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2009.08.22 (Sat)

マーラー嫌いをいかに克服したか。

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 引き続きクラシック万歳!!



毎月のCDの新譜には必ずマーラーの作品の演奏が含まれているが、果して彼の作品は万人に受け入れられているのだろうか。現に最近このような文章を目にした、
  
脈絡なく行進曲調になったかと思うと、突然、叙情的になったり、必然性なく激しいメロディになったりする。次々に曲想が変わり、メロディ全体が統一を取らない。さらに、自己陶酔ぶりにもあきれた。どっぷりと自分に漬かり、自分の感情を表に出し、まるで自分を悲劇の主人公であるかのように音楽を作っている。(中略)そうこうするうち、不愉快になり、我慢できなくなってくる。(「ヤバいクラシック」樋口裕一 幻冬舎)
私にはこの文章はよく解る。以前は私も全く同じで、マーラーを聴くことは上の筆者と同様「拷問を受けるに等しかった。」のだから。それが今では幾ら聴いても聴き足りないほどのマーラーファンに変貌してしまったのである。
この変貌、転向の契機となったのは、偶々身近な図書館にあり借り出して読んだ「文化史のなかのマーラー」( 渡辺裕著 ちくまライブラリー、現在では「世紀末ウィーンとマーラー」という書名で岩波現代文庫に収められている )であった。



マーラーと世紀末ウィーン (岩波現代文庫)マーラーと世紀末ウィーン (岩波現代文庫)
(2004/02/19)
渡辺 裕

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この本によれば、ちぐなぐな纏りのなさ、また、旋律の通俗性に対する批判は、マーラー当時のものからであり、それは一般の聴衆も批評家も変わりはなかった。音楽学者として名高いハンスリックはマーラーの第一番交響曲の演奏を聴き、「 われわれのうち一人は気が狂っているにちがいない。そしてそれは私ではない 」と皮肉をこめて言ったとのことである。何故か。「 一つの流れに沿って統一された作品という古典的な作品象 」を正しいものだとする限りはマーラーの作品は支離滅裂なものであり、その前提を共有する一般聴衆や批評家の拒否反応は当然のものであったからだと言える。マーラーの曲を受け容れる為には謂わば新しい耳あるいは頭が必要なのである。
マーラーはシェーンベルクと親しく、シェーンベルクと自分は山の反対側からそれぞれトンネルを掘っているとマーラーが語ったことは夙に有名であるが、調性を破壊して現代音楽を創めたシェーンベルクと同様に、あるいはそれ以上にマーラーは新しい音楽を創造したとも言える。実際、渡辺氏の本に名前がマ―ラーの音楽との共通性の故に言及され、或いはマーラーの本質を衝くその発言が引用されている現代作曲家は、ベリオであり、リゲティである。  

さて、マーラーの音楽はどのようなものであるのか…。

渡辺氏の言葉を少し長いが引くことにすると、
(古典派以降の音楽)作品は・・・主題と出来事の織り成す統一的なドラマであり、そのドラマは時間軸に沿って直線的に展開するのである。(中略)だがいったんこの強固なドラマ性の世界から離れてみる時、そこには全く別の世界がたちあらわれてくる。因果論的・必然的な連鎖から自由になったとき、個々の事象は輝きはじめる。ソナタ形式の中では主調を準備する「機能」の一部にすぎなかった序奏の一つ一つの音がそれぞれ独自の音色や肌触りを持つものとして、自己主張をはじめる。そしてそうしたさまざまな音があるときは遠くに、あるときは近くに置かれながら徐々に空間を満たしてゆく、そんな音の世界が繰り広げられるのである。

マーラーの音楽がこのようなものであるならば、とにかくまずはその細部の一つ一つに耳を傾けることである。それらの相互の関係は唐突な変化であっても構わない。細部のメロディーが通俗的なものである時には、それが突然中断され、唐突に変化がある故に却って曲全体は通俗的であることを免れる。 
 


マーラー:交響曲第4番マーラー:交響曲第4番
(2002/06/21)
インバル(エリアフ)ドーナス(ヘレン)

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さてこのようなマーラーの新しさを表現する演奏はあるのだろうか。
この本の最後にはレコードを通しての指揮者たちの比較が為されており、これもまた甚だ興味深い。従来マーラーの直弟子であったワルターの「端正でバランスのとれた」演奏が模範的なものとされることが多いが、渡辺氏は、ワルターの演奏は保守的な聴衆に革新的なマーラーの音楽を受け入れさせるためにマーラーを「平板化」させたものであるとし、むしろ恣意的な演奏と看做されていた、テンポを変幻自在に変えるメルゲンベルクがむしろマーラーの意図に近いのではないかという最近の研究を紹介している。更に、近藤秀麿からバーンスタイン、カラヤンも含んでベルティーニに至る、交響曲第四番三楽章二十種類の演奏のテンポの変化を数値化して比較する。そこで浮かび上がったのは、三十九年のメルゲンベルクと八十年代の新しい演奏家、就中、インバルの演奏に多くの共通点があるということであり、彼らの演奏がマーラーの本来の新しさを表現する演奏なのではないかという結論である。マーラーに関する名著、柴田南雄「グスタフ・マーラー」(岩波新書、後に岩波評伝選)に於いても、マーラーは両大戦間の新古典主義の時代に合わないのは当然として、戦後直ぐの前衛音楽の時代にもそぐわない作曲家であり、七十年代以降の新ロマン主義の時代に合致するところの多い作曲家であるとされている。



マーラー:交響曲第3番マーラー:交響曲第3番
(2003/03/26)
インバル(エリアフ)ソッフェル(ドリス)

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マーラーの音楽の魅力とは何なのだろうか。あるいは、彼の音楽の「新しさ」とは何なのだろうか。それは新しさの為の新しさではない。柴田氏の言葉を借りれば、「 古典派のソナタや交響曲は、‘ いかに美しく、いかに巧妙に ’のための既成の枠組みであり、そこでは美と巧妙さのために全体の有機的統一が図られた。(中略)(マーラーはそこに)‘ 何を表現するか ’の観念を導入し、必然的にその枠組みを破壊した。」例えばニーチェのツァラトストラの「酔歌」を歌詞とした歌を含む交響曲第三番の、最後には撤回された表題が、一時ニーチェの書物の題名である「喜ばしい知識(華やぐ知慧)」となっていたことからもわかるように、マーラーの音楽は、音楽のための音楽ではなく、 人生、そして世界を表現するものである 。しかも、それは単なる自己陶酔ではない。ド・ラ・グランジュの言葉を引けば、「チャイコフスキーとは違って、彼は自分の個人的な悲しみを拡大して音楽の素材として使う人では決してなかった。・・・元来マーラーは慎み深かったから、憐みに身をさらすようなことはしなかったのである。」(「グスタフ・マーラー 失われた無限を求めて」草思社)
彼の音楽は心に深く訴えかけるものであるが、それは、その音楽が感傷的だからではない。
彼は「日々の現実世界から距離を置き、音楽家には珍しく人間の運命について根源的な問題にあれこれ思索をめぐらし、作品を精神の世界に開くことができた。」(グランジュ)
マーラーは文学のみならず、ショーペンハウアー、ニーチェ、更にはロッツェ、フェヒナーの哲学書を濫読し、科学にも興味を向ける人間であった。そして、周知のようにウィーンの宮廷歌劇場の芸術監督となり、しかも、自分の信じる新しい芸術をそこで実現するために闘い、その闘いに敗れてその地位を去った人物であった。その彼が全人生を賭けて作曲した曲は、当然彼の生きた時代を表現するものともなっている。音楽に留まらない、人間そして時代を聴くことが出来るということがマーラーの魅力である・・・
冒頭に掲げた動画は、テンシュテットによる交響曲第八番第一楽章の一部であるが、柴田南雄氏が「(マーラーの交響曲)が生み出された時代が、生き生きとした姿でわれわれの生活の中に再構築されるのを体験したいと望む」と書きながら、褒めていたテンシュテットによる演奏である。実際マーラーの真の魅力を伝える演奏であると思う。

(寄稿・ネモローサ)





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