にも開放され、これも第一級の造園家の手により造られた、噴水がきらめく広大で美しい庭園のみならず、王の食事風景までも見物する事が許されていた。晩餐には、ハンガリーから取り寄せた貴腐ぶどう(腐らせた葡萄)を熟成させたトカイワインに、小鴨のロースト無花果ソース(いちじく)添えなど、なんと毎日30種類近くの腕によりをかけた豪華なご馳走が並べられたそうである。ルイ14世はこれをひと通り口にすると、残りはお付きの家臣たちが食べ、それでも残ると小売店に払い下げられ、そこで売られて国民も食べることが出来た。踊りも音楽も狩猟も好きで、好戦的な王は、かなりの大食漢だった様だ。
毎日がおせち料理の様な、質素を旨とする日本の天皇とは、食生活の点に於いてもかなり違っていたと云える。


   
映画は、リュリの破天荒な生活ぶりを描き、更に、音楽と王への一途であるが強烈な愛情故に、友であるモリエール(17世紀フランスの劇作家。コルネイユ、ラシーヌとともに古典主義の三大作家の一人)とも絶交することになる。一方、ルイ14世は年をとりバレーも踊れなくなると、芸術に対する関心がなくなってくるが、次第に気高き王としての威厳や風格を兼ね備える様になり、リュリの新しい音楽にじっと耳を傾けはするものの、その心は徐々に離れ始めていく…。
演奏は、ラインハルト・ゲーベル指揮ムジカ・アンティーカ・ケルン


       




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02:59  |  古楽の世界  |  EDIT  |  Top↑

2011.03.20 (Sun)

地震お見舞い申し上げます

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新年度に入る前に、東日本大震災という、戦後の最も大きな地震に見舞われてしまいましたが、皆様、如何お過ごしでしょうか…。
震度6弱という大きな揺れの後、何度も大きな揺り返しがあり、臆病な私は、玄関から携帯電話を片手に、出たり入ったりを繰り返しているところに、丁度病院の帰りがけに寄られた生徒さんがいらして、レッスンをやろうかやるまいか( ご当人はとてもやる気があったのですが )、お母様と悠長に相談をしたりしている最中にまた余震が起こり、家の方がどうなっているか急に心配になりあわてて帰られたのですが、いざというと何が起こっているのか、なかなか判断出来ずに、知らない間にパニックに陥っているものですね。
一応、電話で、生徒さん全員の御無事を確かめる事が出来、ほっとしましたが、その後の、始終揺れている余震・停電・断水・燃料や食糧の不足と続き、すっかり疲れてしまったのではないでしょうか。津波の爪痕、被災地の人々の映像を見る度に、本当に辛くなり、自然の猛威に今さらながら脅威を感じました。と気の毒に思っている間にも、原子力発電所の、恐ろしい爆発・放射能漏れ事故、汚染問題と予断を許さない状況にすっかりTVに釘付なってしまいます。天災と人災が一遍に降りかかって了った訳で、まるで、夢でも見ているような感じで、私自身も○○年生きてきて、こんな大きな災害を目の当たりにしたのは初めてです。幸福と不幸は紙一重なのだ、とつくづく感じました。今回の震源は、東北近海でしたが、もう少し南にずれていたら…今頃は。
もっとも‘ 日本はもともと地震大国なので、歴史的に何度も大きな震災を経験している日本人は、立ち直りが早いという国民性を持っている ’のだそうです。(会田雄次「日本人の意識構造」)
今後も、太平洋の地下プレートの動きが活発化していくらしいので、今回の事が良い教訓となるよう、日頃から備えと訓練と協力と感謝の心を忘れないようにしたいものです。



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ルベルの「 四大元素 」より混沌(カオス)
演奏はムジカ・アンティカ・ケルン


ルベルは、バッハ(独)、ヴィヴァルディ(伊)などと、ほぼ同時代の後期バロック時代に属するフランス(仏)の音楽家である。宮廷でフランスの王様ルイ14世とリュリ(フランスを代表するバロックの作曲家)に、8歳でその才能を認められたヴァイオリン奏者で、クラブサン(ドイツ語ではチェンバロ)もこなし、オペラやバレイの指揮者、大胆な試みをする作曲家としても知られ、その音楽活動は多彩である。このyoutubeでも、冒頭のとてもバロック音楽とは思えない様な、今聴いても十分衝撃的なカオス(混沌)から始まる。
手元にあるエンシェント室内管弦楽団のCDの指揮者でもあり音楽学者でもあるホグウッドのライナーノートの解説によると、この「 四大元素 」という管弦楽曲は、カオス(混沌)から始まり、その後は様式化された舞曲が続き、「 四大元素 」を各々象徴するように、楽器が使用されている。バス(低音楽器)が、同じ音を細かく小刻みに鳴らすトレモロ奏法で「大地」を表し、フルートは、旋律的に奏でる事により「水」の流れを表す。トリルを持続をするピッコロは「空気」を、ヴァイオリンは生き生きと燃え立つ「火」を表わしている。
バロック時代の美学者シャルル・バトゥ―は、‘ 芸術は美しい自然の模倣 ’であると言い、精神(心)と自然の協調の中に、美の理想を求めた。芸術家の仕事は、その自然現象を観察する事によってその特徴を抽出し、自然の理想化を達成することと考えていた、という説明である。
四大元素とは、高校の授業で教わるが、ギリシャ時代に最初にエンぺドクレスが――舌を噛みそうになる――この世の万物はすべて土・水・空気・火 という元素から出来ていて、すべての物は、おおもととなる この四つの元素の配合の割合で決まる、と考えたという。その考えを踏襲したのがアリストテレスであり、十二世紀ルネサンス以降西欧世界に受け入れられていく。一方、‘すべてのものは原子からできている’と初めに「 原子論 」を唱えたのはギリシャのデモクリトスで、その考えは、エピクロス、ルクレティウスから、ルネッサンス期以降ガッサンディらに受け継がれていく。この考え方が、後にニュートンらに影響を与える事になる、という事である。
爆発音の様に始まるこの異様な冒頭――グレゴリオ聖歌で使われる教会旋法の全ての音を楽器で全合奏するという、トーン・クラスターにも極めて近い音響と云われている( トーン・クラスターとは、ピアノの黒鍵と白鍵を混ぜて、片手のひらでいっぺんにバシャッと鳴らしたような音の塊 )――を思い出したわけだが、今回の災害を見るにつけ、その後に続く美しい舞曲の様に、秩序ある世界(コスモス)を一刻も早く取り戻したいものである。




ルベル&デトゥーシュ「四大元素」ルベル&デトゥーシュ「四大元素」
(2008/09/17)
クリストファー・ホグウッド

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22:52  |  古楽の世界  |  EDIT  |  Top↑

2009.12.01 (Tue)

ハンブルクの二つの赤煉瓦街 ―シュパイヒャーシュタットとバリーンシュタット―

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イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



Telemann - Hamburger Admiralitätsmusik


門前小僧は留学でハンブルクにいる都合で、いつもの音楽ブログの連載をお休みし、ハンブルクの名所の紹介に代えさせていただきます。






テレマン作曲  水上の音楽より「ハンブルグの潮の満干」( 6分30秒頃 )
演奏 ムジカ・アンティカ・ケルン



はじめに

今年2015年に日本では、「明治日本の産業革命遺産」として長崎市の軍艦島や北九州市の八幡製鉄所が世界遺産に選ばれ、大きな話題になりました。
実はドイツでも、今年ある産業遺産が世界遺産に登録されました。それが今回ご紹介する、ドイツ国内で最大の港湾を持つ都市、ハンブルクにあるシュパイヒャーシュタットSpeicher--stadt(「倉庫街」という意味)です。下の写真のでもご覧の通り、横浜の赤レンガ倉庫を思わせる景観です。



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Speicherstadt



ハンブルクにはまた、シュパイヒャーシュタットほど知名度はありませんが、もう一つの赤煉瓦街があります。それがバリーンシュタットBallinstadt(「バリ―ンの街」という意味)。
今回は、同じ赤煉瓦造りでも用途はそれぞれ異なるこの二つの産業・近代化遺産を通して、近代と現代のハンブルクを見直してみたいと思います。


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Ballinstadt



1.シュパイヒャーシュタットとは
シュパイヒャーシュタットは1885年から1913年にかけてハンブルク港湾の一角に築かれた、一連の倉庫群のことです。敷地面積は26ヘクタール、東西1キロメートル以上に渡って倉庫が続いています。 
倉庫やそれをつなぐ橋梁の設計を手掛けたのは建築家フランツ・アンドレアス・マイアーです。彼は設計に際し、当時流行していたネオ・ゴシック様式を取り入れました。そのため、倉庫とは思えない優美な建築になりました。
シュパイヒャーシュタットは第2次世界大戦の空襲で、他の建造物と同様、甚大な被害を受けた後、コンテナの普及など港湾施設の近代化が進む中、倉庫としての機能を失いました。代わりに現在ではオフィスが入居したり、ミニチュア博物館や飲食店等も入る、複合的なアミューズメント・パークに生まれ変わっています。その中で、今なおこの建造物の本来の機能を後世に伝えているのが、施設内の博物館です。


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2.シュパイヒャーシュタット誕生の背景
しかしそもそも何故、このような大規模な倉庫群がハンブルクに必要だったのでしょうか。それは当時のハンブルク市がドイツ帝国政府と結んだある協定と関係があります。
19世紀後半に入りハンブルク――起源としては中世のハンザ都市時代にまでさかのぼる、自治権を有する自由都市――としての地位を失い、統一されたドイツ帝国の一部になりました。その際問題になったのが、ハンブルク港に流入する輸入品の関税でした。ハンブルク市はそれまで、輸入品に関税をかけないことで、外国との貿易を発展させてきました。ドイツ帝国の一部に、ハンブルクがなったことで、ドイツの他都市と同様、輸入品への関税が必要になったのです。
しかしハンブルク市はこれに猛反対、帝国政府との交渉の末、1881年に妥協的な協定が両者の間で結ばれました。
これによって、ハンブルク市は例外的に市内に輸入品が免税となる地区の設置を認められたのです。
ハンブルク市はこの新しい地区を、旧市街のすぐ南側にある、港に面した一角に定めます。すぐ様、既にそこにあった1900戸の住居と24000人の住人を移転させた後、輸入品を保管する倉庫の建設が本格的に始まりました。
1888年には皇帝ヴィルヘルム2世を招いて落成式が行われましたが、その後も工事は1913年まで続きました。

3.シュパイヒャーシュタットの交易品
当時のシュパイヒャーシュタットで取引された商品には国外から輸入されたコーヒー豆や、茶葉、クルミを初め、香辛料やオリエントの絨毯もありました。これらはハンブルクを通してドイツ国内へ流通していきました。博物館には、シュパイヒャーシュタットの歴史の他に、こうした当時の交易品などに関しても展示がされています。 


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交易品に関する展示


4.シュパイヒャーシュタットとハンブルクの発展
こうした活発な交易の背景には何があったのでしょうか。
ここで当時の19世紀は産業革命の勃興によってドイツが経済発展し、対外貿易も活発になった時代であることに注意する必要があると思います。
ハンブルク市は、ドイツの対外貿易の拠点として、シュパイヒャーシュタットの建設以外にも港湾や他都市への鉄道路線の拡張を行い、ハンブルクの船会社も各国への航路を拡充しました。このように近代に始まり、現代まで続くハンブルクの発展の背景にはドイツ国内の経済発展とグローバルな貿易の展開があったことが、シュパイヒャーシュタットの歴史から分かるのではないでしょうか。

5.バリーンシュタットとは
バリーンシュタットとはハンブルク市の南部のフェデルVeddelに位置する、20世紀前半に建設された、移民のための滞在施設を指します。かつては55000㎡の敷地に30以上の建物が立ち並んでいました。ナチス政権期に施設は閉鎖され、道路建設のため多くの建物が破壊されました。2007年にこの地に博物館が建設され、往時を偲ぶことができます。

6.ハンブルクの移民とバリーン
しかし何故このような移民のための宿泊施設がハンブルクに必要だったのでしょうか。
その理由として重要なのは19~20世紀当時、ハンブルクがドイツ国内や東ヨーロッパなどから来た移民がアメリカ等「新大陸」に渡る際の重要な「通過点」であったことです。当時約500万人の移民がハンブルクに流入したと言われています。この移民を新大陸まで送るためにハンブルク港から数多くの旅客船が出港しました。バリーンシュタットを作ったアルバート・バリーンもまた、こうした新大陸への移民事業に携わる企業の責任者でした。


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Albert Ballin


彼の父親はデンマークからハンブルクに移住した移民で、ユダヤ系でもありました。彼は乗船手続きやビザ発給など移民手続きを仲介する企業を興しました。
息子のアルバートはこれを受け継ぎ、当時ハンブルク~アメリカ間の船運業の大手であったHAPAG(Hamburg-Amerikanische-Packet-fahrt-Actien-Gesellschaft )と張り合うまでに会社を成長させると、今度はそのライバルと提携、最終的にはHAPAGの取締役にまで出世しました。彼は皇帝ヴィルヘルム2世とも親交がありました。

7.バリーンシュタットの誕生
バリーンは、ハンブルクに来た移民が乗船手続きをする間、一時的に滞在する施設が必要であると考えました。1892年に初めて彼はその施設を建設し、1901年に現在のフェデルに移転させます。これが現在、バリーンシュタットと呼ばれるものです。 
ここでは移民は無料で住居や食事を提供されるだけでなく、病人に対する治療も行われていました。施設内には教会やシナゴーグなどの宗教施設もありました。バリーンシュタットは移民を保護する施設として、当時では先駆的であったといえます。


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博物館に再現された移民のための病院


8.バリーンシュタットの移民
このバリーンシュタットに到来した移民は様々な背景を持っていました。新大陸に渡る人々は豊かな人々から貧しい人々までおり、博物館に再現された当時の旅客船の客室から、両者の差が分かります。


Hamburg,_BallinStadt_museum_2015g

二等客室


Hamburg,_BallinStadt_museum_2015f

三等客室


貧しい移民はアメリカに渡っても、多くは「アメリカン・ドリーム」を実現できたわけではなく、依然として厳しい生活を送っていたことも博物館の展示は伝えています。 
また当時東ヨーロッパに数多く暮らしていたユダヤ人も19世紀後半から激化したユダヤ人迫害(「ポグロム」)や貧困から逃れ、新大陸へ渡るために、ハンブルクを訪れました。

9.バリーンシュタットと現代の移民
現在のバリーンシュタットには博物館しかありません。しかしそこを訪れる際に注意してほしいのは、実はその周辺街区に今なお移民が数多く暮らしていることです。現代ではヨーロッパ内だけでなく、中東やアフリカからの難民・移民が多いです。ハンブルク市も現在、深刻化する難民問題の対応に追われています。2014年度ではハンブルク市だけでも12000人以上が難民の登録を行いました。難民・移民をめぐっては国内では様々な議論もあります。このようにバリーンシュタットが今の我々に伝える「移民」というテーマは決して過去のものではなく、現代のハンブルク、そしてドイツの未来を左右する重要なものだといえます。

(門前小僧)


<参考文献>
 Martin Krieger. Geschichte Hamburgs. 2006. München.
 Matthias Gretzschel. Kleine
Hamburger Stadtgeschichte. 2008.
München.
 Die Hamburger Welterbebewebung.
Speicherstadt und
Kontohausviertel mit Chilehaus.
2014. Hamburg.
 http://www.ballinstadt.de/. 2015.09.30.
 http://www.hamburg.de/fluechtling
-daten-fakten/. 2015.09.30.





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2009.10.02 (Fri)

日本太古の管弦「雅楽」の楽の音(がくのね)

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イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。


     

武満徹の雅楽「秋庭歌」


秋の訪れを知らせてくれるものは、衣替え、赤とんぼ、秋雨、紅葉や枯れススキだったりするのだが、元気なチビッ子や若い人達にとっての秋は、運動会、秋の夜長を鳴き通す虫の声~♪、お月見とお団子、油ののった秋刀魚の匂い、期間限定の栗やサツマイモのスイーツ!だろうか…。さて虫の声と言えば、二年前、つくばの田舎に移り住んでからというもの、夏は蛙の大合唱に、秋は夜通し鳴き続ける鈴虫に毎夜悩まされ、ついに耳栓なしでは眠むれなくなり、田舎に住むという事はこういうことなのかと、しみじみ実感しているところである。おおげさなと、家族にあきれられるが、ついついその音色に集中してしまうのは音楽家の習性なのだ、と勝手に思っていた。ところが、物の本によると、虫の声や、雨・風、波の音などの自然音を、日本人は(日本語を初めから使っている人すべて)実は、音楽脳といわれている右脳ではなく、言語をつかさどっている左脳で感受し味わっているというのである。また、面白い事に、邦楽で奏でられる、琴、三味線、尺八、笛・太鼓など日本独特の楽器の音色も矢張り論理的な言語脳=左脳で感受されているとの事。これは、日本語においては、母音が意味を表わす言葉であり――例えば「イ」という母音の音が、井・意・医などといろいろな意味を表わしている――その母音に近いピッチや声色を持つといわれる日本独特の音や楽器が、あたかも ‘言葉のように意味あるもの’ として脳が判断してしまうためだという。( 左脳のウェルニッケ野という部分 ) 反対に我々が今学んでいるハーモニックな西洋音楽つまりクラシック音楽は、感覚的な音楽脳=右脳の方で感受するのだという。つまり、聴く音楽の種類によって、感受すところが違うというのか。(注 科学的にはっきりと証明されている訳ではありません。)それでは、人気のあるJポップや歌謡曲は?――言葉として左脳で聴いているのだろうか。音程やハーモニーをあまり気にしていないところをみると…?! という訳で、芸術の秋なのだが、虫のせいかこのところすっかり左脳にスイッチが入ってしまっているので、名月でも愛でながら、ここに千数百年間オリジナルのまま続く日本の美しい管弦楽、雅楽のCDでも聴いてみよう。




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東儀秀樹

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ロッテのグリーンガムのCM曲(Out of Border)
などでも活躍中の東儀秀樹さんの「やさしい気持ち」





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