FC2ブログ
2018年12月 / 11月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫01月

2017.03.20 (Mon)

ハチャトゥリアンの「剣の舞」――ソ連と祖国アルメニアのはざまに生きた作曲家

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 バレー音楽「ガイーヌ」の一場面
(有名な「剣の舞」は、3;30)

バレエの内容は当時のソ連各地に設置されていた「集団農場(農民が半強制的に集団で農作業を行う農場)」を舞台に、地質学者(!)のアルメニア人女性を中心として繰り広げられるロマンス。いかにも「社会主義国」らしい筋書きといえばそうだが…



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 劇音楽「仮面舞踏会」よりワルツ
往年のソ連・ロシア音楽の名指揮者と知られるV.フェドセーエフによる「仮面舞踏会」の堂々たる演奏。



今年はロシア革命が起きてちょうど100年目になるという。1917年、ロシアで皇帝(ツァーリ)による専制支配が、労働者や兵士など民衆により倒され、最終的にソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)と呼ばれる、世界初の社会主義国家が誕生した…世界史を習った人なら、このようなことを一度は学んだことだろう。しかし今この「ソ連」という国は世界地図でいくら探しても見当たらない。それもそのはず、この国は1991年に崩壊し、現在はロシアと周辺のいくつかの国々に分かれてしまったからである。
では、現在はすでに失われた国である「ソ連」や100年前の出来事であるロシア革命をここでわざわざ思い出すことに何か意味があるだろうか?実はそれらは普段私たちがよく耳にするあるクラシック音楽の作曲家と大きく関わっているのである。それが今回取り上げるハチャトゥリアンである。
ハチャトゥリアンというと、冒頭の木琴がけたたましく連打され、独特なリズムにあふれた舞曲「剣の舞」が音楽会などでよく演奏され、お馴染みである。またいささか旧聞に属するが、2010年のバンクーバー五輪で浅田真央選手がフリーの演技で使用した「仮面舞踏会」も同じハチャトゥリアンのものであるというのはご存じだろうか?一方は普通のクラシック音楽作品ではあまり類のない、どこか土俗的な民族的な音楽。もう一方ではいかにも西欧のクラシック音楽といえる優雅な音楽。その両方を作曲したハチャトゥリアンとは一体何者なのだろうか。その謎を解く手がかりとして、まず彼の出身に注目してみよう。「ロシア音楽の作曲家」にくくりられがちの彼は、実はロシア人ではない。彼の祖国は「アルメニア」という国である。




Aram_Khachaturian,_Pic,_17 

アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(1903-1978)。
プロコフィエフ、ショスターコヴィッチと並ぶソ連音楽の三大巨匠とされている。




Caucasus.png 

現在のコーカサス地方グルジア(ジョージア)より北はロシア連邦共和国内の自治共和国。
グルジア(ジョージア)、アルメニア、アゼルバイジャンは独立国である。



上の地図にあるように、西に黒海、東はカスピ海に挟まれたコーカサス地方にある日本の約13分の1という山がちな小国、それがアルメニアである。しかしハチャトゥリアンが生まれたのはこの国ではない。隣国であるグルジア(ジョージア)のティフリスが彼の生まれ故郷である。このようになった理由には、アルメニア人独特の歴史が関係している。
彼らは自らの王国を12世紀に滅ぼされて以来、各地に離散(ディアスポラ)しながら生活していた。ハチャトゥリヤンの祖先もその一人としてグルジア(ジョージア)に住み着いたと考えられる。
しかしこの状態はアルメニア人にとって必ずしも不遇なだけだったわけではない。彼らはやがて各地を結ぶ強固な商業ネットワークを構築し、中央アジア・中東地域一帯の交易の発展に大きな役割を果たすようになったのである。
彼らの多くは「アルメニア正教」という独自のキリスト教を信仰し、自らを「ノアの箱舟」で有名なノアの直系の子孫と信じた。そして箱舟が流れ着いたとされるアララト山(現トルコ東部)を自らの故郷と思い定めたのである。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 バレー音楽「スパルタクス」より
スパルタクスとフリーギアのアダージョ


アルメニア人は、こうした素朴なアルメニア人意識や神話は共有しつつも、長きにわたりオスマン帝国やロシア帝国など、当時コーカサス地方を支配していた大国の支配を受け入れてきた。
しかしハチャトゥリアンが生まれた1903年前後に彼らは大きな転機を迎える。それは支配者であるロシア帝国を通して近代化の影響を受け、ヨーロッパの「ナショナリズム」思想を受容したことである。この場合のナショナリズムの定義は様々にあるが、ここでは一人ひとりの個々人が、一つの国民(国がない場合は民族)= nationに属しているという意識を持ち、自らが住む土地において政治面、あるいは文化面で自ら決定する権利=自決権(国がある場合はこれを「主権」と呼ぶ)を主張する考えとしておこう(それは単に自らの国民(民族)が一番優れていると考える一般的なイメージとは区別されるものである)。この発想に、それまで支配者である大国の決定に従うだけであった当時のアルメニア人は大きな影響を受け、ナショナリズムの意識に目覚め、自らナショナリズム運動を組織していくのである。

しかしその際にアルメニア人はいくつかの大きな問題に直面していた。まず自らの土地、つまり領土をどのように定めるか、である。当時のコーカサス地方はアルメニア人以外にもグルジア人やトルコ系のアゼルバイジャン人など様々な民族が混住していた。つまりどこに境界線を引いても、異なる民族が同じ領土に含まれてしまうのである。とりわけ各地に居住するアルメニア人を一つの領土にまとめるのは容易なことではなかった。


  caoucas2_20170319101726191.jpg  

19世紀のコーカサス地方の民族分布図。中央から下の断片的にグレーになっている部分がアルメニア人居住地域。


もう一つの問題は、誰をアルメニア「民族」の一員として認めるかという問題である。各地に離散し、その結果様々な背景を持つようになったアルメニア人を、他民族と区別するような指標がなくては、「民族」の形成は図れない。その指標として必要になったのがアルメニア人独自の「民族文化」である。しかしその文化はそれまで自然に受け継がれてきたものでは不十分であった。例えばアルメニア語の話し言葉は、それまでアルメニア人同士でも異なっていたため統一する必要があり、起源そのものは古代まで遡るアルメニアン・アルファベットも、その習得のためにアルメニア人全体で教育する必要があった。また共通のアルメニア人意識を生む「民族文学」や「民族音楽」も新たに創造されなくてはならなかった。こうした課題に取り組み、「民族」を形成する行為を「ネイション・ビルディング」と呼ぶ。
自前の国家を持たないアルメニア人にとって自民族の「ネイション・ビルディング」を独力で行うのは非常に困難であった。しかしこうした行動ができなければアルメニア人はやがて周辺の他民族に同化し、アルメニア「民族」の形成に失敗してしまう。そこで彼らは支配者のロシア帝国が1917年に革命で崩壊した後の混乱に乗じて、アルメニア人国家の独立を図ろうとした。しかし体制を引き継いだソ連によってすぐに軍事的に制圧されてしまう。こうしてアルメニア「民族」の形成は儚い夢に終わるかに思われた…



ところが、新たな支配者となった「ソ連」は、それまで被支配者のナショナリズム運動を抑圧する傾向にあったロシア帝国とは異なっていた。
当時ソ連の指導者であったレーニンやスターリンは、多数派を占めるロシア人の他にも数多くの少数民族をかかえる旧ロシア帝国にあって、各民族のナショナリズム運動を抑え込むことで逆に反発を招き、革命間もない脆弱な政権が倒されるのではないか、ということの方を恐れた。そのため彼らは次のように考えた――むしろ各民族の「ネイション・ビルディング」を助ける方が良いのではないか。将来の国家は、こうした「ネイション」によって構成された「連邦」として再編されるべきである…―こうしてソ連は、「ソビエト社会主義共和国連邦」というその名の通り、各民族共和国の連邦となったのである。

ソ連はアルメニア人に限らず、国内の諸民族が抱えていた問題全般の解決にも積極的に取り組んだ。この一連の政策はロシア語で「コレニザーツィヤ(土着化)」と一般に言われている。まずどこに境界線を引いても、異民族が同じ領土に含まれてしまう問題については、ある国の中で少数派となった民族に政治的・文化的な「自治」を保障することが定められた。もしその自治区の中に他の少数民族がいれば、さらにそれにも自治を認める…これを繰り返すことで当時のソ連では村単位まで少数民族の自治が認められたのである。これによってアルメニア人にも現在のアルメニア共和国がある領域が「アルメニア民族の土地」として与えられた他、それ以外の国々の少数派アルメニア人にも自治が認められた。

一方で各民族の文化活動に際してもソ連は援助した。例として各民族共和国の学校で民族語の教育を積極的に行わせると共に、各地に設置した高等教育機関には地元の民族出身のための入学枠を特別に定め、民族エリートの養成を図る、などである。若きハチャトゥリアンもまたアルメニア文化の発展のために設けられた「ソヴィエト・アルメニア文化の家」に何度も通い、アルメニアの古典詩歌や演劇芸術を学んだという。

こうした非ロシア系の諸民族を優遇する一種の「アファーマティヴ・アクション」的な政策(多数派と少数派を実質的に平等にするために、少数派を優遇する政策)によって、ハチャトゥリアンにも音楽を学ぶ機会が与えられたのである。モスクワ音楽院に留学した彼は、当代随一の作曲家のミャスコフスキーに師事し、研鑽を積む。また作家のゴーリキーに出会った時は「作曲家は民謡を勉強しなさい!」という彼の発言に感銘を受けたという。卒業作品の「交響曲一番」はアルメニアの民族音楽の影響を強く受けたものとされている。

以後ハチャトゥリアンは、幼少期に親しんだ‘ アルメニアの民族音楽 ’と、音楽院で学んだ
‘ 正統なクラシック音楽 ’
の両方の素養を積んだ作曲家として、ソビエト楽壇で知られていくようになる。彼はロシアの詩人・作家であるレールモントフの戯曲を題材にした「仮面舞踏会」を純粋なワルツ音楽として仕上げる一方、彼の代表作の一つとなった「ガイーヌ(ガヤネー)」というバレエ曲(「剣の舞」もその一部に含まれている)は、アルメニアの伝統音楽を彷彿とさせるものにした。いずれもソ連の音楽界では大成功を収めた。他にもハチャトゥリアンは祖国のために「アルメニア舞曲」も作曲している。
当時、同僚で晩年は同じアパートに住んでいたショスタコーヴィッチは「芸術家と民族。アラム・ハチャトゥリアンの音楽の芸術を考える時真っ先に思い浮かぶのはこの対比である」と述べている。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 「アルメニア舞曲」



だが何故ハチャトゥリアンは作曲活動でこれほど「民族」にこだわったのだろうか?

この謎を解くには彼の嗜好だけでなく、当時のソ連の芸術家は政府によってある‘ 制限 ’が加えられていたことに注意する必要がある。それは当時、ソ連共産党が方針として掲げていた「社会主義リアリズム」に沿った作品を作るというものであった。この「社会主義リアリズム」、確かにそれ自体は「形式的には民族主義的、中身は社会主義的」といういささか曖昧な目標である。だが芸術にそもそも目的など必要だろうか…?芸術家には本来自由な活動が保証されてこそ、新しい芸術を創造できるのではないだろうか?
ソ連がこうした疑問を退け、自らを正当化した背景には、芸術家と一般の民衆の関係、ひいては芸術と政治の関係に関わる問題がある。
ソ連を生んだロシア革命の勃発時に、一度ここで戻ってみよう。

当時革命には、少なからぬ数の‘ 前衛的な芸術家(アヴァンギャルド) ’が関わり、中には革命側のボリシェヴィキ政権に参加する者もいた。彼らはこれまで現実と乖離してきた芸術が、政治に接近し、前衛的な芸術が‘ 大衆 ’に支持されることで「世界を変革する」ことを目指したのである。しかしこの芸術の‘ 政治化 ’や‘ 大衆化 ’は逆に言えば、芸術が政治に取り込まれ、体制側に都合よく利用されるという危うさもあった。
ソ連芸術の研究者イーゴリ・ゴロムシトクは「こうしたアヴァンギャルド芸術の内部で事実上作り出され、理論的に確立された」「大衆芸術の理念」が「後の全体主義美学の基礎」になったとさえ指摘している。


Stalin_Joseph.jpg 

ソ連の最高指導者スターリン。民族問題の専門家として知られ、「コレニザーツィヤ」政策を進める一方、芸術家への統制、反対派に対する容赦ない粛清を敢行し、「20世紀最大の独裁者」の一人とさえ言われている。



いずれにせよ、革命後に芸術と政治が一体化してしまったソ連では、芸術はもはや政治的な宣伝手段の一つとなり、内容的にも一般の民衆レベルでも理解可能な「分かりやすい」ものしか許されなくなってしまったのである。芸術家もまた先ほどの「社会主義リアリズム」の方針の下で、「人間の魂の技師」として社会に奉仕することを義務づけられる。前述した「コレニザーツィヤ」政策による民族文化の振興はその義務の一つだった。つまりハチャトゥリアンが「大衆にも分かりやすい」民族音楽を書き続けなくてはならなかったのにはこのような理由もあったのである。彼がかつて受けたソ連の「理想的な」音楽教育もこのように考えると、必ずしも肯定的ばかりには捉えられないだろう。

一方で当局に本来の目的から外れていると指弾されれば、その時点で芸術家はその活動を止めさせられ、運が悪ければ粛清の対象にまでされる可能性さえあった。党のイデオロギーに比較的忠実であったハチャトゥリアンでさえ、一時ショスターコヴィッチらと共に「ジダーノフ批判」と呼ばれる党からの批判を受けて、「自己批判」を公にすることを余儀なくされたのである。当初ボリシェヴィキ政権に賛意を示したアヴァンギャルド芸術家の多くは既に迫害の対象になっていた。



ハチャトゥリアン自身が、こうした民族文化の振興と芸術家の統制が表裏一体となったソ連の文化政策をどのように考えていたか、ソ連時代の伝記しか残っていない現状では正確にはわからない。しかしここで興味深いのは、彼が晩年アルメニア音楽と西欧のクラシック音楽の関係について次のように発言していることである。
「私がいくらあらゆる音楽言語の中でもがいたところで、所詮私はアルメニア人なのだ。しかし、ヨーロッパ人としてのアルメニア人であって、アジア人ではないのだ…我々は文化の高いヨーロッパ民族であることを知るべきだ」。ここには「アルメニア」というソ連の辺境国出身の音楽家の屈折した心情が読み取れる。いくら「コレニザーツィヤ」という形でソ連が各民族の民族文化の創造を手助けしたとしても、そうした文化は、少なくとも音楽面においては「文明的なヨーロッパ」があくまで模範であり、価値基準とされていることをこの発言は示している。
しかし一方で彼は、アルメニアの民族音楽に西欧のクラシック音楽を折衷した自身の作品について「様式がどことなくぎこちなく、ちぐはぐな感じ」がすると言い、「もっと徹底的に様式をつき離し、断固として自分の様式を作るべきだったかもしれない」とも回顧している。しかし大衆に受ける「社会主義リアリズム」の路線に彼が乗り続けている以上、そうした自己表現の探求には限界があったことも明らかだろう。

ソ連の民族政策と文化政策。この大国の政治を利用することで、ハチャトゥリアンは個人的な成功を収めることが出来、アルメニア音楽のためにも貢献できた一方、創作活動の上ではある種の限界をあらかじめ定められてしまったといえるのではないだろうか。
ところでその内容の真偽をめぐって今なお議論が続いている問題の書『ショスタコーヴィッチの証言』には、こうしたハチャトゥリアンなどの体制側の音楽家に代わり、「自分自身の道を探求しなくてはならない」とする「民族共和国の新しい作曲家」の出現について触れられている。そうした野心的な彼らの活動については次回、詳しく見ていくことにしよう。

テリー マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国―ソ連の民族とナショナリズム、1923年~1939年』(明石書店、2011年)
イーゴリ ゴロムシトク『全体主義芸術』(水声社、2007年)
ヴィクトル ユゼフォーヴィチ『ハチャトゥリアン その生涯と芸術』(音楽之友社、1998年)

イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 バレー音楽「ガイーヌ」より剣の舞
ゲルギエフとウィーン・フィルによる「剣の舞」の演奏。
尋常でないスピードだ…由に起こるべくして起こるハプニング?


(門前小僧)



 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!


11:20  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2016.12.18 (Sun)

ボロディン「中央アジアの草原にて」と「だったん人の踊り」―― ロシア人とタタール人の物語

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ボロディン作曲  「中央アジアの草原にて」   (YouTubeより拝借)

ロシアの皇帝アレクサンドル二世の即位25周年を祝ってボロディンが「中央アジアの草原にて」を作曲したのは1880年である。この曲は、ロシア風の主題と東洋風の主題が交互に現れ、クライマックスでは二つが重なり、ハーモニーを奏でる。それはあたかも、ガスプリンスキーの抱いた、ロシア人とタタール人の共生の夢を表しているかのようだ。



ボロディンの「中央アジアの草原にて」や「だったん人の踊り」といえば、名曲アルバムのCDにもしばしば取り上げられる代表的な管弦楽の名曲だろう。基本的なテーマは二つしかない単調なものでありながら、どこか聴く人に懐かしい想いを抱かせる悠然とした前者と、荒々しいリズムと勇壮なメロディーで、聴く人を圧倒的な熱狂に追い込むような後者。この2つの曲には作曲者が同じである以外にもう一つの共通点がある。それはどちらも中央アジアや、その地域一帯に住む騎馬民族、タタール人をイメージして作曲されたという点である。だが作曲者ボロディンはロシア人。何故ロシア人がタタール人の曲を作曲しようとしたのだろうか?そもそもヨーロッパのロシア人とアジアのタタール人の間にどのような関係があったのだろうか?



220px-Borodin_CuiIP_119_600.jpg

アレクサンドル・ボロディン(1833~1887) 「ロシア5人組」の一人で、本業は化学者、医師だった。



cis_europe_pol_95.jpg

中央の黄色の範囲がロシアで、西側がベラルーシやウクライナなど東欧 (南に黒海が控える)、東側の緑色が中央アジアのカザフスタン (南にはカスピ海)、黒海とカスピ海に挟まれているところがコーカサス地方となっている。

地図で見ると分かるが、ヨーロッパの東端に位置するロシアは同時に中央アジア(カザフスタンやトルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスなど)への入口でもある。ヨーロッパとアジアの中間という、この地理的特徴は、西欧諸国などとは異なる、ロシアの歴史に独特な歴史を刻印することになった。


ロシアには元々スラヴと呼ばれる、共通の言語集団が存在したが、国家としての歴史は、一般的には8世紀頃、北欧から「ヴァイキング(ヴァリャーグ)」が移住し、自らの国々を建国していくところから始まる。これらを「ルーシ」と呼ぶのだが、これが現代の国号の「ロシア」の名称につながるのである。
最初に統一されたルーシ国家は、キエフ(現ウクライナの首都)に本拠を置くキエフ大公国(キエフルーシ)であった。同国は隣国のビザンツ帝国(東ローマ帝国)から東方キリスト教を受容し、支配下のスラヴ人に布教を推し進めた。
キエフ大公国は9世紀前半、ウラジミール一世の時代に最盛期を迎えるが、一方で東方のトルコ系 騎馬民族「ポロヴェツ(キプチャク)人」の侵入を度々受け、徐々に衰退し、国内も諸侯が群雄割拠するようになる。

この様な時代に、ボロヴェツ人からルーシを守ろうとしたのが、このオペラの主人公イーゴリ公であり、この伝説的な英雄イーゴリ公ポロヴェツ遠征を行ったという史実を題材に、『イーゴリ遠征物語』が書かれた。これを後年オペラにしたのがボロディンで、「だったん人の踊り」はその一部のバレー音楽である。
実はこの名称は、もともとは「ポロヴェツ人の踊り」だったのである。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ボロディン作曲 オペラ「イーゴリ公」より 『だったん人の踊り』
ゲルギエフ指揮、キーロフ歌劇場(現マイリンスキー歌劇場)公演。



ボロディンのオペラ「イーゴリ公」については詳しく紹介したサイトもあるようなので、内容はここでごく簡単に触れておく。ただ原作の「イーゴリ遠征物語」もそうなのだが、このオペラは英雄譚というには、少々意外な筋書きである。というのも主人公であるルーシ諸公の一人イーゴリは、息子ウラジミールを従え、先ほど触れたポロヴェツ人と一戦を交えるのだが、肝心の戦いには負けてしまうのである。そして息子共々ポロヴェツ人の捕虜になってしまう。しかしポロヴェツ人の長(ハーン)は何故か、勇ましく戦ったイーゴリにほれ込み、自らの側につくよう勧誘する。それだけではない。いつの間にかウラジミールはハーンの娘と恋仲になってしまうのだ(結局ハーンの娘婿となってしまう)。しかしイーゴリは勧誘をはねつけ、隙を見て決死の逃亡を果たす。
さて一方、イーゴリ不在となっていたルーシ国は、その間にイーゴリの妃の兄ガーリチ公によって乗っ取られそうになっていたのだが、イーゴリの帰還によって君主の地位を奪還するに至る。話はそこでめでたしめでたしと大団円になっておしまいになってしまうが、ハーンの娘婿になったウラジミールのその後はどうなったのか…など、肝心の点は不明確なままだがそれもそのはず、実はこのオペラは未完だった為、ボロディンの死後、同じ五人組の1人リムスキー・コルサコフなどによって補われたものなのである。


それでは何故「ポロヴェツ人の踊り」がいつの間にか「だったん人の踊り」になっていたのか。
それを知るにはさらに13世紀以降のロシア一帯の歴史を知る必要がある。
その頃になると、東方から、ポロヴェツ人を超える、別の最強の 騎馬集団が侵略していた。それが「モンゴル人」の襲来である。彼らはキエフ大公国を瞬く間に侵略すると、更に西に進出し、ドイツ・ポーランドの連合軍をワールシュッタット(レグニッツァ)の戦いで破った。一時はイタリアに面するアドリア海にまで進出し、ヨーロッパ人を恐怖に陥れたモンゴル軍であったが、モンゴル帝国の君主オゴタイ・ハンの死去によって、遠征は中断される。
しかし、その後再び征服されたルーシ(ロシア)は約250年に及ぶモンゴル人の支配下に置かれる事となった。
これが教科書の世界史にも出てくる「タタールのくびき」である。(1236~1480)
‘ タタール人 ’とは、支配する側のモンゴル人や配下のトルコ人など含む、「非ロシア系」の遊牧民を指す言葉として、この時から用いられたのである。

この「タタールのくびき」であるが、言葉の印象とは裏腹に、最近の研究では、実態は必ずしもタタール人の圧政ではなかったことが明らかになっている。そもそも当時のルーシ(ロシア)の大半は旧来の諸侯が治め、モンゴル人君主は‘ 間接統治 ’という形でしか、力を及ぼしていなかった。ロシアの正教徒もハーンの庇護のもとにあった。また中国からロシアまで、広大な地域を支配していたモンゴル帝国は、一種の「ユーラシア経済圏」を作り出し、ルーシ諸侯も少なからず、それから恩恵を受けていたのである。
文化的な影響も以外なところに見られる。例えばシャラポワ、ラフマニノフ、そしてツルゲーネフ。日本でもよく知られているこれらの名前は、ロシアとタタール人などの関係を研究している濱本真実氏の著書『共生のイスラーム』(山川出版社、2011年)によると、実はその由来はタタール人の話すアラビア語やテュルク語であるらしい。またチェチェン人など現在のロシア国内に住むムスリムも、この地域に移住してきたタタール人が祖先であった。
一方で、毎年タタール人に貢納を納めるように、ルーシ(ロシア)が義務づけられていたのも事実である。濱本氏の指摘の通り、「タタール人によるロシア支配が結局のところロシアにとってよかったのか悪かったのかの判断はどこに視点をおくかによって変わってくる」のだろうが、現在では、「タタール人のくびき」という名称も、後年再び力を盛り返したルーシ(ロシア)の統一とタタール人支配に対抗したロシア人が、タタール人支配の過酷さを強調するため使用したと考えられている。
 


1380年のクリコヴォの戦いでロシア側の「モスクワ大公国」は、初めてタタール人側を破る事になる。そして15世紀に内部分裂によって衰退したタタール人側の領土を、今度はイスラーム教勢力に対する「キリスト教の拡大」の名の下、侵略を開始するのである。この領土は具体的には、現在の東ウクライナからヴォルガ川沿岸、そしてコーカサス地方に至るステップ地帯であった。――ステップ(ロシア語:степь stepʹ、ウクライナ語:степ step、英語:steppe)は、中央 アジアのチェルノーゼム帯など世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥 した土地」の意味。
ついにロシアは、1552年にはタタール人国家の一つ、カザン・ハン国を征服する。
一方タタール人側も黙ってはいない。クリミア半島にいたチンギス・ハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイによって建国されたクリミア・ハン国は、ロシア側とステップ支配をめぐって熾烈な抗争を繰り広げた。




Crimean_Khanate_1600.gif

16世紀のクリミア半島。中央にあるのが黒海で、その北側の黄色い部分がクリミア・ハン国、その左上(紫色の部分)がポーランド=リトアニア王国、右上(黄土色の部分)がモスクワ大公国。黒海の南側(赤色の部分)はオスマン帝国。



高校世界史にもあまり登場しない、このクリミア・ハン国というタタール人国家は、ロシアと同様、ヨーロッパとアジアの中間に位置していた。その地理上の特性を生かし、同国は15~16世紀当時、ヨーロッパや中央アジアに一定の政治的な影響力を持っていた。時には、ロシアの敵である、隣国のポーランド=リトアニア王国やスウェーデンなど、、ヨーロッパ諸国とも手を結び、モスクワまで遠征を行ったこともあった。また近隣に住むウクライナのコサック集団にも文化・風俗に大きな影響を与えていたという。(コサックという言葉も「カザフ」というトルコ語から来ているらしい)。
しかしクリミア・ハン国の懸命の努力にもかかわらず、ロシアのステップ支配をくい止めることはできなかった。同国もまた、1768年のキュチュク・カイナルジャ条約によって、今まで後ろ盾であった隣国オスマン帝国の宗主権を失い、後にロシア帝国に併合されてしまう。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ボロディン 「イーゴリ公」序曲



ではロシアは支配下のタタール人をどのように支配したのだろうか。その際、特に問題になったのが宗教政策である。タタール人が信仰するのはイスラーム教であったが、一方ロシアはキリスト教のロシア正教会が中心。そのためロシア政府は一時イスラーム教を厳しく弾圧し、ロシア正教への改宗を迫ることがあった。しかしそれが激しい抵抗を生むことが分かると、異民族統治の観点から寛容なものに変えたり、またそれが戻ったりとロシアの政策は度々変わった。だが全般的には次第に寛容なものへと移っていったようだ。特に1773年に宗教寛容令を発布した啓蒙専制君主エカチェリーナ二世は、イスラームを奉じるタタール人貴族をロシア人貴族と同等の地位を与え、官製モスクの建設も行った。1789年にはロシア帝国内のムスリムを管轄するムスリム宗務協議会が発足した。
これに対し、タタール人側も徐々にロシア政府に協力する姿勢を見せる一方で、自らのイスラム文化の復興にも力を入れ始めた。その担い手になったのは、中央アジアの綿花の通商などによって財力を蓄えたタタール人商人であり、彼らは自らの故郷にモスクやマドラサ(イスラーム教学院)を建設した。タタール人商人の中にも、ロシア語やロシア文化の受容の方に進む方もおり、ロシア・ムスリム社会の近代化の原動力にもなったことを濱本氏は指摘している。



19世紀に入ると、ロシア皇帝ニコライ一世の反動的な政策がムスリムに警戒心を与える中、タタール人はムスリムとしてだけでなく、自らの「タタール人意識」に目覚め始める。タタール人知識人らの手によってタタール語の文法や正書法が確立し、タタール人向けの新聞が発刊された。クリミアでこうした民族運動の中心になったのがイスマーイール・ガスプリンスキーという人物である。彼はイスラームに基づきながらも、世俗的な要素(例えば近代的な教育制度)も取り入れた、全トルコ系諸民族の復興運動、いわゆる「ジャディード運動」を主導した。
しかしガスプリンスキーはこれによって、必ずしもロシア人に対抗しようとしたわけではない。むしろ彼はロシアの支配下で、タタール人が同国から近代化の恩恵を受けていることも自覚していた。つまり彼が目指したのは、タタール人が自らの民族文化を復興させることで、誇りを取り戻すとともに、政治的にはロシア人と「共生」することであったと濱本氏は指摘している。タタール人の近代化のモデルとして、ロシア人を「兄」と捉えるガスプリンスキーは次のような言葉を残している。「光だ、光をわれわれに与えてほしい、兄たちよ」。


250px-IGasprinskiy.jpg

イスマーイール・ガスプリンスキー(1851~1914)


しかし、20世紀にタタール人の運命は激変する。ロシア革命によって共産主義政権が誕生し、タタール人の新たな希望になるかと思いきや、彼らを待ち受けていたのは、第二次世界大戦中のスターリンによる、過酷な弾圧政策であった。クリミア・タタール人は故郷のクリミア半島から、中央アジアへ強制移住させられ、その途上で多くが亡くなったといわれている。その後故郷に帰還を果たしたクリミア・タタール人は現在でも難しい立場に置かれている。昨今のクリミア半島の帰属問題をめぐって、ロシアとウクライナのはざまで揺れているからである。

このようにロシア人とタタール人の関係は歴史上、非常に複雑な過程を経てきた。ボロディンの二つの名曲も、こうした歴史的背景を踏まえて改めて聞いてみると、その何気ない旋律に、心を動かされるものがあるのではないだろうか。少なくとも私にはロシア人とタタール人の現代に至るまでの1000年以上に及ぶ交流と葛藤の物語が目に浮かんでしまう...



最後だがこの「イーゴリ公」を1969年に当時のソ連がオペラ映画にしている(作品はDVDなどでは絶版になっているがyoutubeで英語字幕のものが見られる)。ロシアと共に、かつて中央アジア各国もその一部であったソ連の作品らしく、中央アジアの大平原を背景として、黒澤映画さながらに何十騎もの騎馬隊が疾走する場面や、遊牧民(?)のエキストラを大量動員して、「だったん人の踊り」を再現するなど、相当な熱の入れようである。かつての「多民族帝国」ソ連らしい芸術作品の一つとして、気になる方はぜひ見てみてほしい。

濱本真実『共生のイスラーム―ロシアの正教徒とムスリム』(山川出版社、2011年)
チャールズ キング『黒海の歴史――ユーラシア地政学の要諦における文明世界』(明石書店、2017年)

(門前ノ小僧)



 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!
00:00  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2015.04.25 (Sat)

ホルスト『惑星』は「オカルト」?― 近代ヨーロッパ・アメリカのスピリチュアリズムと知識人

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ホルスト作曲 組曲「惑星」より『木星』。
宇宙ロマンと人類の英知を感じさせる今でも充分に新鮮な名曲。
レヴァイン指揮シカゴ交響楽団
( 有名なテーマが出てくるのは3分前後 )





マルコム・サージェント指揮 「惑星」より『火星』



ホルスト:惑星ホルスト:惑星
(2002/10/25)
ボールト(エードリアン)

商品詳細を見る




出だしから、弦楽器が弓の「木」の部分を打ちつけて
リズムを刻んでいるのがお分かりだろうか。
このコル・レーニョ奏法といわれる特殊な奏法により
刻々と迫りくる不穏な空気を表しているようだ。
第1曲目の「火星」は‘ 戦争をもたらす者 ’という副題が付いている。
火星は占星術では、戦争の神マルスと呼ばれて、火星が地球に近づく年は
何かと戦争の絶えない年であった。(2曲目~以下参照)
イギリスの名指揮者A・ボールトによる『惑星』。
指揮者ボールトはこの作品を生前何度も録音する程に、異常な執着を見せている。
彼はこの曲の真価を知っていた?



ホルストの組曲『惑星』。誰でも一度は聞いたことがあるクラシック音楽の名曲中の名曲だろう。特に第4曲目の「木星(ジュピター)」は親しみ易く、日本のシンガーソングライターも歌詞をつけて一時大いに売れた。しかしこの『惑星』という曲と作曲者ホルストについて私たちは案外知らないことが多い。
例えば、何故ホルストは「惑星」をテーマにした曲を作曲したのだろうか。彼が天文学ファンだったから?ではない。21世紀の我々現代人からすると「惑星」と聞くと、つい宇宙の謎を解明すべく探索の対象として目指す「星」を連想しがちだ。が、ホルストの「惑星」とはそういった天文学的なものではなく、実は「占星術」の星を指していたのである。
以下のそれぞれの惑星の曲についた副題を見てほしい。

火星、戦争をもたらす者
金星、平和をもたらす者
水星、翼のある使者
木星、快楽をもたらす者
土星、老いをもたらす者
天王星、魔術師
海王星、神秘主義者

このようにそれぞれの惑星には性格が与えられている。実はこの性格は占星術における「天宮図(ホロスコープ)」の考えを参考につけられたものだ。‘ 天宮図 ’といえば、星占いに詳しい人ならそれぞれ特徴を持っている星の運行によって、自分の運勢をみるという時におなじみのものだろう。ホルスト自身、晩年身内に自分の天宮図を配っていたという。この様な事からも、彼は空に浮かぶ美しい星そのものではなく「占星術」に興味を抱き、それに基づく惑星の性格に合うように作曲をしていたと思われるのである。


Gustav_Holst.jpg

グスターヴ・ホルスト(英 Gustav Holst)1874-1934
皮肉にも自分の作品の中で、最も『惑星』が大衆受けしたことを嫌っていたらしい。



何故ホルストは「占星術」の音楽を書いたのか?彼は星占いでもしていたのだろうか?そこまでは分からないが、彼は実際、占星術にはかなり関心を抱いていたようだ。実はホルスト、かなり不思議な人物である。『惑星』以外に彼の曲を聞いた人はあまりいないと思うが、それもそのはず、彼の他の作品は『惑星』とその後に作曲した『イエス頌歌』以外は、生前母国イギリスの聴衆にさえほとんど受け入れられなかったのだ。アメリカに於いては、彼が自分のオペラを演奏したところ、チケット代を返せ、と文句が来るぐらい不評であったという逸話まである。「受けない」理由は、内容が難解すぎるのと、ある評論家の評に従えば「知的すぎる」からだという。
それならばと、ホルストの主な作品を実際に見てみよう。すると『アヴェ・マリア』(1900)や『吹奏楽のための組曲第1番 変ホ長調』(1909)などごく普通と思える作品も多くあるではないか。だがよくよく作品を眺めてみると…

交響詩『インドラ』(1897-8)
歌劇『シータ』 1899-1906
歌曲集『リグ・ヴェータ讃歌』(1907-8)
歌劇『サーヴィトリ』(1908)
『リグ・ヴェーダ』からの合唱讃歌(1908-12)
東洋組曲『ベニ・モラ』(1911)
日本組曲(1915)

ここに挙げたのは、題名からも分かるように、ホルストが主にインドなど東洋をテーマにした作品である。中には日本のものまである。彼は実際インドにはかなり入れこんでいたようで、自らサンスクリット語を勉強し、古代インドの聖典を読もうとした。彼の義理の弟によると「グスターヴ・ホルストの宗教的な理念は仏教をベースにしていた」(British Music and Modernism, 1895-1960.P.111)

‘ 占星術 ’と‘ インド ’。ホルストは一体何を考えているのか、とこれらの作品の演奏を聞いた当時の聴衆ならずとも思うだろう。だがホルストの周辺を調べると、この二つに関係を持たせるものが実は発見できる。それは「神智学」である。

「神智学」とは19世紀後半からヨーロッパで流行した、一種の「オカルト」宗教である。ただここで誤解のないよう注意したいのはこの際の「オカルト」の意味である。そもそもオカルトといわれた宗教の起源は、ヨーロッパにおいては、カトリックという“正統派キリスト教会”とは異なる信仰体系(異教や異宗派)にあった。その信徒は近代までカトリックにより激しく弾圧されてきたために、外部の人間に対し自らを閉ざすようになった。つまり教団内部に複雑な規則を定め、信徒になるために、様々な儀式を経ることを義務付けたのである(フリーメーソンや薔薇十字団など)。またカトリック教会がギリシャ哲学と結び付くことで人間の理性に重きを置き始めたのに対し、異端的な宗教の中には‘ 理性を越える人間の超自然的な力 ’を唱えるものも出てきた。
近代以降になると、かつて絶対的な権威を持っていたキリスト教会は力を失っていく。それと共に弾圧も緩み、ここにきて初めて、従来のキリスト教にない内容を持つ異教や異宗教、つまり「オカルト」と呼ばれた宗教が人々の関心を惹き始めた。神智学はそうした流れの中で生まれたのである。

この「 神智学 」の創始者は、ヘレナ・P・ブラヴァツキ―、通称ブラヴァツキ―夫人という女性である。ロシアに生まれた彼女は、小さい頃から霊感が強く、結婚したが長続きせず、家を飛び出してしまう。その後ブラヴァツキ―夫人は世界各地を放浪し、様々な‘ 占星術 ’や ‘ 神秘主義宗教 ’に影響を受け、フリーメーソンや薔薇十字団など秘密結社ともかかわるようになった。やがて1875年にアメリカで「神智学協会」を組織し、彼女自身の教義をそこで説き始める。その内容はかなり難解で、様々な神秘主義の折衷といわれることもある。その内容は後で少し触れよう。興味深いのは神智学協会が世界中に広まり信者を獲得する一方、1878年に本部をインドに移転し、それに伴い自らの教義の中にも‘ インド思想 ’を多く取り入れていったことだ。ブラヴァツキー夫人も『インド幻想紀行』という本を著し、彼女の次の神智学の代表であったアニー・ベサンドはインド人の若者ジッディ・クリシュナティを後継者にしようとして、協会内で騒動になった。このように神智学の上で占星術とインドは関係がある。


オカルト(occult)
神秘的な、密教的な、魔術の、目に見えない、秘学、超自然的。

                       (Wikipediaより)


200px.jpg

ヘレナ・P・ブラヴァツキ― (Helena Petrovna Blavatsky)1831-1891




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



『リグ・ヴェータ賛歌』の一部から。
『惑星』よりも一層神秘的な感じだが、現代の私たちからすると、
それほど聞きにくくはないようにも思うのだが…

※『リグ・ヴェーダ』(ऋग्वेद Rigveda)は、古代インドの聖典であるヴェーダの1つ



それでは、ホルストと神智学にはどのような関係があったのだろうか。
まず彼の義理の母は地元の神智学協会の秘書として働いていた。またホルストは『惑星』を作曲するにあたり、友人で劇作家のクリフォード・バックス(Clifford Bax)から占星術を教えてもらっていた。何故バックスは占星術に関心を持っていたのかと云うと、アイルランドに旅行した際に、そこで「神智学の詩人」と呼ばれ、民族主義者でもあったジョージ・ウィリアム・ラッセル(George William Russell)に出会い、感化されたことがその一因かもしれない。彼はラッセルと一緒に「オルフェウス Orpheus」という名の神智学系の雑誌まで出している。
ラッセルは神智学に基づく社会の目標を3つ挙げている。
①人種や信条、階層や肌の色で区別することなく、普遍的な人類同胞愛の核を形成すること
②アーリア系や東方の文学、宗教、そして科学の研究を促進し、その重要性をはっきり示すこと
③自然の説明されていない法則や、人間に潜在する精神的パワーを調べること (AE in the irish Theosophist)

当時ヨーロッパで支持者を増していた人種主義を否定し、インドも含むアーリア系の宗教や神秘主義を広く研究しようとするこの神智学信徒の考えが、ホルストの神秘主義やインドへの関心を生んだとまではいえないまでも、それらを高めた可能性は高い。


220px-Clifford_Bax.jpg

クリフォード・バックス(Clifford Bax)1886-1962

220px-George_William_Russell_-_Project_Gutenberg_eText_19028.jpg

ジョージ・ウィリアム・ラッセル (Geroge William Russell)1867-1935


ではホルストがある種の「オカルティスト」であったのかというとそういうわけでもない。『惑星』作曲後には占星術への彼の関心は下がったとも言われている。そもそもホルストはオカルティストどころか、生前は女学校の教師という「堅気」の生活を送る知識人であった。重要なのは何故そうした知識人がオカルト的なものに魅了されるようになったのか、ということである。興味深いことにホルストと同時代の作曲家のスクリャービンやエリック・サティもまた神秘主義に影響されていた。何故ここまでオカルトやスピリチュアリズムが影響を持ったのか。ここで、当時のヨーロッパの知識人がオカルトをどのように捉えていたかを考えてみよう。するとそれが今とはかなり違っていたことが分かる。

現在オカルトやスピリチュアリズムというと、現実にはありえない現象を、さも本当にみせかけるもののように思われ、まともにあつかわれことは少ない。しかし19世紀後半から20世紀にかけてのアメリカやヨーロッパの一部の知識人は違った。これについては上山安敏氏の研究が詳しい。氏によると一部の知識人、特に心理学者はテレパシーやポルターガイスト(そこにいる誰一人として手を触れていないのに、物体の移動、物をたたく音の発生、発光、発火などが繰り返し起こる現象)、心霊現象を大真面目に研究していたのである。

ホルストのイギリスを見てみると、1882年に心霊現象研究協会が発足した。そのメンバーや支持者には驚くべきことに、ノーベル賞を受賞した科学者はもとより、仏の哲学者のアンリ・ベルグソン、後に外相になりイスラエル建国に関わる重要な宣言を出した大物政治家A・J・バルフォア、そして『シャーロック・ホームズ』の著者としてあまりに有名なA・コナン・ドイル、『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルが入っていた。アメリカでは1848年のフォックス姉妹の事件もあって心霊現象の関心が高まり、米の心理学の重鎮W・ジェームズを中心に心霊現象研究会が1885年に発足している(フォックス姉妹の事件とは、誰もいないのに姉妹の家の壁を叩く音が聞こえ、姉妹がYESなら叩く音を1回、NOなら2回と頼んでみたところ、音を叩く主の「心霊」がそれに従い、彼女らと交信できたという事件である)。またフランスでは1900年の万国博覧会の期間中に、催眠術学会や動物磁気学会が開かれていた(動物磁気とは動物に磁石をつけると流れると当時信じられていた磁気。病気の回復や催眠術に役立つと考えられていた)。

こうしたオカルト現象の流行は当時の心理学に大きな影響を与えた。当時心理学や精神医学では、その発展と共に、それまでの理論では説明のつかない心の病に対し関心が広がっていた。神経症(ヒステリーなど)や統合失調症(幻覚など)などによって、本来「理性的」であるはずの人間が起こす通常では不可解な症状を説明するためには、普段の意識とは別のレベル、つまり「無意識」の面に目を向ける必要があるのではないか。そう考えたのは、精神分析の父、フロイトであった。彼が患者の見る夢から、患者の無意識にある心理を見出そうとした「夢診断」は有名である。このフロイトに共鳴したのが、同じく後に心理学の重鎮となるユングであった。2人は無意識をどう探りだすか、という問題にさらに切り込んでいこうとした。その際に注目したのが、通常では人間が見せることのないものを見せてしまうオカルトやスピリチュアリズムだったのである。


Sigmund_Freud_LIFE.jpg

ジーグムント・フロイト (Sigmund Freud)1856-1935


CGJung.jpg

カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)1875-1961



だがオカルト現象やスピリチュアリズムをどう捉えるかで、師のフロイトと弟子のユングは微妙な違いを持っていた、と上山氏は指摘する。確かにフロイトは、ウィーンの神智学のリーダーであったフリードリヒ・エックシュタインと交際するなど、若いころからオカルトには関心を寄せていた(エックシュタインは神智学に傾倒した後、それから離れ独自の「人智学」を創始したR・シュタイナーを初めてブラヴァツキー夫人に引き合わせた人物である)。彼はまた自身の著書で神秘主義者の無意識の分析を評価していたそうである。
しかしフロイトはあくまで唯物論(世界はモノから出来ているという考え方)の立場からオカルト現象やスピチュアリズムの原因を科学的に分析しようとした。つまり現象をうのみにせず、その裏に実際どのような精神的な疾病や欠陥が隠されているか、精神分析を用いて明らかにしようとしたのだ。例えば後年の『モーセと一神教』では聖書の記述の矛盾から、ユダヤ人によるモーセの殺害という大胆な仮説を提起し、それが一種のコンプレックスとなって、ユダヤ人の心理に長く影響を与えたと考えた。
一方ユングは一歩進んで、スピリチュアルな現象そのものが、人々の根源的な無意識にある「心理」を表現していると考えた。
こうしてフロイトとユングはオカルトやスピリチュアリズムの解釈をめぐり対立する。ある日2人が「予知」の存在について議論をしていた時、フロイトがそれを拒絶すると突然傍らの本棚から物音がした。ユングはそれをポルダーガイストだ、もう一度起こる、と予言したところ、本当にもう一度物音がしたという。このような嘘のような本当のような逸話の真偽はともかく、フロイトとユングは1913年にとうとう決別してしまう。

こうしたフロイトとユングの対立点は実は同時代の他の知識人の間にも見られることを上山氏は他の著書で明らかにしている。フロイトのようにオカルトに関心を持ちつつも理性の側に踏みとどまって、オカルトをあくまで科学的見地から研究するのか。それともユングのように一歩踏み越えて、スピリチュアルな現象そのものに価値を見出すのか。後者が、晩年アーリア神話を賛美したナチスと近かったといわれることも考えるとこの問題は一層複雑である…

それはともかくとして、近代のアメリカやヨーロッパのオカルトブームは単に一時の流行では終わらなかった。それは理性では説明のつかない無意識や非合理主義への人々の関心を高め、実際に心理学などで重要な知的遺産を残す一方、知識人の間に亀裂を生むことにもなった。このように考えると、同時代を生きた知識人のホルストが、占星術をテーマにした曲を書いたのは特におかしなことではないと分かるだろう。今度『惑星』を聞く機会があれば、宇宙だけでなくホルストの生きた20世紀の社会や思想にも思いを馳せてみてみると、この曲の違った魅力が見えてくるのではないだろうか。



フロイトとユング――精神分析運動とヨーロッパ知識社会 (岩波現代文庫)フロイトとユング――精神分析運動とヨーロッパ知識社会 (岩波現代文庫)
(2014/09/17)
上山 安敏

商品詳細を見る


思想史学者の上山安敏氏がフロイトとユングの対立を軸に、自身の該博な知識をもって、近代ヨーロッパの思想的潮流を描いた名著。

ホルストの伝記はhttp://www.gustavholst.info/を参照。


(門前ノ小僧)





NASAによる木星で聴こえる音。
果たして木星には地球外生物は存在するのか。
宇宙は科学の世紀になってなおも神秘的だ。






 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!

07:53  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2015.01.03 (Sat)

生誕120周年オルフの『カルミナ・ブラーナ』の謎---音楽・ナチス・青少年

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



カール・オルフ(独)作曲 『カルミナ・ブラーナ』 
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団
ラテン語で歌われるところが、興味をひく。



オルフ:カルミナ・ブラーナオルフ:カルミナ・ブラーナ
(2009/11/11)
ヤノヴィッツ(グンドゥラ)、シュトルツェ(ゲルハルト) 他

商品詳細を見る


『カルミナ・ブラーナ』の代表的名盤。



みなさんはカール・オルフ作曲『カルミナ・ブラーナ』という作品を聞いたことがあるだろうか。題名は知らなくても、何とも物々しげなリズムとテンポで始まる出だしはテレビのBGMでおなじみのものだろう。クラシック音楽でもとびきり有名なこの曲。しかし実は最近まであまり録音される機会が少なかったことはご存じだろうか。今でこそラトル等有名指揮者が録音しているが、往年の大指揮者、例えばフルトヴェングラーやカラヤン、バーンスタイン等は録音が残っていない。彼らの中には生前、何回か演奏したことがある者がいるにもかかわらず、である。何故なのか。何かこの曲に録音してはいけないタブーでもあったというのか。


はっきりした理由は分からないが、どうもこの曲の作曲者カール・オルフに原因があるようだ。1895年に生まれ、今年2015年が生誕120周年である彼が『カルミナ・ブラーナ』を作曲したのは1936年である(日本では昭和11年二・二六事件が起こり軍が力を持った)。 当時オルフの祖国ドイツでは、ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が政権を握っていた。このナチスのリーダーであった総統ヒトラーが『カルミナ・ブラーナ』を気にいっていたのだ。後で詳しく書くが、やがてオルフはナチスに取り入れられ賞金まで貰うようになる。だが戦後になると、このことが問題になったのだ。そういえば、その「原始的」といわれる独特なリズムなど、この曲自体に内在する雰囲気が、どこか当時のナチスの野蛮性をイメージさせる。同時代のシェーンベルクの 12音音楽や無調音楽など先進的な音楽はナチスに批判されるが、対極にあるこの作品が気にいられるのも不思議なことではないように思う。


220px-Carl_Orff.jpg

カール・オルフ(Carl Orff 1895-1982)


しかしこうした考えは皮相に過ぎるようだ。というのもこの曲の内容をよく調べると、ナチスの世界観とはかなり食い違うところがあるからである。
もともとの<カルミナ・ブラーナ>とは中世ヨーロッパの時代、修道院を訪れた学生や修道僧等が作った「世俗的詩歌」を指していた。「世俗的」とある通り中世にもかかわらず敬虔な神への祈り、といった内容は全く入っていない。代わりに歌われているのは、文字通り 「酒、女、賭博」 にまつわる色々な詩である。「もし若者が娘と一緒にいたら」という何とも坊さんとしてはアヤシゲな内容の詩もある。これら詩歌は、19世紀初期になって初めてドイツ南部の修道院で発見されたのであるが、オルフは、これらの詩歌の中から幾つかを自ら選び、それを土台にして「世俗的カンタータ」として曲をつけたのだ。
さて、一方のナチスと言えば道徳に関しては厳格であった。いかに歌詞がラテン語であったとはいえ、風紀を乱す若者たちのいい加減な生活を赤裸々に描いた曲をコンサートホールで流されたら、たまったものではなかっただろう。しかもオルフは今でこそナチスに近い作曲家として知られているが、実は同時代の作曲家から様々な影響を受けていた。『カルミナ・ブラーナ』もストラヴィンスキーの『結婚』というバレエ作品に、オルフが触発されて書いたという説もある。だが、ナチスは先進的作曲家をひとくくりにして「退廃的」と決めつけ、ドイツの音楽界から排除しようとした。



200px-CarminaBurana_wheel.jpg

中世の<カルミナ・ブラーナ>の写本
19世紀初期になって初めてドイツ南部の修道院で発見された

「遊び(賭博)をやっているものもあれば、飲んでいる奴もいる、無分別な暮らしをする奴、だがばくちを長くやっている奴の中には着物を剥がれるのもある。そこではちゃんと着物を着ているものも、乞食のぼろにくるまったのもがあるが、その一人として死を恐れず、お酒のために賽を振るのだ」 

第14曲「酒場に私が居るときにゃ」の歌詞から(呉茂一訳)



ここで二つの疑問が出てくる。
一つ目は、何故オルフが、今でいう歌謡曲やポピュラー音楽で歌われる様な ‘世俗的詩歌’ を用いた曲を書こうとしたのか。
二つ目は、何故ナチスは、本来は自分たちの考えと食い違う曲の、演奏を許したのか。

ということである。安易に答えはもちろん出せないが、私はある一つのキーワードで答えに近づけるのではないかと思っている。それは「青少年」である。


まず第一の疑問について考えてみよう。中世の<カルミナ・ブラーナ>の詩歌に出会った時、激しい衝撃を受けたオルフ。自作の『カルミナ・ブラーナ』以前の自分の曲は「全部廃棄してほしい。というのは私にとって『カルミナ・ブラーナ』が本当の出発点になるからである」とまで出版社への手紙で書いている。この少々異常とも思える曲への執着には何があるのか。一つの説明としてはオルフが『カルミナ・ブラーナ』の作曲を通じて、シンプルなリズムを際立たせた自らの作曲法を確立したからだというものがある。しかしそれでは中世の詩歌に出会った時なぜ衝撃を受けたのかという説明が出来ない。
ここで唐突かもしれないが、あまりクラシックの音楽関係者には注目されない、オルフが作曲者であると同時に「教育者」であった事実に注目してみよう。三輪宣彦氏の研究によると、オルフは当時でもかなり先進的な音楽教育を推進していた人物であった。彼は早くからスイスの教育者・作曲家ダンクローズの「リトミック」の理論を研究していた。リトミックとは体操や音楽などを、それまでの、単なる教師の側からの「押しつけ」や「訓練」のように教えるのではなく、生徒の‘ 自発性 ’に重きを置いて教えるべきだという教育理論である。つまりソルフェージュを機械的にひたすら繰り返すのではなく‘ 音楽をすることの本来の喜び ’を教育を通して生徒に教えようというのだ。オルフはそのために独自の教育法を編み出す。まず彼は音楽だけではだめだと考えダンスと音楽を融合した教育を行おうとした。この両者は「リズムが存在する」という点で共通する。つまり読譜よりまずリズムを生徒の身体になじませようとしたのだ。彼は実際1924年に舞踏家のドロテア・ギュンターと共に音楽とダンス・体操を組み合わせた独自の教育を行う「ギュンター学校」を創設した。こうした「音楽・舞踏・言葉」の綜合は古代ギリシャの理念に通底するものであり、オルフの生涯の理念でもあった。他にもオルフは青少年の‘ 自発性 ’を引き出すという発想の下、即興演奏、グループ演奏を重視し、そのために楽譜が読めなくてもすぐに音が出せ、合奏が可能な楽器を発明した。これが「オルフ楽器」というものであり、木琴や鉄琴、タンバリンといった楽器を教育用にあつらえたものであった。ここから分かるのは、オルフの音楽教育が実は現代の音楽教育にかなり影響を及ぼしている事である。例えば私たちは幼稚園生や小学生の時に、学校や音楽教室で楽譜を読む以前に、「音に触れるため」と称して木琴や太鼓等を訳もなく叩いて音を出した経験がなかっただろうか。それはオルフの音楽教育が少なからず影響しているのである。



101c8c2204b2b40bc9b473c37667afb7.jpg

オルフ楽器の数々



このような背景を踏まえるとオルフが<カルミナ・ブラーナ>に衝撃を受けた理由も分かりやすくなる。オルフは外部からの教条的な教育(たとえそれで、音楽の技法を最も早く、「合理的」に身につけられるとしても!)を否定し、「音楽することの喜び」など人間本来の心の在り方の方を重視する人物であった。
そうした考えを持つ彼にとっては、中世において「祈りかつ働け」というモットーがあるような敬虔で禁欲的なイメージのある修道僧が、自らの内面を赤裸々に告白した詩歌は逆に受け入れやすいものであった。これこそ中世の厳格なキリスト教道徳にしばられ、鬱屈した若者たちの、真の心情の吐露であり、叫びである。次世代の教育はこれを抑圧するのではなく、むしろ受け止める形で変えられていかなくてはいけないのではないか。オルフはこのように考えたのかもしれない。この曲が非常にリズミカルであるという特徴も、彼がシンプルなリズム教育を推進していたという背景から説明できるだろう。複雑な和声や無調ではなく、より単純かつ根源的なリズムへの回帰こそがこれからの教育や音楽の進むべき道なのだ、というわけである。


しかしこうしたオルフの音楽理念はナチスとどうかかわったのだろうか。ナチスはむしろ青少年の‘ 自発性 ’を抑え込む方向にあった。青少年を統率する「ヒトラー・ユーゲント」という組織を作り、若者にキャンプ等の野外活動の他に準軍事訓練も施していた。一見するとナチスがオルフの『カルミナ・ブラーナ』の演奏を許す理由はないように思える。事実ナチ党内でオルフの評価は分かれていた。ナチス期のドイツ人音楽家とナチスとの関係を暴いたカナダの歴史家マイケル・H・ケイターの「第三帝国の中のカール・オルフ」という論文によると、オルフは、‘ 「退廃音楽家」から影響を受けている ’、として批判するナチス幹部は少なからずいた。また世俗的詩歌である『カルミナ・ブラーナ』の歌詞の不道徳な内容も問題になり、例えば、皆さんもよく知っている指揮者のカール・ベームはドレスデンでの同曲の初演を断っている。しかしナチスは結局『カルミナ・ブラーナ』の上演を禁止しなかった。一体何故なのか。


ここでその理由はオルフ自らナチスに積極的に協力したからではないか、という疑惑が生まれる。確かにオルフはナチスに関わっていた。先のケイターの論文によると彼は1936年にナチス主導の下の開催されたベルリン・オリンピック用に『オリンピック輪舞』という舞踏作品を書き、実際ギュンター学校の生徒にオリンピックで踊らせている。他にもユダヤ人作曲家メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』に代わる作品を作れ、というナチスの要請に応えて、代作も書いている。しかしオルフ本人は――たいていナチスに関わった当時の音楽家の多くがそうであったが――第二次世界大戦後、ナチスへの関与を否定し、むしろ自分は「白バラ」と呼ばれるミュンヘンでの反ナチ活動に協力していたとまで主張したのである。
一体オルフがどこまでナチであったのか、それは結局現在でもはっきりしていないし、ここではこれ以上突っ込んでも意味がない。むしろ私がケイターの論文を読んで気になったのは、‘ 自発性 ’に重きを置いた自分の音楽教育をヒトラー・ユーゲントなどヒトラー体制下の青少年教育に取り入れてもらうよう、自らナチスに働きかけを行った、という記述である(結局失敗に終わったのだが)。
ナチスの目指す教育観とは、ずれるように思われる教育を売り込もうとしたオルフの行動は一見奇妙ではないだろうか?さらに奇妙なのはナチス内にも彼の支持者がいたことである。それはヴィルヘルム・ツヴィッテンホフ博士(Dr. Wilhelm Twittenhoff)という人物。突撃隊やヒトラー・ユーゲントで働いていたナチ党員である。彼はオルフの‘ 自発性 ’を重視する音楽教育に共感し、彼に『教育音楽』という作品の作曲を委嘱し、出版にまでこぎつけている。何故彼はオルフを信奉し、協力までしたのか?
これについてはケイタ―も示唆しているが、ツヴィッテンホフが若い頃、「青年運動」 に参加していたということに関係があると思われる。


「青年運動」とは20世紀前半、ドイツ人学生が‘ 自発的に ’生み出した学生運動である。
「青年運動」という名にピンとこない人も「ワンダーフォーゲル」というのは聞いたことがあるだろう。若者が一緒になって郊外や山中でハイキングやキャンプを楽しむというあの活動は、実は青年運動から始まったのである。まだドイツが第二帝政の時代に( 第一帝政は神聖ローマ帝国時代、第二帝政はドイツ帝国時代で第1次大戦終結頃、そしてワイマール時代、第三帝政はヒトラー時代。) 青年運動はそもそも19世紀以降、産業革命で発展した都会の合理的で機械的な生活に倦んだ学生が、大人の束縛から逃れ、‘ 自然の中で人間本来の生活を取り戻そう ’として行った運動であった。だからこそ、ワンダーフォーゲルのような活動も始めたのだ。ここで、彼ら「青年運動」の理想とする「人間本来の生活」という理想が先に見たオルフの音楽理念と繋がることが分かる。ツヴィッテンホフ博士は若かりし頃のそうした体験をし、それを踏まえてオルフの音楽活動に協力したのである。



220px-Bundesarchiv_Bild_183-R24553,_Gruppe_des_Wandervogels_aus_Berlin

ワンダーフォーゲル運動の若者たち


だがまだ疑問が残る。ではそうした ‘ 人間本来の自由な生活を尊ぶ青年運動 ’ 出身の男が何故ナチスに入ったのか。ここで私たちはナチスが当時のドイツの青少年を魅了した理由を考える必要がある。そこで重要なのは青年運動の掲げた「人間本来の生活」という理想の意味である。それは少々難しい言葉でいえば一種の「近代批判」である。物質的な進歩と共に人間の精神もまた進歩する、という近代の考えに反発していたのは、だが青年運動やオルフだけではない。実はナチスもまた目指すべき方向性こそ違え、「近代批判」を行っていた運動の一つであった。

この問題は単なる抽象的なレベルだけでなく、具体的なレベルでも考える必要がある。
第一次世界大戦終結後からナチスが台頭し1933年に政権をとるまで、ドイツは「ワイマール時代」とよばれていた。この時代にドイツでは近代的進歩が一層進んだことをドイツ史家のD・ポイカートは明らかにしている。すなわち議会制民主主義と大統領制が立法で保障され、憲法に「人間らしい暮らし」を保障した社会権が明文化され、社会保障政策が進められた。文化的にはアメリカの文化が流入し、ジャズや映画が流行した。こうした近代的な生活はしかし長く続かなかった。
それ以前から危機の兆候はあったのだが、1929年以降の経済恐慌で決定的にドイツ人の市民生活は痛めつけられ、ドイツ共和国は危機に瀕した。当時のドイツ人人口100万人当たりの自殺率は他の欧米諸国に比べてずば抜けて多かった。また若者は他の世代と比べ失業率も高く、職もない彼らの人生設計は狂わされてしまった。一方で議会制度は党派争いで機能しなかった。こうしたことによって自分たちの今まで信じてきた近代的価値観を疑い始めた多くの若者が、ワイマール体制の打倒を掲げるナチスへと流れていったのである。ポイカートによるとナチスは他の政党の比べ若年の党員が多い「若い政党」であったという。ツヴィッテンホフもまたそうした若者の一人なのかもしれない。


こうして改めてオルフとナチスの関係を考えると、オルフが自らの教育をナチスに受け入れてもらおうとした、というのは実は意味深長なことかもしれない。両者は方向性は違うが、「ワイマール体制という近代」に反発しつつ独自の理念を形成していったことでは同じであるからだ。表面的にはナチス体制に反感を持ちながら、根本的なところでナチスとの親和性をオルフは感じていたのからこそ、戦前ではナチスへの協力をあえて拒否せず、またむしろ教育面では積極的にナチスの援助を期待していたのではないだろうか。一方、ナチスもまた彼の音楽に胡散臭さを感じる人間もいたにせよ、結局『カルミナ・ブラーナ』の演奏を許し、彼を受け入れたのはこうした「反近代」という共通性を同様に感じていたからかもしれない。そして両者はまたツヴィッテンホフのような「青少年」という存在によっても媒介されていたのである



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



第21曲「天秤棒に心をかけて」、第23曲「とても、いとしい方」 
ソロはグンドラ・ヤノヴィッツ。
とても美しい歌だが歌詞の内容は乙女の浮気心に揺れる心情を歌ったもののようだ。





第三帝国と音楽家たち―歪められた音楽 (叢書・20世紀の芸術と文学)第三帝国と音楽家たち―歪められた音楽 (叢書・20世紀の芸術と文学)
(2003/06/01)
マイケル・H. ケイター

商品詳細を見る





ワイマル共和国―古典的近代の危機ワイマル共和国―古典的近代の危機
(1993/04)
デートレフ・J.K. ポイカート

商品詳細を見る


(門前ノ小僧)




 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!


00:00  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2014.10.01 (Wed)

「トルコ行進曲」と二つの帝国(2)―オスマン帝国はどんな国?

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!





イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



トルコの代表的な軍楽「ジェッディン・デデン」



モーツァルトやベートーヴェンが「トルコ行進曲」を作曲して半世紀ほど経った頃の話である。
1878年、当時ドイツを統一したばかりの帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクはベルリンでオスマン帝国と隣国のロシア帝国が争った戦争(露土戦争)を仲裁するべく和平会議を開催していた。彼はそこでオスマン帝国側から派遣された二人の使節に会ったのだが、その姿を一目見るや、大いに彼は驚いた。ビスマルクは、トルコ人の支配する国から来た使節は当然アジア系のトルコ人に決まっていると思い込んでいた。しかし実際彼の前に現れたのは、一人はキリスト教の一派である「ギリシア正教徒」であり、もう一人はフランス人とドイツ人の混血であり、れっきとした「白人」だったのである。しかも後者は何とビスマルクの所領に程近いドイツのマグデブルクで生まれだという。飛行機で気軽に行き来できる訳でもない当時、自国からはるか遠く、しかも宗教も民族も全く異なるはずの国から来た使節が、自分の地元近くの出身だったとはビスマルクではなくても誰もが驚いただろう。



400px-Japanese-Ottoman1683.png

オスマン帝国の最大版図。バルカン半島全域、アラビアやエジプト、北アフリカを含む広大なものであった。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



近代化の最中のオスマン帝国の「国歌」。
作曲者はイタリアのベルガモに生れて同地で没したオペラ作曲家として有名な
イタリアのガエターノ・ドニゼッティ( 1797年- 1848年。)の兄のジュゼッペ。 
時のスルタン、アブデュル・メジドから作曲を依頼された。
(『オスマンVS.ヨーロッパ』 新井 政美 (著) より)



以上のエピソードは中東史研究者の山内昌之氏の著書から拝借したものである。山内氏がこの話から強調するのは「オスマン帝国=トルコ人の中心の国」という考えの誤りである。当時 ‘ 様々な民族が居住していた ’ オスマン帝国では、トルコ人ではなくても政府の官僚になる道が開かれていた。特に外交官の場合、任地と同じ国の生まれの人間が派遣されることが多かった。ビスマルクを驚かせた使節もそうした事情が背景にあったと思われる。また世界史の教科書でも出てくるスルタン――イスラーム世界における王――の直属の近衛兵、「イェニチェリ」軍団に関しては、もともとバルカン半島等のキリスト教徒をイスラム教に改宗させたものから成っていたが、彼らはしばしばスルタンの後継者争いにも加わる程の力を持っていたという。とは言え、オスマン帝国の支配層は、トルコ人のみではないにしても、やはりイスラム教徒中心だろう、と思うむきもあろう。とりわけ前回扱った2回のウィーン包囲は、キリスト教徒の都ウィーンを征服しようとするイスラーム教側のオスマン帝国の野心だと考えられなくもない。これは全く間違いとはいえない。しかし、そうだからといって‘ オスマン帝国 ’は例えば、現在世界をもっとも騒がせている‘ 中東の「イスラム国」 ’と同等の国と捉えてもよいのだろうか。


ここでもう一つ面白いエピソードがある。オスマン史研究者の新井政美氏によると第1回ウィーン包囲を行ったオスマン帝国のスルタン、スレイマン大帝(1520-1566)はトルコ人なのだが、一見するとかなり奇妙なものをかぶっていた。イスラーム教徒というとかぶるものは布を巻いたターバンという固定観念が私たちの中であるかもしれないが、スレイマン大帝がかぶっていたのは「黄金の四重冠」なるものだった。これはカトリック教会の長であるローマ法王の冠「三重冠」を意識して、それにさらに一重加えた豪華な西洋風の冠である。だが何故イスラーム教徒のスルタンの頭にこのようなものが冠せられていたか。それはウィーン包囲前にウィーンを支配するハプスブルク家のカールが、神聖ローマ帝国皇帝として教皇から戴冠されたことが背景にあるらしい。スレイマンはこれに立腹したのだ。「皇帝」とは本来世界でただ一人しかいない、イスラームを越えた「王の中の王」である。それを世界一の軍事力と版図を持つ自分を差し置いて、ローマ教皇が自分の国もろくにまとめられないカール(当時彼の治める神聖ローマ帝国は分裂に近い状態)に皇帝の冠を授けるとは!とスレイマンが言ったかどうかはともかく、カールを打つべくスレイマンはウィーンに大軍を派遣したのではないか、と新井氏は推測する。スレイマンは実際他にも、周りに自らのことを、先のローマになぞって「皇帝(カエサル)」と呼ばせ、ハンガリーに遠征する途中では、ベオグラードに古代ローマ風の凱旋門を建てた。つまり彼にはかつて地中海を支配していた古代ローマの皇帝の後継者という自負が明確にあったのである。古代ローマ帝国を継ぐものが何も西欧人である必要はない。何しろローマ帝国は世界をまたにかける大帝国だったのだから、現在のオスマンこそ相応しい…スレイマンはそう思ったのだろう。



220px-Semailname_47b.jpg

スレイマン大帝の一般的に流布している肖像画



200px-Suleyman_1st_Great_1494_1566_Lorck (2)

「黄金の四重冠」をかぶったスレイマン大帝



オスマン帝国側にはムスリム(イスラム教徒)だけでなくキリスト教徒の武将もいた。現代のコソヴォ紛争の際にしばしば話題になるものとして「コソヴォの戦い」(1389年)というものがある。この戦いは当時、キリスト教徒側のセルビア王国がオスマン帝国に大敗を喫した戦いとして、セルビア人に長く屈辱的な出来事として記憶されてきたといわれている。だからムスリム(イスラム教徒)の多いコソヴォの独立を、現代に至ってもセルビアはなかなか認めないのだと。しかし実際には、オスマン側にはセルビア王に敵対するキリスト教諸公なども参戦していた。つまりこの戦いは単なる宗教戦争とは言えないのである。新井氏が強調するように、バルカン半島のキリスト教徒の王や貴族というのは、自らの生き残りをかけて、ある時はオスマン側に、又ある時は、キリスト教徒側にと状況次第で寝返っていたのだ。このことからも、当時オスマン帝国のヨーロッパ進出が単なる「イスラーム教 対 キリスト教」の二分構図では理解できないことが分かる。(後には、神聖ローマ帝国皇帝カール5世に対立していたフランスのフランソワ1世もオスマン帝国に近づいた)




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



片山杜秀氏のFMラジオ番組「クラシックの迷宮」で紹介されていた
「交響幻想曲”ボスポラス海峡”より”メジディエの大行進曲”」(アーデルブルク作曲)



当時は、オスマン帝国は国内においては様々な宗教勢力に対して寛容でもあった世界史の教科書でもよく取り上げられる宗教集団ごとに自治を認めた「ミッレト」制を敷き、ミッレト内部の政治や信仰に介入することはほとんどなかった。「税金や(物資の)生産に関わることは厳格に管理されたが、法律のような他の領域にはほとんど関わらず指示は散発的にしかなかった」(マーク・マゾーア Salonica:City of Ghostsより)というわけである。もちろん、ムスリム(イスラム教徒)がオスマン帝国の政治の実権を持っていたことは間違いなく、ムスリムである方が当時社会的にも優位であったのは確かであるが、だからとて他宗教を排除することを意味してはいなかった。つまり本来他宗教に排他的に対応すると思われがちな一神教のイスラーム教徒の国家であるオスマン帝国の実態は、かなりゆるやかな、「やわらかい専制」と呼ばれるものであったのだ。


では巷に広まる「イスラーム教 対 キリスト教」という構図は、何が原因で広まったのか。ここでスレイマン大帝のライヴァルであったハプスブルク家の当主であり、神聖ローマ皇帝カール5世(1500-1558)について考えてみよう。彼はドイツの皇帝のみならず、当時スペイン王位を兼ねていた。当時のスペインは中南米大陸で原住民を殺戮・奴隷とする中で、自らの植民地を拡大し続けていた。この植民地からは莫大な税金が上がっていたのだが、これはほとんど戦争に使われていたという。当時のヨーロッパの兵士は傭兵であり、戦争には莫大な資金が必要だったのだ。戦争にはもちろんオスマン帝国に抗するものも含まれていた。しかしオスマン帝国の力は強大であり、とてもカールだけでは太刀打ちできない。そこで彼はオスマンの拡大を「イスラームの拡大」として恐れるローマ教皇や自らの交易圏が脅かされることを嫌うヴェネツィア等と一緒になって「神聖同盟」と呼ばれるキリスト教連合軍を組織し1538年にプレヴェザでオスマン帝国と海戦を行うことになる。結果はキリスト教側の敗北に終わったが、カール5世の遺志は息子のスペイン王フェリペ2世(1527-1598)に受け継がれる。フェリペは父親以上に「キリスト教勢力の盟主」という意識を持っており、再びキリスト教連合軍を組織すると1571年にレパントの海戦で、ついにオスマンに対する「キリスト教側」の勝利をもたらすことになった。
ただしヨーロッパ諸国が軍事面でオスマンと互角になるには、その後の火器を中心とする軍事革命を経なくてはならないことは前回にも述べた。



200px-King_PhilipII_of_Spain.jpg

キリスト教連合軍の盟主を任じたスペイン王フェリペ2世。
仕事熱心かつ謹厳実直だった。



さてフェリペ王のおひざ元のスペインと言えば、当時厳格なカトリック教会の教義が守られていることで知られていた。といえば体裁が良いが、実際には他宗教・他宗派に対する過酷な弾圧がおこなわれていたのである。スペインは8世紀頃にイスラーム勢力が北アフリカから到来し、当時イベリア半島を支配していた西ゴート王国を滅ぼして、半世紀以上に渡りこの地を統治していた。これに対し北部のキリスト教勢力が 「 レコンキスタ(国土回復運動)」 と称してイスラーム勢力と戦闘を続けていた。そして長い経過の末、1492年、コロンブスがアメリカに到達したその年に、スペインはイスラーム勢力最後の拠点グレナダを陥落させた。
この時に、スペイン政府はキリスト教を唯一の教えとして他宗徒に強制する政策を行ったのである。全国に異端審問所が開設され、異教徒は改宗か死を迫られた。とりわけ被害を受けたのは「セファルディ」と呼ばれるスペインに住むユダヤ人であった。彼らは1492年に改宗を拒否したものは追放するという勅書が公布されたために、スペインを離れざるを得なかった。
地中海に四散し、身寄りもいない彼らを受け入れたのは他ならぬオスマン帝国であった。彼らはオスマン帝国内部で貿易商や徴税請負人などに就き豊かな暮らしを享受できた。また先程述べたように、オスマン帝国の寛容な宗教政策のためにユダヤ教も保護された。それも単に保護されるだけではなく、ユダヤ教の中でも神秘主義的な宗教運動が新たにオスマン帝国内で広まりを見せるほどであった。下図のシャブタイ・ツヴィ(1626 - 1676)に至ってはユダヤ教の代表的な「預言者」として、そうとう熱狂的な人気を得ていたため、人心の混乱を懸念したオスマン当局が彼を拘束すると、彼はあっさりイスラム教に改宗してしまった。
一方で、スペインに残ったユダヤ人といえば、キリスト教に改宗したものの「マラーノ(豚)」と呼ばれて、相変わらず差別の対象であった。
このように考えると、当時の16世紀に於いては、むしろキリスト教側のスペインの方が宗教的にはオスマン帝国よりも非寛容的であったことがわかる。そしてフェリペ二世らの掲げる「キリスト教連合軍」という旗印が、彼らとオスマン帝国との長年の確執を「イスラーム教 対 キリスト教」の宗教上の対立であると後世の人々が「誤解」する種にもなったといえる。



Shabbatai1 (1)

オスマン帝国で神秘主義的なユダヤ教を説いたシャブタイ・ツヴィ。
彼がイスラームに改宗した後も彼の人気は根強く残ったという。



その後ヨーロッパ諸国では、16~7世紀の軍事革命から始まり、19世紀の市民革命、産業革命を通じ国力をみるみる増していき、様々な紆余曲折がありつつも、宗教を政治から除外する「世俗化」の道を歩み始める。
一方そうした近代化に追いつこうとオスマン帝国もまた様々な改革を進めたのだが、その過程で、様々な要素がオスマン帝国の足かせとなり近代化の阻むことになる。その内の一つがこの国の「多民族性」であった。近代的な議会や民主制度には不可欠な「政治的平等」をめぐり、それまでの中心的地位にあった‘ ムスリム‘ と、従属的な地位にあった‘ 非ムスリム ‘ の間で激しい対立が起き始めたのである。非ムスリムはその結果次第に自らを帝国の一員と考えるより、全く別個の「民族」であるという自覚を深めていった。それとともに過去の歴史はムスリムの一方的な支配というものとして記憶されていく。ムスリムの方も自らのアイデンティティを「トルコ人」や「アラブ人」として定義するようになった。こうして帝国は徐々に分裂していくのである。



ではその分裂した後の帝国はどうなっていっただろうか。
考えてみるとかつてオスマン帝国が支配していた地域、すなわちバルカン半島と中東地域に、現在、他宗教・他宗派に対する弾圧や殺戮が横行し――かつてのヨーロッパで行われたような――いずれも深刻な政治的・民族的紛争や宗教対立の舞台になっている事が分かる。前者は90年代のユーゴ紛争、そして後者はパレスチナ紛争はもとより、現在はシリア内戦やイスラーム原理主義をかかげるいわゆる「イスラム国」との戦争である。こうした混乱も、オスマンの緩やかな統治が失われたことの代償なのだろうか…。この問題については、今後もまだまだ考えるべき課題が多く残されている。





民族と国家―イスラム史の視角から (岩波新書)民族と国家―イスラム史の視角から (岩波新書)
(1993/01/20)
山内 昌之

商品詳細を見る




オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ)オスマンVS.ヨーロッパ (講談社選書メチエ)
(2002/04/10)
新井 政美

商品詳細を見る




オスマン帝国はなぜ崩壊したのかオスマン帝国はなぜ崩壊したのか
(2009/06/25)
新井政美

商品詳細を見る



(門前ノ小僧)

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!


20:15  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2014.08.21 (Thu)

ストラヴィンスキーの『春の祭典』と第一次世界大戦

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ストラヴィンスキー「春の祭典」 ティルソン・トーマス指揮 サンフランシスコ交響楽団


アメリカの指揮者ティルソン・トーマスは、サンフランシスコ交響楽団の音楽監督を務めているが、単に演奏活動だけではなく、Keeping Scoreというクラシック音楽の啓蒙、普及活動を展開している。――KEEPING SCORE(キーピング・スコア)とは、あらゆる年代、あらゆるバックグラウンドの 人にクラシック音楽をより親しみやすく、意味のあるものにしようという、2004年から サンフランシスコ交響楽団が展開している一大プロジェクトである。 一つの番組でオーケストラの作品を一曲づつ取り上げ、音楽的な解説とともに歴史的な背景の解説を加えているので、我々日本人にとっても、楽しみながらクラシック音楽を聴きかつ英語の勉強にもなるという一挙両得の誠に結構なものである。ティルソン・トーマスの話す英語は、明瞭で聞き取りやすく、You tubeでは英語の字幕は機械が行う自動字起しとなるが、市販のDVDを購入すれば、英語字幕が出るように設定できる。また、PBS(アメリカの公共放送サービス)のHRから進めば、英語字幕付きの無料動画を視聴することが出来、リスニングのよい教材にもなり得る。( 英検にすれば、2級から準1級程度 )

Keeping Scoreは、音楽の歴史の中で転換点となる諸作品を取り上げている。その中で今回は、ストラヴィンスキーの『春の祭典』に注目したい。もちろん誠に解りやすく曲の解説が為されているために、それに何かを付け加えようという訳ではない。それよりも、なぜ今『春の祭典』なのかと言えば、今年2014年は第一次世界大戦勃発から丁度100年目であると同時に、『春の祭典』の初演から101年目に当たるからである。つまり、『春の祭典』初演の翌年に第一次世界大戦が始まったのである。

『春の祭典』と第一次世界大戦との間には何か関係があるのか。ティルソン・トーマスは特に関係があると言っているわけではないがこのヴィデオの冒頭で語っている、「文化や芸術などの嗜好における革命 が、社会での他の(政治的、社会的な)暴力による変化の ‘予言’ にしばしばなっているのは、『春の祭典』の場合に正に見られる通りです。」という言葉は、カナダの歴史家エクスタインズの著作『春の祭典』を踏まえてのものであると推察される。(前者の放送が2006年、後者の出版が1989年)
エクスタインズは、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の持つ芸術としての革命的な新しさが、第一次世界大戦をきっかけとした西欧での精神上の大転換の ‘予言’ となっていると説いたのである。
 『春の祭典』の音楽面での革命的な新しさとは、ティルソン・トーマスのヴィデオで詳細に解説されているが、その工夫の一つ一つは、この曲が大地の礼賛と生贄の儀式の二部から成る事からも分かる様に、キリスト教以前の異教の世界(土俗的な多神教など)を出現させるための仕掛けとなっている。




春の祭典 新版――第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生春の祭典 新版――第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生
(2009/12/18)
モードリス・エクスタインズ

商品詳細を見る





Rites of Spring: The Great War and the Birth of the Modern AgeRites of Spring: The Great War and the Birth of the Modern Age
(2000/09/14)
Modris Eksteins

商品詳細を見る

もしもキンドルをお持ちならばそれがおすすめ。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。


ニジンスキーの元の振り付けの台本は残っておらず、これは彼のメモ等を元にして復元したもの

 
このことは、『春の祭典』のバレーを見れば音楽だけを聴くよりもより明らかになるかもしれない。もともとは『春の祭典』は、ディアギレフ率いるロシアバレー団のバレー上演の為の音楽であった。このロシアのバレー団は、ロシアではなくフランスのパリを本拠地とし、ロシア風の異国趣味を売り物にしており、ストラヴィンスキーの前作、『火の鳥』や『ぺトル―シュカ』の二曲もその範疇に入ると言えるが、『春の祭典』は単なる異国趣味ではない新しさ、伝統を破壊し文明以前の野蛮に戻る過激さを持つ。
『春の祭典』では、当時このバレー団の天才ダンサーであったニジンスキーが振付を担当したのだが、彼は、自らが踊っていた際に賞讃の的となっていた高い跳躍や肉体美をここで用いる事をあえてせずに、舞台を踏む‘ 下向きの動き ’を中心とした振付を、体の線が全く見えないゆったりとした服を着せたダンサーたちに施したのである。同国のロシアバレーに於ける『白鳥の湖』との違いを考えれば、この斬新さは明らかだろう。
 
この芸術面での革命性は、作品が異教の世界を表現するものであることからも分かるように、単に芸術的な意味を持つだけではなく、宗教的、道徳的な意味も持つ。エクスタインズの本が明らかにするように、この作品は、伝統的なキリスト教的な道徳上の羈絆を脱しようとするこの時代の趨勢に合致するものであり、その尖鋭な表現となっている。初演はブーイングの嵐となり、果ては殴り合いまでをも惹き起したという有名なスキャンダルとなったのも宜なるかなである。ストラヴィンスキー、また、ニジンスキーのこの試みは、頽廃の極に達したフランスの文化に一石を投じた、というよりは爆弾を投げつけたとでも言える程の衝撃ではなかったか。

政治上では、この二人に相当するのが新興国ドイツである。第一次世界大戦とは、ドイツ人にとって、旧弊に囚われた老大国イギリス・フランスに対し、深い精神性と科学的合理性を備えた清新なるドイツの挑戦であったともいえる。このように戦争を意義づける第一次大戦の開戦当初のドイツ人の熱狂振りをエクスタインズの本は伝える。
しかし、話はここでは終わらない。ドイツの快進撃も止まり、両陣営が塹壕に留まり、劣悪な環境の中で双方の死者の数が増えて行くだけの陰惨な戦場の中で、開戦時の熱狂、そして、騎士道精神は消え去り、幻滅と絶望が兵士たちを襲う様を、日記や手紙を引用しながらエキスタインズは詳細かつ克明に描写している。そして戦後になってもこの精神への打撃から完全に立ち直ることが出来ない…何故なら、戦前に持っていた信仰・道徳・理想などの、その心の空白を埋めるものが見出せなかったからである。
大戦後、新たなる英雄として飛行機による大西洋単独横断を成し遂げたリンドバーグへの熱狂は、この空白を埋めようとする試みに他ならない。もちろんこれで解決されるはずはなく、その空白を埋める者として登場するのが、ヒトラーであり、ナチズムである。それは、単なる政治運動ではなく、疑似宗教であり、美がそこでは追求されたとエクスタインズは語る。
エクスタインズは幼少の頃ラトビアからナチの迫害を逃れてカナダに移住したユダヤ人であり、ナチズムを深層において捉えようとしたのであろう。参照する資料は膨大であり、記述は委曲を尽くすものとなっており、読書中にしばしばその時代を生きているかのような感覚を持つことが出来る。それと同時に色々と考えさせる本でもある。

以前紹介したことのある『二十世紀思想渉猟』の著者生松敬三は、第一次世界大戦後の1920年代のドイツに見られた諸現象と、第二次世界大戦後の特に1960年代以降の我が国のそれらとの類似性に注目したが、戦争への熱狂、幻滅、精神の空白という現象は、第二次世界大戦時及びその後の我が日本国も同様に経験したものでなかったか…。
それらの比較を通じて現れる類似と相違はどのようなものになるのだろう。また、その際にストラヴィンスキーの『春の祭典』に相当するものはあるのか。この点だけは、見当たらないのではないのかというのが現在の憶測である。

(ネモローサ)



 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!
22:17  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2014.05.10 (Sat)

「トルコ行進曲」と二つの帝国(1)―世界史を変えた17世紀

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



「トルコ行進曲」(ベートーヴェン)


ベートーヴェンやモーツァルトが作曲した名曲の中で「トルコ行進曲」というものがある。前者は管弦楽曲、後者はピアノ・ソナタだが、太鼓とともに ♪ ジャン、(ウン)、ジャン、(ウン)、ジャン、ジャン、ジャン、♪ と、どちらも非常に特徴的なリズムで、一度聴いたら忘れられないものだ。学校の音楽の時間などで聴く機会も多いだろう。だが、何故「トルコ行進曲」という題名なのだろうか…。この曲について知っている人なら「トルコの軍楽隊の行進曲のリズムを取り入れているから」と答えるだろう。
では何故そもそも「トルコ」なのか。‘ 欧人に異国情緒をかき立てるため ’と思われるのだが、それだけの理由なら「アラビア」の曲でも「インド」の曲でも良い気がする。あえて「トルコ」である理由は何だろうか。
それは先程の「軍楽隊」という語にある。




2000_convert_20140509205849.jpg

現在のヨーロッパの地図。ヨーロッパの中心部にある深緑色の小国がオーストリア。右下ヨーロッパとアジアの間にある薄紫色の国がトルコ。両国間にはハンガリーやバルカン半島の国々がある。




1600_convert_20140509205613.jpg

16~17C当時のヨーロッパ。オーストリアもトルコも上と同色だが今より領土の範囲ははるかに広く、両国は国境も接していた。神聖ローマ帝国とは名ばかりのもので、オーストリア及び左の様々な色が密集している当時分裂状態のドイツの諸邦などをかろうじてまとめていたに過ぎなかった。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第5番 K.219 「トルコ風」3楽章


さて「トルコ行進曲」の背景を探るには、明るい曲調からは想像も及ばない、オーストリアとトルコの「血みどろの」歴史を紐解く必要がある。上に挙げた1枚目の現代の地図では、オーストリアとトルコは互いに随分離れていて、わざわざ戦争をする必要もない気がする。しかし2枚目の地図に見られる様に、16世紀当時の状況は違った。
当時トルコは「オスマン帝国」と呼ばれ、バルカン半島からアラビア、エジプト、北アフリカを擁する一大帝国であった。一方、オーストリアを含めドイツ・スイス・チェコ等を擁した「神聖ローマ帝国」は、首都をウィーンに置いていた。但し、オスマン帝国に比べれば領土や人口の差は歴然としていた。
この両帝国は国境を接しており、長年(16C以降~)領土や宗教をめぐり抗争を繰り返していたのだが、特にオスマン帝国は「イスラーム教の拡大」を旗印に、神聖ローマ帝国が属するキリスト教のヨーロッパ世界に進出していた。(ただし実際は宗教だけでなく、各国や地方の豪族の勢力争いなども戦争の要因となった。そもそも「オスマン帝国の進出の目的はイスラームの拡大のため」という教科書的な説明自体、微妙なものだが、詳細は次回に回したい)。

16世紀当時、オスマン帝国がヨーロッパ世界に比べ圧倒していたのは‘ 領土 ’だけではない。
‘ 大砲などの軍事技術 ’の点でも優れており、「イェニチェリ」と呼ばれる精鋭の歩兵部隊や、「半月刀」と呼ばれる切れ味鋭い刀はヨーロッパ人から恐れられた。

一方、ヨーロッパ世界は「未開の」中世から夜明けのルネサンス時代を迎えてようやく発展しようか、という段階であった。神聖ローマ帝国内部でも、ルターが起こした‘宗教改革’によって帝国の宗派分裂(カトリックとプロテスタントに分かれる)などが問題になっていた。
当時、神聖ローマ帝国の首都だったウィーンは、オスマン帝国の国境のすぐ近くに位置していた。今でこそ平穏な芸術の都として知られているが、この当時ウィーンは対オスマン帝国の「最前線」に位置していた。

このウィーンを、神聖ローマ帝国と戦争状態であったオスマン帝国は、1529年、大軍を率いて包囲した。これが世に言う「第1次ウィーン包囲」である。この時は2カ月間の籠城戦の末、兵糧(食糧)が尽いたオスマン軍が撤退し、辛くもウィーンは落城を免れた。油断はならないとオーストリア側はその後、国境地帯の軍備を強化し、オスマン帝国とにらみ合い続けた。しかしオスマン帝国の巨大な軍事力の前には手が出せない状態で、オーストリアの隣国ハンガリーやバルカン半島、地中海の大半もオスマン帝国支配下のままだった。



300px-Siegeofvienna1529.jpg

第1次ウィーン包囲の時の絵画。手前が包囲するオスマン軍。奥がウィーン。


その後100年の時は流れ、内部の三十年戦争で疲弊した神聖ローマ帝国に、1683年、再びオスマン帝国軍が攻勢をかけ、ウィーンが包囲された。これが「第2次ウィーン包囲」である。しかしこの時もまた、落城寸前のウィーンの元にポーランド国王のヤン・ソビエツキを中心とする救援軍がかけつけ、オスマン軍を打ち破った。こうしてウィーンは再び救われたのである。――ちなみに、この時逃走したオスマン兵の陣地から「黒い豆」の入った袋が発見された。これがウィーンにコーヒーが伝わった由来である。又この時ウィーンの解放を祝って半月刀を模して焼かれたパンが「クロワッサン」の始まりとされるが現在では否定されているらしい。――話がそれたが、巻き返しをはかるヨーロッパ連合軍はさらに余勢を駆って今度は、オスマン帝国領内に攻め込んだ。これによってそれまでオスマン帝国の支配下にあったハンガリーなどが解放され、ヨーロッパ勢力下に戻った。終に、戦争は1699年のカルロヴィッツ条約の締結で幕を閉じた。敗北を喫したオスマン帝国ではあったが、それでも依然として大国の地位は守り続けた。ヨーロッパ勢力にとってもこの戦いが厳しいものであることに変わりはなかった。しかしオスマン帝国の衰退の影もまた徐々に見え始めていた。



800px-Battle_of_Vienna_1683_11_convert_20140509212854.png

第2次ウィーン包囲の絵画。救援軍とオスマン軍との乱戦を描いている。



しかしここで疑問が生じる。1529年当時は力でヨーロッパを圧倒していたオスマン帝国が何故、1683年には敗北を喫するようになったのか。その秘密はこの間の17世紀にある。高校世界史の記述だと、転機となったのが1571年の「レパントの海戦」と呼ばれる、ヨーロッパ諸国の連合艦隊がオスマン海軍を破った戦いであるとされている。しかし実際はその後もオスマン帝国の優位は続いていた。しかし、これ以降はキリスト教勢力とオスマン帝国との間では、目立った大戦争が1680年代までほとんどなくなるのである。戦争はむしろヨーロッパ間で続発するようになっていく。その中でもとりわけ大きかったのが「三十年戦争」と呼ばれるドイツが戦場となった大規模な戦争である。(これはもとはカトリック・プロテスタント間の宗教対立に、皇帝と諸侯の勢力争いや、神聖ローマ帝国と隣国のフランス・スウェーデン・デンマーク間の対立も重なった複雑なものであった為に30年と長期化し、結果当時のドイツ人人口の3分の1が失われたと言われている。)
この様な状況のもと、ヨーロッパの各国や帝国の諸邦は生き残りをかけ、‘ 軍事技術の発展 ’にいそしむようになっていく。それを示す面白い話がある。




グレン・グールド演奏による「トルコ行進曲」(モーツァルト作曲)


皆さんは中学生時代「南蛮人の鉄砲伝来」という話を日本史で聞いたことがあるだろう。鉄砲という先端技術を教える西欧人とそれを必死で習おうとする日本人という構図は、しかし厳密には間違いである。実はその当時は、西欧人も銃をきちんと使いこなせていなかったのだ。その証拠が織田信長が長篠の戦いで取った戦法である。これは当時の火縄銃が一発づつしか打てないため、信長が鉄砲隊を3列に並ばせて順繰りに打たせることで連続射撃を可能にした、というものだ。実はこの「三段打ち戦法」に似たものがヨーロッパでも取り入れられるのは1594年(長篠の戦いは1575年)で、広く普及するのは三十年戦争中の1630年代になってからなのだ。つまりは信長のアイディアの鉄砲の使用においては、当時の日本の方がヨーロッパ諸国より進んでいた(!)のである(ただし、信長の「三段打ち戦法」はそもそも存在しなかった、という説も最近有力になっている)。もちろん日本に限らず、中国やオスマン帝国も軍事技術はヨーロッパより抜きんでていた。
しかし問題は日本にしても、中国やオスマン帝国にしても、16C後半~17Cになると大規模な戦争が無くなり、必然的に軍事技術の向上が図られなくなったという点なのである。日本では豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられ、「刀狩り」というかたちで武器が農民層を中心に「放棄」される事となる。中国は清朝の支配のもと安定が続いた。そしてオスマン帝国もまた大戦争に巻き込まれることは少なくなった。対してヨーロッパだけが前述の通り、依然として諸国間の戦乱の真最中であった。こうして遂には軍事技術の発達に伴い、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国を火力を中心とする軍事力の面では追いつき始めたのだ(両者の差が軍事力全般で明瞭になったのは産業革命等の起きた18世紀以降である)。



Odanobunaga.jpg

織田信長(1534~1582)。三段打ち戦法の存在は疑問視されてきているが、当時鉄砲を戦場で一度に大量に使用したことは事実のようだ。


イギリスの軍事学者によると1683年当時、オスマン帝国軍に欠けていたものとして、①大砲の数(オスマン帝国軍は砲を大きくすることしか考えていなった)、②攻囲陣営の要塞化(当時の戦争は野戦より要塞の攻囲戦が多かった)、③大砲の製造の際の冶金術(様々な材料を配合して丈夫な金属を作ること。この技術が拙かったためオスマンの大砲はもろかった)、をあげている。つまりオスマン帝国がヨーロッパ諸国に敗れたのには戦術的理由だけでなく、技術的理由もあったのである。
戦争は‘ 軍事技術の発達 ’を促進しただけではない。ある政治社会学者の説によると、大規模な戦争を準備する際に必要な資金の調達(この当時はほとんどの国が傭兵制度だった)のため、‘ 徴税制度の発達 ’等、中央集権的な国家の成立が進み、いわゆる「近代国家」の萌芽が生まれたという。
第2次ウィーン包囲後、紆余曲折がありながらもヨーロッパ諸国が近代化の道を進むのに対し、オスマン帝国や他のアジア世界が没落や植民地化の道をたどっていくのを踏まえると、ヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の後の歴史の分岐点の少なくとも一つがこの17世紀だったといえる。

モーツァルトやベートーヴェンが「トルコ行進曲」を作曲したのは、第2次ウィーン包囲のさらに約100年後の事である。その当時、もはやオスマン帝国はヨーロッパにとって脅威ではなかった。巷では「トルコ趣味」と呼ばれる一種の異国ブームに人々は沸いていた(これと同時期に「シノワズリ」と呼ばれる中国ブームもあった)。そのような中で「トルコ行進曲」も純粋な音楽作品として人々に楽しまれたのだろう。だがそれでも2回の包囲を経験したウィーンの市民にとって「トルコの軍楽隊」は他の風物とは異なった特別な意味があったのかもしれない。

だがここに一つの疑問が残っている。オスマン帝国が2回に渡ってウィーンを包囲した真の理由は何なのか、というものである。果たして本当に「イスラーム教の拡大」のためであったのだろうか。オスマン帝国の本質とも実は関わりのあるこの問題を次回考えてみよう。
~ 次回に続く




長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500~1800年
(1995/07)
ジェフリ パーカー

商品詳細を見る

16~17世紀当時のヨーロッパの軍事革命について克明に記した歴史書。




世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花 (中公文庫)世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花 (中公文庫)
(2009/01)
長谷川 輝夫、土肥 恒之 他

商品詳細を見る


17世紀のヨーロッパ世界の変動を政治や軍事や社会等多面的視点から概説している。


写真一部wikipediaから転載

(門前ノ小僧)




 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!
16:06  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2013.12.30 (Mon)

エルガーの『威風堂々』―大英帝国の栄光と影

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

 

2012年の英国の音楽祭「プロムス」のハイライトで演奏された『威風堂々』と
そのメロディに付けられた『希望と栄光の国』




先ず、この歌詞を読んでみて欲しい。最近、何かと物騒なお隣の国々の国歌ではない。実はエルガーの『威風堂々』についた歌詞の一節である。


「自由により得られし、真実によりて、保たれし、汝(=国家)の帝国は強盛となるべし」
「 我らは汝をいかに称えようか? 我らを産みし汝を。広大に、いっそう広大に汝の土地はなるべし」
「英雄たる父祖の流した血は英雄たる息子を元気付ける」


エルガーの『威風堂々』と言えば誰もが一度は聞いたことのある曲だろう。卒業式等の祭典・式典、CMソングでも巷に流布している元気で楽し気な人気曲だ。時には有名シンガーが独自に日本語で歌詞をつけることもある。ただそれらの中身を見てみると、メロディーが明るいせいか、「明日を向いてがんばれ」的な一種の「人生応援歌(?)」のようになっていることが多い。だが、実は元の歌詞はそのようなものとは似ても似つかぬものである。この歌の歴史的背景を以下で考えてみよう。


250px-Edward_Elgar.jpg

エドワード・エルガー(1857~1934)


『威風堂々』は1901年に作曲された。曲の評判は上々で、歌詞を時の英国王エドワード7世に付けるよう助言された。そこでエルガーは国王の戴冠式を祝う合唱曲の終曲として『希望と栄光の国』と題して『威風堂々』と同じ旋律の合唱曲を作曲した。日本ではなじみが薄いが、英国では「第二の国歌」としてよく歌われている。



さてこの『希望と栄光の国』と題して作られた歌詞だが、これにある「帝国」や「汝の土地」という言葉に注目してみよう。この曲が作曲された20世紀前半は、エルガーの祖国大英帝国の最盛期に当たっていた。つまりご存じのとおり英国が世界中に植民地を持っていたいわゆる‘植民地時代’である。この歌詞で言う「汝の土地」とは、実はこの‘植民地’のことなのだ。イギリスを含む欧米諸国の植民地が当時如何に多かったかは下の地図を見て頂ければ分かると思う。これは当時のアフリカ地図で、これが様々な色で塗り分けられているのはそれらがすべて‘西欧諸国の植民地’であったからである。当時完全に独立していたのはエチオピアとリベリアのわずか2カ国のみだった。


ColonialAfrica.png



だがそもそも欧米諸国は何故植民地を持とうと思ったのだろうか…。植民地と聞いて一般的なイメージは、ある国が様々な国を侵略してその人々を奴隷のようにこき使い、資源でも何でも根こそぎ奪う、というものだろう。エルガーの生きた当時の大英帝国にもそのような要素は確かにあった。だがそれを持った理由となるともう少し複雑である。鍵は当時の英国の「朝食」にある。

当時も今もイギリス風の朝食の定番といえば砂糖入りの紅茶だろう。だが紅茶の葉っぱは英国では生産されていない。ほとんどはインドからの輸入で以前は中国からも輸入されていた。――そのため最初は緑色をしていた葉っぱが長旅の船内で赤茶色に変色したのがいわゆる「紅茶」なのだ、という俗説も生まれるまでになった。一方砂糖も冷涼な気候の英国では生産できず西カリブ諸島の植民地(ジャマイカなど)で生産され、英国に輸出された。

ちなみに何故イギリス人が紅茶が好きだったのかも少し触れておきたい。19世紀以前は紅茶は高価な輸入品であり、上流階級にとって自らのステータスを誇示するためのものだった。しかしやがて自由貿易により、安価にしかも大量に輸入されるようになってくると、中・下流階級にも手の届く商品になっていく。特に下流・労働者階級にとって、砂糖入りの茶はカロリーの補給源になり、熱い茶はレンジなどない当時の冷たい朝食を、一瞬で暖かいものにする画期的な飲料であった。それ以前は労働者の嗜好品と言えば「ジン」と呼ばれる安物ながらアルコール濃度の高い酒であり、労働者はそれを昼間からあおっていたため仕事にでなかったり(「聖月曜日」という二日酔いのための休日まであった)、中毒に陥ったりするなど社会問題化していた。そこでジンに代わる飲料として紅茶が奨励されるようになったのだ。これを可能にしたのも英国の自由貿易政策と植民地政策であったのだ。


489px-GinLane_convert_20131230112511_convert_20131230112920.jpg

英国人画家ウィリアム・ホガースの『ジン酒場』。紅茶が受け入れられる前は労働者はこのようにジン酒場に入り浸っていた。


朝食だけではない。当時のイギリス人が着ていた綿織物の原料の綿花は植民地のインドから、そして20世紀になると石油が中東から輸入されるようになる。その代わりとして、英国はこれらの植民地に自国の工業製品を輸出することで収益をあげていた。つまり欧米諸国が植民地を保持した理由には自国製品の原料調達先と同時に消費先を確保するためであったというのもあるのだ。


800px-The_British_Empire_convert_20131229180856.png

大英帝国の植民地(赤地)

20世紀前半になると植民地の果たす役割は更に増していく。金融市場がイギリスを中心に発達すると、過剰に増加した「資本」の輸出先が探し求められるようになる。つまり一部の植民地での鉄道などのインフラや資源開発に莫大な資本が投下されるようになるのである。その結果欧米諸国の間で‘植民地’の争奪戦が始まる。アフリカのサハラ砂漠といった一見すると無価値な場所まで植民地にされたしまったのには、こうした背景もあるのだ。



ところでこの当時の英国の状況は「植民地」という存在を除けば、現代の先進諸国とも似た点がある。つまり私たちの生活も今多くの「輸入品」で成り立っている。日本の食料自給率が低いのは周知の事実であり、安くしかも高品質の衣類の輸入元を見てみると、世界最貧国の一つであるバングラディッシュであったりする。チョコレートの原料のカカオはガーナなどの西アフリカだが、そこでは今でも不正な児童労働が当たり前である。植民地こそ現在では存在しないものの、相変わらず先進国と発展途上国(元は植民地がほとんど)の間には大きな経済的格差がある。植民地制度に基づく明確な搾取は存在しないものの、経済のグローバル化と、先進国と発展途上国の経済的な相互依存と格差――これを一種の「システム」と呼ぶ人もいる――を背景としたエルガーの生きた時代と現代の世界の連続性は、様々な違いを含みながらも、依然として存在するのである。



『威風堂々』が作曲された13年後になると、第一次世界大戦が勃発する。英国も仏露を応援するために参戦し、166万人という多くの死傷者を出した(その数は第二次世界大戦のそれを上回った)。エルガーも最初の婚約者の息子が戦死し衝撃を受けたそうである。戦後は、英国は長い経済不況に苦しんだものの、独およびヒトラーの野望を阻止するべく第二次世界大戦に再び参戦し、何とか勝利したものの、その後、国力の衰退とともに植民地の独立を許し、経済不況にも悩まされた。英国が経済的に回復したのは1980年代のサッチャーの改革を待たねばならなかった。まさしく「希望と栄光の国」から「絶望と悲惨の国」へと英国は一時期転落してしまった訳だが、その背景には19世紀後半からの米国とドイツ、そして日本といった新興国の台頭があった。それ以前は海軍力と工業力で他国を圧倒していた英国だがここに来て国力の陰りを見せたのだ。またかつての英国外交の特色に「栄光ある孤立」という欧米諸国のどの国とも同盟を結ばず中立を保つという姿勢があり、それがヨーロッパの政治的安定にも寄与していた。しかし20世紀になるとドイツへの対抗から仏露と協力関係に入り、ヨーロッパの外交は不安定化していく。一方、エルガーが『威風堂々』を作曲したのは、第一次世界大戦以前の一抹の安定期いわゆる「ベル・エポック(フランス語で「良き時代」という意味)」の頃である。それは同時代のオーストリア人作家シュテファン・ツヴァイクが言う「昨日の世界」であった。


800px-Cinématographe_Lumière_convert_20131229183231 

ベル・エポック時代のフランスのポスター。初の「映画上映」の宣伝


788px-Men_of_the_Royal_Warwickshire_Regiment_convert_20131229183246.jpg

第一次世界大戦の激戦地ソンムの写真 




再び、我々の現代を顧みると「唯一の超大国」であるアメリカの衰退が著しく、お隣の国は、周辺諸国と緊張をはらみながら年々膨張を続けている。私たちの平和で豊かな生活もやがて「昨日の世界」になる日が来るのだろうか?そう考えるとエルガーら英国人の苦難も他人事では無くなる。

今『威風堂々』はかつての多くの植民地を失い、覇権国としての地位を失った英国人に、「ありし日の栄光」を思い起こさせてくれるものなのかも知れない。そして、その曲は同時にこの国の未来に向けて「第2の国歌」と言われるほど演奏され続け、常に彼らを励まし勇気づけてくれるのだろう。





※画像はWikipediaより転載

(門前ノ小僧)




 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!

17:48  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2013.05.03 (Fri)

<教養>は一日にしてならず―メンデルスゾーンの生きたドイツ市民社会

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!

 

イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

   

メンデルスゾーン作曲『夏の夜の夢』序曲より 結婚行進曲




メンデルスゾーンと聞いて皆さんは何をイメージするだろう。「有名なヴァイオリン協奏曲の作曲家でしょ」とか少し詳しい人なら「結婚式に流れる行進曲も彼の作曲よね」と答えるかもしれない。しかし彼の人生ともなるとあまりピンと来ないのではないか。それもそのは筈、彼の経歴を調べてみれば分かるが劇的な出来事はほとんどない。しかも彼は今でいう「インテリ」でもあった。銀行業を営む裕福な家庭に生まれたことももあり、彼は幼いころから英才教育を受けていた。そのため音楽だけでなく語学(母語のドイツ語に加え英語、フランス語、イタリア語更にはラテン語、ギリシャ語!)を修め、絵の才能も開花させたという。しかも彼は祖父が大哲学者モーゼス・メンデルスゾーンであり、自身も巨匠ゲーテに会うなど知的な交流にも事欠かなかった。このように書くといかにもメンデルスゾーンは近寄りがたい人のように思われるし、劇的な生涯など望むべくもない。
しかしここである疑問が出てくる。何故メンデルスゾーンは音楽家にもかかわらず音楽だけでなく様々な教育を受ける必要があったのだろう。第一の理由はもともと親が彼を音楽家にさせるつもりがなかったというのがあるが、それなら何故逆に彼は音楽を学ばなくてはならなかったのだろうか。すると次に考えられる答えは「教養」の為だ、というものである。実はこの「教養」こそが今回重要なキーワードになるものであり、メンデルスゾーンの生きた19世紀ドイツ前半の社会の一端を知る手掛かりになるのである。
 

465px-Felix_Mendessohn_Bartholdy_convert_20130506123335.jpg

フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847)


ここで注意してほしいのはドイツ語における「教養」の意味である。それは今の日本でよく見られる「教養のための○○」というような、うんちくを沢山覚えることとは訳が違う。「教養」をドイツ語では"Bildung"というが、これはもともと動詞の"bilden"「作る」に由来する。では何を作るかと言えばそれは「人間の内面」である。つまり「教養」の意味には、生まれたばかりの未熟な自己の内面を、長い人生をかけて完全な人格へと築き上げていく、という意味が含まれているのである。
この概念を特に重要視したのは19世紀では主に市民階層であった。もちろん貴族でも良さそうな気がするがこれには訳がある。19世紀は市民革命と産業革命によって王・聖職者・貴族の力が弱まり、市民の勢力が強まった時代であった。しかし貴族と市民の間には依然として「生まれ」を基準とする身分格差が残っていた。貴族は自らの血統を誇りにしつつ、市民を軽蔑していたのである。当然市民はこれに反発し、「生まれ」に代わる価値観を探すようになる。この時見出されたのが「教養」であった。「教養」の持つ、人生においてたゆみなく修養すれば誰もが完全な人格に到達出来るという考えは彼らを引き付け、血統に安住する上層階級を逆に批判できるようになったのである。また19世紀前半のドイツ市民社会は英仏のそれとは異なる事情も抱えていたことも重要である。当時政治的、経済的革新がドイツでは実現していなかったため、それらを基盤とする市民という概念自体が非常に曖昧なものだった。そこで貴族や農民と自らを分ける‘ アイデンティティ ’として「教養」が選ばれ、教養を備えた人々を市民とみなすようになったのである。ここにおいてドイツに特有な市民概念"Bildungsbuergertum"「教養市民層」が誕生したのである。
では何をすれば「教養」を持った人物とみなしてもらえるのだろうか。重要なのはそれは職業や出身大学などの資格では必ずしも決まらない事である。むしろそれは文芸活動や音楽活動に従事し自己の内面に「望ましい感情」を喚起することで得られるのである。当時のドイツ市民社会と音楽の関係を研究している宮本直美氏は例として高等教育を受けたエリート役人の多くが余暇にアマチュアとして楽器を弾いたり合唱サークルに参加したことを挙げている。特筆すべきことは楽器演奏にしても合唱にしても一朝一夕に出来るものではない点である。長い修養を通して初めて上達するからこそ、"Bildung"「教養」にふさわしいのである。つまり音楽活動は一種の「自己教化」であって、決して単なる大人の気晴らしではなかったのだ。このような市民層の間での活発な音楽活動はアマチュアの合唱においてはオラトリオ・ブームへとつながり、メンデルスゾーンもこの流れに乗ってバッハの「マタイ受難曲」を再演したり、オラトリオ「エリヤ」を作曲している。

 
677px-Gaertner2_convert_20130506123538.jpg


ベルリンにおいて結成された合唱団体「ベルリン・ジングアカデミー」の専用ホール。この伴奏を受け持つ楽器奏者のための養成機関が後に現在のベルリン・フィルに発展した。後には似たような団体が各地で結成されるようになる。





イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。




メンデルスゾーン交響曲第3番「スコットランド」第1楽章
アーティスト 指揮ニコラウス・アルノンクール


またこの「教養」概念はドイツ・ユダヤ人とも密接な関係を持っていた。当時のドイツ・ユダヤ人はゲットーと呼ばれる隔離された居住地区からようやく解放され、一般のドイツ人と同じ生活を送ることが徐々に可能になりつつあった。(メンデルスゾーンの祖父であり哲学者のモーゼス・メンデルスゾーンが、啓蒙思想によりユダヤ人自らが自己を解放しヨーロッパ社会に同化する道を説き‘ユダヤ教改革運動’が進んだ。)しかし一方では民衆の間のユダヤ人差別は根強かった。その時ユダヤ人を引き付けたのが「教養」概念であった。先にも書いた通りこの概念の特徴は、誰もがそれを努力によって得ることが出来ることであり、目指された目標も完成された人格という「普遍的」なものであった、という点がある。「教養」によって‘貴族’と‘市民’という違いを超越したのであれば、当然‘ドイツ人’と‘ユダヤ人’の違いも乗り越えられるはずだ、ユダヤ人はこう信じて率先して「教養」の道に進んでいったのだ。こう考えると豊かなユダヤ人家庭が子息に英才教育を施す理由には単に立派な人間になってもらうことだけではないと分かる。それは引いては将来ドイツ人のユダヤ人「差別」を除去することにも繋がってほしいという切実な願いがあったのだ。やがて「教養」と啓蒙が市民社会の主流となる中で、ユダヤ人も一時は他のドイツ人と「平等」に扱われているという感触を抱くに至った。

だが一方で、ユダヤ人の夢見る「教養」の世界とは全く別の世界も19世紀のドイツでは早くも見られるようになる。転機はナポレオンのドイツ侵略である。圧倒的なフランス軍の強さの源を、「国民」の一体感が要となっている事に気付いたドイツ人は、当時分裂状況であった自国の統一を叫ぶようになる。そこで強調されたのは「教養」概念の理想である完成された普遍的な‘ 人格 ’に代わる、固有の‘ 民族 ’性であった。民族に固有のものは何かといえばそれは歴史であり、伝説であり、神話である。いずれも非合理的な要素や感情をはらんでいるのが特徴である(ロマン主義)。 やがてこうした神話や非合理的な感情をモチーフにした作品が文芸や音楽の中に登場し始める。古ゲルマン伝説を下敷きに書かれたオペラ「ニーベルングの指輪」の作者ヴァーグナーはその代表と言えよう。彼はメンデルスゾーンを始めユダヤ人を批判するに至ったのが、その理由もまた彼らが単にユダヤ人だからだけでなく、‘ユダヤ人が、非合理的な感情やドイツの民族性に対立する「理性」や「教養」の代表’であると考えたからであった。しかし時代の流れが徐々にこうした「民族主義」に進む一方で、ユダヤ人は現実から目を背け「教養」の理念にしがみつづけた。その中には「教養」の目指す究極の人間性が実現できるとして平等の理想を掲げる社会主義へ走るユダヤ人が現れたり、フロイト等のように「教養」の取る理性的な立場から非合理的な人間の無意識を検証する知識人も現れた。

そのような彼らにとって1933年に反ユダヤを掲げるナチスが政権を取ったことは何よりの皮肉であったかもしれない。というのもナチスの支持者となったのは、かつて「教養」の理念のもと共に自己を磨き合いながら、その後に起こった世界大戦と経済恐慌によって見る影もなく落ちぶれた末にナチスに最後の望みを託した「市民層」であったのだから…。





メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」他メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」他
(2010/10/20)
クレンペラー(オットー)

商品詳細を見る
 
メンデルスゾーンと同じユダヤ人の名指揮者オットー・クレンペラー(1885~1973)が残した録音。クレンペラーはナチスの迫害でドイツからアメリカへ亡命し後にイギリスへ渡り、当地でフィルハーモニア管とともにこの録音を残した。メンデルスゾーンの時代のユダヤ人の状況と自らのそれとのあまりの変動ぶりにクレンペラーは何を思ったのだろうか。演奏は非常に重厚なものである。




                    
ユダヤ人の「ドイツ」―宗教と民族をこえて (講談社選書メチエ)ユダヤ人の「ドイツ」―宗教と民族をこえて (講談社選書メチエ)
(1996/06)
ジョージ・L. モッセ

商品詳細を見る


ドイツの近現代史家ジョージ・L・モッセがドイツ・ユダヤ史を「教養」の観点から捉えなおした著作。モッセ自身もナチスの迫害でイギリス、アメリカへと亡命したユダヤ人である。





教養の歴史社会学―ドイツ市民社会と音楽教養の歴史社会学―ドイツ市民社会と音楽
(2006/02/17)
宮本 直美

商品詳細を見る

19世紀前半のドイツの市民社会を「教養」と「音楽」の関係をから描写した歴史学・音楽学・社会学を横断する著作。





イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

                     

クレペンラーが1969年にバイエルン交響楽団を振ったメンデルスゾーン交響曲第3番「スコットランド」第4楽章。後半が短調に改変されている。

※画像はWikipediaより転載
( 門前ノ小僧 )





 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!




17:59  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2013.05.01 (Wed)

ワーグナーは「音楽による革命家」か

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

      
                   
ヴァーグナー指揮者として著名なハンス・クナッパーツブッシュとウィーン・フィルによるヴァーグナーの歌劇「ヴァルキューレ 」から「ヴァルキューレの騎行」(1953)




「彼は明らかに政治運動に取り憑かれていた。(中略)ヴァーグナーは政治のかたまりだった。彼は革命の勝利に、芸術と社会、宗教の完全なる再生を、そして新たな劇場と新たな音楽を期待していた!」

19世紀の音楽評論家エドュアルト・ハンスリック/吉田寛著『ヴァーグナーの「ドイツ」』




今年はヴァーグナーの生誕200周年ということもあり様々な場所で彼の音楽を耳にすることが多い。しかし考えてみるとヴァーグナーの作品にはある謎がある。彼の作曲したオペラ――とはいっても本人はこれらの中であるものを「オペラ」といったり「舞台神聖祝祭劇」と呼称したりするなどややこしいのだが――の題材を見てみよう。「ローエングリン」「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指輪」そして「パルジファル」。これら全てはドイツの神話、あるいは各地の中世の伝説を題材にしているものである。しかし「トリスタンとイゾルデ」など中身は男女の恋愛を描いたものなのだからわざわざ中世を舞台にしなくてもよさそうな気がする。対してヴェルディは「椿姫」などきちんと彼の同時代を舞台にした作品を残している。ヴァーグナーの作品にはもうひとつ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」というのがあるが、これも時代設定は中世であり、マイスタージンガーとは当時ドイツの各地の宮廷で歌ったという「吟遊詩人」が都市に居住し職人歌手となった者を指す。また舞台のニュルンベルクは今でも中世の面影を色濃く残す町である。何故ヴァーグナーはこんなにも昔の時代が好きなのか?彼の個人的趣味なのだろうか?しかし当時のドイツにおける彼の高い名声を考えるとそれだけでは説明できそうもない。そして矢張り当時のドイツ人も昔の時代を好んだのだった。ではその理由とは何なのだろうか。

一つの説明は当時の「ロマン主義」の潮流である。簡単に言ってしまえば、「啓蒙主義」という‘ 科学の進歩や人間の理性の発達など物事は全て前に向かって進むものだ ’という今でもよく見られる普遍的かつ発展的な物の見方に反して、ロマン主義とはこの様な‘ 「科学」的なものの見方や態度に対抗し、個々人の「直観」や「感情」または「文化」などに価値を置く考え ’の事である。詩人のハイネやバイロンなどはこれに入り、クラシック音楽の世界でもベートーヴェン以降から20世紀までの音楽を「 ロマン派音楽 」と呼ぶことは周知のことと思う。当時ロマン主義者らはしばしば非合理的な文化や価値観を称揚するという意味で、まだ文明化されていない時代 である中世を賛美する傾向があった。ヴァーグナーもまたその一人として解釈することができるのである。

だがロマン主義というのは本来、一部の芸術家や知識人の間で共有されていただけものだったのだが、それが何故時代を経るに従い、多くのドイツ市民に受け入れられるに至ったのか。それを考える為には、当時のドイツの大きな社会的な変化を視野に入れる必要があるかもしれない。




RichardWagner.jpg

リヒャルト・ヴァーグナー(1813~1883)





Caspar_David_Friedrich_040_convert_20130829143950.jpg

ドイツ・ロマン派を代表する画家カンパー・ダヴィッド・フリードリッヒ(1774~1840)の作品
「山上の十字架」





イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



フルトヴェングラーとウィーン・フィルによる「タンホイザー」序曲(1952)




ヴァーグナーの生きた19世紀のドイツ社会では「産業革命」「国家統一」という二つの大きな社会変革があった。
前者は、工業地帯のルールやベルリン、ライプツィヒやシレジエン等各地で鉄鋼・科学・機械などの工業が発展し、最終的には英仏に追い付き米国と共に新興工業国になった。
後者ではウイーン体制で政治的にはバラバラになっていたドイツを統一しようとする「ナショナリズム」の動きが高まり、数々の屈折があった後1871年にプロイセンの主導でドイツ帝国が成立した。



BASF_Werk_Ludwigshafen_1881_convert_20130829144725.jpg

ドイツを代表する化学メーカーBASFの工場(1881)


こうして上べだけを見ると19世紀はドイツ人にとって輝かしい時代と思える。しかしこれだけの変化を短期間で行ったために当然様々な面で歪みが生まれた。‘ 産業革命 ’に於いて特に影響を受けたのは「 中間層 」と呼ばれる人々だ。(これは一般に想定されているホワイトカラーだけでなく、農民や手工業者も含む広い概念である。)
まず農民はプロイセンなどでは19世紀前半に出された「 農奴解放令 」によって土地や領主に縛れらず自由な移動・転職・土地の転売が許されるが一方、彼らのうち多くは実際は土地を持つことが出来なかったため、都会に出て工場労働者になった。彼らは「賃貸兵舎」とも呼ばれた狭く劣悪な居住環境で暮らし、低賃金で過酷な労働に耐えた。正しくマルクスが資本家に搾取された「 プロレタリアート 」(賃金労働者)として描いた人々である。
プロレタリアートになったのは農民だけではない。手工業者もまた――19世紀以前は独占的な生産組合であるギルド制を築いて、‘職人’として独自の社会的地位を誇っていたのだが――産業革命により、大規模な資本と工場経営に基づく大量生産・大量消費の時代の中で次第に力を失い、職人から単なるプロレタリアート(賃金労働者)へと地位を下落させたのである。
こうした彼らプロレタリアートを中心とする貧困層の出現は「大衆的貧困」と呼ばれ社会問題となっていく。彼らは労働組合を組織し資本家と対立を繰り返した。

一方「国家統一」も一筋縄ではいかなかった。将来の国制について議会制民主主義や社会主義、君主独裁などをそれぞれ主張する勢力が激しく抗争していた。結果的にはドイツ帝国の宰相ビスマルクが折衷的な君主中心でありながら議会政治もとリ入れた形態にしたということはよく知られている。また将来のドイツ国家を現在のドイツだけに限定してしまうのか、それともオーストリアも含めるのかという「小ドイツ主義」と「大ドイツ主義」の対立も存在したが、そもそも「ドイツ人」というのは、ドイツ、オーストリア、スイスなど中欧のドイツ語圏だけでなく、ポーランドやルーマニア等東欧にも散在していた。彼らをどうするのかという問題は後に成立したドイツ帝国は解決できないでいた。こうしてみると19世紀のドイツは社会的には大きな変動の中で階級間の分裂が進み、政治的にも様々な局面で対立が先鋭化した時代であったといえる。

こうした混乱状態に直面して人々はこの混乱を引き起こした原因すなわち産業革命などの「近代化」を非難するようになる。その受け皿として「 ロマン主義 」が人々の間で力を持ったのである。ここでヴァーグナーの人生に置き換えて考えてみよう。

ヴァーグナーは若い頃は、先程述べた啓蒙主義的な考えに染まり、当時文明・文化の最先端であったパリに出て成功を収めようと考えた。しかしそこで彼は、他の著名な音楽家からは全く相手にされず大きな失望を覚えた。またフランスの音楽文化にも違和感を覚えるようになったという。すなわち社会では何でも市場と競争原理が幅を利かし、音楽でもその本質よりも流行や形式を重視する音楽家が多い、と彼は難じる。しかしそれで彼が完全に啓蒙主義を捨てたわけではなく、しばらくは政治的な革命運動に乗り出すなど、どちらかというと「革新派」であった。その彼を変えたのは1848年に勃発したドイツ三月革命である。前の「まやかしとしてのラデツキ―行進曲」の項で触れたので詳しくは書かないが、旧体制的な君主独裁に対抗し立ち上がった民衆に当時ドレスデンにいたヴァーグナーも参加したのだが、革命は失敗し彼はスイスでの亡命生活を余儀なくされた。
失意の彼は政治的な革命から「音楽による革命」を目指すようになる。ここで彼独自の音楽芸術論が顔を出す。吉田寛氏の研究によれば、ヴァーグナーの考える同時代の音楽の本質とは、彼がパリで接したものであるがごとく「産業でありその倫理的目標は金儲け」である。我々はこれに対し「革命」を起こさなくてはならないと彼は論じる。だが問題はその革命の内容である。彼は政治的には自由で平等な人間の確立を唱えながら、音楽的には「古代ギリシャ劇」の理想に立ち戻るべきだという。現代のようにそれぞれが分割されていたり、オペラのように音楽が全体の主導権をもつような形とは根本的に異なったものでありそこでは「詩・音楽・舞踏」が一体となっており、これを彼は「総合芸術」と呼んだ。
ではこうした‘ 古代ギリシャの理想 ’を蘇らせる人間は誰なのか?まずそれは啓蒙主義かぶれした知識人には無理だとヴァーグナーは言う。彼はさらにフランス人、イタリア人、それにユダヤ人にも無理だと結論づける(どうもここから彼の議論が怪しくなる)。それができるのは文明化に毒されず、ユダヤ人のような「 漂泊の民 」ではなく地に足のついたドイツ「 民族=民衆 」だけである。(ドイツ語では「民族」を意味する「Volk」は「民衆」という意味も含意している)またそうした改革を行えるのは文明から「 遅れてきた国 」である「ドイツ」を措いて他にない。つまりヴァーグナーは彼の信じる理想郷をドイツに投影し、自分の理想は「ドイツ精神」そのものだと喝破したのである。
ヴァーグナーはこうした思想を歳を重ねる毎に急進化させていき、「反ユダヤ主義者」の異名までとられるようにもなっていくのである。後にはバイエルン国王ルートヴィッヒ2世に支援を得ることで権力の側についてしまい、いつのまにか「革命家」から「国家主義者」へと変貌してしまった。ただし晩年には「ドイツ民族に真のドイツ精神を植え付けるための殿堂」であるバイロイト祝祭劇場の建設の支援をさっぱりしてくれなかったドイツ帝国政府に失望し、ヴァーグナー曰く‘真のドイツ精神を体現している’という当時の米国やロシア、果てはインドにまで思いを寄せるようになったという。

ここまでのヴァーグナーの音楽思想をまとめると、近代化による社会の歪み(音楽もまたその影響を受けている!)を是正するには、彼の創造する新しい音楽によってドイツ人の「内面」に革命を起こすことが重要である、ということになる。そうした音楽に取り上げられるべき題材とは?――当然まだ文明化の影響を受けていない、自然や純朴さが残る時代、人間本来の姿が描かれる世界すなわち古代や中世となるのである。また「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は職人を題材とする作品であるが、彼らの産業化による社会的な地位下落を受けて、この作品を一種の古き良き「理想」としてヴァーグナーが描いた可能性がある。ここに一つの逆説が生まれる。すなわち「革命 」という本来革新的な出来事と、文化や歴史といった伝統的・保守的とみなされるものが共に手を携えていることである。これは何もヴァーグナーの思想に限ったことではない。後のナチスは右翼的なイデオロギーを掲げながら自らの思想を国民「社会主義」と称していたのだから。
ヴァーグナーの音楽に潜む影。それは近代化に対する「反近代主義」の思想であり、右翼ラディカリズムという一見矛盾した思想ながら、近現代ドイツ史の底流を流れるものに他ならないのではないか。



ヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえヴァーグナーの「ドイツ」―超政治とナショナル・アイデンティティのゆくえ
(2009/10)
吉田 寛

商品詳細を見る


ヴァーグナーの難解な音楽・政治思想を当時のドイツ・ナショナリズムとの関連で分かりやすく説明した書。



※画像はWikipediaより転載


(門前ノ小僧)




 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!





12:23  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2012.12.31 (Mon)

スメタナのモルダウ「我が祖国」より

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。
     

    

カレル・アンチェル&チェコ・フィル
『わが祖国』より「ブルタバ(モルダウ)」





スメタナ:わが祖国(全曲)スメタナ:わが祖国(全曲)
(2006/01/18)
アンチェル(カレル)

商品詳細を見る





誰もが知っているチェコの作曲家、スメタナの名曲「わが祖国」(の中の‘モルダウ’は特に有名)。2012年はこの曲が初演されて130年に当たるそうである。しかしこの曲、それ以前のものと比べると少し奇妙に思われるところがないだろうか?例えばモーツァルトやベートーヴェンの曲に「我がオーストリア」や「我が祖国ドイツ」といった曲が存在しない。確かにハイドンは現在のドイツ国歌のもとになるピアノ曲「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」を作曲した。(ただしハイドンの祖国はオーストリアである)彼はナポレオン戦争で祖国オーストリアがフランス軍に攻撃された時この曲を書いたという。しかしそれは題名の通りあくまで自国の君主フランツ2世に捧げられたもので、オーストリア国民に対してではなかった。
しかしスメタナの時代、すなわち19世紀中盤以降になると、作曲家が自らの祖国を題材にし、「自国の風習や伝統に沿った」曲を作り、称揚する動きが全ヨーロッパ的に広まり(チェコではドボルザーク、ロシアでは「5人組」と呼ばれるムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、ボロディンなどの作曲家達、ハンガリーではバルトーク、ヤナーチェクなど)、今ではごく当然のようにこれらが「国民楽派」音楽として受け入れられている。
今回は、ナショナリズムの観点から、今一度「国民楽派」音楽の成立を、スメタナの「我が祖国」で問い直してみたい。


Bedrich_Smetana.jpg
ベドルジフ・スメタナ(1824~1884 チェコ)
 

スメタナの「我が祖国」はいわゆる「交響詩」(楽章構成に捕らわれない、自由な構成で作曲された管弦楽作品)の一種であるが、この「交響詩」というのは人物の内面や風景などを「描写」することを目的としている。「我が祖国」で描写されているのはもちろんスメタナの祖国チェコであるが、それは第2曲「ヴルダヴァ(チェコ語、モルダウはドイツ名)」のように情景だけではなくチェコの歴史や伝説も含んでいる。表題を見てみよう。

第1曲:ヴィシェフラド(Vyšehrad)…かつての国王の居城ヴィシュフラド城跡を吟遊詩人が歌う。
第2曲:ヴルタヴァ(Vltava)…ドイツ語名「モルダウ」で親しまれている通り、モルダウ川の流れを描写。
第3曲:シャールカ(Šárka)…プラハの北東にある谷にまつわる勇女の伝説
第4曲:ボヘミアの森と草原から(Z českých luhů a hájů)…チェコの農民の日常を描く
第5曲:ターボル(Tábor)…南ボヘミア州の古い町に拠点を持ったフス派の戦いを描写
第6曲:ブラニーク(Blaník)…中央ボヘミアにある山にまつわる聖ヴァーツラフの伝説

表題に掲げられているのはいずれもチェコの名所、旧跡と一見して思われるだろう。しかし考えてみると何故スメタナはこれらの場所を選んだのか,気になる。例えば、他にも名所と言えば歴代神聖ローマ皇帝の居城だった首都プラハにあるプラハ城を選んでも良いだろう。スメタナが選択した基準は何だったのか…。
ここで先程の「歴史」と「伝説」が出てくる。それらが表題の名所旧跡と何らかの関わりがあることは明らかである。ここで注目してほしいのは第5曲の「フス派」、第6曲の「聖ヴァーツラフ」というキーワードである。
前者の「フス派」とは、15世紀カトリック教会の腐敗を批判したチェコの聖職者ヤン・フスの処刑を契機に大規模な反乱「フス戦争」を起こしたチェコ人のことである。また、後者の「聖ヴァーツラフ」とはチェコの守護聖人と崇められた中世期の伝説的なボヘミア公を指している。両者とも祖国を代表する偉人、英雄であった(と思われる)。
ただここであえて「と思われる」と加えたのは実際はそれが本当かどうか分からないからだ。そもそも聖ヴァーツラフが自分を「ボヘミア公」だとは思っていても、独立した「チェコ人」の一人と考えていたかどうか。というのも当時のボヘミア公国は独立国ではなく、形式上はドイツの神聖ローマ帝国の一部だったからだ!その後も王座がルクセンブルク家やハプスブルク家などドイツ系に移り(相続によって平和裏にである)、チェコは長い間「ドイツ人の君主」によって統治された。それを多くのチェコ人は不自然には思ってこなかった。問題になったのはむしろ君主がカトリックである事に対しフス派やプロテスタントが反乱を起こすといった宗教面においてであった。こうした状態がが近代まで続いたのである。



 Jan_Hus.jpg
ヤン・フス(1369~1415)



150px-Vasik_kaple_200px.jpg
聖ヴァーツラフ(907~935)
 
 
転機になったのは1789年のフランス革命とその後のナポレオンによる征服戦争である。フランス革命はただ民衆がルイ16世やマリー・アントワネットをギロチンにかけ「自由・平等・友愛」を連呼しただけではない。革命政府が封建的な身分制秩序を潰し新たに生み出したのは「国民国家」という概念であった。では「国民国家」とは何か?とりあえずここでは‘ 言語・文化・歴史・血統などを互いに共通だと思っている人々からなる近代国家 ’と定義しておく。つまり現在の私たちがイメージする平等な個人からなり、自分たちが「同じ国民」だと思う国家である。だとするとそれまでの人々は自分たちが国民だと思っていなかったの?という質問が出るだろう。実はそうなのだ、というのが最近主流の学説である。(確かに自らを君主に従う「臣民」と思うことはあったがそれは主権を持つ「国民」とは異なる)
この「国民国家」を自分たちも作ろうという動きが「ナショナリズム」と言われる。こうした思想を全ヨーロッパに広めたのがナポレオン戦争である。ナポレオンの強力な軍勢の秘密が愛国心によって結ばれた「国民軍」であることに気付いたヨーロッパ諸国は自国でも様々な改革を漸進的に進めたり、民衆の革命によって無理やり進めさせられるなどしたのだ。いわゆるヨーロッパで起こった「諸国民の春」である。(「アラブの春」はこれにちなんでいる)
こうした潮流を背景にチェコ人もまたハプスブルク帝国の支配下で自立を目指す運動を展開する。1848年のウイーン3月革命時には運動の指導者パラツキ―がチェコ人もまたその一部であるスラヴ人の会議を開催し、神聖ローマ帝国、ドイツ連邦と長きに渡って「ドイツの一部」であった状態から脱する自立運動を行う。しかしオーストリア軍の干渉でこれらは失敗に終わる。壮年期にこの革命を経験し積極的に革命側を支援したスメタナは忸怩たる思いが残っていたのだろう。彼が「我が祖国」を作曲したのはそれから約30年後の1882年だがそれ以前にも彼はオペラなどでチェコの民話などを題材にオペラを書き、後年「チェコ国民楽派の祖」と呼ばれるようになるのである。
 
次に注目すべきはスメタナの地位である。彼は生涯作曲家だけでなくピアニストや音楽教師、指揮者としても活躍していた。彼ははいわば当時の「知識人」の一人であったわけだが、重要なのはこうした人々がナショナリズムの高揚に重要な役割を果たしている事である。つまり先程も言った通り「国民国家」というのが近代になって作られたものである以上、それを理解し一般の民衆に伝えるにはある程度の知識と教養を持った階層が必要とされる。東欧諸国のようにそれまで絶対的な君主の支配下にあった国々では特にそうである(ロシア5人組でもムソルグスキーは役人、ボロディンは科学者であったりと多くが典型的な教養人であった)。作曲家もまた作曲という形でこれに貢献した。ここにいわゆる「国民楽派」音楽が誕生したのだ。


220px-PalackyLitho.jpg
フランティシェク・パラツキー(1798~1876)


他の何者のためでもなくチェコの人々のための曲を作曲すること――それは一見当たり前のようで当たり前ではないことが分かって頂けたかとおもう。人々に祖国の歴史、伝説、地理、風物に基づいた「これこそ○○民族を体現した音楽である」といえるものを聞かせることで自らを「○○民族である」と自覚させること。これこそ、「 国民楽派音楽 」とその作曲家が果たした役割である。19世紀のナショナリズムを知れば、クラシック音楽は一層面白く聴ける。

                                        


スメタナ:わが祖国スメタナ:わが祖国
(2004/12/22)
クーベリック(ラファエル)

商品詳細を見る

チェコの指揮者ラファエル・クーベリックが冷戦後亡命先の米国から帰国し、ビロード革命によって民主化された祖国で振った歴史的名盤

※画像はWikipediaより転載


(門前ノ小僧)




 引き続きクラシック万歳!!

 TOP頁に戻る

13:58  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2012.05.03 (Thu)

悲しみの「イェラチッチ行進曲」

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。
     
    
        
      

           

ラデツキー行進曲」なら誰でも聞いたことがある。では「イエラチッチ行進曲」は?と尋ねられて聞いたことがある人はあまりいないだろう。事実この曲は有名な音楽事典を当たってみても詳細な説明は見つからない作品だ。それにしても何なのだろう、この朗らかな、明るい調子は…。「イエラチッチ行進曲」を初めて聞く人ならだれでもこれが行進曲だと思う人はいないだろう。むしろ朝の目覚めに良さそうな軽快な曲、何がしかのダンスの曲にも聴こえるかもしれない。
 
 
  
 イエラチッチ

イエラチッチ 祖国クロアチアでは現在でも英雄とされる


「イエラチッチ行進曲」も前回の「ラデツキー行進曲」と同様、戦争に勝利した将軍をたたえてヨハン・シュトラウス1世が作曲したものだ。だが今回は少し毛色が違う。ラデッキーやシュトラウスはオーストリア人であったが、今回の主人公イエラチッチ将軍は、実はオーストリア人ではない。
ヨシフ・イエラチッチ(Josip Jela'cic 1801―1859)は現在のクロアチア出身の将軍であり、クロアチアの総督であった。クロアチアという国はあまり聞いたことがないかもしれないが名ピアニスト、ポゴレリッチの父親の故郷、1990年代の悲惨なユーゴ内戦の舞台と言えば、あるいは知っている人もいるかもしれない。
クロアチアは19世紀当時はオーストリア帝国の支配下にあった。その支配に置かれるまでの経緯は長くなるため詳細は省くが、要はバルカン半島の南に位置するイスラム教徒中心のオスマン・トルコ帝国に対するキリスト教側の最前線としてクロアチアは重視され、隣国のハンガリー、そしてそのハンガリーを支配するオーストリア帝国の統治下にあったのだ。
だがそのクロアチア < ハンガリー < オーストリア帝国 というピラミッド状の支配構造は、1848年に起きたウイーン3月革命とそれに続くヨーロッパ全土に広がる民主化運動「諸国民の春」によって大きく動揺する。
一連の反体制・独立運動の先鞭をつけたのは他ならぬハンガリーだった。ハンガリーの有力貴族コッシュートはオーストリア帝国からの独立を宣言し宣戦布告。これに対しオーストリア帝国政府は首都のウイーンの民衆の騒乱や対イタリア戦争にかかりきりでハンガリーに軍勢を回すだけの余裕がなかった。そこでどうしたか。オーストリア政府はクロアチアに目をつけたのである。
当時クロアチアは直接の支配下にある「ハンガリーからの」分離独立を主張し、実際にハンガリーに対して反乱を起こしていた。その主導者こそ‘ イエラチッチ将軍 ’に他ならない。彼は革命前からハンガリー内のクロアチア人と同朋の南スラヴ民族を糾合して一つの国家を建設する「イリリア運動」に協力し、ハンガリーに対抗してクロアチア独自の議会を招集し農奴制の廃止などの諸改革を進めた。そしてハンガリーと交渉が決裂するや、自ら軍勢を率いてハンガリーに攻め入ったのだ。一方、当初はイエラチッチを危険視し彼の官職を剥奪していたオーストリア帝国政府もこの動きを見て、直ちに彼を将軍に任命する。いわばイエラチッチはオーストリア皇帝からの「お墨付き」を貰ったわけだ。以後彼はハンガリー討伐の先兵として長く苦しい戦闘を戦うことになる。
 
 
蝨ー蝗ウ_convert_20120502200929

濃い青色がハンガリー領。緑色がクロアチア領。当時の巨大なオーストリア帝国は多民族国家だった。多数のドイツ人とマジャール人を合わせても全国民の半数にとどかない。他に、チェコ人、ポーランド人、ルーマニア人、クロアチア人、スロヴァキア人、セルビア人、スロベニア人、ムスリム人、イタリア人、ルデニア人、ユダヤ人…民族のるつぼといえる。


ここで皆さんは何故イエラチッチはハンガリーと共にオーストリア帝国に対抗しなかったか、といぶかしく思うかもしれない。ともにオーストリア帝国の支配下にあるのだから共闘の余地はあったはずだ、と。だがそうでないところにこの地域の独特の歪みがある。クロアチアはかなり昔からハンガリーに支配され虐げられてきたのである。またイエラチッチらは、ハンガリーが独立することでハンガリー内の「マジャール人(ハンガリーの民のこと)化」が進みクロアチア人もまたハンガリー人に同化されてしまうのではないか、と危惧したようだ。一方ハンガリーにしてみたら、自国の領土の一部と考えているクロアチアが分離を主張するなど論外であっただろう。対立は避けられなかったのだ。 
 イエラチッチはオーストリア軍と手を結び、苦戦の末ハンガリーの首都ブダペストを占領した。がハンガリーの独立勢力を完全に破るにはなお数カ月を要した。
戦闘終結後、彼はウイーンに行く。当然、今回の功績を称えられ、クロアチアの大幅な自治が果たされるであろうことを期待していたに違いあるまい。だが結果は悲惨だった。クロアチアは結局ハンガリーの支配下におかれたままであった…何故ならハンガリーもこの戦闘で敗れたことより、独自の議会を廃止させられ、オーストリアの直接支配下に再び入る事になったからである。その内にあるクロアチアも同様にオーストリアの直接統治を受けることになる。自治の権利もいくらか認められたようであるが、結局革命以前と大差はなくなってしまったのだ。
クロアチア国民は痛く失望したことだろう。だがそれ以上に彼らを驚かしたのは、総督イエラチッチの姿であった。あれほどかつてクロアチアの自治を掲げながら、今となっては味方であった筈の反オーストリア系の新聞を次々に非合法化していったのである。彼は死ぬまでクロアチア総督を務めあげたが、ついに彼の統治下で再び独立の機運が高まることはなかった。これらは、彼が心ならずも下した結果であったのか、それともそもそも彼はオーストリアに忠誠をつくした人物だったのか(彼は若い頃ウイーンで教育を受け、オーストリア軍の中で育った)、今のところ私には分からない。
そしてもう一つ重要なのは、このオーストリア帝国政府がクロアチアに対して行った一連の仕打ちはその後、自分達の方にもはね返ってきた、という事である。
三月革命以後、オーストリア帝国が対外的に連戦連敗を繰り返したことは前回に書いた。それはそうだろう、諸民族の混合であるオーストリア帝国軍がまともな働きをしたとは思えない。
オーストリア政府もついに妥協を余儀なくされ、ハンガリーを一つの国家に格上げし、オーストリアと同君連合を取るという体制(オーストリア・ハンガリー二重帝国)を敷いた。その過程でクロアチアもハンガリーと協約を結び、ある程度の自治を獲得する。
しかしそれでも尚、クロアチア国民の独立への願望は日に日に勢いを増し、特にハンガリー政府のとった、同じスラブ系のクロアチア内セルビア人への優遇政策も結局役に立たず、返ってクロアチア人とセルビア人の結束を強めてしまう事となる。
そして第一次世界大戦、ついに栄華を誇った大帝国は1919年のサン=ジェルマン条約で瓦解した。結束もないバラバラの状態のオーストリア帝国軍はほとんど戦力にならなかった。
 
その後のクロアチアの歴史は非常に複雑であるため詳細は省く。しかし近年――1990年代の内戦は触れておかなくてはいけない。当時ユーゴスラビア連邦に属していたクロアチアは再び独立を宣言する。しかし同国内のセルビア住民が反対したため内戦に発展、多くの死者を出し、20万人ものセルビア人が国外脱出したのだ。――だがここで歴史を振り返り考えてみれば、先の19世紀後半クロアチア人とセルビア人はともに結束してオーストリアからの独立を目指していたのである。「重し」となっていたオーストリア・ハンガリー帝国も崩壊し、チトーの独裁も終焉し、冷戦の緊張も無くなった90年代になり、今度は同朋であるはずの両者の対立が浮き彫りになったのだ。これもまた悲劇といえよう。
「 イエラチッチ行進曲 」が作曲されたのは「 ラデツキー行進曲 」の翌年の1849年。作曲者ヨハン・シュトラウス1世が急死した年でもある。シュトラウスとしてはオーストリアの輝かしい勝利に花を添えようと純粋に楽しい曲を書いたに違いない…。だが、その曲が背負う歴史は「ラデツキー行進曲」以上に複雑で、かつ悲劇的なものとなっていったのだ。 
 

             蜀咏悄_convert_20120502200013

1990年代のクロアアチア紛争の後。瓦礫の山と化している。この紛争をもって、ようやくクロアチアは独立を達成する。 

※画像はWikipediaより転載

(門前ノ小僧)







 引き続きクラシック万歳!!

 TOP頁に戻る




20:26  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2012.05.02 (Wed)

”まやかし”としてのラデツキー行進曲

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

    

1991年のアバドの演奏。今はイタリア人指揮者も普通に演奏します。


冒頭の題名が気になられるかもしれないがまずは2つのクイズを解いて欲しい。

①今年も1月に開催された恒例のウイーン・フィルのニューイヤー・コンサート。
トリはいつもの「美しき青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」で締め括られたが、さてラデツキーの語源は何?

②話題変わって、去年から今年にかけて日増しに激化している、中東の民主化運動「アラブの春」は、なぜ「春」というの? 
 
一見すると何の関わりもない二つの問題だが、とりあえず答えを見てみよう。

①の答え:19世紀に活躍したオーストリアの将軍ラデツキー(Joseph Radetzky von Radetz 1766-1858)を指している。 
②の答え:19世紀、西欧から東欧にかけて波及した反体制・民族運動「諸民族の春」に因んだ。
 
19世紀のヨーロッパと現代のアラブ。もしかしてその時代のヨーロッパでもムバラクやベンアリのような独裁者が倒されたの?と考えた読者は正解。当時のヨーロッパでは体制側の君主と反体制側の民衆の間で血なまぐさい騒乱が頻発していたのだ。しかもその舞台には、あの優雅な音楽の都ウイーンも含まれている。驚くなかれ、当時のウイーンは現代のカイロ、いやもっとひどいダマスカス(シリアの首都)のようなものだった。町中を砲弾が飛び交い、到る所で白兵戦( 剣と剣で戦う戦い )が展開され、バリケードが築かれては破壊される。家屋は焼かれ、死体は道端に累々と積み重なり腐臭を催す有様。まさに地獄絵図そのものだったがこれが当時のウイーンである。実は花の都パリも同様でヴィクトル・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」で登場するバリケード戦はこのときのものだ。
当時のヨーロッパは1848年のフランス二月革命を発端として、ドイツ、オーストリア( オーストリア帝国の支配下にあったハンガリー、イタリア)と、次々に革命が波及して行った、現代のアラブさながらの不穏な時代だったのである。
音楽家のシューマンは徴兵を避けて田舎に疎開し、革命派のワーグナーは捕らえられそうになりスイスに亡命している。
では、体制派であるオーストリアのラデツキー将軍は…?
このヨーロッパ全土に巻き起こる革命騒ぎを、軍を率いて片っ端からつぶしたのである。

それでは一体、ウイーンはどのようにしてこのような騒乱に巻き込まれたのだろうか?何故そのような凄惨な状況の中、かくも愉快な名曲「ラデツキー行進曲」は生まれたのだろう?そしてそこに隠された「まやかし」とは?

800PX-+1_convert_20120303203630.jpg

1848年のウイーン。市民がバリケードを築いている。


時は1848年に遡る。当時のヨーロッパはきな臭いにおいに満ちていた。伝統的な王を中心とする絶対君主制を堅持しようとする王侯貴族たちに対して、一方では権力に虐げられた民衆(より正確に言うと労働者 )が対立していた。このような旧体制――ウイーン体制とよばれる――が、ルイ14世の時の絶対王政と大きく異なるのは、民衆が自由・平等・博愛を謳った1789年のフランス革命、ナポレオンによる民衆解放戦争、そして1830年フランスで起きていた七月革命という一連の革新的変化をすでに体験していたことにある。つまり民衆が力をつけてきた時代になった、ということである。革命の原動力になったのは、産業革命や植民地貿易などで力をつけた新興ブルジョワジー( 富裕層 )と中産階級( 一般庶民 )、そして労働者である。七月革命では、フランスのブルジョワだけに参政権が与えられ、依然として労働者は無視された。オーストリアでは更に深刻で、憲法さえも存在しなかった。民衆の怒りは頂点に達し、2月にはパリで革命が起こり、国王ルイ・フィリップが追放される。これに刺激を受け、3月にはウイーンやベルリンでも民衆蜂起が発生。ウイーン体制の元締め役ともいうべきオーストリアの権力者であったメッテルニヒは、この勢いに恐れをなし亡命、オーストリア皇帝フェルディナンド1世は憲法制定などを認めさせられた挙句、一時はウイーンから逃亡を余儀なくさせられた。まさしく‘ アラブの春 ’そのものだ。
 
だが11月になると状況は反転し、体制側は再び勢力を盛り返して、軍を市内に投入、激しい市街戦を繰り広げる。そしてついに革命勢力を殲滅することになる。死者は2000人にのぼったという。
このとき革命勢力側に加担していたヨハン・シュトラウスⅡ世(「ラデツキー行進曲」の作曲者ヨハン・シュトラウスⅠ世の息子。「美しき青きドナウ」の作曲者)は事情聴取を受け音楽活動を一時停止させられる。ウイーンの春は終わりを告げたが、結果的には憲法及び制憲議会が創設されたことで一定の民主化は達成されウイーン体制は崩壊した。

775px-Austria_Hungary_ethnic_svg_convert_20120303203707.png
 
19世紀後半のオーストリア帝国地図。赤色がドイツ人居住地域。黄緑色がハンガリー人居住地域。西隣にイタリアがある(1848年当時はこの北部の大半がオーストリア領だった)


ここで注意して欲しいのはこの革命で蜂起したのはウイーン市民だけではないということだ。上記の地図でも分かるように、当時のオーストリア帝国は他民族国家。領土はなんと、現在の北イタリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、ルーマニア北部にまでまたがる 文字どおりの大帝国であったのだ。。ウイーンの三月革命はこれらの諸民族の自立をも促し、ハンガリーではコッシュートを中心として独立運動が発生する。北イタリアではサルディニア国王カルロ・アルベルトがイタリア統一に向けオーストリアに宣戦布告した。内憂外患のオーストリア、危うし!というところで現れたのがヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」の、前述したラデツキー将軍である。
ラデツキー将軍は、若い頃ナポレオン戦争に従軍した経験を持つ有能な司令官であった。が、戦後熱心に主張した軍制改革が政府に容れられず、晩年に差しかかると皇帝の口添えで退役を何とか免れていていた。
だが革命の嵐は彼に転機をもたらす。81歳という高齢ながら野戦司令官として再び彼は、伊のサルディニア王国に対抗するため北イタリアに派遣された。最初は、政府からはなかなか軍資金なども援助されず劣勢だったが、後に勢力を盛りかえし、ノヴァラの戦いでサルディニア軍に大勝してヴェニス、ミラノを占領、オーストリアの圧倒的勝利のうちに戦争は終結した。
戦後北イタリアの総督に任命されたラデツキー将軍は、占領地で武力で抵抗する者は容赦なく追放したが、それ以外は寛容な政策を行ったという。オーストリアの支配下に置かれるも、ヴェルディがイタリアの愛国的なオペラを書き続けながら迫害を受けなかったのはその例だ。

Radetzky-von-radetz.jpg


ラデツキー将軍 性格は厳格であった一方、公正な紳士だったともされる。
 

さて「ラデツキー行進曲」がいつ作曲されたかというと、ウイーンで革命が起きた1848年8月である。この時期オーストリア皇帝はというと、5月に起きた革命によってウイーンから逃亡しアルプスのインスブルックに宮廷を移していた。まさに革命派がウイーンの権力を握ったのである。皇帝派は当然権力の奪還を狙う。利用したのはラデツキー将軍の北イタリアにおける勝利だ。皇帝はこれを手土産にウイーンに帰還を果たす事が出来たのだが、ラデツキー将軍の戦果を市民により効果的に知らしめ、人心を完全に掌握したいと思っただろう。だがこの時代にまだテレビなどの視聴覚メディアは発達していない。そこで代わりに大きな役割を果たしたのが‘ 音楽 ’であった。
委嘱を受けたのは当時の人気作曲家ヨハン・シュトラウスⅠ世(Johann Strauss 1804-1849)。彼が戦勝祝賀会に合わせて作曲した「ラデツキー行進曲」は当初は市民の間では不評だったようだが次第には国民に広く周知され定番曲としての地位を不動のものにする事となる。こうして見ていくと「ラデツキー行進曲」のあの煌びやかな旋律は、単にラデツキー将軍を讃えるだけのものではなかったのだと分かる。同曲は、市民たちに対イタリア戦争の戦果を示すことで、勝者の感覚を植えつけた「まやかし」だ、ともいえるのだ。それはいつのまにか革命精神をも弱らせてしまう――結果的に「ラデツキー行進曲」はプロパガンダの先駆となってしまったわけである。
改めて現代のウイーンのニューイヤー・コンサートで人々の拍手と共にのどかに同曲が演奏されるのを見ると、19世紀ウイーンでナショナリズムをかきたてられた市民の歓呼と熱狂の中、演奏された当時を思いおこしてしまうのは私だけだろうか。

だがその後のオーストリアは坂を転げるように衰退していく。幸いにラデツキー将軍はそれを見ることなく亡くなったがオーストリアはその後のイタリア統一戦争、続く普墺戦争に連戦連敗する。その中でもオーストリア国民は「ラデツキー行進曲」を聴くことで強国という「まやかし」を信じ続けていられた。しかし1914年から1918年の第一次世界大戦の決定的敗北によって大帝国は解体、オーストリアは中央ヨーロッパの一小国に転落した。ではその原因は一体何だったのか…。実はそれはヨハン・シュトラウスⅠ世が作曲したもうひとつの行進曲と関わりがある。それは「イエラチッチ行進曲」である。~ 次回に続く

(門前ノ小僧)


 引き続きクラシック万歳!!

 TOP頁に戻る




18:39  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2010.02.21 (Sun)

謎解き「幻想交響曲」 ベルリオーズ

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。 

     




ベルリオーズ:幻想交響曲ベルリオーズ:幻想交響曲
(2007/06/20)
ミュンシュ(シャルル)

商品詳細を見る


エクトル・ベルリオーズ(仏 1803-1869)は、医学生になる為にパリへ行くもそこで作曲家となる。著作に「管弦楽法」。代表作は「幻想交響曲」「ファウストの劫罰(ごうばつ)」


私が、あまり世間でその価値を認知されていないベルリオーズの作品を紹介する理由は、この曲が多くの「謎」に包まれているからだ。例えば、聴いていて心が躍るようであったり、物哀しくなったり、しみじみと感動するような曲は幾らでもあるだろう。だが、‘心に謎の残る曲’というものは、多分誰もあまりお目にかかった事がない筈だ。それでいてクラシック音楽の中では、名曲中の名曲と位置付けられている。一体、何が謎なのか。
一言で言えば、‘聴いていても良く分からない曲’なのである。先にも述べたが、私達が曲に接する時、この曲は明るいとか、悲しいとか、力強く激しい、あるいはロマンチックだとか「曲想」をそれなりに思い浮かべながら聴いている。ところがこの曲の場合、前半の楽章は、ロマンチックな旋律で占められているかと思うと、後半では金管が乱暴に吹き鳴らされ、ティンパ二が騒ゝしく連打されたりと、とても同一の曲と思えない奇怪な音楽が展開されているのだから、お世辞にも親しみやすい名曲、とは言えないだろう。どこか怪しげで、作曲家は一体何を考えて作曲したのだろう、といぶかしがる向きも出てくるかもしれない。だが何の脈絡もなく作曲されたわけではない。実はこの曲は‘物語’なのである。台詞(せりふ)もなく、俳優もいない、オーケストラのみで語られる、いや奏でられる物語、それが「幻想交響曲」なのである。




正真正銘のカリカチュア、才能の影さえなく、暗黒の中を模索している癖に新しい世界の創造者を自任している男

フェリックス・メンデルスゾーン


そもそもベルリオーズが新しいオペラを書いたという事が、彼の最大の不幸なのだ。彼を救えるものは唯、劇しかないのだから。

リヒャルト・ワーグナー


(医学生の)ベルリオーズが殺人犯の頭を解剖した時でも、私が彼のシンフォ二―の第一部を分析した時に感じた程の嫌らしさは、感じなかっただろう。

ロベルト・シューマン



さんざんな酷評である……。



さて、この曲は全部で五つの楽章で構成されている。第一楽章は夢と情熱、第二楽章は舞踏会、第三楽章は野原で、第四楽章は断頭台への行進、第五楽章はサバの野の夢、と言う様に、実に奇妙な題名が続いているが、物語はさらに奇怪極まりないものとなっている。(内容はすべてベルリオーズ自身が書いている) 
昔、一人の芸術家がいて、彼はさる女性に思いを奪われていた。彼は舞踏会に出掛けたり、野原でまどろむといったささいな日常生活の中でも常に彼女の面影を忘れる事が出来ない程、恋焦がれていた。ある種、病的なものである。やがて彼は、自身の愛が彼女に受け入れられないと分かり、絶望して毒を飲む。だが、致死量に至らず彼は半死半生の中で、幻影を見る。――それは自分が女性を殺し、処刑台へと連れて行かれるというものだった。やがて男の葬式が執り行われる。彼の棺桶の周りでは、地獄の悪魔が集い、踊りを踊る。すると、そこへ女性が現れ、悪魔と一緒に踊り始める。鐘が打ち鳴らされ、舞踏は熱気を帯び、物語はカタルシスへとなだれ込んでいく。この悪夢の様な筋書きを追ってみると、初めて、各章の題名や、突如の旋律の変化も説明が着くだろう。
では、何故ベルリオーズはこのような「妄想」と言える様な曲を作曲したのだろう。理由は単純で、主人公の芸術家がベルリオーズ自身なのである。といっても実際は、彼は毒を飲んだ訳ではない。
唯、恋をしたのだ。相手は、ハンリエッタ・スミッソン。彼女は、当時それ程人気のなかったシェークスピア劇でヒロインを演じている女優であった。シェークスピア劇のファンでもあったベルリオーズは、じきに劇よりも演じている彼女の方に熱を入れ始める。すっかり彼女をジュリエットやオフェーリアと同一視してしまった彼は、早速、求婚するが、何しろ彼は当時まだ貧乏な音楽院学生。にべもなく撥ねつけられてしまう。
その、傷心のベルリオーズが一念発起して書き上げた作品が、この「幻想交響曲」だったのである。曲は当時としては、大変斬新なものであって人気は上々で、以後、彼は有名作曲家の地位を獲得したのであった。(ちなみにその後、再び彼はスミッソンに求婚し、見事二人は結婚するのだが、結局破局してしまう。)
さて、ここまでで、曲の‘謎’も解明できたが、最後に未だ一つ「何故この曲が名曲と言われているのか」という事である。ここで時代背景を考えてみる。曲が作曲された1830年代は、フランスでは、社会構造の変化が起こっていた。すなわち大小の貴族が没落し、代わりに資本家などのブルジョア階級が急速に力を持ち始めていた。彼らは貴族が保護していたバロック~古典派の格調高い名曲よりも、派手で実生活に則した音楽を求めていた。ベルリオーズの自らの内面を赤裸々に投影した「幻想交響曲」は彼らの欲求を充分に満たしたに違いない。
また「幻想交響曲」がクラシック音楽において、「描写音楽」の先駆けである事にも注目したい。描写音楽とは音楽それ自体に意味を求めるのでなく、自然・人の感情などを音楽によって表現したものである。例えば、モーツァルトの交響曲第40番は曲自体を聞くものであるのに対し、ベートーヴェン第6番「田園」は、題名の通り聴いて田園に思いを馳せなければならない。(ちなみに、この曲が初めての描写音楽であると言われている。)
ではベルリオーズの場合はどうか。この曲は物語である。そして作曲家自身の感情が音化された作品である。そう、彼はこの「幻想交響曲という曲で初めて、「個人」を音楽作品に込めたのだ。
クラシック音楽のそもそもの始まりは、神を讃える宗教音楽だった。それが、徐々にオラトリオ、オペラ、交響曲へとすそ野を広げていったにせよ、あくまでも、音楽の本質は‘祈り’であり、万人の為に存在していた。ベルリオーズはその伝統を打ち破ったのだ。彼の音楽は、極めて個人的な内容を題材とし、そこに息付く個人の情念をあます処なくオーケストレーションに仕上げたのである。
それは真の意味でクラシック音楽が、古典派から以後のロマン派に移行する上での、記念碑的作品と言っても言い過ぎではあるまい。ベルリオーズこそロマン派音楽の創始者だったのである。こうした観点で改めて「幻想交響曲」を聴くと、今迄の意味不明の音楽が、俄然、耳に違ったものに響いてこないだろうか。第一楽章の、ときめきにも似た弦楽器のささやき、曲の要所要所に現れる彼女を表す甘美な動機、第三楽章のファゴットの響きの切なさ、第四楽章の一見明る気な雰囲気の中で、男の処刑が粛々と執り行われるという異常さ、第五楽章は、悪魔まで現れての狂乱のダンス。全ての音符が意味深く音楽の中に織り込まれている。この曲を聴かずして、もはやクラシック音楽は語れまい……。

(門前ノ小僧)



 引き続きクラシック万歳!!

 TOP頁に戻る


     
19:46  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑

2009.05.02 (Sat)

ベートーヴェン交響曲第5番「運命」~フルトヴェングラーの場合

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



1、カラヤンとフルトヴェングラーは違うということ    

百聞は一見にしかず、まず下にある二つの録音をきいて欲しい。前者は「楽壇の帝王」カラヤン、後者は今回の主人公フルトヴェングラー、である。






何を感じただろうか。聴き比べてみると確かに何かが違う。カラヤンの演奏には不思議なことに覇気というか重厚な音の厚みというか、そうしたものが欠けているように思われる。地に足がついていない、どこかぼんやりとした演奏。いや、もっと言うと―ベートーヴェンというものを捉えきれていない―これがしっくりとくる表現だろう。他方のフルトヴェングラーの場合。なかなかこれも表現し難いが重々しく、時に曲の深淵に迫るようなあの響きには圧倒される。この違いは一体何なのか。そしてそれはどこからでてくるものなのか。結論からいうと違いはあって当然なのである。何故ならフルトヴェングラーとカラヤンの間には「音楽の断絶」ともいえるある決定的な価値観の変化が存在したから。それは音楽という存在をどう捉えるかという問題に直結する。以下、その問題に関するフルトヴェングラーの考え方について述べたいと思う。

2、曲をすべて楽譜通りに弾く必要はないということ                                             

少し語弊があるだろう。すべて「イン・テンポ」で弾く必要はないと言い換えてもよい。フルトヴェングラーはまずそれを信条とする。彼は自著「音と言葉」の中で次のように述べている。
 
併し演奏指導の目的から考察してみると、この「譜面に忠実な再現法」はただ貧しい演奏というだけですませておけぬものを含んでいます。最善の場合にしてもそれは一字末句に拘泥する狂信家の「理想」であり、生来の道学先生の「理想」とするものでしかありません。

彼は当時の作曲家の作品をそのまま演奏することは不可能であり(例えば作曲者の指定したフォルテやピアノの実際の強度など後世の人が完璧に関知できる筈がない)それに時間を費やすことは「時間の無駄」と喝破する。彼が重視したものは別にある。それは作品を真に「体験」するということ。彼にとって「体験する」とは作品に対する熱烈な共感とその底辺に流れる混沌とした心情、感覚を正確に知覚することを意味する。そしてそれを最大限聴衆に演奏という行為で目の前に表現するためなら、(たとえそれが楽譜に書かれていなくとも)テンポを自在に変えても構わないと彼は考えたのだ。これはなるほどある意味原始的かもしれない。同時代の指揮者トスカニーニが彼を評して「天才的素人」と言ったのもこの所為である。大体、現代の演奏家の大半は作品をもっと冷静に、学究的に意味づけようとする。例えば「この作品の成立の背景には作曲者のこんな過去があった」とか「作曲者はこれこれの楽器をここで効果的に使おうとした」等々。しかしフルトヴェングラーはそれらを無視する。彼の頭の音楽とはそんな機械的な、無機質なものではなかった。彼にとって作品から生み出された音楽だけが全て。その他は第二義的なものでしかなかった。ここまで来るとフルトヴェングラーとカラヤンを分つ断絶もおのずと分かろう。それはつまるところ、作品に対する接し方、考え方にあったのだ。

3、曲の「混沌」を呼び戻すということ

ではフルトヴェングラーは具体的に何を以って曲を演奏しようとしたのか。その鍵となるのが先に書いた曲の底辺に存在する「混沌」である。混沌とは一体何か。そのことを考える前にまず、フルトヴェングラーはそもそも元は作曲家であったということを確認しておかなくてはならない。彼は音楽の作られ方というものを知っていた。音楽を作る時、作曲家はまず何を考えるだろう。いきなりドレミの音符が頭に浮かぶわけではない。あるのはもっと抽象的なインスピレーション、感情である。(もっとも現代の作曲家は構造原理などいうものを持ち出して機械的にやってしまうかもしれないが。)それは直接言葉で表現したりすることはできない。何故なら言葉の終わる所に音楽があるからだ。それが「混沌」である。混沌を音符によって形象化するという作業こそ作曲である。演奏家はそれを楽譜から再現する。この際重要になるのが演奏家はその曲からもう一度混沌を呼び戻さなくてはならないということだ。これがカラヤンを含め現代の演奏家に不足している。彼らは元から作曲家ではないからだ。彼らは曲の背景に存在するものを知らない。あるのは「この曲をどううまく、効果的に演奏するか」である。フルトヴェングラーはその危険をよく知っていた。彼は繰り返しその危険を訴えたが一体幾人がそれを理解しただろう。感情に流されない冷静な「原典主義」による演奏。それが当時もてはやされ、そして現在個性の無さという面から徐々に反省されているものである。ところでここである疑問が湧く。混沌を呼び戻すのは良いとしてでは実際、演奏家に求められているものは何なのか。作曲家になれ、といっているのではない。重要なのは演奏家の「人格」である。19世紀まで演奏家はある意味芸人だった。超絶技巧を駆使して聴衆を喜ばせれば良かった。しかしそれは真に聴衆を感動させはしない。フルトヴェングラーの演奏がある人がいうに「体の中からきらきらと砂金のようなものが出てくる」ものだったのは必ずしも技術だけではない。演奏家自身の心に宿る情念である。その強靭な情念の放出を聴衆は受け止めるとそこに「感動」が生まれる。演奏行為の本質はそこにあるとフルトヴェングラーは考えたのだ。

4、曲を「有機体」として捉えること

さて、ここでフルトヴェングラーの曲の解釈の仕方について述べたい。フルトヴェングラーは曲の細部にはそれほどこだわらない。曲の「全体」を捉えようとする。彼はまず曲の混沌を中心に据えそこから部分がいかにして全体と呼応するかを見極める。そして部分と部分がつながり展開する様を明瞭に示してみせる。また曲の混沌を見出す際の手がかりとして部分を読み解くということも強調している。そもそも部分だけを過度に強調しあたかもそれが個性であるかのごとく振る舞う演奏家はいくらでもいる。しかし曲をまるごと取り出して料理するとなると未熟な演奏家は作品への切り口が見つからず四苦八苦し、「そのような考え方は古臭い」というのが関の山だろう。そしてそのようなものに限って「原典主義」を声高に叫ぶ。(ただしそうではない演奏者ももちろんいる)フルトヴェングラーとの違いはここにも如実に表れている。次に曲の「緊張と弛緩の交互作用」について。フルトヴェングラーの演奏でしばしば指摘されるのは「ダイナミックレンジの広さ」、すなはちフォルテッシモとピアニッシモのあまりの落差と曲のテンポの伸縮だ。何故このような行為が許されるのか。それは先に音楽的「体験」の為にあると書いた。ただ、これらはあくまで表面的、外見的なものである。これは「そもそも音楽とは何なのか」という根源的な問いにつながってくる。何故なら音楽をそのようにいじくりまわすことに何の意義があるのか、その究極的な目的は何なのかという問いに答えられなければ意味がないからだ。フルトヴェングラーの答えはこうだ。音楽とは「有機体」であると。はて有機体とは何か。有機体とは生物である。呼吸し、盛もあれば弱々しい時もある。中心もあれば部分もある。音楽にも始まりと終わりがあるがそれは生物に対応させるならさしずめ生と死だろう。フルトヴェングラーはゲーテに深く心酔していたといわれており、ゲーテの著書『音響論』には「有機体の拡大と収縮の極性作用によって音楽のリズム、長調と短調、さらには『高度の有機体』としての耳の働きが説明されている」といわれ極めてフルトヴェングラーの考えに近いという(芦津丈夫氏)。音楽は生きている。生きている存在として扱う。このように考えた人が一体どれほどいただろうか。音楽とは楽譜に書かれたものとしてしか認知しなかった人がどれほど多かったことか。かれはベートーヴェンの解釈についてこう述べている。

解釈する人のなさねばならぬことは一つしかありません。・・・全作品をその構成ぐるみ、生きた有機体として身を打ち込んでそこに生きることです。(音と言葉)

5、すべて偉大なものは単純であるということ

さて、今回の本題に再び戻ろう。何故フルトヴェングラーにはベートーヴェンが似合うのか。そして何故ほかの演奏家はベートーヴェンにはまり損なうのか。何故カラヤンはブラームスは芳醇に弾けてもベートーヴェンでは貧相な音しか鳴らせないのか。今まで辿ったフルトヴェングラーの論理に従えばおのづとそれも見えてこよう。ベートーヴェンという作曲家の位置は今でも安定していない。一見楽節法に準拠しながらも「第五番」のあの動機は尋常ではない。古典派の最後の巨匠と見る向きもあればロマン派の輝かしい創始者と見る説も成り立つ。つまり、過度期の作曲家なのだ。だからこそどのように弾いたら良いか分からないしどのように弾いても良さそうな気がする。だがそのような甘い見方はすぐに破られる。フルトヴェングラーによるとベートーヴェンは一つの弦楽合奏、あるいは一つの交響曲の総体的な様式をつかむことにかけては正確を極めているのに、各種の楽器やオーケストラに内在している可能性、その官能的な充溢を利用することをまるで忘れているそうだ。だから大編成の管弦楽は用を為さないし、古楽演奏のように「古典的な」ベートーヴェン像を求めても(それもそれで一貫しており愉しい演奏なのだけれど)やはり「第五番」や「第九番」ではいま一つ満たされない気がする。精神性が感じられないのだ。ではどのように演奏すれば良いのか。そこでフルトヴェングラーの出番となる。彼は「文献的な理解」には目もくれずただひたすらベートーヴェンの曲の心臓部である「混沌」を「部分」である楽譜から読み解き、消化して(そのためには演奏家の人格形成がもっとも重要である)自分なりの表現で作曲家の伝えたい真の姿を聴衆のまえにさらけだす。聴衆は感動し「名演」がここに生まれる。フルトヴェングラーは必ずしも単なる「ロマンティカー」ではない。彼は楽節法によって適度に構築された中に底知れぬ心情をたたえたベートーヴェンだけが自らの指標であった。ワーグナーではなかったのだ。彼はこうも言っている。

作品という成果が一層単純であり、その意味する所が明白であればある程、いよいよその前提は複雑であり、錯綜したものである、と。 
――音と言葉―
(門前ノ小僧) 





ベートーヴェン : 交響曲第5番ハ短調(運命)ベートーヴェン : 交響曲第5番ハ短調(運命)
(1997/08/06)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

商品詳細を見る

1947年5月27日の復帰演奏会
フルトヴェングラーの歴史的ライヴ録音






 引き続きクラシック万歳!!

 TOP頁に戻る




  
19:35  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |