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2019.08.20 (Tue)

ガーシュウィン『ラプソディ・イン・ブルー』『ポギーとベス』――移民が紡いだアメリカの「民衆音楽」

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 引き続きクラシック万歳!!





ジョージ・ガーシュウィン作曲  『ラプソディ・イン・ブルー』
レナード・バーンスタイン演奏・指揮、ニューヨーク・フィル。



ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937)は20世紀のアメリカ音楽を代表する作曲家であり、今日では彼の作品は世界中で演奏され愛されている。ドラマ「のだめカンタービレ」のエンディングで耳にした人も多いだろう。しかし彼をいわゆる「クラシック」の音楽家に入れるには多少違和感を持つ人がいるかもしれない……たとえば彼の代表作 『ラプソディ・イン・ブルー』、あるいは『パリのアメリカ人』....という題名だけ見ても、「交響曲○○番」や「○○重奏曲」といった、いわゆる‘ クラシック ’らしくないものである。
彼の作品に見られる、人の気をそらさない親しみやすい旋律、そして聴く人の心が踊るような軽快なテンポは、たしかにジャズやミュージカル音楽に共通するものだ。事実、彼はミュージカル作品や映画音楽を、多数 後世に残しているが、同時に、彼はピアノ協奏曲やオペラ『ポーギーとベス』といった典型的なクラシック音楽も作曲しているのだ。
今でこそ、ジャンルにとらわれず自由に作曲する事は珍しくない。しかしガーシュウィンが生きた当時は、新興のジャズやミュージカルは、庶民の音楽とみなされ、「高尚な」クラシックとは区別されていた。
そのような中で、様々なジャンルをミックスした様な、クラシック音楽とは一線を画すガーシュウィン独特の音楽は、どのようにして生まれたのだろうか。
その秘密は、彼の送った生涯とその背景にあるアメリカの歴史を紐解くと、分かるかもしれない。



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ジョージ・ガーシュウィン。
彼の作曲したオペラ『ポーギーとベス』の原作者デュボース・ヘイワードは「物凄い身体的、心理的な活力がありながらも、自分自身を冷淡に、現実的に見る能力があり、自分が何を望み、何処に行こうとしているのか正確に知っていた」とガーシュウィンを評している。


ガーシュウィンが生まれたのは、工業化と海外進出が進む19世紀後半のアメリカ、ニューヨークのブルックリンだが、実は父親はアメリカ生まれではないことはあまり知られていない。そもそも苗字すら「ガーシュウィン」ではなかった。
(ガーシュウィン一家は元々「ゲルショヴィッツ」という、アメリカからはるか彼方のロシア帝国南方の都市、オデッサに住むユダヤ人であった。「ガーシュウィン」は英語名)



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ロシア革命以前のロシア帝国内のユダヤ人居住地。現在のポーランドからウクライナ、ベラルーシまで広がっている。ユダヤ人はロシア国内において居住地外への移動は制限され、居住地内では「シュテットル」と呼ばれる、ユダヤ人のみの集落や都市部に人口が集中していた。



当時ロシアにはユダヤ人が500万人程居住し、世界最大のユダヤ人口を擁していた。
同国で多数派を占めるキリスト教徒(ロシア正教、カトリック)と比べ、独自の信仰を持つユダヤ人は、政治的な差別や制限(農地保有の禁止、居住制限など)を受けながらも、金貸しや酒屋、交易商などを営み、生計を立てていた。またキリスト教文化とは異なる独自の文化も育んでいった。例えば敬虔な信徒は宗教上の理由からあごひげを生やし、質素な黒いカフタンを身にまとっていた。またユダヤ人は日常ではイディッシュ語と呼ばれる独自の言語を話し、結婚式や葬式には、クレズマーと呼ばれる、クラリネットやバイオリンを用いた、独特の音楽が奏でられたのである。


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東欧の街角のユダヤ人(出典:https://ukrainianjewishencounter.org/en/the-jewish-question-in-austrian-galicia-assimilation-anti-semitism-and-attempts-at-coexistence/)


数百年のもの間、紆余曲折がありながらもキリスト教徒ら隣人と共生を続けていたロシアのユダヤ人であったが、19世紀から20世紀の変わり目に大きな転機を迎える。当時ロシア・東欧に住んでいた彼らの内、250万人もの人々が海外に出国したのである。何故これほど多くのユダヤ人が渡航したのだろうか。
近年の研究ではユダヤ人の人口増加や貧困問題を要因とした「経済的な移民」であるという見方もあれば、ユダヤ人に対する迫害(ポグロム)から逃れた「難民」であるという見方もある。
少なくとも、当時 英米に遅ればせながら、産業革命によって工業化が進み始めたロシアでは、それまで大多数であったロシア人農民の中から、新たに商業や工業に進出する者が現れ、それまで商工業に就いていたユダヤ人との間に摩擦が起こってきたことで、ユダヤ人がそれまで通りの生活を維持できなくなったのは確かである。





ガーシュウィン作曲『ピアノ協奏曲へ調』。
映像は、ガーシュウィンの曲が基になったミュージカル映画『巴里のアメリカ人』(1951年)の一場面。
劇中で「売れない音楽家」役を演じているピアニストのオスカー・レヴァントが、架空の演奏会を妄想している。




さて話は戻るが、このロシアからの移民の流れの中でアメリカに渡ったのが、ガーシュウィンの父親のモシェ・ゲルショヴィッツであった。
アメリカといえば、世界中から集まった移民が、平等に与えられた機会の下で、勤勉と努力によって成功をつかむ「アメリカン・ドリーム」のイメージがあるかもしれない。モシェも恐らくそうした夢と希望を持って渡航したのだろう。
しかし現実はそう単純なものではなかった。
当時アメリカは、工業化が進む中で労働者の不足に直面していたため、一年に100万人もの移民を受け入れていたが、その社会は移民にとって平等とは程遠いものであった。「白人」と、「非白人」 つまり黒人やアジア系移民(日系や中国系)との間の分断に加え、白人内部でも差異があったのである――すなわち西欧出身のプロテスタントは政治・経済両面で強力な力を持ち(WASP)、ロシアおよび東欧・南欧・アイルランドからの移民(19世紀後半に渡ってきた新移民)は、経済的に貧しく、賃金も低い劣悪な労働環境の中で働くブルーワーカーが多かったのだ。出世など社会的な上昇機会はあったものの、新移民の多くはアメリカの産業社会の底辺におり、中にはギャングに身を落とす者までいた。
こうした人種・民族間のヒエラルキーの中で、モシェもニューヨークで職を転々として苦労した末、ようやく宿屋やレストランの経営をするまでになる。
その次男として生まれたのが、後に世界的作曲家になるジョージ・ガーシュウィンであった。



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ニューヨーク市街地図。東端の赤い部分の周辺がガーシュウィンの生まれたブルクッリン。同地区のブライトン街はロシア系移民が多く住んでいたことから「リトル・オデッサ」と呼ばれ、ロシア語文化が花開いた。また川を挟んで向かい側の青い部分も東欧ユダヤ人が多く住んでいた「ローワーイーストサイド」。



幼少期のガーシュウィンは、彼の伝記を著したロバート・パイネによれば「ほとんど本も読まず、可能な限り学校をサボり、喧嘩が好き」であった。つまり当時の下層階級に見られる「不良少年」の一人だったのだ。しかもガーシュウィン一家は、ロシア・ユダヤ人社会出身である割には、ユダヤ教の伝統もほとんど重んじなかったという。
そんな貧しく、伝統からも切り離された生活を送るガーシュウィンの人生を変えたのが、街中で、とある家の窓から聞こえてきた『ユーモレスク』であった。その時「閃光のような美の啓示」に打たれたという彼は、ピアノを弾いていた床屋の息子と友達になり、音楽を習い始めたところ、たちまち頭角を現す。やがて彼は本職のピアニストの下で、クラシック音楽も学び始めた。
しかし如何せん家計はそれほど豊かではなく、音楽との出会いも14歳と遅かったため、親は音楽家になるなど想像もしていない。仕方なく彼は、クラシックではなく、当時新興しつつあった「 ポピュラー音楽 」でアルバイトをしながら生計を立てるしかなかった。しかしこれが、彼の人生を決定的に変えることになる。

そもそもポピュラー音楽とは、作品の芸術性よりも、一般大衆の興味に合わせて当時大量に作曲された「 商業音楽 」である。その仕掛け役となったのが、ニューヨークのティン・パン・アレーと呼ばれる地区にある商業出版社であった。これらの出版社の特徴は作品の内容をあらかじめ決めた上で、個々の作曲家に作曲を依頼し、完成した作品を「商品」として宣伝(プロモーション)する点にあった。つまり現在のポップ音楽の在り方がこの時代に生まれたのである。
ガーシュウィンはこのプロモーションのために、人前で歌やピアノでデモ演奏する仕事(song-plugger)をしながら、作曲を学んでいた。
1919年に自作の歌曲『スワニー』がヒットすると、次第にガーシュウィンはポピュラー音楽の作曲家として著名になっていく。





『ラプソディー・イン・ブルー』のジャズ編曲版。演奏はデューク・エリントン。



ポピュラー音楽の中でとりわけガーシュウィンに大きな影響を与えたものが、「ジャズ」である。
ジャズは元々アメリカ南部に住む黒人の間で広まった民衆音楽だったが、1920年代にはニューヨークなどの北部(東海岸)でも知られるようになっていった。
この様にジャズが広がっていった背景には、第一次世界大戦の勃発によって戦場になった,ヨーロッパからの移民の受け入れが停止されたことに加え、米国も大戦に参戦したことで、多くの労働者が兵役に就いたため、工場が人手不足に陥っていたことがある。そのためヨーロッパ移民の代替えに、南部の黒人が低賃金の労働力として新たに北部に呼び寄せられたのだ。
そうした労働者と共に黒人ミュージシャンもまた北部の都市に流れ、ジャズクラブを開いたため、同地でもジャズ音楽が広まっていたのである。


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1920年代のジャズバンド(キング&カーターオーケストラ、カンザス)


ジャズ音楽の面白さは、またたくまに白人の間に伝わった。ガーシュウィンもたびたびジャズクラブに通い、黒人ミュージシャンの演奏に耳を澄ませていたという。何故彼はこれ程ジャズに夢中になったのだろうか。

ここで彼が、ジャズが新たな「アメリカの民族音楽」になるだろう、と発言している点は興味深い。

そもそもガーシュウィンは、移民の子としてアメリカに生まれた、いわゆる「移民二世」であり、自らを出身国の人間として見なしていた親世代に対し、子世代は 「アメリカ人」として生きることがむしろ自然だった。
だが、様々な移民の寄せ集めで成り立った、‘ 人種のるつぼ(melting pot) ’ともいうべき新興国「アメリカ」においては、彼らが共有できる、この国独自の音楽文化と呼べるようなものは、これまでなかなか育ってこなかった。
その中で新たに登場した、ジャズなどのポピュラー音楽の存在は、特定の文化や民族色にとらわれず、アメリカの民衆の生活にも根差したものであった。ガーシュウィンは、移民の国に生まれ育った下層階級の人々が、互いを結びつける言わば ‘よりどころ ’ の様なものとして、「ジャズ」をとらえていたのかもしれない。

1924年には、「ジャズの王様」を自称する著名なジャズバンドの指揮者、ポール・ホワイトマンが、近く開催される演奏会のためにジャズと管弦楽を融合した作品(現在のシンフォニック・ジャズ)を、ガーシュウィンに依頼してきた。これに対し、ガーシュウィンは時間的余裕が無いことを理由に一度は断ったのだが、ホワイトマンは彼に無断で、「ガーシュウィンが新曲を作曲中」と新聞記事に書きたて、彼を慌てさせた。止む無くガーシュウィンは演奏会までの2週間ほどで書き上げ、『ラプソディ・イン・ブルー』として発表した。(ただ当時はまだガーシュウィンは管弦楽の知識が乏しかったため、管弦楽の部分は別の作曲家に任せている)。
こうして急ごしらえで出来上がったにもかかわらず、同曲の初演は大成功を収め、ガーシュウィンの名声は米国内でさらに高まる事になった。





『パリのアメリカ人』アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団
写真は作曲者のガーシュウィン本人


この『ラプソディ・イン・ブルー』の成功は、ガーシュウィンに新しい音楽への扉を開くことになる。すなわち従来のポピュラー音楽から、クラシック音楽への進出である。――通常の音楽の学びとは逆であるところが面白い。
当時アメリカにおいてクラシック音楽とポピュラー音楽は、前者が上流階層向けの「ハイブラウ(上級文化)」、後者が大衆向けの「ロウブラウ(下級文化)」として明確に区別されていた。そしてハイブラウはヨーロッパから輸入された「正統な」文化芸術として継承されていくべきものとされ、勝手な改変や脚色が排され、洗練化が進む一方、ロウブラウはあくまで「大衆向け」の娯楽的な人気作品としてみなされたのである。
ロウブラウ(下級文化)に対しては、当然 偏見も見られ、自動車王として名をはせていたフォード社の会長ヘンリー・フォードなどは、ラグタイムやジャズなどの黒人音楽やユダヤ人のティン・パン・アレーの商業音楽が、アメリカ文化を「汚染」している、と言って憚らなかった。しかし管弦楽も加わり、より洗練された『ラプソディー・イン・ブルー』の成功は、「ハイブラウなジャズ」として、それまでのジャズ音楽の評価を一変させたのである。



一方、クラシックの「本場」であるヨーロッパでは、ガーシュウィンの作品の評価は二分されていた。彼が自作のピアノ協奏曲などの演奏会をパリなどで行ったところ、ラヴェルが好意的な評価を寄せたのに対して、プロコフィエフは「大げさ」だと酷評したのだ。
ガーシュウィン自身はといえば、もっと本格的にクラシック音楽を学ぼうと、パリ滞在中にラヴェルと親交を結び、1928年に 『パリのアメリカ人』の作曲に取り組んだ。
だがこれで彼がハイブロウのクラシック音楽家の仲間入りを果たしたと思っている訳ではなかった。帰国後も、映画音楽やミュージカル音楽を作曲し続けながら、自分の目指すべき音楽を模索していたのである。

それが明らかになったのが、1935年に発表した渾身の大作、『ポーギーとベス』である。これは形式としては3幕から成る、れっきとした「オペラ」でありながら、ジャズなどのポピュラー音楽も取り入れている。しかも扱われている題材は実際に南部の黒人社会で起きた殺人事件というショッキングなものであり、キャストもすべて黒人という、当時では異色のものであった。

ガーシュインは作曲の際に、直接南部に出かけ、黒人音楽を研究している。
その時の逸話であるが、彼はある日ガラ・ニグロ(Gullah Negro)と呼ばれるアフリカ系黒人に会い、彼らの「シャウティング(叫び)」という、独特のリズムと手拍子を伴う歌と踊りを耳にした際に、突然、彼も黒人と共にその「叫び」に加わり、踊りまで踊ったというのである!――伝記作家のパイネはその理由として、ガーシュウィンに、黒人の「シャウティング」が、彼のバックグラウンドにある‘ 東欧のユダヤ民族の踊り ’を想起させたからではないか、と推測している。
その真相はともかく、彼が‘ 原始的な黒人音楽のリズム ’に、無意識のレベルでの‘ 共鳴 ’とでもいうべき深い共感を呼び覚ませられたことは確かだろう。





組曲『ポーギーとベス』。ジェームズ・レヴァイン指揮、シカゴ交響楽団
目まぐるしく動く激しい旋律とリズムの後、突如サマータイムで有名になったメロディーを
切なく物哀しくヴァイオリンが奏でる。(3分25秒~)




しかし、ガーシュウィンが、単に黒人のための音楽を書こうとしていたのか、というとそういうわけでもない。彼は『ポーギ―とベス』について次のように述べている。

「私は初めてこの作品の音楽に取り掛かった時、元の(黒人の)民謡の素材を用いないことに決めた、というのも(作品の)音楽を全てひとまとめのものにしたいと思ったからだ。そのため私は私自身の黒人霊歌と民謡を書いた。しかしそれらは依然として、民衆の音楽でもあるーーゆえにオペラの形式をとることで、ポギーとベスは民衆のオペラになる」

ここからガーシュウィンの狙いは、黒人民謡をアレンジすることで、 ’アメリカの民衆全体のための ’音楽作品を創造し、それを既存のクラシックオペラのレベルにまで引き上げることであったことがわかる。若い頃から黒人のジャズを、「自分たちの音楽」として親しんできたガーシュウィンには、黒人民謡もアメリカ音楽の土台となる、そのように考えたのだろう。

しかし、『ポーギーとベス』の発表から、わずか2年後にガーシュウィンは急逝してしまう。

彼の明るい旋律からは、当時の欧米社会には立ちはだかっていた、人種や階級の高い壁、あるいはクラシックとポピュラー音楽間の壁があった事は、我々日本人には少々想像し難いかもしれない。だがそうした様々な「壁」を超克しようと試みた、ガーシュウィンのたくましい生命力と意志そして創造力によって、そうした名曲が生まれたことも事実なのだ.......。





女声ジャズシンガー、エラ・フィッツジェラルドの『サマータイム』(『ポギーとベス』の同曲のアレンジ)




(門前小僧)


<参考文献>
Allen, Ray, "An American Folk Opera? Triangulating Folkness, Blackness, and Americaness in Gershwin and Heyward's "Porgy and Bess"", The Journal of American Folklore, Vol. 117, No. 465 (Summer, 2004), pp. 243-261.
Hersch, Charles B., Jews and Jazz. Improving Ethnicity, New York, 2016.
Payne, Robert, Gershwin, New York, 1960.
大和田俊之『アメリカ音楽史』講談社2011年
末延芳晴『ラプソディ・イン・ブルー-ガーシュインとジャズ精神の行方』平凡社2003年
野村達朗『「民族」で読むアメリカ』講談社1992年
レヴィーン、ローレンス・W『ハイブラウ/ロウブラウ——アメリカにおける文化ヒエラルヒーの出現』常山菜穂子訳 慶応義塾大学出版会2005年



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