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2014.05.10 (Sat)

「トルコ行進曲」と二つの帝国(1)―世界史を変えた17世紀

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



「トルコ行進曲」(ベートーヴェン)


ベートーヴェンやモーツァルトが作曲した名曲の中で「トルコ行進曲」というものがある。前者は管弦楽曲、後者はピアノ・ソナタだが、太鼓とともに ♪ ジャン、(ウン)、ジャン、(ウン)、ジャン、ジャン、ジャン、♪ と、どちらも非常に特徴的なリズムで、一度聴いたら忘れられないものだ。学校の音楽の時間などで聴く機会も多いだろう。だが、何故「トルコ行進曲」という題名なのだろうか…。この曲について知っている人なら「トルコの軍楽隊の行進曲のリズムを取り入れているから」と答えるだろう。
では何故そもそも「トルコ」なのか。‘ 欧人に異国情緒をかき立てるため ’と思われるのだが、それだけの理由なら「アラビア」の曲でも「インド」の曲でも良い気がする。あえて「トルコ」である理由は何だろうか。
それは先程の「軍楽隊」という語にある。




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現在のヨーロッパの地図。ヨーロッパの中心部にある深緑色の小国がオーストリア。右下ヨーロッパとアジアの間にある薄紫色の国がトルコ。両国間にはハンガリーやバルカン半島の国々がある。




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16~17C当時のヨーロッパ。オーストリアもトルコも上と同色だが今より領土の範囲ははるかに広く、両国は国境も接していた。神聖ローマ帝国とは名ばかりのもので、オーストリア及び左の様々な色が密集している当時分裂状態のドイツの諸邦などをかろうじてまとめていたに過ぎなかった。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第5番 K.219 「トルコ風」3楽章


さて「トルコ行進曲」の背景を探るには、明るい曲調からは想像も及ばない、オーストリアとトルコの「血みどろの」歴史を紐解く必要がある。上に挙げた1枚目の現代の地図では、オーストリアとトルコは互いに随分離れていて、わざわざ戦争をする必要もない気がする。しかし2枚目の地図に見られる様に、16世紀当時の状況は違った。
当時トルコは「オスマン帝国」と呼ばれ、バルカン半島からアラビア、エジプト、北アフリカを擁する一大帝国であった。一方、オーストリアを含めドイツ・スイス・チェコ等を擁した「神聖ローマ帝国」は、首都をウィーンに置いていた。但し、オスマン帝国に比べれば領土や人口の差は歴然としていた。
この両帝国は国境を接しており、長年(16C以降~)領土や宗教をめぐり抗争を繰り返していたのだが、特にオスマン帝国は「イスラーム教の拡大」を旗印に、神聖ローマ帝国が属するキリスト教のヨーロッパ世界に進出していた。(ただし実際は宗教だけでなく、各国や地方の豪族の勢力争いなども戦争の要因となった。そもそも「オスマン帝国の進出の目的はイスラームの拡大のため」という教科書的な説明自体、微妙なものだが、詳細は次回に回したい)。

16世紀当時、オスマン帝国がヨーロッパ世界に比べ圧倒していたのは‘ 領土 ’だけではない。
‘ 大砲などの軍事技術 ’の点でも優れており、「イェニチェリ」と呼ばれる精鋭の歩兵部隊や、「半月刀」と呼ばれる切れ味鋭い刀はヨーロッパ人から恐れられた。

一方、ヨーロッパ世界は「未開の」中世から夜明けのルネサンス時代を迎えてようやく発展しようか、という段階であった。神聖ローマ帝国内部でも、ルターが起こした‘宗教改革’によって帝国の宗派分裂(カトリックとプロテスタントに分かれる)などが問題になっていた。
当時、神聖ローマ帝国の首都だったウィーンは、オスマン帝国の国境のすぐ近くに位置していた。今でこそ平穏な芸術の都として知られているが、この当時ウィーンは対オスマン帝国の「最前線」に位置していた。

このウィーンを、神聖ローマ帝国と戦争状態であったオスマン帝国は、1529年、大軍を率いて包囲した。これが世に言う「第1次ウィーン包囲」である。この時は2カ月間の籠城戦の末、兵糧(食糧)が尽いたオスマン軍が撤退し、辛くもウィーンは落城を免れた。油断はならないとオーストリア側はその後、国境地帯の軍備を強化し、オスマン帝国とにらみ合い続けた。しかしオスマン帝国の巨大な軍事力の前には手が出せない状態で、オーストリアの隣国ハンガリーやバルカン半島、地中海の大半もオスマン帝国支配下のままだった。



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第1次ウィーン包囲の時の絵画。手前が包囲するオスマン軍。奥がウィーン。


その後100年の時は流れ、内部の三十年戦争で疲弊した神聖ローマ帝国に、1683年、再びオスマン帝国軍が攻勢をかけ、ウィーンが包囲された。これが「第2次ウィーン包囲」である。しかしこの時もまた、落城寸前のウィーンの元にポーランド国王のヤン・ソビエツキを中心とする救援軍がかけつけ、オスマン軍を打ち破った。こうしてウィーンは再び救われたのである。――ちなみに、この時逃走したオスマン兵の陣地から「黒い豆」の入った袋が発見された。これがウィーンにコーヒーが伝わった由来である。又この時ウィーンの解放を祝って半月刀を模して焼かれたパンが「クロワッサン」の始まりとされるが現在では否定されているらしい。――話がそれたが、巻き返しをはかるヨーロッパ連合軍はさらに余勢を駆って今度は、オスマン帝国領内に攻め込んだ。これによってそれまでオスマン帝国の支配下にあったハンガリーなどが解放され、ヨーロッパ勢力下に戻った。終に、戦争は1699年のカルロヴィッツ条約の締結で幕を閉じた。敗北を喫したオスマン帝国ではあったが、それでも依然として大国の地位は守り続けた。ヨーロッパ勢力にとってもこの戦いが厳しいものであることに変わりはなかった。しかしオスマン帝国の衰退の影もまた徐々に見え始めていた。



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第2次ウィーン包囲の絵画。救援軍とオスマン軍との乱戦を描いている。



しかしここで疑問が生じる。1529年当時は力でヨーロッパを圧倒していたオスマン帝国が何故、1683年には敗北を喫するようになったのか。その秘密はこの間の17世紀にある。高校世界史の記述だと、転機となったのが1571年の「レパントの海戦」と呼ばれる、ヨーロッパ諸国の連合艦隊がオスマン海軍を破った戦いであるとされている。しかし実際はその後もオスマン帝国の優位は続いていた。しかし、これ以降はキリスト教勢力とオスマン帝国との間では、目立った大戦争が1680年代までほとんどなくなるのである。戦争はむしろヨーロッパ間で続発するようになっていく。その中でもとりわけ大きかったのが「三十年戦争」と呼ばれるドイツが戦場となった大規模な戦争である。(これはもとはカトリック・プロテスタント間の宗教対立に、皇帝と諸侯の勢力争いや、神聖ローマ帝国と隣国のフランス・スウェーデン・デンマーク間の対立も重なった複雑なものであった為に30年と長期化し、結果当時のドイツ人人口の3分の1が失われたと言われている。)
この様な状況のもと、ヨーロッパの各国や帝国の諸邦は生き残りをかけ、‘ 軍事技術の発展 ’にいそしむようになっていく。それを示す面白い話がある。




グレン・グールド演奏による「トルコ行進曲」(モーツァルト作曲)


皆さんは中学生時代「南蛮人の鉄砲伝来」という話を日本史で聞いたことがあるだろう。鉄砲という先端技術を教える西欧人とそれを必死で習おうとする日本人という構図は、しかし厳密には間違いである。実はその当時は、西欧人も銃をきちんと使いこなせていなかったのだ。その証拠が織田信長が長篠の戦いで取った戦法である。これは当時の火縄銃が一発づつしか打てないため、信長が鉄砲隊を3列に並ばせて順繰りに打たせることで連続射撃を可能にした、というものだ。実はこの「三段打ち戦法」に似たものがヨーロッパでも取り入れられるのは1594年(長篠の戦いは1575年)で、広く普及するのは三十年戦争中の1630年代になってからなのだ。つまりは信長のアイディアの鉄砲の使用においては、当時の日本の方がヨーロッパ諸国より進んでいた(!)のである(ただし、信長の「三段打ち戦法」はそもそも存在しなかった、という説も最近有力になっている)。もちろん日本に限らず、中国やオスマン帝国も軍事技術はヨーロッパより抜きんでていた。
しかし問題は日本にしても、中国やオスマン帝国にしても、16C後半~17Cになると大規模な戦争が無くなり、必然的に軍事技術の向上が図られなくなったという点なのである。日本では豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられ、「刀狩り」というかたちで武器が農民層を中心に「放棄」される事となる。中国は清朝の支配のもと安定が続いた。そしてオスマン帝国もまた大戦争に巻き込まれることは少なくなった。対してヨーロッパだけが前述の通り、依然として諸国間の戦乱の真最中であった。こうして遂には軍事技術の発達に伴い、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国を火力を中心とする軍事力の面では追いつき始めたのだ(両者の差が軍事力全般で明瞭になったのは産業革命等の起きた18世紀以降である)。



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織田信長(1534~1582)。三段打ち戦法の存在は疑問視されてきているが、当時鉄砲を戦場で一度に大量に使用したことは事実のようだ。


イギリスの軍事学者によると1683年当時、オスマン帝国軍に欠けていたものとして、①大砲の数(オスマン帝国軍は砲を大きくすることしか考えていなった)、②攻囲陣営の要塞化(当時の戦争は野戦より要塞の攻囲戦が多かった)、③大砲の製造の際の冶金術(様々な材料を配合して丈夫な金属を作ること。この技術が拙かったためオスマンの大砲はもろかった)、をあげている。つまりオスマン帝国がヨーロッパ諸国に敗れたのには戦術的理由だけでなく、技術的理由もあったのである。
戦争は‘ 軍事技術の発達 ’を促進しただけではない。ある政治社会学者の説によると、大規模な戦争を準備する際に必要な資金の調達(この当時はほとんどの国が傭兵制度だった)のため、‘ 徴税制度の発達 ’等、中央集権的な国家の成立が進み、いわゆる「近代国家」の萌芽が生まれたという。
第2次ウィーン包囲後、紆余曲折がありながらもヨーロッパ諸国が近代化の道を進むのに対し、オスマン帝国や他のアジア世界が没落や植民地化の道をたどっていくのを踏まえると、ヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の後の歴史の分岐点の少なくとも一つがこの17世紀だったといえる。

モーツァルトやベートーヴェンが「トルコ行進曲」を作曲したのは、第2次ウィーン包囲のさらに約100年後の事である。その当時、もはやオスマン帝国はヨーロッパにとって脅威ではなかった。巷では「トルコ趣味」と呼ばれる一種の異国ブームに人々は沸いていた(これと同時期に「シノワズリ」と呼ばれる中国ブームもあった)。そのような中で「トルコ行進曲」も純粋な音楽作品として人々に楽しまれたのだろう。だがそれでも2回の包囲を経験したウィーンの市民にとって「トルコの軍楽隊」は他の風物とは異なった特別な意味があったのかもしれない。

だがここに一つの疑問が残っている。オスマン帝国が2回に渡ってウィーンを包囲した真の理由は何なのか、というものである。果たして本当に「イスラーム教の拡大」のためであったのだろうか。オスマン帝国の本質とも実は関わりのあるこの問題を次回考えてみよう。
~ 次回に続く




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17世紀のヨーロッパ世界の変動を政治や軍事や社会等多面的視点から概説している。


写真一部wikipediaから転載

(門前ノ小僧)




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