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2012.05.03 (Thu)

悲しみの「イェラチッチ行進曲」

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。
     
    
        
      

           

ラデツキー行進曲」なら誰でも聞いたことがある。では「イエラチッチ行進曲」は?と尋ねられて聞いたことがある人はあまりいないだろう。事実この曲は有名な音楽事典を当たってみても詳細な説明は見つからない作品だ。それにしても何なのだろう、この朗らかな、明るい調子は…。「イエラチッチ行進曲」を初めて聞く人ならだれでもこれが行進曲だと思う人はいないだろう。むしろ朝の目覚めに良さそうな軽快な曲、何がしかのダンスの曲にも聴こえるかもしれない。
 
 
  
 イエラチッチ

イエラチッチ 祖国クロアチアでは現在でも英雄とされる


「イエラチッチ行進曲」も前回の「ラデツキー行進曲」と同様、戦争に勝利した将軍をたたえてヨハン・シュトラウス1世が作曲したものだ。だが今回は少し毛色が違う。ラデッキーやシュトラウスはオーストリア人であったが、今回の主人公イエラチッチ将軍は、実はオーストリア人ではない。
ヨシフ・イエラチッチ(Josip Jela'cic 1801―1859)は現在のクロアチア出身の将軍であり、クロアチアの総督であった。クロアチアという国はあまり聞いたことがないかもしれないが名ピアニスト、ポゴレリッチの父親の故郷、1990年代の悲惨なユーゴ内戦の舞台と言えば、あるいは知っている人もいるかもしれない。
クロアチアは19世紀当時はオーストリア帝国の支配下にあった。その支配に置かれるまでの経緯は長くなるため詳細は省くが、要はバルカン半島の南に位置するイスラム教徒中心のオスマン・トルコ帝国に対するキリスト教側の最前線としてクロアチアは重視され、隣国のハンガリー、そしてそのハンガリーを支配するオーストリア帝国の統治下にあったのだ。
だがそのクロアチア < ハンガリー < オーストリア帝国 というピラミッド状の支配構造は、1848年に起きたウイーン3月革命とそれに続くヨーロッパ全土に広がる民主化運動「諸国民の春」によって大きく動揺する。
一連の反体制・独立運動の先鞭をつけたのは他ならぬハンガリーだった。ハンガリーの有力貴族コッシュートはオーストリア帝国からの独立を宣言し宣戦布告。これに対しオーストリア帝国政府は首都のウイーンの民衆の騒乱や対イタリア戦争にかかりきりでハンガリーに軍勢を回すだけの余裕がなかった。そこでどうしたか。オーストリア政府はクロアチアに目をつけたのである。
当時クロアチアは直接の支配下にある「ハンガリーからの」分離独立を主張し、実際にハンガリーに対して反乱を起こしていた。その主導者こそ‘ イエラチッチ将軍 ’に他ならない。彼は革命前からハンガリー内のクロアチア人と同朋の南スラヴ民族を糾合して一つの国家を建設する「イリリア運動」に協力し、ハンガリーに対抗してクロアチア独自の議会を招集し農奴制の廃止などの諸改革を進めた。そしてハンガリーと交渉が決裂するや、自ら軍勢を率いてハンガリーに攻め入ったのだ。一方、当初はイエラチッチを危険視し彼の官職を剥奪していたオーストリア帝国政府もこの動きを見て、直ちに彼を将軍に任命する。いわばイエラチッチはオーストリア皇帝からの「お墨付き」を貰ったわけだ。以後彼はハンガリー討伐の先兵として長く苦しい戦闘を戦うことになる。
 
 
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濃い青色がハンガリー領。緑色がクロアチア領。当時の巨大なオーストリア帝国は多民族国家だった。多数のドイツ人とマジャール人を合わせても全国民の半数にとどかない。他に、チェコ人、ポーランド人、ルーマニア人、クロアチア人、スロヴァキア人、セルビア人、スロベニア人、ムスリム人、イタリア人、ルデニア人、ユダヤ人…民族のるつぼといえる。


ここで皆さんは何故イエラチッチはハンガリーと共にオーストリア帝国に対抗しなかったか、といぶかしく思うかもしれない。ともにオーストリア帝国の支配下にあるのだから共闘の余地はあったはずだ、と。だがそうでないところにこの地域の独特の歪みがある。クロアチアはかなり昔からハンガリーに支配され虐げられてきたのである。またイエラチッチらは、ハンガリーが独立することでハンガリー内の「マジャール人(ハンガリーの民のこと)化」が進みクロアチア人もまたハンガリー人に同化されてしまうのではないか、と危惧したようだ。一方ハンガリーにしてみたら、自国の領土の一部と考えているクロアチアが分離を主張するなど論外であっただろう。対立は避けられなかったのだ。 
 イエラチッチはオーストリア軍と手を結び、苦戦の末ハンガリーの首都ブダペストを占領した。がハンガリーの独立勢力を完全に破るにはなお数カ月を要した。
戦闘終結後、彼はウイーンに行く。当然、今回の功績を称えられ、クロアチアの大幅な自治が果たされるであろうことを期待していたに違いあるまい。だが結果は悲惨だった。クロアチアは結局ハンガリーの支配下におかれたままであった…何故ならハンガリーもこの戦闘で敗れたことより、独自の議会を廃止させられ、オーストリアの直接支配下に再び入る事になったからである。その内にあるクロアチアも同様にオーストリアの直接統治を受けることになる。自治の権利もいくらか認められたようであるが、結局革命以前と大差はなくなってしまったのだ。
クロアチア国民は痛く失望したことだろう。だがそれ以上に彼らを驚かしたのは、総督イエラチッチの姿であった。あれほどかつてクロアチアの自治を掲げながら、今となっては味方であった筈の反オーストリア系の新聞を次々に非合法化していったのである。彼は死ぬまでクロアチア総督を務めあげたが、ついに彼の統治下で再び独立の機運が高まることはなかった。これらは、彼が心ならずも下した結果であったのか、それともそもそも彼はオーストリアに忠誠をつくした人物だったのか(彼は若い頃ウイーンで教育を受け、オーストリア軍の中で育った)、今のところ私には分からない。
そしてもう一つ重要なのは、このオーストリア帝国政府がクロアチアに対して行った一連の仕打ちはその後、自分達の方にもはね返ってきた、という事である。
三月革命以後、オーストリア帝国が対外的に連戦連敗を繰り返したことは前回に書いた。それはそうだろう、諸民族の混合であるオーストリア帝国軍がまともな働きをしたとは思えない。
オーストリア政府もついに妥協を余儀なくされ、ハンガリーを一つの国家に格上げし、オーストリアと同君連合を取るという体制(オーストリア・ハンガリー二重帝国)を敷いた。その過程でクロアチアもハンガリーと協約を結び、ある程度の自治を獲得する。
しかしそれでも尚、クロアチア国民の独立への願望は日に日に勢いを増し、特にハンガリー政府のとった、同じスラブ系のクロアチア内セルビア人への優遇政策も結局役に立たず、返ってクロアチア人とセルビア人の結束を強めてしまう事となる。
そして第一次世界大戦、ついに栄華を誇った大帝国は1919年のサン=ジェルマン条約で瓦解した。結束もないバラバラの状態のオーストリア帝国軍はほとんど戦力にならなかった。
 
その後のクロアチアの歴史は非常に複雑であるため詳細は省く。しかし近年――1990年代の内戦は触れておかなくてはいけない。当時ユーゴスラビア連邦に属していたクロアチアは再び独立を宣言する。しかし同国内のセルビア住民が反対したため内戦に発展、多くの死者を出し、20万人ものセルビア人が国外脱出したのだ。――だがここで歴史を振り返り考えてみれば、先の19世紀後半クロアチア人とセルビア人はともに結束してオーストリアからの独立を目指していたのである。「重し」となっていたオーストリア・ハンガリー帝国も崩壊し、チトーの独裁も終焉し、冷戦の緊張も無くなった90年代になり、今度は同朋であるはずの両者の対立が浮き彫りになったのだ。これもまた悲劇といえよう。
「 イエラチッチ行進曲 」が作曲されたのは「 ラデツキー行進曲 」の翌年の1849年。作曲者ヨハン・シュトラウス1世が急死した年でもある。シュトラウスとしてはオーストリアの輝かしい勝利に花を添えようと純粋に楽しい曲を書いたに違いない…。だが、その曲が背負う歴史は「ラデツキー行進曲」以上に複雑で、かつ悲劇的なものとなっていったのだ。 
 

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1990年代のクロアアチア紛争の後。瓦礫の山と化している。この紛争をもって、ようやくクロアチアは独立を達成する。 

※画像はWikipediaより転載

(門前ノ小僧)







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2012.05.02 (Wed)

”まやかし”としてのラデツキー行進曲

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

    

1991年のアバドの演奏。今はイタリア人指揮者も普通に演奏します。


冒頭の題名が気になられるかもしれないがまずは2つのクイズを解いて欲しい。

①今年も1月に開催された恒例のウイーン・フィルのニューイヤー・コンサート。
トリはいつもの「美しき青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」で締め括られたが、さてラデツキーの語源は何?

②話題変わって、去年から今年にかけて日増しに激化している、中東の民主化運動「アラブの春」は、なぜ「春」というの? 
 
一見すると何の関わりもない二つの問題だが、とりあえず答えを見てみよう。

①の答え:19世紀に活躍したオーストリアの将軍ラデツキー(Joseph Radetzky von Radetz 1766-1858)を指している。 
②の答え:19世紀、西欧から東欧にかけて波及した反体制・民族運動「諸民族の春」に因んだ。
 
19世紀のヨーロッパと現代のアラブ。もしかしてその時代のヨーロッパでもムバラクやベンアリのような独裁者が倒されたの?と考えた読者は正解。当時のヨーロッパでは体制側の君主と反体制側の民衆の間で血なまぐさい騒乱が頻発していたのだ。しかもその舞台には、あの優雅な音楽の都ウイーンも含まれている。驚くなかれ、当時のウイーンは現代のカイロ、いやもっとひどいダマスカス(シリアの首都)のようなものだった。町中を砲弾が飛び交い、到る所で白兵戦( 剣と剣で戦う戦い )が展開され、バリケードが築かれては破壊される。家屋は焼かれ、死体は道端に累々と積み重なり腐臭を催す有様。まさに地獄絵図そのものだったがこれが当時のウイーンである。実は花の都パリも同様でヴィクトル・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」で登場するバリケード戦はこのときのものだ。
当時のヨーロッパは1848年のフランス二月革命を発端として、ドイツ、オーストリア( オーストリア帝国の支配下にあったハンガリー、イタリア)と、次々に革命が波及して行った、現代のアラブさながらの不穏な時代だったのである。
音楽家のシューマンは徴兵を避けて田舎に疎開し、革命派のワーグナーは捕らえられそうになりスイスに亡命している。
では、体制派であるオーストリアのラデツキー将軍は…?
このヨーロッパ全土に巻き起こる革命騒ぎを、軍を率いて片っ端からつぶしたのである。

それでは一体、ウイーンはどのようにしてこのような騒乱に巻き込まれたのだろうか?何故そのような凄惨な状況の中、かくも愉快な名曲「ラデツキー行進曲」は生まれたのだろう?そしてそこに隠された「まやかし」とは?

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1848年のウイーン。市民がバリケードを築いている。


時は1848年に遡る。当時のヨーロッパはきな臭いにおいに満ちていた。伝統的な王を中心とする絶対君主制を堅持しようとする王侯貴族たちに対して、一方では権力に虐げられた民衆(より正確に言うと労働者 )が対立していた。このような旧体制――ウイーン体制とよばれる――が、ルイ14世の時の絶対王政と大きく異なるのは、民衆が自由・平等・博愛を謳った1789年のフランス革命、ナポレオンによる民衆解放戦争、そして1830年フランスで起きていた七月革命という一連の革新的変化をすでに体験していたことにある。つまり民衆が力をつけてきた時代になった、ということである。革命の原動力になったのは、産業革命や植民地貿易などで力をつけた新興ブルジョワジー( 富裕層 )と中産階級( 一般庶民 )、そして労働者である。七月革命では、フランスのブルジョワだけに参政権が与えられ、依然として労働者は無視された。オーストリアでは更に深刻で、憲法さえも存在しなかった。民衆の怒りは頂点に達し、2月にはパリで革命が起こり、国王ルイ・フィリップが追放される。これに刺激を受け、3月にはウイーンやベルリンでも民衆蜂起が発生。ウイーン体制の元締め役ともいうべきオーストリアの権力者であったメッテルニヒは、この勢いに恐れをなし亡命、オーストリア皇帝フェルディナンド1世は憲法制定などを認めさせられた挙句、一時はウイーンから逃亡を余儀なくさせられた。まさしく‘ アラブの春 ’そのものだ。
 
だが11月になると状況は反転し、体制側は再び勢力を盛り返して、軍を市内に投入、激しい市街戦を繰り広げる。そしてついに革命勢力を殲滅することになる。死者は2000人にのぼったという。
このとき革命勢力側に加担していたヨハン・シュトラウスⅡ世(「ラデツキー行進曲」の作曲者ヨハン・シュトラウスⅠ世の息子。「美しき青きドナウ」の作曲者)は事情聴取を受け音楽活動を一時停止させられる。ウイーンの春は終わりを告げたが、結果的には憲法及び制憲議会が創設されたことで一定の民主化は達成されウイーン体制は崩壊した。

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19世紀後半のオーストリア帝国地図。赤色がドイツ人居住地域。黄緑色がハンガリー人居住地域。西隣にイタリアがある(1848年当時はこの北部の大半がオーストリア領だった)


ここで注意して欲しいのはこの革命で蜂起したのはウイーン市民だけではないということだ。上記の地図でも分かるように、当時のオーストリア帝国は他民族国家。領土はなんと、現在の北イタリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、ルーマニア北部にまでまたがる 文字どおりの大帝国であったのだ。。ウイーンの三月革命はこれらの諸民族の自立をも促し、ハンガリーではコッシュートを中心として独立運動が発生する。北イタリアではサルディニア国王カルロ・アルベルトがイタリア統一に向けオーストリアに宣戦布告した。内憂外患のオーストリア、危うし!というところで現れたのがヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」の、前述したラデツキー将軍である。
ラデツキー将軍は、若い頃ナポレオン戦争に従軍した経験を持つ有能な司令官であった。が、戦後熱心に主張した軍制改革が政府に容れられず、晩年に差しかかると皇帝の口添えで退役を何とか免れていていた。
だが革命の嵐は彼に転機をもたらす。81歳という高齢ながら野戦司令官として再び彼は、伊のサルディニア王国に対抗するため北イタリアに派遣された。最初は、政府からはなかなか軍資金なども援助されず劣勢だったが、後に勢力を盛りかえし、ノヴァラの戦いでサルディニア軍に大勝してヴェニス、ミラノを占領、オーストリアの圧倒的勝利のうちに戦争は終結した。
戦後北イタリアの総督に任命されたラデツキー将軍は、占領地で武力で抵抗する者は容赦なく追放したが、それ以外は寛容な政策を行ったという。オーストリアの支配下に置かれるも、ヴェルディがイタリアの愛国的なオペラを書き続けながら迫害を受けなかったのはその例だ。

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ラデツキー将軍 性格は厳格であった一方、公正な紳士だったともされる。
 

さて「ラデツキー行進曲」がいつ作曲されたかというと、ウイーンで革命が起きた1848年8月である。この時期オーストリア皇帝はというと、5月に起きた革命によってウイーンから逃亡しアルプスのインスブルックに宮廷を移していた。まさに革命派がウイーンの権力を握ったのである。皇帝派は当然権力の奪還を狙う。利用したのはラデツキー将軍の北イタリアにおける勝利だ。皇帝はこれを手土産にウイーンに帰還を果たす事が出来たのだが、ラデツキー将軍の戦果を市民により効果的に知らしめ、人心を完全に掌握したいと思っただろう。だがこの時代にまだテレビなどの視聴覚メディアは発達していない。そこで代わりに大きな役割を果たしたのが‘ 音楽 ’であった。
委嘱を受けたのは当時の人気作曲家ヨハン・シュトラウスⅠ世(Johann Strauss 1804-1849)。彼が戦勝祝賀会に合わせて作曲した「ラデツキー行進曲」は当初は市民の間では不評だったようだが次第には国民に広く周知され定番曲としての地位を不動のものにする事となる。こうして見ていくと「ラデツキー行進曲」のあの煌びやかな旋律は、単にラデツキー将軍を讃えるだけのものではなかったのだと分かる。同曲は、市民たちに対イタリア戦争の戦果を示すことで、勝者の感覚を植えつけた「まやかし」だ、ともいえるのだ。それはいつのまにか革命精神をも弱らせてしまう――結果的に「ラデツキー行進曲」はプロパガンダの先駆となってしまったわけである。
改めて現代のウイーンのニューイヤー・コンサートで人々の拍手と共にのどかに同曲が演奏されるのを見ると、19世紀ウイーンでナショナリズムをかきたてられた市民の歓呼と熱狂の中、演奏された当時を思いおこしてしまうのは私だけだろうか。

だがその後のオーストリアは坂を転げるように衰退していく。幸いにラデツキー将軍はそれを見ることなく亡くなったがオーストリアはその後のイタリア統一戦争、続く普墺戦争に連戦連敗する。その中でもオーストリア国民は「ラデツキー行進曲」を聴くことで強国という「まやかし」を信じ続けていられた。しかし1914年から1918年の第一次世界大戦の決定的敗北によって大帝国は解体、オーストリアは中央ヨーロッパの一小国に転落した。ではその原因は一体何だったのか…。実はそれはヨハン・シュトラウスⅠ世が作曲したもうひとつの行進曲と関わりがある。それは「イエラチッチ行進曲」である。~ 次回に続く

(門前ノ小僧)


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