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2016.06.01 (Wed)

積読の効用(前)~ルーマニアの陰影 エネスコそしてシオランの見たもの (後)~ルーマニアの陰影 エネスコそしてシオランの見たもの 

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 引き続きクラシック万歳!!



「つんどく(積読)」とは、明治時代にできた学生言葉であるそうだ。が、今やインターネットで全国いや全世界から、新刊でも古本でもその場で注文して取り寄せることができ、しかも、電子書籍ならば、恐らく生きているうちは、入手可能かも知れないと安心できるのだから、このつんどく(積読)という言葉も死語になりつつあるのかも知れない。
評論家の福田恆存は、日本人が読書を、修養のためと捉えて 趣味 とはなしえない心の貧しさを指摘したことがある。そう考えてみると、「つんどく(積読)」は、修養の点からいえば、向上心の現れとも言えなくもないが、貧しさ、さもしさの証しでもあり、さらに言えば単なる物欲、所有欲の結果でしかない。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



エネスク作曲 ヴァイオリンソナタ第3番  
演奏 コパチンスカヤ



それでも、積読をしていて良かったと思うことがたまに起こる。
最近では、今は閉店してしまった、つくば市内の友朋堂書店で、音楽学者である伊東信宏氏の『中東欧音楽の回路』を購入して、「積読」していたことがある。題名に何となく惹かれ、目次を一瞥すると、興味深い見出しが並び、しかも音資料としてCDが付いているという魅力的な本であったため、思わず買ってしまった。帰宅後、序文と第一章だけとりあえず読むと、あとはゆっくりと手に取る暇もなく、「積読」となっていた。
さて、この本を再び繙くことになったのは、音楽雑誌『レコード芸術』で、伊東氏が「東欧採音譚」という連載を始め、その第一回に、ヴァイオリニストのコパチンスカヤと指揮者のクルレンツィスによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲のCDを激賞するのを読んだからである。今更ここで触れる必要もないだろう、この衝撃的な演奏を私も耳にし、たちまち二人の演奏家のファンとなった。早速、思い出して先の「積読」していた伊東氏の本を取り出してみると、その第七章「妖しく高貴なヴァイオリン」において、東欧のエネスクのヴァイオリン・ソナタ第三番を論じており、付属のCDがあのコパチンスカヤによる演奏を収めていた。しかも、この章のコラムは、彼女に関する魅力的な紹介文となっていた。この紹介文とCDのおかげですっかりと彼女の魅力の虜となった次第である。
しかしながら、題名に掲げた「積読の効用」とは、このことではない。一般人向けのこの伊東氏の本には、学者らしくしっかりとした注釈が施されており、演奏と同時にエネスコの曲自体にも興味を覚えた私は、 [注]に挙げられていた、ヴィオレル・コズマによる『ジョルジェ・エネスク 写真でたどるその生涯と作品』を早速アマゾンで取り寄せた(古本でしか今は入手できない)。こちらは小著であったこともあり、「積読」せずに直ちに読むこととなった。

本書は現代ルーマニアを代表するという音楽学者ヴィオレル・コズマ氏によるものであり、簡にして要を得た、優れた書物である。原著は2000年に出版されたが、それまでのエネスクに関する研究を踏まえ、更にそれらに加えて、それまであまり触れられなかった彼の輝かしい生涯にある影の部分にも言及しながら、より深い理解をもたらすエネスクの伝記的著作となっている。
 
では、「積読の効用」とは、この本を知ったことなのかと言うとそうではない。それは後に擱くとして、1881年、ルーマニアのモルドヴァ地方に生まれ、1955年パリで死去した、ジョルジェ・エネスク――「エネスコ」 の方が我々にとっては馴染みがあり、私も以前、「エネスコの弾くバッハの無伴奏」など愛聴していたが――二十世紀最高、いや、史上最高のヴァイオリニストと矢張り言えるのではないか。

著者コズマ氏によれば、

……エネスクの世代になると、かつての趣味(パガニーニやサラサーテ時代の)とは、別の方向に向かってきていた。聴衆を、技術面(テクニック)だけで喜ばすような方法では満足させられなくなっていたのだ。 (中略) この二人(フリッツ・クライスラーとジャック・ティボー)は、演奏のスタイルで最もエネスクに近いと言える。優雅さと親密さ、上品で洗練された資質の点でこの三人は、共通性がある。
だが、それらに加えてエネスクの演奏には確かな自然さ、シンプルさ、誠実さ(オイストラフのような)、さらに独自の才能が備わっており、この点で彼の友人であり、理解者でもあったパブロ・カザルスだけがエネスクに比肩しうる演奏家であった。(『ジョルジェ・エネスク 写真でたどるその生涯と作品』)

本書には、エネスクの弟子であるメニューインの「エネスクはいかなるヴァイオリンの曲芸的な技も嫌っていたが、スピードに関しては誰も寄せ付けなかった」という言葉も引かれている。エネスクは、誰よりも優れた技術を持ちながらも、いや、だからこそ、技術自体には重きを置かず、技術はあくまでも‘音楽’のために用いる音楽家であった。(しかも、そのテクニックは彼のオリジナルなものであったそうだ。本書には訳者補遺として、「エネスクのヴァイオリン技術は百パーセント彼の独自なものであって、それ以前のどんなアカデミックな基本奏法にも基づいていない。右腕は身体から遠く離し、肘も少し高めにして弓を持つ。したがって手首はヴァイオリンよりも高い位置にある。こういう姿勢はこれまでのどの流派にも見られない」というある音楽評論家の言葉が引かれている)
彼は「わたしにとってヴァイオリンは生活のため、経済的な基盤を作るための単なる道具にすぎないのだ」と公言していた。、逆説的であるが、この姿勢の故に、彼は史上最高のヴァイオリニストであったと言えるかもしれない。つまり、エネスクは「‘音楽’すべてを愛することができるが、しかし、ヴァイオリンだけを好きになるというような器用な思い入れはできない」真の音楽家だったのである。 本書には、指揮者、ピアニスト、そして何よりも作曲家としてのエネスクの活動が詳しく記されている。エネスクは、フルトヴェングラーや、近いところではグレン・グールドと同じく作曲家としての創造を最も重んじた音楽家でもあったのだ。もっとも、彼は、この二人とは違っていたのは録音を嫌ったために、健康を害した晩年の「生活のために」止む終えず残したわずかな録音があるだけにとどまり、後世の我々にとってこれが貴重なものとなっている。
エネスクは作曲家の意図を重んじる演奏家であった。バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明氏は、バッハの無伴奏の器楽曲を演奏するのに、全カンタータを参照しながら演奏する誠実なる人物として、ヴァイオリンのエネスク、チェロのカザルスの名を挙げていた。
ヴァイオリニストとしてだけではなく、作曲家として全ヨーロッパ、そして大西洋を越えアメリカでも高く評価されたエネスクは、祖国ルーマニアの誇りとして生前も、そして、現在も故国で高く評価されているー但し、その晩年から始まる一時期を除いてである。コズマ氏によれば、 没後十年後にルーマニアで記されたあるエネスクの伝記も、「……注目に値するが、王室、大戦間の宗教界や財界、西欧特にアメリカ上流社会 (とエネスクとの関係)を意識的に避けて」記している。エネスクに祖国で十分な光が当てられるようになったのは1989年つまり東西の冷戦の終結以降、、特にルーマニアにおいては独裁者チャウセスクの死後以降と言える。
つまり、エネスクの栄光は、祖国ルーマニアでの共産主義政権成立とともに終わりを迎え、実は晩年の悲劇はそこから始まっていたのである。
 
次回稿を改めてそのことと「積読の効用」を紹介しよう。

(ネモローサ)



(後)~ルーマニアの陰影 エネスコそしてシオランの見たもの 


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

 

ルーマニア詩曲第一番 
1898年パリで初演され、その成功が、作曲家としてのエネスクの名を全ヨーロッパに知らしめることになった。



コズマの本に は、エネスクの弟子であるメニューインの次のような言葉が引かれている。

 「先生は戦後の政府をまったく認めてはいませんでした。いまだに忠実な王政主義者でしたから、時の共産党政府の陰謀や策略、ごまかし、不誠実などを認めることができなかったのです。」

当時のルーマニア国王ミハイ一世は、1947年(第2次大戦の2年後)に共産党政権下で銃口を突き付けられ退位の書類に署名させられた。そういう状況下では、早くから王室の庇護を受け、西欧でも米国でも名声と尊敬を集めていたエネスクが、その前年に亡命の途を選んだとしても何の不思議もない。私くらいの年代であれば、1989年の東欧革命で失脚・処刑されたチャウセスクの暴政を記憶している人も少なくないと思うが、その前任者で当時の共産党書記長であったデジも彼に優るとも劣らない酷薄非情の独裁者であった。

しかしながら、第二次大戦下の危機の時代のルーマニアにあって、「王政主義者」であるとは、いかなる意味を持つか。
エネスクの作品解説を中心とした詳細な伝記を物したノエル・マルコムは、次のように記している。

「 (第二次大戦勃発後)再びエネスクは長く血腥い戦争の期間祖国に閉じ込められた。彼は愛国者であり、他のどの場所にもいることを望まなかったであろう。しかしながら、彼が自分の身を捧げたのは、首都での音楽活動であり、当時の政治の進展(それは必ずしもルーマニアの名誉とはならなかったのだが) からは距離をおいた。政治は決して彼の興味を惹くことはなかったのである。彼は個人的な信義を重んじる人間であり、彼の為に多くを為した王室に忠実であり続けた。」
(Noel Malcolm “George Enescu” 1990 Toccata Pressー マルコムは本書刊行後、政治ジャーナリストとして活躍しながら、論議を捲き起こしたボスニアの歴史に関する本を著し、更に学究の道に戻り、英国の思想家ホッブスの著作の校訂を行うという才人である)

前回、‘ ヴァイオリンはあくまでも生活の為だ ’というエネスクの言葉を紹介したが、それは、「ヴァイオリンのおかげで政治の影響を受けることもなかった。私は政治家たちには絶対に依存したくなかった」ということも意味する。
かような非政治的人間でありながら、個人的信義によって「王制主義者」であるということは、我が国の乃木大将を思わせるが、しかし長い歴史と伝統に支えられている我が国の皇室とルーマニアの王室は全く異なる存在である。

ルーマニアをアルファベットで記せば、Romania、つまり、ローマ人の国である。ローマ皇帝トラヤヌス(紀元1~2世紀初め。ローマ帝国の最盛期を支えた『五賢帝』の1人)による遠征の結果、ルーマニアはローマ帝国の属州となり、ルーマニア語も、ラテン語系の言語である。それならば、古代ローマ以来連綿と続く長い歴史を持つ国かと言うと、正反対である。アジアとヨーロッパのつなぎ目に位置するルーマニアの大平原は、常に侵略者の通り道であった。ローマ人の侵略に続き、フン族が侵入し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、オスマン帝国(オスマン・トルコ)、ハプスブルグ帝国(オーストリア)、ロシア帝国といった帝国のはざまでの合従連衡と戦いの連続の中で、従属と独立の交代を繰り返した土地である(吸血鬼ドラキュラのモデルになったヴラド三世伯はオスマントルコとの戦いに明け暮れた君主の一人である)。
中世以来、ルーマニア人の国としては、ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの三つの公国が分立し、諸帝国とのせめぎあいの中でほんの一時三つが統一されたことがあったにせよ、前二者が統一されたのがようやく19世紀であり、そこに新たに異国ドイツのホーエンツォレルン家よりカルロ一世を王として新たに迎えて成立したのが「ルーマニア王国」である。
第一次大戦では、その子息フェルディナンド一世の妃がイギリス出身であったこともあり、英仏側につき勝利を収めたのだが、いわば漁夫の利で、敗戦国のオーストリア・ハンガリーからトランシルヴァニアの割譲を受け、ロシアからもベッサラビア(現モルドバ)を手に入れ、初めてルーマニア人の統一国家「大ルーマニア王国」を形成することができた



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紫色が第一次大戦前のルーマニア領土、赤色が戦後新たに獲得した「大ルーマニア王国」の領土


ルーマニアの歴史はさておき、エネスクは、この新興国が文化面で世界で認められる事に多大なる貢献をした。演奏家として早くからウィーン、パリで認められていたのに加え、作曲家としても「ルーマニア詩曲」の初演を‘パリ ’で成功させ、それ以降ルーマニア色の強い作品を数多く発表した。更に、積極的にルーマニア作曲家の作品を紹介し、名付け親となったディヌ・リパッティやその姉弟子であるハスキルを初めとした、祖国の若き音楽家への支援・教育を通じて、生まれたばかりの祖国ルーマニアの音楽の顕彰、発展に尽くした。彼は音楽を通じての「愛国者」であったと云えるだろう。



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前回も紹介したヴァイオリン・ソナタ第三番 
今回はヴァイオリンはエネスク、ピアノはリパッティ



しかし、マルコムが言うように、第二次大戦時のルーマニアは、政治という面から言えば、お世辞にも褒められる国ではなかった。民主制が機能せず、右翼の過激派や国王を巻き込む権力闘争が続く中、ヒットラーのドイツとスターリンのソ連に挟まれて、ドイツ側に与することを選んだルーマニアは、その独裁的指導者アントネスクの下、率先してユダヤ人虐殺・収容所への収監を行い、カロル・ヨーンクという人によれば、大戦前夜ルーマニアには60万人ほどのユダヤ人がいたが、そのうち26万人以上(43パーセント)が犠牲となった。
この暗い時期のルーマニアが興味を惹くのは、このようなファシズムに一時的にも魅了され関わった人間に、後年二十世紀を代表することとなる知識人がいたいう点である。サルトル以降のフランスで最も高く評価された思想家の一人であり、フランス語散文の最高の書き手の一人であるとも評されるフランスへの亡命者シオラン、同じくフランスに亡命し最終的には米国へ移り、シカゴ大学教授となり、『世界宗教史』を著して全世界の宗教学の祖となったエリアーデ、この二人は若い時からの友人であるが、二人は共に、ルーマニアのファシズム運動とも言える鉄衛団運動(てつえいだん)のイデオローグであったのである(不条理劇で高名な作家のイヨネスコも彼らの友人であったが、二人とは違い、若い時からイデオロギーに対しては懐疑的であった)。

さて同じ時期を祖国ルーマニアで過ごした三人であるが、活躍した分野も違い世代も異なる、エネスク、シオラン、エリアーデを共に論じる本はあるのだろうか。とてもありそうもないそんな本を――今となっては何をキーワードにして探し当てたのか分からないのだが、ネットで探してみると何とそれがあったのである!しかも、その刊行は今年の二月。前回の冒頭に述べた「積読の効用」である。伊東氏の本を今年まで「積読」していたから、この本にも出合えたという次第である。
その本とは、ロバート・カプラン著 「ヨーロッパの影の中で」(Robert Kaplan: “In Europe's Shadow: Two Cold Wars and a Thirty-Year Journey Through Romania and Beyond” Random House (2016/2/9))である。
カプランは、世界の紛争地を実地に歩いて物した数々の著作で名を上げ、つい先頃まで米国のシンクタンク、ストラトフォー(ある訳書を刊行した日本の出版社の宣伝文句によれば陰のCIAと呼ばれているそうだ)の主任研究員を務めた硬派のジャーナリストであるが、歴史、文学に関する幅広い読書がその活動の基礎になっており、その著作は、ジャーナリストという言葉から連想される際物的な読み物とは程遠い。
この本での鍵となる語は、‘ ナショナリズム ’である。第二次大戦当時のルーマニアでのナショナリズムは、自国の栄光を得るために、自国内にルーマニア人以外の民族、殊にユダヤ人の存在を許さず、それを排除する為には、殺戮することも厭わない醜悪なものであった。この意味でのナショナリズムは、現在の米国、欧州でまさに問題となっているものであり、また、民族浄化の思想は、全世界的に悲惨な紛争を惹き起こしている。ドイツのナチズムに基づく反ユダヤ主義は、優生学の影響があり、病的で特異なものであるとも言えるが、当時のルーマニアに見られたナショナリズムは、近代以降、全世界的に見られる現象の一つであると言えよう。

「ナショナリズムとは、詰まるところ、大文字で書かれた近代主義であった。男も女も文字通りの神への信仰を失い、その結果、個人としての永遠不滅への信念を失った時に、彼らは集団としての永遠不滅に逃げ道を見出したのだ」とカプランは言う。少なくともヨーロッパ圏に於いて、人々が世俗化し、信仰を失った近代以降、宗教の代替として国家、民族集団を崇め、それに尽くし、他人にもそれを強制するナショナリズムは、近代人が避けることのできない宿命的なものである。 しかし、これに続いて「ナショナリズムがそれ自体として悪しきものだというのではない。自らの価値を他の諸価値の上に置く類のナショナリズムだけが破壊的なのだ」ともカプランは言う。

国家(ネイション)を至上のものとする悪しきナショナリズムと、他の価値を認める良きナショナリズムが在る事をカプランは区別している。前者の悪しきナショナリズムが横行したのが第二次大戦下のルーマニアであり、それに続く共産主義政権でありながらモスクワから独立した「独自の道」を追求したデジとチャウセスクのルーマニアであった。
それでは、良きナショナリズムとは、どのようなものなのか?
個々人を民族・国家毎に分類し、その集団の特徴を押し付け、そこから逃れられない存在とすることは、人間の自由、人間性の冒瀆ではないか。しかしながら、カプランは続けて言う、
 
 「独自の言語、音楽、美術、建築、主に東方正教的なキリスト教信仰を持つ、他とはっきりと区別される、ラテン的なルーマニア文化、そして、そこに特有の地理的な諸事情を通じ共有される歴史的な経験に根差す、人々が共通して持つ希望、夢、恐れ、これらが存在しないと述べることもまた冒瀆なのである。個々人に道徳上の決定権への権利を拒むのが彼らの人間性を否定することになるのと同様に、自らを、他人と共有する文化的素材と民族性を通して表現する権利を拒むことも、同様に人間性の否定である。」

つまり簡単に言えば、人間は民族集団に埋没すべき存在ではないと同時に、自然と歴史に根差す民族の文化を通じて自らを表現する存在でもある。個人の尊厳を重んじながら、一方で民族の文化の存在も認めるナショナリズムこそが健全なナショナリズムである、と言えるだろう。
カプランは、ルーマニア文化の存在を、ビザンツ、トルコ、西欧の影響が混淆している歴史的な建築物の中に認めると共に、エネスクの音楽にもそれを聴き取っている。




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ルーマニア狂詩曲第一番 エネスクの曲といったらこれという有名な曲

 「(エネスクの二曲のルーマニア狂詩曲)が想起させるのは、ワラキアの生気あふれる広大な原野であり、そこは春にはチューリップの明るいオレンジ色で埋め尽くされる。彼の音楽が心に呼び出すのは、私が特にルーマニアから連想するものの中でも、ブコヴィナの修道院にある、混じり気のない植物性の染料で描かれた聖書を題材とした絵画であり、そして、ブランコヴェアヌの建築に特有の魅力の基となっている、西と東の様式の独自の混淆である。」



カプランは、こう言いながらも、単一の民族文化の存在を主張することに慎重である。個々人は多様だが、彼らの属する民族文化の特徴を言い募れば、その多様性をどうしても単純化せざるを得ない。カネッティの「群衆と権力」を参照しながら、「民族のシンボル」――例えばイギリス人に対する海、オランダ人に対する堤防、ドイツ人に対する森、フランス人に対する革命――の持つ単純化の危険性を彼は指摘する。チャウセスクの下でのルーマニア人のシンボルは、慎ましやかなテーブルを囲む家族であったが、それ自体としては美しくもあるこのイメージが、実際、現実に国民全てにそれに従うように強制されたときの文化と人心の荒廃は測り知れないものであった。
人々の多様性を認めながらも、彼らに共通の文化を見出すという綱渡りの難しさをカプランは承知しており、ルーマニア音楽を創造しながら、そこからユダヤ人の音楽もロマ(ジプシー)の音楽も排除することのなかったエネスクは、彼に とって人間と文化への希望を保証する人物であると言えよう。

マルコムはエネスクの次のような逸話を紹介している。ある演奏会で、ユダヤ人作曲家エルネスト・ブロッホの曲を演奏しようとしたところ、聴衆の中にいた鉄衛団の学生たちが、それに大声で抗議した。エネスクは分かったと答え、喝采を浴びた。そして、彼が代わりに演奏したのは、ラヴェルのカディッシュ、つまり、ユダヤ教の祈りの音楽であった。聴衆は黙って聴く他なかった・・・
他方、カプランは、若き日のエリアーデが物したルーマニア通史の小著を取り上げ、その著作の中で、ルーマニアの歴史を、ラテン語の伝統と正教会のキリスト教を東方のトルコ人から守るという一貫した使命を果たしてきた歴史と見ていることを、悪しき単純化、神話化であるとし、その歴史には、一貫した目的ではなく、偶然の出来事と、人々のその都度の対応の重なりを見るべきだと述べる。

エリアーデやシオランたちの若者たちは、 1927年世代という名前で呼ばれる。才気に富みながらも危険な道を突き進んだこの世代の若者たちをエネスクがどう思ったのかは、推測する他はないが、両者の対比は、若者と成熟した大人との対立という問題を提起する。また、両者には意外な接点もあったことも今回判かった。このことも含めて、シオランのこと、まだ紹介していないエネスクの作品のこと等は次回に回すことにしたい。


(ネモローサ)



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 引き続きクラシック万歳!!



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ジョルジュ・エネスコ作曲 交響曲第四番 

ヒトラーがドイツで政権に就いた1933年頃に主に取り組んだが、第一楽章と第二楽章の一部を除いて、未完のまま遺された。
後にルーマニアの作曲家であり、エネスコの残した楽曲に関する詳細な研究書を著したベントユ(Pascal Bentoiu) が補筆し、全曲が演奏されるようになった。

―前回ブログの続き― 新しい世代の三人の紹介

  エリアーデ(Mircea Eliade,1907年ブカレスト - 1986年)に初めて逢ったのは一九三二年ごろ、ブカレストでのことだが、折しも私(シオラン)はこの都市で愚にもつかぬ哲学の研究に一区切りつけたところだった。当時、彼(エリアーデ)は、<新世代>の偶像であり――私たちは鼻高々にこの魔法の呪文を唱えていたものだった。私たちは〈老いぼれ〉や〈ぼけなす〉どもを、つまり三十歳を過ぎた大人たちをことごとく軽蔑していた。私たちのオピニオン・リーダーは彼らに対して論陣を張り、彼らをひとりひとり叩きのめしたものだが、その攻撃はほとんど常に正しかった。・・・私たちにとって若いということはそのまま才能があるということであった。・・・私たちの場合ほど極端なうぬぼれがかつてあったとは思われない。うぬぼれとなって現われ、うぬぼれとなって激化していたのは、「歴史」を切り開こうとする意志であり、「歴史」に参入し、是が非でもそこに新たなるものを生起せしめようとする欲求であった。この熱狂で当時はもちきりだった。(シオラン『オマージュの試み』)

1925年ブカレスト大学に入学したルーマニア人のミルチャ・エリアーデは、1928年宗教学の研究のためにインドへと旅立ち、当地でサンスクリット語、パーリ語、ベンガル語とインド哲学を学び、1931年に帰国、1933年にはヨガ学派に関する研究で博士号を取得し、それが出版されると国際的にも評価された。更に、インド留学中の恩師の娘との悲恋に終わった恋愛を描いた小説『マイトレイ』はルーマニア国内でセンセイションを捲き起こし、また、留学前から新聞に記事を寄稿し続け(シオランは知り合う前からそれらを貪るように読んでいたという)、まさに「<新世代>の偶像」であった。
インド留学前の1927年、当時二十歳であったエリアーデは、「精神の道程」という題名のもとで十二編の記事をルーマニアの新聞『言葉』に連載し、「≪若い世代≫、すなわち戦争(第一次世界大戦)中、少年期あるいは思春期を過し、今、一九二七年に二十から二十五歳になっているあらゆる人々の精神の道程を描き出した。」(『エリアーデ回想』上巻)そして、新たなる使命を持つ自分たち<新世代>の存在を高らかに宣言した。

前回の記事で述べたように、ルーマニアは英仏側に与することにより、自らは大きな犠牲を払うことなく、ハンガリー、ロシアから領土を獲得し、史上初めての「祖国の統一」を果たした。エリアーデによれば、これにより祖国の統一を目指してきた旧世代の「歴史的使命」は果たされてしまった。―――前世紀から目標としてとして追求されてきた祖国の統一が果たされてしまった今、何を目標とすればよいのか。
この事は、吾が国においても、明治の日露戦争の勝利後、国家の独立が一応なりとも保証され、人生の意義を国家に委ねることが出来なくなり、個人、特に青年の煩悶の時代が訪れたことを思い起こさせる。更に、第一次大戦後のヨーロッパ全体が、深刻な価値観の危機を経験していた。『回想』の言葉を藉りれば、

「無際限の進歩の神話、世界平和と社会正義を創設しうる科学と技術の力への信仰、理性主義の優位、不可知論の威信、これら全ては・・・(第一次大戦の)あらゆる前線で吹飛んでしまったのである。」

近代において科学技術を飛躍的に発展することを可能にした‘ 理性 ’は、この大戦の中で戦いに奮い立つ人心を抑えることには無力で、逆に科学技術が生み出した機関銃、毒ガス、戦車、飛行機、飛行船、潜水艦は、比類のない惨禍をヨーロッパにもたらした。戦後の人々の心を捉えたのは、戦争の中で露呈した非理性であり、宗教、霊性、精神分析、東洋思想であった。
「戦争の世代の諸価値はもう流通しない・・・私たち、≪若い世代≫、にこそ新しい存在理由を見出すことは属しているのである。」

労せずして手に入った統一された祖国という器に盛るべき中身はどのようなものであるべきか、ルーマニアとは、あるいはルーマニア人であるということは何であるのか。ブカレスト大学の政治学者トゥルカヌによれば(Florin Turcanu “Southeast Europe and the Idea of the History of Religions in Mircea Eliade” in Hermeneutics, Politics and the History of Religion: the Contested Legacies of Joachim Wach and Mircea Eliade 2011)、1920年代後半、ルーマニアのアイデンティティをめぐる論争、より具体的に言えば、東方正教と国民性、キリスト教と農民の宗教性、正教とカトリック的あるいは合理主義的な西欧との関係をめぐる論争が行われていたが、≪若い世代≫の代表エリアーデがこの論争に加わることになったのは、インドからの帰国後、1930年代であるそうだ。というのも、このインド滞在が、ルーマニアの文化の深層にエリアーデの目を向かせることになったからである。古代に駐屯したローマ人の言語を守り通してきたルーマニア民族ではあるが、彼らは、当然、西方のカトリックではなく、東方の正教を奉じ、ビザンツ(ギリシア)文化圏に属している。確かに正教は、ルーマニアの民族性の形成に大きな影響を及ぼした。しかし、エリアーデの関心が向かったのは、正教というよりも、その根底にある「宇宙的キリスト教」である。トゥルカヌは、このエリアーデ宗教学の鍵語=宇宙的キリスト教がその中で初めて使われた、エリアーデが滞在先のインドから友人に送った手紙を紹介している。

 君も知るように、我々ルーマニア人がローマから受け継いだのは、制度と言語のみである。我々の精神の実体は異質なものであり、トラキア的なものであり、スラブ的なものだ。我々は自分たちはローマの子孫だと考えてきた。しかし、これは千年に亘る支配者(トルコ人やハンガリー人たち)に対する政治上の自己防衛にすぎない。第一次大戦後、国家の統一を果たした今、我々はその過ちを悟った。何よりもまず、我々が生まれながらに向かうのは、言わば「宇宙的なキリスト教」である。我々が感じているのは、宇宙の万物が、主の愛のまじないをかけられている、鳩は洗礼を受けることが出来るのだし、木々は我々の兄弟であるということだ。我々のいくつかの愛らしい民謡は、人間と、丘や森や獣たちとの間の友愛を歌うものだし、この兄弟愛を作り出したのは、我々ではなく、吾れらが主の恵みなのだ・・・ルーマニア語では、「キリスト教徒」という語は、「人間」という語と同じだ。ルーマニアの農民の考えでは、唯一の義務は、『正しき人』『よき人』であることだ・・・そして、そうあるとき、彼はキリスト教徒である。彼にとってキリスト教は、教義、外的な規則と脅しの総体ではない――創造の基礎であり、この地上の生の唯一の感覚なのである・・・私にはこれらすべての中に一つの意味が見える。これが、「宇宙的な」キリスト教と私が呼ぶものであり、それは、教会のそれとは対立するものなのだ。

大学の卒業論文では、ルネサンス期の魔術思想の哲学者カンパネラを取り上げ、第一次大戦後の様々な非合理主義思潮に影響を受けたエリアーデは、こうして、「キリスト教」と名付けられてはいるが、自然と人間が一体となり、そこに超越的なものが姿を現しているという、正統的なキリスト教からみれば異端であり、むしろキリスト教以前とも言うべき心性に関心を向ける。それは、教義や書かれた言葉の中に見出すべきものではない。インドでの宗教体験の中に、そして、ルーマニアの古くから伝わる伝承の中に彼が見出したものである。この心性は、新石器時代の人類が陸上および海上の移動を通じてユーラシア大陸全域に持ち運んだものであり、中国にも日本にも見出せるものだエリアーデは考えた
ルーマニアの非西洋的、東洋的な要素をエリアーデは肯定的に捉えた。「我々(ルーマニア人)が『東洋人』にこれほど似ているとするならば、それは我々が(オスマントルコの支配下で)『トルコ人化』したからではなく、ルーマニアでは、東南ヨーロッパやアジアにおいてと同様に、新石器時代的な創造性が最近まで存続し続けたからである。」このことは、西欧と異なり、歴史的な文書が多く残っている中世を持たないが、伝承や神話、宗教的な象徴が豊かに残るルーマニアの文化にこそ、全世界の人類の普遍的な歴史を解明する鍵があるということを意味する。 

<新世代>の青年たちとは、第一次大戦の戦勝国側でありながらも、ルーマニアは西欧から見れば文明が遅れた小国に過ぎないという現実に正面から立ち向かった世代だとも言える。エリアーデは、今見たように、この「遅れ」にこそ、人類の普遍的な歴史の中でのルーマニアの存在意義を見出したのだが、彼の周囲に集まった若者たちの、この現実に対する反応は様々である。

第二次大戦後のフランスで、不条理演劇の代表的な作家として知られることになるイヨネスコは、ルーマニア人の父とフランス人の母との間に生まれ、当時はフランスからルーマニアに移り住み、高校生時代から詩人として世に知られ、ブカレスト大学でフランス文学を専攻し、エリアーデたちの<新世代>の仲間の一人であった。トゥルカヌの文章が載った論文集に同じく文章を寄せた、ルーマニアから米国に亡命した比較文学者カリネスクは、若き日の才気渙発なイヨネスコの批評集の文章を引いている(Matei Calinescu “Eliade and Ionesco in the Post-World Ⅱ Years: Questions of Identity” in op.cit.)

・・・あなた方(ルーマニアの既存の知的エリートたち)こそ責めを負うべきなのである、私(イヨネスコ)には堅固な教養文化の基盤が欠けているという事実の責めを、私の読書には喜びではなく労苦が伴うだけで、それは単に情報を得るためだけだという事実の責めを、ルーマニア文化の中で卓越するために自らに過大な要求をする必要もないのだから、私の行き着く先は軽薄さでしかないという事実の責めを負うべきなのはあなた方だ、良くも悪くも、ルーマニアの文化の一員であるとき、私は真剣になろうと願うこともないし、真剣になることも出来ないのは、あながたのせいなのだ。
 私の宣言はこうだ、私がヨーロッパの知識人たちの貧しい親類であり続けざるを得ないということ、我々がたった三百人の個人で観念とインクとペンに夢中になっているにすぎないということ、そして、読者がいない故に、仲間内で互いのものを読んでいるに過ぎないということが、私をたとえようもなく苦しめているのだと・・・(イヨネスコ『否』(1934)より)

夏目漱石の『それから』の主人公代助が、自分が働かないのは西洋と日本の関係が駄目だからだと嘯くのを、我々は身勝手な理屈だと一笑に付すことは出来ない。イヨネスコがこうして毒づくのも軽薄才子の言として片づける訳には行かない。成り上がりの国において、しかつめ顔をして西欧由来の学芸を論じる悲哀と滑稽は国籍の如何を問わぬものである。 
シオランの『ルーマニアの変容』に序文を寄せた、ルーマニア人の著作家ペトレウによれば、「イヨネスコと同じように、彼(シオラン)は、自分が無意味な歴史と二流の文化の小国に帰属することに屈辱を感じていた。」彼女によると、その書物に先立つ時期に発表した幾つかの雑誌論文において既に彼特有の激しさでルーマニア文化の「本質的無能」にシオランは辛辣な批評を加えていたという。
1936年に出版されたシオランの著作『ルーマニアの変容』は、小文化しか持ち得なかった祖国への執拗なまでの非難と大文化を持つ他国への羨望の言葉に満ち溢れている。つまり、ルーマニアが、外から押し寄せる運命を従順に受け入れるだけの農民の文化しか持ち得なかったことへの絶望と、己を信じ、自己の個性を発揮し開花させ、他国にもそれを押し付け、世界の歴史を形作ってきた、また、作りつつある少数の文化(エジプト、ギリシャ、ローマ、フランス、ドイツ、ロシア、日本(!?)等)への羨望である。

このこと自体は、懐疑と逆説に満ち溢れているシオランの著作に少しでも親しんだ人間にとって何ら驚くべきことではない。
この書物をシオランの著作の中で特異なものにし、問題の書にしているのは、ルーマニアを「歴史」に参入させ、「中国の人口を擁し、フランスの運命を持つルーマニア」たらしめるための処方箋――シオラン流のだが――を書き記していることである。
1933年シオランは奨学金を得てドイツに留学した。この年にヒトラー政権が成立し、ドイツ全土がそれを歓迎する熱狂の渦の中にあった。この熱狂を目の前にして、シオランはこの熱狂こそがルーマニアの本質を変容させると信じるに至った。「二十歳から三十にかけてファナチズムに、狂気に、熱狂に賛同しないやつは間抜けだ」とは、後年当時を振り返って彼が述べた言葉である。(「祖国」邦訳『ルーマニアの変容』に所収、1940年代の後半から50年代初頭に書かれのだが、『歴史とユートピア』(1960)にもほぼ同じ言葉が見出される)
ペトレウによると、シオランはドイツ留学前には先にも述べたようにルーマニアの文化と歴史に絶望しながらも「『どんな社会理論にもどんな政治方針にも』加担するするつもりはない」と語っていたが、このベルリン留学中の1933年十月末から十一月初頭にかけて、「この政治蔑視はヒトラー体制への公然たる賛美に変わる。」ドイツから故国の雑誌にシオランはヒトラー賛美の文章を寄せ、故国の極右団体、暴力を揮うことを厭わない鉄衛団(1933年には時の首相デュカを暗殺している)に希望を託すことになる

鉄衛団運動(てつえいだん)   ルーマニアのファシズム運動の主要な団体の一つ

「1927年代」の若き知識人たちは、留学前のシオランと同じく非政治的な人間であったが、シオランの「転向」後次々と仲間が彼に倣い、エリアーデも36年に彼に続くことになった。――最後までこの熱狂に流されることのなかったイヨネスコは、後年この時の体験を基に、人間が犀に変わるという奇病に次々と侵されていくという『犀』という劇を書いた――1936年、シオランは『ルーマニアの変容』を公刊し、そこでの主張にも拘らず、鉄衛団の首領コンドレアヌを始めとして、多くの人間に好意的に受け止められた。「拘らず」と述べたのは、鉄衛団は、正教を中心にするルーマニアの伝統的精神を守ることを第一義とする極右団体であるのに対して、シオランは、この農民的伝統精神を粉砕し、ドイツ、また、日本を見倣い近代的工業国となって世界の歴史に参入することを説いたのである。――この点では、より「伝統的」であるエリアーデの思想の方が、鉄衛団の考えに親和的であり、実際エリアーデの関与の方が深かったようである――しかし、シオランにとって大切であったのは、鉄衛団が体現していた「熱狂」であり、祖国のどうしようもなく鈍重な文化を打ち破り、文明にもたらすためには、この「熱狂」が必要だと彼は断じた。  

私たち、つまり私の国の若者たちにとって、『無分別』こそ生きる糧であり、日々のパンであった。ヨーロッパの辺境に押し込められ、全世界から軽蔑され、あるいは無視されてきた私たちは、私たちのことを話題にしてもらいたかったのであり、そのために、ある者は拳銃を使い、ある者は有害この上ない世迷いごとを、突拍子もない理屈を並べ立てたのだ。(シオラン「祖国」)

カリネスクの別の論文によると(‟‟How Can One Be What One Is?”: Reading the Romanian and the French Cioran” Salmagundi Fall 1996)、シオランのこの本は、「世に出ると同時に古典の位置を占め、それに続く、『ルーマニア精神』やルーマニア流の生の哲学に関するどんな著作であってもシオランに対する応答であると言っても過言ではない。」
しかし、シオランは出版の翌年、1937年パリへと旅立ち、以後二回ほど故国を訪れた他はフランスに留まり、その生涯を1995年パリで終えることになる。
他方、1938年、時の国王カロル二世が憲法を廃止し独裁制を布く中で、鉄衛団は弾圧され、指導者コンドレアヌは、仲間と共に処刑される。1940年、鉄衛団はアントネスク将軍とともに、国王を退位させ、政権に就いたが、翌41年、アントネスクによってドイツの承認の下で鉄衛団は粛清され、以後歴史の舞台からはその姿を消す。この間、鉄衛団とその敵との間では文字通り血で血を洗う報復の応酬が続き、ユダヤ人の虐殺が行われた。「彼らは流血を好む殉教者であった・・・彼らは殺人の力を信じていた。だからこそ殺されたのだ。」(シオラン「祖国」)そして、ルーマニアは枢軸国側に立って第二次大戦に参戦することとなる。



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ジョルジュ・エネスコ作曲 交響曲五番第三楽章第四楽章 
1941年頃に取り組んでいたが、これはスケッチのみが遺された。やはり、ベントユが補筆した。終楽章では、十九世紀のルーマニアの国民的詩人、エミネスクの詩を用いている。(自国の文化を糾弾して止まないシオランにとってもこの詩人はその例外であった)

さて、シオランを鉄衛団から引き離したのは何だったのだろうか…このような歴史上の出来事ではなかった。シオランの伝記(Searching for Cioran 2007)を著したザリフォポル・ジョンストン(Zarifopol-Jonston)によれば、注目すべきは、宗教的熱狂を以ってユートピアを自ら論じ、ルーマニア国民にもそういう熱狂を求めた『ルーマニアの変容』を書きながらも、同時に宗教上の熱狂に心惹かれながらそれを彼に特有の懐疑と絶望を以って分析、批判する――従って『ルーマニアの変容』を批判する含意を持つ、『涙と聖者』(1938)の著作にも同時に携わっていたという事実である。(邦訳は仏語訳からの重訳だが、仏語訳作成の際、シオラン自身が三分の二の削除を指示しており、邦訳を見てもこの意味合いがなかなか伝わって来ない)熱狂と懐疑とは互いに矛盾するものであり、その両立し得ない二つが心の中に巣食い、互いを極限まで深め合うというのが、シオランの著作の魅力である。ここでも、あるいは、ここでこそ、この矛盾は大きな役割を果たした。ザリフォポル・ジョンストンによれば、「1930年代のルーマニアに於いて、若き日のシオランの魂は、(政治的および宗教的な)二つの絶対に付き纏われていたが、その両者ともに彼は信じてはいなかった。この状況を考えれば、(『ルーマニアの変容』と『涙と聖者』の二つを世に問うた後の)次の歩みは、不可避的に、自殺でなければ、自己追放・亡命(self-exile)である。」37年にパリに移住したのは、自らの抱える矛盾の故に、自らを祖国から追放したのであり、それはある意味での「亡命」である。

一方、エリアーデは、38年の鉄衛団の弾圧の際に、一時収容所送りとなったが、病気と既に手にしていた学者としての国際的な名声の故に釈放された。その後40年鉄衛団らによるクーデターの五か月ほど前に、ロンドンのルーマニア大使館へ、更に、ルーマニアが第二次大戦に参戦しイギリスの敵国となる前後に、ポルトガルの大使館へその館員として派遣されることなった。中立国ポルトガルでは自国の立場を宣伝し、シオランとは異なり、祖国の兵士が、1941年スターリングラードでドイツ兵士と共にソ連の恐怖に対して戦う苦難に思いを馳せた。これは、それまでの東洋観に新たな要素を付け加えることに通じた。即ちそれまでインドやルーマニアに探し求めていた「人類の偉大な文化的諸伝統の、真の東洋」に加えて、スターリン麾下のソ連軍に、東洋の野蛮を、すなわち、「草原の精神、(ヨーロッパを脅かした)アッティラの諸侯たち、ジンギスカンやティムールの騎馬戦士たち、そして、スターリンの侵略軍を突き動かした精神」を見ることとなり、それが「歴史の恐怖」というもう一つのエリアーデ宗教学の鍵概念となる。前回に見た、エリアーデによるルーマニア小史はこの時期に書かれたものである。
他方、鉄衛団と自分の仲間たちとの関係を苦々しく眺めていたイヨネスコの母親はユダヤ系のフランス人であった。危険を避けるため、フランスに移り住み、身の安全の為にユダヤ系の出自を隠して、傀儡政権のあるヴィシーで、ルーマニア公使館に勤めることとなった。

第二次大戦が終結した1945年、三人はフランスのパリで再会する。シオランとエリアーデは文字通りの亡命生活を送るこことなり、イヨネスコは、フランス国籍を取得し、その後、各人それぞれが、宗教学者、思想家、劇作家として世界的な名声を手にする。
ルーマニア人であるという事実が、三人それぞれの生涯を形作った。宗教学者としてのエリアーデはあくまでも自分がルーマニア人であると認識し、その底にあるものを探求することで普遍的な次元に到ろうとした。シオランは、ルーマニア人であるということは何なのかという問いを、そもそも自分であることとは何かという形而上学的な問いへと変容させ、「無国籍者」として絶対への憧憬と懐疑の間を激しく行き来する思想家となった。イヨネスコにとってルーマニア人であることは、一時のエピソードに過ぎなかったが、それでも、ルーマニアでの経験は、サルトルを代表とする、口先だけのお手軽な批判に終始する現代フランスの知識人から自らを引き離すのに十分で、モリエールの系列に連なるフランスの文人らしい文学者となった。
 


さて、前回のブログ(2)から大分話が逸れ、いささか音楽家エネスコを取り巻くルーマニアの思想的政治的背景に字数を費やしすぎた感があるが、それではこのような<新世代>の青年たちを、既に西欧や米国で名声を得ており、ヒューマニスト(言葉本来の意味での)でもあったエネスクはどのように見ていたのだろうか…どこにもこのことを教える言葉はないが、かと言って、彼らと全く無縁であった訳でもない。上で紹介した交響曲第五番の終楽章でその詩句が用いられたエミネスクという十九世紀ルーマニアの国民的詩人のことを、前回紹介したカプランは、エリアーデと同様の排外的で保守的な知識人として、エネスクと対極にあるものとしたが、事はそう単純に割り切れない。コズマによれば、エネスクはエミネスクのことを「常々崇め敬愛しており、」ある友人の手紙の中で、「エミネスクの詩に存在する高い峰を飛べる翼なくしては、音楽でエミネスクに近づくことは不可能であり、また、その権利も持てない。無力な音楽をつくってもよいのだろうか」とさえ述べて、この第五番が未完に終わったのも、エミネスクの詩に見合うだけの音楽となってはいないのではないかとて推敲を止めなかったからである。
ルーマニア人であることは、エネスクにとって自己の存在の中心に位置する事柄であった。
次回では、ジョルジュ・エネスコの晩年の「名曲の森」を紹介したい。


(ネモローサ)


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ジョルジュ・エネスク作曲  交響詩『イシス』

エネスクの恋人であり、後に妻となるマルカ・カンタクジーノに捧げられた曲。「イシス」とはエネスクが彼女に付けたニックネームである。1923年に書かれたこの曲のスケッチは、1996年まで誰もその存在すら知らなかった(演奏可能な形にしたのは、交響曲第四番、五番の補筆を行ったベントユ)
イシスは、エジプト神話の女神であり、愛と魔術、また生と死の神である。イシスの兄であり夫であるオシリスは、弟によって殺され、その遺体はばらばらにされてナイル川に投げ込まれたが、彼女は、その遺体の断片を拾い集め、それをつなぎ合わせて魔術で蘇らせた。オシリスは以後冥界の王となる。



さて、1946年共産主義政権下のルーマニアから亡命を果たしたエネスクは、翌年エリアーデをパリの自宅に招いたことがあった。(Mircea Eliade,1907年 - 1986年、ルーマニア出身の宗教学者・宗教史家、民俗学者、作家)
エリアーデの『回想』には次のような短い一節がある。

私はまたマルカ・カンタキュゼーヌ(カンタクジーノ)とジョルジュ・エネスコ、彼らのベルヴェ街のアパルトマンに招かれた。こうして私はこの伝説的な夫婦をより間近から知ることが出来たのである。彼らとは―― ―九三一 ~ 三二年の ≪ナエ・イオネスク・エピソード≫ のおかげで――数々の想い出によって結び付けられていた。

ナエ・イオネスク――エリアーデとシオランに、また、エネスクにも、異なった意味であるが、災厄をもたらした人物である。
ナエ・イオネスクは、ブカレスト大学で哲学を講じ、当時の流行思潮である生の哲学、つまり、合理主義を批判し、理性で解き明かすことのできない生を尊重する哲学を唱道していたが、その講義も、大半の教授連の堅苦しい講義とは対蹠的であり、即興で行われることもしばしばで、聴講する若者たちは、‘ 新しい思想 ’が眼前で生まれるのを目撃する興奮を味わった。彼はカリスマであり、惹きつけられた若者の中には、エリアーデやシオランがいた。ナエ・イオネスクは、新聞『言葉』を編集し、そこに寄稿するジャーナリズムの人間でもあった。――エリアーデは編集部に加わり、前回紹介した『精神の道程』もそこに連載された
――ナエ・イオネスクは鉄衛団を支持し、取り巻きの若者がそれに続いた。  
  
鉄衛団(てつえいだん、1927年から第二次世界大戦の初期にかけて、ルーマニアで起こった極右の反ユダヤ主義民族運動、およびそれを推進した政党。1940年から1941年まで政権を獲得した。王党派とさえ激しく対立し、あまりにも非道な方法で勢力の拡大をしたために、ルーマニアでは政情が乱され、国民からも恐れられた。)


ナエ・イオネスクは1940年病の為に世を去るが、前回見たように、この若者たちが一時の熱狂と一生続く長い悔恨を味わうこととなったのは、この師の影響によると言ってよい。――彼らに同調することのなかったウジェーヌ・イヨネスコ(Eugène Ionesco, 1909年11月26日 - 1994年、フランスで主に活躍した劇作家、不条理演劇を代表する作家)は、1945年のある手紙の中に「ナエ・イオネスクがこの世に存在していなかったならば、我々は三十五歳から四十歳の素晴らしい指導者の世代となっていたのに」と記した。



他方、エネスクは、マルカ・カンタクジーノと第一大戦中に知り合い、「エネスクは出会ったその日からマルカに魅せられ、彼女を盲目的にあがめ、毎日午後には彼女のもとを訪れてそれが何年も続いた。」しかし、十年以上の時が経った後、「当時、五十六歳だったマルカ・カンタクジーノが、こともあろうに四十三歳だった先のナエ・イオネスクと浮名を流すという事件が持ち上がった。驚いたことに、この二人の関係は数年続き、終生のパートナーとして近く夫婦になると誰もが思っていたエネスクとこの『女王』との関係は断絶したかと思われた。・・・だが、ナエ・イオネスクは突然マルカを捨て、その結果彼女は極度の神経症にかかり・・・エネスクはあらゆる演奏会や仕事をキャンセルし、見事なまでの献身ぶりでマルカを看病した。10年近い看病の末、1937年二人はブカレストで密かに結婚した。」(コズマ) 二人の結婚生活は、エネスクの死まで続くが、特に第二次大戦後の亡命生活では、マルカの我儘と彼女が作った借金とがエネスクを苦しめることとなる。

『エリアーデ日記』の1947年11月9日の項には、エネスクとマルカに招かれた際のことについて、『回想』よりも詳しい記述を見出すことが出来る。
 
マルカは大文字で≪絶対≫、≪生≫、≪理想≫について語った。彼女は決して馬鹿でも凡庸でもない。観察的精神、見事な言い廻し。私を魅惑したもの、この婦人の何としても優れていると思われたいという虚栄心。彼女は卓越した人間たちによってのみ取り巻かれ、会話を≪頂上≫に向ける。・・・サロンこそ彼女にふさわしいと思った。・・・これは(マルカが別れ際にエリアーデに渡したタイプ原稿)、ナエの肖像である。出来は決して悪くない。彼女はナエのデモニズム(悪魔主義)、無への恐怖、ニヒリズムを強調している。彼のうちにしばしば悪魔を見たと・・・告白している。


マルカも矢張り、エリアーデやシオランと同じくナエ・イオネスクの発する非合理の妖気、ニーチェ風に言えばディオニュソス的なものに魅せられた一人であった。


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エネスクの旧宅はエネスク博物館となっているが、そこで制作したドキュメンタリー(Youtubeでは4部に分かれているが、上は2番目である)。ルーマニア語とフランス語しか話されないが、英語字幕が常についており、他のエネスクに関するドキュメンタリーとは違って理解可能であると同時に、エネスクの晩年に焦点をあてており、興味深い。エネスクの弟子であるメニューインも登場するが、フランス語で話している。

前回見たようにエリアーデは、ルーマニアを「ユーラシア大陸の東端にまで亘る東の一部として捉え、合理主義の西欧とは異質な場所」と見ていた。作曲家であり、音楽学者であるステファン・ニクレスク(Stefan Niculescu)によれば(上のヴィデオの3分30秒あたりから)、エネスクの音楽の源泉は、ドイツ音楽、フランス音楽、そして、古代から続くルーマニア音楽であり、最後のものは、インド、日本、中国、アフリカの音楽といった非西洋の音楽と比較しうる(英語字幕だと正確な意味合いが分からないのだが)「 伝統 」であり、この三者の音楽を融合した所にエネスクの音楽の偉大さがあるという。
エネスクにとっても、1927年世代の若者たちにとってと同様に、‘ ルーマニア ’とは西欧の文化の枠では捉えきれないものであり、しかも、それは自分の存在の深みに位置すると同時に、全人類の文明という広がりの中に確固とした位置を有するものであった、あるいは、そういう位置を占めるようにすることが彼の努力の目標であったのではないか。この最後の点は措くとしても、西欧とは異なる「東」が、彼の本質の一部を成していたことは、この曲を聴けば明らかであろう。


『オイディプス王』 
エネスク畢生の大作(magnus opus)である。数ある古代ギリシア神話の中でも最も有名な物語を題材にして、構想から25年かけて作曲され1936年にパリで初演された。古代ギリシアの劇作家ソフォクレス作の『オイディプス王』と『コロノスのオイディプス』が有名だが、このオペラの第三幕、第四幕は、それぞれこの二つの戯曲に基づいている。ユダヤ系のフランス人、フレッグが台本作者であったが、彼は、オイディプスの誕生とテイレシアスの予言の第一幕、コリントスからの旅立ち、三叉路での不幸な遭遇、スフィンクスとの対決とその勝利故のテーバイ王への即位の第二幕を書き加え、オイディプスの全生涯を扱う作品とした。
このオペラは、上に紹介したヴィデオの中では、二十世紀最高のオペラであり、オペラの中のオペラと呼ばれている。また、その価値にも関わらず、上演されることが少ない作品でもある。その数少ない公演の中で、ラ・フラ・デルス・バウス(La Fura dels Baus)によるものがYou tubeで見ることが出来る。抜粋であるが何と歌詞の日本語訳が付されていて、有難い。更に、有難いことに、ソフォクレスの『オイディプス王』に基づき、この作品の中心である第三幕だけは、全幕をYoutubeで見られる。


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ジョルジュ・エネスコ作曲  オペラ『オイディプス王』作品23

フレッグは、ソフォクレスの二作品に二つの幕を追加したのだが、更に、ギリシア以来の伝承に大きな改変を加えている。スフィンクスは、テーバイに入ろうとする旅人に謎かけをして正しい答えを出せぬ者を文字通りの餌食としていたが、オイディプスはその謎に正しく答え、スフィンクスが命を失う。フレッグが改変したのは、答えではなく、問いの方である。即ち、元々「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足になるものは何か」とスフィンクスは問うて、オイディプスは「人間」と答えたというのが、伝承であるが、このオペラで答えは同じく「人間」であっても、スフィンクスの問いはこうである、「運命よりも強いものは何か。」
人間は運命よりも強いという答えを得てスフィンクスは「時だけが、死に行くスフィンクスが自らの敗北を嘆いているのか、自らの勝利に笑っているのかを教えるだろう」と言いながら、嘆きとも笑いともとれる不気味な声を立てながら死んで行く。そして、オイディプスは、予言に示された運命から逃れられなかったことを知り、自らの目を突き、盲目となり国を出て放浪の旅に出る。
しかし、神は彼を見捨てはしなかった。最後には神に嘉せられて光の中で彼はこの世を去る。マルコムの言うように、「オイディプスが運命に打ち勝ったのは、・・内面的な意味においてであり、苦しみとその償いとして(世界と自己に対する)理解を得たというものである。」
卑屈な人間には、悲惨が生じることはあっても、悲劇は起こらない。悲劇は、高貴で強い人間が運命に抗い、それに敗北する時に生じる。オイディプスこそそういう人間の典型である。だからこそ、『オイディプス王』は、悲劇の傑作であり、感動をもたらす。
シオランは、運命に従順なだけの卑屈さがルーマニア文化の本質であるとしてそれを憎んだ。他方エネスクは高貴なる強者であるオイディプスを描くのに、ルーマニアの音楽の伝統を用いた。ドイツ、フランスの音楽の影響をこのオペラの随所に聴くことが出来るが、「エネスクのスタイルの真の源泉は、彼の生まれたルーマニアの民衆音楽にある」と『オイディプス王』のCDに解説を寄せたジュリアン・アンダーソンは語る。
この作品に描かれたオイディプスの生涯に、私はエネスコの生涯を重ね合わせて考えたくなる。この作品を完成し、上演した時のエネスクは、栄光の絶頂にいたのだが、その後、数々のつらい運命が彼を襲う。しかしながらその中に於いて、苦難の後にのみ得られる類の内面の豊かさを、オイディプスのようにエネスクは手にしたのではないか。晩年の傑作がそれを物語っていると思われる。



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『室内交響曲』
エネスクが最後に完成させた曲の第一楽章。因みにこの写真は、以前見た劇でオイディプスを演じた俳優を戯れに真似したエネスクを映したもの。.

鉄衛団の跋扈、第二次大戦への祖国の参戦と敗北、共産党政権の樹立と王制の廃止、余儀なくされた愛する祖国からの亡命生活と共産党の支配下にある祖国からの心無い仕打ち、演奏家生命を終わらせた病、亡命と妻の浪費がもたらす貧窮、そして、妻の冷酷な態度と行動、晩年のエネスクを襲った不幸は数知れない。しかし、そのような中で彼が作曲した特に室内楽曲は、愛弟子のメニューインが言うように歴史に残る傑作が揃っている。ピアノ五重奏曲(1940)、ピアノ四重奏曲第二番(1944)、弦楽四重奏曲第二番(1951)、そして、室内交響曲(1954)である。これらの曲は外面的な華やかさは全くなく、内面の豊かさを感じさせるものとなっている。
『室内交響曲』のルーマニアでの初演の際に、指揮者は聴衆が理解できないのではないかと虞れて同じ演奏会の中で二回演奏したというが、いわゆる現代音楽に慣れている我々にとっては、かなり聴きやすい曲であるとも言える。しかし、手垢にまみれたところが全くない新鮮な音楽である。エネスクは、当時の十二音音楽を批判し、「音楽は、こころからこころへと伝わらなければない」と述べたそうだが、これらの晩年の曲は、彼のオペラのオイディプスが晩年苦難の運命の後に光に包まれて天に昇ることを得たのと同じように、真の意味での明るい光に満ちた豊かな内面をエネスクが得ることが出来たことを我々のこころに伝えてくれると思う。


エネスクの死後、共産党政権は彼を自国の偉人として顕彰し始め、それがエネスクに対する西側の人間の誤解を生み出したということである。……死後に到るまで、共産党政権はエネスクに災いを齎したが、それも消滅し、エネスクの真価が認められ始めた。それでも、まだまだ十分であるとは言えない。我が国の演奏会でも、彼の名曲がしばしば演奏される日が来てほしいと心から願う次第である。


(ネモローサ)



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