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2013.12.31 (Tue)

R・シュトラウス「ばらの騎士」とホフマンスタール――ある芸術家の夢見た世界

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



R・シュトラウス作曲「ばらの騎士組曲」。指揮は20世紀前半の大指揮者ピエール・モントゥ―。



今年は作曲家リヒャルト・シュトラウス( 以下、R・シュトラウスと記す )の生誕150周年にあたる。R・シュトラウスと言えば、映画『 2001年宇宙の旅 』の輝かしい冒頭でお馴染の、交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」を多くの人は思い浮かべるのではないだろうか。他のハリウッド映画音楽にも多大な影響を与えたと言われているが、彼の溢れる天才ぶりではなく、今回は 楽劇「ばらの騎士」のもう一人の立役者――彼と共に共同作業を行った台本作者フ―ゴー・フォン・ホフマンスタールを中心に取り上げたい。彼の人生や思想を理解することにより、楽劇「ばらの騎士」の魅力や時代、そしてモーツァルトの時代にわざわざ回帰させたこのオペラを書いた謎が少しでも分かるのではないか、と思ったからである。(作曲家R・シュトラウスと「ばらの騎士」については岡田暁生著『ばらの騎士の夢』(春秋社、1997年)を参照 )

さて、この「ばらの騎士」は筋書きだけを見ると、ただのゴシップのように思われてしまう作品である。登場人物は不倫中にある男女を初め、助平親父の男爵、体面ばかり気にする商人上がり、とろくでもない人物ばかりだ。しかし同時にこの作品には、人間なら恐らくいつかは誰でも経験するであろう場面も織り込まれている。
例えば衰えゆく自分の若さと美貌を失うことに苦しみ、愛人を失うことを怖れる元帥夫人の第一幕の場面。一方ではじけるような若さの騎士オクタヴィアンと若く美しい娘ゾフィーが運命的に出会い恋する第二幕の場面などである。そしてその途中で登場する田舎貴族のオックス男爵もまた、何とも言えない人間臭さを出している。第三幕のクライマックスでは、三角関係にある元帥夫人と若い二人との美しい三重唱の後に、毅然と元帥夫人は身を引くのだが、その姿は凛々しさとともに人生のはかなさも感じさせ、この作品を‘ 昼ドラ ’ではない正しく‘ 芸術作品 ’として感動させる。このように一見 大衆的な娯楽と思われながらも、芸術的要素も充分に堪能できるこの作品の魅力はどこから来るのだろうか。




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ではまず、作品の成立した時代背景を知る為に、上の写真を見てみよう。
音楽や芸術の都として名高いウィーンの街を歩くと(別にウィーンに限らないのだが)時々ギリシャ神殿に見まがうような立派な建物にでくわすことがある。上の画像もその一つで、これはオーストリアの国会議事堂である。見ての通り正面玄関はギリシャ神殿そっくりだが、類似点はそれだけではない。入口の前にはギリシャのパルテノン神殿に祀られている女神アテネの像まであるのだ。ではなぜこのようなものがわざわざオーストリアの国会議事堂になくてはならないだろうか。
ここで日本の国会議事堂と比較してみよう。日本のこの建物の中にも3つの像があるが、それらはいずれも伊藤博文、大隈重信、板垣退助と日本の民主主義の発展に尽力した偉人のものである。一方オーストリアは?というと実は彼らに相当する人物がいないのである。
以前にも書いた(”まやかし”としてのラデツキー行進曲)、1848年にオーストリア(当時は帝国)では絶対君主制に抵抗し、民主主義を求めて民衆が立ちあがったものの、この革命は皇帝軍によって鎮圧されてしまう。このウィーンの国会議事堂は、1861年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が自国の近代化の必要性からしぶしぶ開設した議会のために建てられたものである。しかしあくまで「上からの」改革で出来上がった議会に、まつるべき民主運動家もいないため仕方なく、古代の民主制の象徴 アテネの女神像が代わりに置かれたわけである。つまりいくら議事堂のファサード(正面)を輝かしいギリシャ建築や美術で飾ってみたところで、革命にも失敗しているオーストリアには真の民主主義的伝統は実はなかったのである。
これは議事堂に限らない。ウィーンの市庁舎は中世の自治的伝統をほうふつとさせるゴシック様式で、大学は学問が華やいだルネサンス期の様式によってそれぞれ19世紀後半に建てられたが、肝心の中身は…というとどれも心もとなかったのである。
お役所に限らず同時代の市民もまた外面を飾り立てることに躍起となった。彼らは19世紀後半、ウィーンの市街地に貴族のような館を続々と建て、金がない分、 内部を区切ることで、大勢が住める様に設計し、それぞれの家の内部は狭くても外観はまるで宮殿のような建物に住んだ。いわば現代の高級マンションのはしりといったところか。室内もありとあらゆる装飾で埋め尽くし、古今東西の名画を飾った。つまり当時のウィーンには「まがいもの」とはいわないまでも、昔風の建築や装飾が氾濫していた。




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19世紀のウィーン市街(当時は市街地の大改造が行われていた)



この様な風潮は、その他のオーストリアの芸術や文化にもよく表れた。同時代の哲学者F・ニーチェが「 教養俗物 」とののしる程、この当時の市民は様々な「 古典 」を中身もよく分からずとにかく「 崇めたてまつった 」。民衆が求めた古典的な‘ 芸術 ’は、真の価値を問うことがほとんどないままであった。
こうした芸術もどき(?)をオーストリアの作家で文芸評論家のH・ブロッホは「 非様式(つまり時代特有の芸術様式がないこと)」と呼び、19世紀を様々な芸術的価値が称揚されながら、一方で決定的な芸術的な価値が不在であるという意味で芸術における「 価値真空 」の時代であると指摘した。つまり、オーストリアの民衆は、革命が失敗に終わった後、まだ新しい物や価値を作り出そうとする気概を持っていなかったのだ。
「ばらの騎士」はそうした時代の中で生まれたものだった。



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R・シュトラウス(1864~1849)



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フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874~1929)



先ほど芸術における「 価値真空 」について書いたが、すべての芸術家がこれに甘んじていたわけではない。いや、むしろ有名な「 世紀末ウィーン 」と呼ばれる芸術運動はこうした時代の雰囲気に抗い、新たな価値を創造するために生まれたのである。例えば、画家のクリムト。彼は若いころは天才画家と称され、人々が喜びそうな古典的で端正な絵を描いていたが、ある時期になると突然女のエロティックな裸体画を描きまくり、そのために正統画壇から追放された。しかしこれも彼なりの「 価値真空 」に対する抵抗といえよう。今では世紀末ウィーンを代表する画家として有名である。彼の他にもこの「 価値真空 」を埋めるべく、様々な芸術家が登場したのである。
そして今回の主人公ホフマンスタールもそうした抵抗する芸術家の一人であったとH・ブロッホは言う。以下彼の記述に従いながら、台本作家ホフマンスタールの思想をおおまかにつかんでみることにしよう。



ホフマンスタールは裕福なユダヤ人の家系に生まれ、小さい頃から成績はいつも学校内でトップという‘ 天才児 ’であり、しかも美貌でもあった。また彼は名前に「von」が付くように貴族の血筋を継いでおり、ブロッホの記述によると「 先生や同級生達よりは、教室の壁から見おろしている金ぴかの飾りをいっぱい身につけた肖像画の皇帝の方と、余計密接な現実関係をもっていた 」少年だったという。このように書くと、読者は嫌味なナルシストだとホフマンスタールを捉えてしまうかもしれない。しかし彼は決してそのような単純な人間ではない。ブロッホによると彼は常に「 孤独な 」人間であった。そして自分のナルシシズムを打ち消すために「 死 」をいつも念頭に置いていた。
彼は作家として芸術家稼業を始めるが、その初期の作品『 痴人と死と 』は 「死にたい」とつぶやく自分のことしか頭にない放埓な若者に死神が訪れ、若者によって人生を狂わされた人々の幻影を死神が見せながら、その若者が死に絶える、というものである。一見奇妙な筋書きであるが、これも若きホフマンスタールが自分のナルシシズムの戒めとしてつづった作品と考えられる。同時に彼はまた若い頃に流行していた、芸術的な美のみをひたすら追求する「耽美主義」に対しても徐々に距離をとるようになっていく。そして耽美主義の代表的な表現方法の一つである抒情詩も書くのを止めた。彼がそのような転換を図った理由は彼の代表作である『チャンドス卿の手紙』から分かるようだ。
『チャンドス卿の手紙』は短編だが、内容的には難しい問題を含んでいる。端的にいえば、ホフマンスタールはその書で「抽象的な言語表現は果たして物事の本質を表しているのか」という問題を投げかけ、言語ですべてが表現しきれないことを示したのである。そうであるならば、今までのように単に言葉だけの文学作品で十分ではない。彼はこうして言葉を補完する新たな表現素材、例えば音楽との融合を考えるようになった。これが彼がオペラに接近した理由の一つとなった。


耽美主義者にはもう一つ問題があった。それは自らの美を追求するあまり、社会から乖離した存在になってしまうことである。ホフマンスタールはまさにそれを危惧したのだとブロッホは主張する。つまりホフマンスタールの目指したものとは、そうした社会から乖離した芸術をもう一度社会の中に位置づけなおし、活性化しなおすというものであったのだ。芸術家は、社会や民衆に根を下ろした者でなくてはならない。そのためには素人に分からない抽象的表現ではなく、あくまで、‘ 目に見える具体的なもの ’に固執すること、無定形ではなく、ある種の ‘ 秩序( 調和と言い換えてもよいかもしれない )’を志向することが重要である――それがホフマンスタールの考える芸術の理想像であった。ただここで注意してほしいのはここでいう「社会」の意味である。これはあくまでホフマンスタールの構想する「理想社会」であり、現実そのままの社会ではなかった。ではその理想社会とは一体、どのようなものなのか。それはハプスブルク皇室を中心とした政体で、オーストリア・ハンガリー帝国内に住む様々な民族と各階級が平和裏に共存するという、ユートピア的で幻想に近いものだった。しかしそれは完全に現実離れしていたわけではない。現にその社会はホフマンスタールが生きていた19世紀後半には、オーストリア・ハンガリー帝国として不完全ながらも実在していた。彼の「夢」は同時に「現実」でもあったのだ。
では、「社会に根付いた芸術」という彼と似た主張を掲げ、民衆を満足させる後の時代の社会主義的リアリズム芸術家とホフマンスタールとはどのような点で異なるのか。ここで忘れてはならないのはホフマンスタールは貴族的精神の持ち主であったという点だ(彼がもとは貴族の家系であったことを思い出そう)。彼はブロッホが書いているように、民衆を「 お伽話の集団人物 」と考えていた。つまり彼にとって「民衆」は現実の実体ではなく、あくまで自分の理想とする社会の一員として「教養」を与えなければならない対象に過ぎなかった、というのだ。そのため彼は自分の芸術作品が、実際の民衆に「理解」されるかどうかはどうでもよかったのである。ホフマンスタ―ルが目指したのは、自らが階級に属さない自由な芸術家でかつ、様々な階級から疎外されるユダヤ人であることを踏まえ、代わりに、芸術活動を通し民衆全体の「精神」の中に故郷を持ち、民衆全体の「指導者」になることであった、とブロッホは強調している。


今からみると、ホフマンスタールの理想社会や「 社会の中の芸術 」というものは、細部では検討を要すべきものである。しかし私がこうしたホフマンスタールの思想をとりあげる理由は、その是非うんぬんではなく、それが今回の「 ばらの騎士 」誕生の秘密を、少なくとも一部は解き明かしてくれると考えているからである。
例えば、意味の難解な抽象的作品によってではなく、社会と共に在る芸術を、という彼の考えは、この作品の分かりやすい筋書きにも現れている。また時代設定を18世紀にしたのは、一般的にはモーツァルトの時代の音楽様式に戻りたかったからという説明がされるが、これまでの議論を踏まえると別の理由も推測できる。すなわち、ホフマンスタールにはまだ、血なまぐさい革命や階級闘争が存在せず、貴族・市民・民衆が平和裏に共存していた(もちろん実際は表向きに過ぎなかったのではあるが)自分の理想に近い18世紀の社会を描くことで、この作品を見る人々に、そのありし日を思い起こさせる、という目的があったのではないだろうか…。


ホフマンスタールの夢見る18世紀の貴族社会はもはや作品が初演された1911年には既に形骸化していた。そしてその貴族社会の代わりに勃興し、この「ばらの騎士」を喝采をもって迎えた19世紀の市民社会や多民族が共存する帝国もまた、第一次世界大戦後には崩壊し、文字通り‘ 夢幻 ’に終わったのである。
だが私たちは「 ばらの騎士 」という芸術作品を見ることで、少なくとも過去の残照を垣間見、人生や人間のはかなさを知り、ホフマンスタールの夢に思いをはせることができるのである。




 

1960年にザルツブルクで収録された「ばらの騎士」のオペラ映画。元帥夫人はエリザベト・シュヴァルツコップ、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤン。



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写真はwikipediaから転載

( 門前ノ小僧 )




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2013.12.30 (Mon)

エルガーの『威風堂々』―大英帝国の栄光と影

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

 

2012年の英国の音楽祭「プロムス」のハイライトで演奏された『威風堂々』と
そのメロディに付けられた『希望と栄光の国』




先ず、この歌詞を読んでみて欲しい。最近、何かと物騒なお隣の国々の国歌ではない。実はエルガーの『威風堂々』についた歌詞の一節である。


「自由により得られし、真実によりて、保たれし、汝(=国家)の帝国は強盛となるべし」
「 我らは汝をいかに称えようか? 我らを産みし汝を。広大に、いっそう広大に汝の土地はなるべし」
「英雄たる父祖の流した血は英雄たる息子を元気付ける」


エルガーの『威風堂々』と言えば誰もが一度は聞いたことのある曲だろう。卒業式等の祭典・式典、CMソングでも巷に流布している元気で楽し気な人気曲だ。時には有名シンガーが独自に日本語で歌詞をつけることもある。ただそれらの中身を見てみると、メロディーが明るいせいか、「明日を向いてがんばれ」的な一種の「人生応援歌(?)」のようになっていることが多い。だが、実は元の歌詞はそのようなものとは似ても似つかぬものである。この歌の歴史的背景を以下で考えてみよう。


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エドワード・エルガー(1857~1934)


『威風堂々』は1901年に作曲された。曲の評判は上々で、歌詞を時の英国王エドワード7世に付けるよう助言された。そこでエルガーは国王の戴冠式を祝う合唱曲の終曲として『希望と栄光の国』と題して『威風堂々』と同じ旋律の合唱曲を作曲した。日本ではなじみが薄いが、英国では「第二の国歌」としてよく歌われている。



さてこの『希望と栄光の国』と題して作られた歌詞だが、これにある「帝国」や「汝の土地」という言葉に注目してみよう。この曲が作曲された20世紀前半は、エルガーの祖国大英帝国の最盛期に当たっていた。つまりご存じのとおり英国が世界中に植民地を持っていたいわゆる‘植民地時代’である。この歌詞で言う「汝の土地」とは、実はこの‘植民地’のことなのだ。イギリスを含む欧米諸国の植民地が当時如何に多かったかは下の地図を見て頂ければ分かると思う。これは当時のアフリカ地図で、これが様々な色で塗り分けられているのはそれらがすべて‘西欧諸国の植民地’であったからである。当時完全に独立していたのはエチオピアとリベリアのわずか2カ国のみだった。


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だがそもそも欧米諸国は何故植民地を持とうと思ったのだろうか…。植民地と聞いて一般的なイメージは、ある国が様々な国を侵略してその人々を奴隷のようにこき使い、資源でも何でも根こそぎ奪う、というものだろう。エルガーの生きた当時の大英帝国にもそのような要素は確かにあった。だがそれを持った理由となるともう少し複雑である。鍵は当時の英国の「朝食」にある。

当時も今もイギリス風の朝食の定番といえば砂糖入りの紅茶だろう。だが紅茶の葉っぱは英国では生産されていない。ほとんどはインドからの輸入で以前は中国からも輸入されていた。――そのため最初は緑色をしていた葉っぱが長旅の船内で赤茶色に変色したのがいわゆる「紅茶」なのだ、という俗説も生まれるまでになった。一方砂糖も冷涼な気候の英国では生産できず西カリブ諸島の植民地(ジャマイカなど)で生産され、英国に輸出された。

ちなみに何故イギリス人が紅茶が好きだったのかも少し触れておきたい。19世紀以前は紅茶は高価な輸入品であり、上流階級にとって自らのステータスを誇示するためのものだった。しかしやがて自由貿易により、安価にしかも大量に輸入されるようになってくると、中・下流階級にも手の届く商品になっていく。特に下流・労働者階級にとって、砂糖入りの茶はカロリーの補給源になり、熱い茶はレンジなどない当時の冷たい朝食を、一瞬で暖かいものにする画期的な飲料であった。それ以前は労働者の嗜好品と言えば「ジン」と呼ばれる安物ながらアルコール濃度の高い酒であり、労働者はそれを昼間からあおっていたため仕事にでなかったり(「聖月曜日」という二日酔いのための休日まであった)、中毒に陥ったりするなど社会問題化していた。そこでジンに代わる飲料として紅茶が奨励されるようになったのだ。これを可能にしたのも英国の自由貿易政策と植民地政策であったのだ。


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英国人画家ウィリアム・ホガースの『ジン酒場』。紅茶が受け入れられる前は労働者はこのようにジン酒場に入り浸っていた。


朝食だけではない。当時のイギリス人が着ていた綿織物の原料の綿花は植民地のインドから、そして20世紀になると石油が中東から輸入されるようになる。その代わりとして、英国はこれらの植民地に自国の工業製品を輸出することで収益をあげていた。つまり欧米諸国が植民地を保持した理由には自国製品の原料調達先と同時に消費先を確保するためであったというのもあるのだ。


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大英帝国の植民地(赤地)

20世紀前半になると植民地の果たす役割は更に増していく。金融市場がイギリスを中心に発達すると、過剰に増加した「資本」の輸出先が探し求められるようになる。つまり一部の植民地での鉄道などのインフラや資源開発に莫大な資本が投下されるようになるのである。その結果欧米諸国の間で‘植民地’の争奪戦が始まる。アフリカのサハラ砂漠といった一見すると無価値な場所まで植民地にされたしまったのには、こうした背景もあるのだ。



ところでこの当時の英国の状況は「植民地」という存在を除けば、現代の先進諸国とも似た点がある。つまり私たちの生活も今多くの「輸入品」で成り立っている。日本の食料自給率が低いのは周知の事実であり、安くしかも高品質の衣類の輸入元を見てみると、世界最貧国の一つであるバングラディッシュであったりする。チョコレートの原料のカカオはガーナなどの西アフリカだが、そこでは今でも不正な児童労働が当たり前である。植民地こそ現在では存在しないものの、相変わらず先進国と発展途上国(元は植民地がほとんど)の間には大きな経済的格差がある。植民地制度に基づく明確な搾取は存在しないものの、経済のグローバル化と、先進国と発展途上国の経済的な相互依存と格差――これを一種の「システム」と呼ぶ人もいる――を背景としたエルガーの生きた時代と現代の世界の連続性は、様々な違いを含みながらも、依然として存在するのである。



『威風堂々』が作曲された13年後になると、第一次世界大戦が勃発する。英国も仏露を応援するために参戦し、166万人という多くの死傷者を出した(その数は第二次世界大戦のそれを上回った)。エルガーも最初の婚約者の息子が戦死し衝撃を受けたそうである。戦後は、英国は長い経済不況に苦しんだものの、独およびヒトラーの野望を阻止するべく第二次世界大戦に再び参戦し、何とか勝利したものの、その後、国力の衰退とともに植民地の独立を許し、経済不況にも悩まされた。英国が経済的に回復したのは1980年代のサッチャーの改革を待たねばならなかった。まさしく「希望と栄光の国」から「絶望と悲惨の国」へと英国は一時期転落してしまった訳だが、その背景には19世紀後半からの米国とドイツ、そして日本といった新興国の台頭があった。それ以前は海軍力と工業力で他国を圧倒していた英国だがここに来て国力の陰りを見せたのだ。またかつての英国外交の特色に「栄光ある孤立」という欧米諸国のどの国とも同盟を結ばず中立を保つという姿勢があり、それがヨーロッパの政治的安定にも寄与していた。しかし20世紀になるとドイツへの対抗から仏露と協力関係に入り、ヨーロッパの外交は不安定化していく。一方、エルガーが『威風堂々』を作曲したのは、第一次世界大戦以前の一抹の安定期いわゆる「ベル・エポック(フランス語で「良き時代」という意味)」の頃である。それは同時代のオーストリア人作家シュテファン・ツヴァイクが言う「昨日の世界」であった。


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ベル・エポック時代のフランスのポスター。初の「映画上映」の宣伝


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第一次世界大戦の激戦地ソンムの写真 




再び、我々の現代を顧みると「唯一の超大国」であるアメリカの衰退が著しく、お隣の国は、周辺諸国と緊張をはらみながら年々膨張を続けている。私たちの平和で豊かな生活もやがて「昨日の世界」になる日が来るのだろうか?そう考えるとエルガーら英国人の苦難も他人事では無くなる。

今『威風堂々』はかつての多くの植民地を失い、覇権国としての地位を失った英国人に、「ありし日の栄光」を思い起こさせてくれるものなのかも知れない。そして、その曲は同時にこの国の未来に向けて「第2の国歌」と言われるほど演奏され続け、常に彼らを励まし勇気づけてくれるのだろう。





※画像はWikipediaより転載

(門前ノ小僧)




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