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2014.05.10 (Sat)

「トルコ行進曲」と二つの帝国(1)ー世界史を変えた17世紀     「トルコ行進曲」と二つの帝国(2)―オスマン帝国はどんな国?

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「トルコ行進曲」(ベートーヴェン)


ベートーヴェンやモーツァルトが作曲した名曲の中で「トルコ行進曲」というものがある。前者は管弦楽曲、後者はピアノ・ソナタだが、太鼓とともに ♪ ジャン、(ウン)、ジャン、(ウン)、ジャン、ジャン、ジャン、♪ と、どちらも非常に特徴的なリズムで、一度聴いたら忘れられないものだ。学校の音楽の時間などで聴く機会も多いだろう。だが、何故「トルコ行進曲」という題名なのだろうか…。この曲について知っている人なら「トルコの軍楽隊の行進曲のリズムを取り入れているから」と答えるだろう。
では何故そもそも「トルコ」なのか。‘ 欧人に異国情緒をかき立てるため ’と思われるのだが、それだけの理由なら「アラビア」の曲でも「インド」の曲でも良い気がする。あえて「トルコ」である理由は何だろうか。
それは先程の「軍楽隊」という語にある。




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現在のヨーロッパの地図。ヨーロッパの中心部にある深緑色の小国がオーストリア。右下ヨーロッパとアジアの間にある薄紫色の国がトルコ。両国間にはハンガリーやバルカン半島の国々がある。




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16~17C当時のヨーロッパ。オーストリアもトルコも上と同色だが今より領土の範囲ははるかに広く、両国は国境も接していた。神聖ローマ帝国とは名ばかりのもので、オーストリア及び左の様々な色が密集している当時分裂状態のドイツの諸邦などをかろうじてまとめていたに過ぎなかった。



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モーツァルト ヴァイオリン協奏曲 第5番 K.219 「トルコ風」3楽章


さて「トルコ行進曲」の背景を探るには、明るい曲調からは想像も及ばない、オーストリアとトルコの「血みどろの」歴史を紐解く必要がある。上に挙げた1枚目の現代の地図では、オーストリアとトルコは互いに随分離れていて、わざわざ戦争をする必要もない気がする。しかし2枚目の地図に見られる様に、16世紀当時の状況は違った。
当時トルコは「オスマン帝国」と呼ばれ、バルカン半島からアラビア、エジプト、北アフリカを擁する一大帝国であった。一方、オーストリアを含めドイツ・スイス・チェコ等を擁した「神聖ローマ帝国」は、首都をウィーンに置いていた。但し、オスマン帝国に比べれば領土や人口の差は歴然としていた。
この両帝国は国境を接しており、長年(16C以降~)領土や宗教をめぐり抗争を繰り返していたのだが、特にオスマン帝国は「イスラーム教の拡大」を旗印に、神聖ローマ帝国が属するキリスト教のヨーロッパ世界に進出していた。(ただし実際は宗教だけでなく、各国や地方の豪族の勢力争いなども戦争の要因となった。そもそも「オスマン帝国の進出の目的はイスラームの拡大のため」という教科書的な説明自体、微妙なものだが、詳細は次回に回したい)。

16世紀当時、オスマン帝国がヨーロッパ世界に比べ圧倒していたのは‘ 領土 ’だけではない。
‘ 大砲などの軍事技術 ’の点でも優れており、「イェニチェリ」と呼ばれる精鋭の歩兵部隊や、「半月刀」と呼ばれる切れ味鋭い刀はヨーロッパ人から恐れられた。

一方、ヨーロッパ世界は「未開の」中世から夜明けのルネサンス時代を迎えてようやく発展しようか、という段階であった。神聖ローマ帝国内部でも、ルターが起こした‘宗教改革’によって帝国の宗派分裂(カトリックとプロテスタントに分かれる)などが問題になっていた。
当時、神聖ローマ帝国の首都だったウィーンは、オスマン帝国の国境のすぐ近くに位置していた。今でこそ平穏な芸術の都として知られているが、この当時ウィーンは対オスマン帝国の「最前線」に位置していた。

このウィーンを、神聖ローマ帝国と戦争状態であったオスマン帝国は、1529年、大軍を率いて包囲した。これが世に言う「第1次ウィーン包囲」である。この時は2カ月間の籠城戦の末、兵糧(食糧)が尽いたオスマン軍が撤退し、辛くもウィーンは落城を免れた。油断はならないとオーストリア側はその後、国境地帯の軍備を強化し、オスマン帝国とにらみ合い続けた。しかしオスマン帝国の巨大な軍事力の前には手が出せない状態で、オーストリアの隣国ハンガリーやバルカン半島、地中海の大半もオスマン帝国支配下のままだった。



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第1次ウィーン包囲の時の絵画。手前が包囲するオスマン軍。奥がウィーン。


その後100年の時は流れ、内部の三十年戦争で疲弊した神聖ローマ帝国に、1683年、再びオスマン帝国軍が攻勢をかけ、ウィーンが包囲された。これが「第2次ウィーン包囲」である。しかしこの時もまた、落城寸前のウィーンの元にポーランド国王のヤン・ソビエツキを中心とする救援軍がかけつけ、オスマン軍を打ち破った。こうしてウィーンは再び救われたのである。――ちなみに、この時逃走したオスマン兵の陣地から「黒い豆」の入った袋が発見された。これがウィーンにコーヒーが伝わった由来である。又この時ウィーンの解放を祝って半月刀を模して焼かれたパンが「クロワッサン」の始まりとされるが現在では否定されているらしい。――話がそれたが、巻き返しをはかるヨーロッパ連合軍はさらに余勢を駆って今度は、オスマン帝国領内に攻め込んだ。これによってそれまでオスマン帝国の支配下にあったハンガリーなどが解放され、ヨーロッパ勢力下に戻った。終に、戦争は1699年のカルロヴィッツ条約の締結で幕を閉じた。敗北を喫したオスマン帝国ではあったが、それでも依然として大国の地位は守り続けた。ヨーロッパ勢力にとってもこの戦いが厳しいものであることに変わりはなかった。しかしオスマン帝国の衰退の影もまた徐々に見え始めていた。



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第2次ウィーン包囲の絵画。救援軍とオスマン軍との乱戦を描いている。



しかしここで疑問が生じる。1529年当時は力でヨーロッパを圧倒していたオスマン帝国が何故、1683年には敗北を喫するようになったのか。その秘密はこの間の17世紀にある。高校世界史の記述だと、転機となったのが1571年の「レパントの海戦」と呼ばれる、ヨーロッパ諸国の連合艦隊がオスマン海軍を破った戦いであるとされている。しかし実際はその後もオスマン帝国の優位は続いていた。しかし、これ以降はキリスト教勢力とオスマン帝国との間では、目立った大戦争が1680年代までほとんどなくなるのである。戦争はむしろヨーロッパ間で続発するようになっていく。その中でもとりわけ大きかったのが「三十年戦争」と呼ばれるドイツが戦場となった大規模な戦争である。(これはもとはカトリック・プロテスタント間の宗教対立に、皇帝と諸侯の勢力争いや、神聖ローマ帝国と隣国のフランス・スウェーデン・デンマーク間の対立も重なった複雑なものであった為に30年と長期化し、結果当時のドイツ人人口の3分の1が失われたと言われている。)
この様な状況のもと、ヨーロッパの各国や帝国の諸邦は生き残りをかけ、‘ 軍事技術の発展 ’にいそしむようになっていく。それを示す面白い話がある。




グレン・グールド演奏による「トルコ行進曲」(モーツァルト作曲)


皆さんは中学生時代「南蛮人の鉄砲伝来」という話を日本史で聞いたことがあるだろう。鉄砲という先端技術を教える西欧人とそれを必死で習おうとする日本人という構図は、しかし厳密には間違いである。実はその当時は、西欧人も銃をきちんと使いこなせていなかったのだ。その証拠が織田信長が長篠の戦いで取った戦法である。これは当時の火縄銃が一発づつしか打てないため、信長が鉄砲隊を3列に並ばせて順繰りに打たせることで連続射撃を可能にした、というものだ。実はこの「三段打ち戦法」に似たものがヨーロッパでも取り入れられるのは1594年(長篠の戦いは1575年)で、広く普及するのは三十年戦争中の1630年代になってからなのだ。つまりは信長のアイディアの鉄砲の使用においては、当時の日本の方がヨーロッパ諸国より進んでいた(!)のである(ただし、信長の「三段打ち戦法」はそもそも存在しなかった、という説も最近有力になっている)。もちろん日本に限らず、中国やオスマン帝国も軍事技術はヨーロッパより抜きんでていた。
しかし問題は日本にしても、中国やオスマン帝国にしても、16C後半~17Cになると大規模な戦争が無くなり、必然的に軍事技術の向上が図られなくなったという点なのである。日本では豊臣秀吉によって天下統一が成し遂げられ、「刀狩り」というかたちで武器が農民層を中心に「放棄」される事となる。中国は清朝の支配のもと安定が続いた。そしてオスマン帝国もまた大戦争に巻き込まれることは少なくなった。対してヨーロッパだけが前述の通り、依然として諸国間の戦乱の真最中であった。こうして遂には軍事技術の発達に伴い、ヨーロッパ諸国はオスマン帝国を火力を中心とする軍事力の面では追いつき始めたのだ(両者の差が軍事力全般で明瞭になったのは産業革命等の起きた18世紀以降である)。



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織田信長(1534~1582)。三段打ち戦法の存在は疑問視されてきているが、当時鉄砲を戦場で一度に大量に使用したことは事実のようだ。


イギリスの軍事学者によると1683年当時、オスマン帝国軍に欠けていたものとして、①大砲の数(オスマン帝国軍は砲を大きくすることしか考えていなった)、②攻囲陣営の要塞化(当時の戦争は野戦より要塞の攻囲戦が多かった)、③大砲の製造の際の冶金術(様々な材料を配合して丈夫な金属を作ること。この技術が拙かったためオスマンの大砲はもろかった)、をあげている。つまりオスマン帝国がヨーロッパ諸国に敗れたのには戦術的理由だけでなく、技術的理由もあったのである。
戦争は‘ 軍事技術の発達 ’を促進しただけではない。ある政治社会学者の説によると、大規模な戦争を準備する際に必要な資金の調達(この当時はほとんどの国が傭兵制度だった)のため、‘ 徴税制度の発達 ’等、中央集権的な国家の成立が進み、いわゆる「近代国家」の萌芽が生まれたという。
第2次ウィーン包囲後、紆余曲折がありながらもヨーロッパ諸国が近代化の道を進むのに対し、オスマン帝国や他のアジア世界が没落や植民地化の道をたどっていくのを踏まえると、ヨーロッパ世界と非ヨーロッパ世界の後の歴史の分岐点の少なくとも一つがこの17世紀だったといえる。

モーツァルトやベートーヴェンが「トルコ行進曲」を作曲したのは、第2次ウィーン包囲のさらに約100年後の事である。その当時、もはやオスマン帝国はヨーロッパにとって脅威ではなかった。巷では「トルコ趣味」と呼ばれる一種の異国ブームに人々は沸いていた(これと同時期に「シノワズリ」と呼ばれる中国ブームもあった)。そのような中で「トルコ行進曲」も純粋な音楽作品として人々に楽しまれたのだろう。だがそれでも2回の包囲を経験したウィーンの市民にとって「トルコの軍楽隊」は他の風物とは異なった特別な意味があったのかもしれない。

だがここに一つの疑問が残っている。オスマン帝国が2回に渡ってウィーンを包囲した真の理由は何なのか、というものである。果たして本当に「イスラーム教の拡大」のためであったのだろうか。オスマン帝国の本質とも実は関わりのあるこの問題を次回考えてみよう。
~ 次回に続く



 「トルコ行進曲」と二つの帝国(2)―オスマン帝国はどんな国?

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17世紀のヨーロッパ世界の変動を政治や軍事や社会等多面的視点から概説している。


写真一部wikipediaから転載

(門前ノ小僧)




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トルコの代表的な軍楽「ジェッディン・デデン」



モーツァルトやベートーヴェンが「トルコ行進曲」を作曲して半世紀ほど経った頃の話である。
1878年、当時ドイツを統一したばかりの帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクはベルリンでオスマン帝国と隣国のロシア帝国が争った戦争(露土戦争)を仲裁するべく和平会議を開催していた。彼はそこでオスマン帝国側から派遣された二人の使節に会ったのだが、その姿を一目見るや、大いに彼は驚いた。ビスマルクは、トルコ人の支配する国から来た使節は当然アジア系のトルコ人に決まっていると思い込んでいた。しかし実際彼の前に現れたのは、一人はキリスト教の一派である「ギリシア正教徒」であり、もう一人はフランス人とドイツ人の混血であり、れっきとした「白人」だったのである。しかも後者は何とビスマルクの所領に程近いドイツのマグデブルクで生まれだという。飛行機で気軽に行き来できる訳でもない当時、自国からはるか遠く、しかも宗教も民族も全く異なるはずの国から来た使節が、自分の地元近くの出身だったとはビスマルクではなくても誰もが驚いただろう。



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オスマン帝国の最大版図。バルカン半島全域、アラビアやエジプト、北アフリカを含む広大なものであった。



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近代化の最中のオスマン帝国の「国歌」。
作曲者はイタリアのベルガモに生れて同地で没したオペラ作曲家として有名な
イタリアのガエターノ・ドニゼッティ( 1797年- 1848年。)の兄のジュゼッペ。 
時のスルタン、アブデュル・メジドから作曲を依頼された。
(『オスマンVS.ヨーロッパ』 新井 政美 (著) より)



以上のエピソードは中東史研究者の山内昌之氏の著書から拝借したものである。山内氏がこの話から強調するのは「オスマン帝国=トルコ人の中心の国」という考えの誤りである。当時 ‘ 様々な民族が居住していた ’ オスマン帝国では、トルコ人ではなくても政府の官僚になる道が開かれていた。特に外交官の場合、任地と同じ国の生まれの人間が派遣されることが多かった。ビスマルクを驚かせた使節もそうした事情が背景にあったと思われる。また世界史の教科書でも出てくるスルタン――イスラーム世界における王――の直属の近衛兵、「イェニチェリ」軍団に関しては、もともとバルカン半島等のキリスト教徒をイスラム教に改宗させたものから成っていたが、彼らはしばしばスルタンの後継者争いにも加わる程の力を持っていたという。とは言え、オスマン帝国の支配層は、トルコ人のみではないにしても、やはりイスラム教徒中心だろう、と思うむきもあろう。とりわけ前回扱った2回のウィーン包囲は、キリスト教徒の都ウィーンを征服しようとするイスラーム教側のオスマン帝国の野心だと考えられなくもない。これは全く間違いとはいえない。しかし、そうだからといって‘ オスマン帝国 ’は例えば、現在世界をもっとも騒がせている‘ 中東の「イスラム国」 ’と同等の国と捉えてもよいのだろうか。


ここでもう一つ面白いエピソードがある。オスマン史研究者の新井政美氏によると第1回ウィーン包囲を行ったオスマン帝国のスルタン、スレイマン大帝(1520-1566)はトルコ人なのだが、一見するとかなり奇妙なものをかぶっていた。イスラーム教徒というとかぶるものは布を巻いたターバンという固定観念が私たちの中であるかもしれないが、スレイマン大帝がかぶっていたのは「黄金の四重冠」なるものだった。これはカトリック教会の長であるローマ法王の冠「三重冠」を意識して、それにさらに一重加えた豪華な西洋風の冠である。だが何故イスラーム教徒のスルタンの頭にこのようなものが冠せられていたか。それはウィーン包囲前にウィーンを支配するハプスブルク家のカールが、神聖ローマ帝国皇帝として教皇から戴冠されたことが背景にあるらしい。スレイマンはこれに立腹したのだ。「皇帝」とは本来世界でただ一人しかいない、イスラームを越えた「王の中の王」である。それを世界一の軍事力と版図を持つ自分を差し置いて、ローマ教皇が自分の国もろくにまとめられないカール(当時彼の治める神聖ローマ帝国は分裂に近い状態)に皇帝の冠を授けるとは!とスレイマンが言ったかどうかはともかく、カールを打つべくスレイマンはウィーンに大軍を派遣したのではないか、と新井氏は推測する。スレイマンは実際他にも、周りに自らのことを、先のローマになぞって「皇帝(カエサル)」と呼ばせ、ハンガリーに遠征する途中では、ベオグラードに古代ローマ風の凱旋門を建てた。つまり彼にはかつて地中海を支配していた古代ローマの皇帝の後継者という自負が明確にあったのである。古代ローマ帝国を継ぐものが何も西欧人である必要はない。何しろローマ帝国は世界をまたにかける大帝国だったのだから、現在のオスマンこそ相応しい…スレイマンはそう思ったのだろう。



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スレイマン大帝の一般的に流布している肖像画



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「黄金の四重冠」をかぶったスレイマン大帝



オスマン帝国側にはムスリム(イスラム教徒)だけでなくキリスト教徒の武将もいた。現代のコソヴォ紛争の際にしばしば話題になるものとして「コソヴォの戦い」(1389年)というものがある。この戦いは当時、キリスト教徒側のセルビア王国がオスマン帝国に大敗を喫した戦いとして、セルビア人に長く屈辱的な出来事として記憶されてきたといわれている。だからムスリム(イスラム教徒)の多いコソヴォの独立を、現代に至ってもセルビアはなかなか認めないのだと。しかし実際には、オスマン側にはセルビア王に敵対するキリスト教諸公なども参戦していた。つまりこの戦いは単なる宗教戦争とは言えないのである。新井氏が強調するように、バルカン半島のキリスト教徒の王や貴族というのは、自らの生き残りをかけて、ある時はオスマン側に、又ある時は、キリスト教徒側にと状況次第で寝返っていたのだ。このことからも、当時オスマン帝国のヨーロッパ進出が単なる「イスラーム教 対 キリスト教」の二分構図では理解できないことが分かる。(後には、神聖ローマ帝国皇帝カール5世に対立していたフランスのフランソワ1世もオスマン帝国に近づいた)




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片山杜秀氏のFMラジオ番組「クラシックの迷宮」で紹介されていた
「交響幻想曲”ボスポラス海峡”より”メジディエの大行進曲”」(アーデルブルク作曲)



当時は、オスマン帝国は国内においては様々な宗教勢力に対して寛容でもあった世界史の教科書でもよく取り上げられる宗教集団ごとに自治を認めた「ミッレト」制を敷き、ミッレト内部の政治や信仰に介入することはほとんどなかった。「税金や(物資の)生産に関わることは厳格に管理されたが、法律のような他の領域にはほとんど関わらず指示は散発的にしかなかった」(マーク・マゾーア Salonica:City of Ghostsより)というわけである。もちろん、ムスリム(イスラム教徒)がオスマン帝国の政治の実権を持っていたことは間違いなく、ムスリムである方が当時社会的にも優位であったのは確かであるが、だからとて他宗教を排除することを意味してはいなかった。つまり本来他宗教に排他的に対応すると思われがちな一神教のイスラーム教徒の国家であるオスマン帝国の実態は、かなりゆるやかな、「やわらかい専制」と呼ばれるものであったのだ。


では巷に広まる「イスラーム教 対 キリスト教」という構図は、何が原因で広まったのか。ここでスレイマン大帝のライヴァルであったハプスブルク家の当主であり、神聖ローマ皇帝カール5世(1500-1558)について考えてみよう。彼はドイツの皇帝のみならず、当時スペイン王位を兼ねていた。当時のスペインは中南米大陸で原住民を殺戮・奴隷とする中で、自らの植民地を拡大し続けていた。この植民地からは莫大な税金が上がっていたのだが、これはほとんど戦争に使われていたという。当時のヨーロッパの兵士は傭兵であり、戦争には莫大な資金が必要だったのだ。戦争にはもちろんオスマン帝国に抗するものも含まれていた。しかしオスマン帝国の力は強大であり、とてもカールだけでは太刀打ちできない。そこで彼はオスマンの拡大を「イスラームの拡大」として恐れるローマ教皇や自らの交易圏が脅かされることを嫌うヴェネツィア等と一緒になって「神聖同盟」と呼ばれるキリスト教連合軍を組織し1538年にプレヴェザでオスマン帝国と海戦を行うことになる。結果はキリスト教側の敗北に終わったが、カール5世の遺志は息子のスペイン王フェリペ2世(1527-1598)に受け継がれる。フェリペは父親以上に「キリスト教勢力の盟主」という意識を持っており、再びキリスト教連合軍を組織すると1571年にレパントの海戦で、ついにオスマンに対する「キリスト教側」の勝利をもたらすことになった。
ただしヨーロッパ諸国が軍事面でオスマンと互角になるには、その後の火器を中心とする軍事革命を経なくてはならないことは前回にも述べた。



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キリスト教連合軍の盟主を任じたスペイン王フェリペ2世。
仕事熱心かつ謹厳実直だった。



さてフェリペ王のおひざ元のスペインと言えば、当時厳格なカトリック教会の教義が守られていることで知られていた。といえば体裁が良いが、実際には他宗教・他宗派に対する過酷な弾圧がおこなわれていたのである。スペインは8世紀頃にイスラーム勢力が北アフリカから到来し、当時イベリア半島を支配していた西ゴート王国を滅ぼして、半世紀以上に渡りこの地を統治していた。これに対し北部のキリスト教勢力が 「 レコンキスタ(国土回復運動)」 と称してイスラーム勢力と戦闘を続けていた。そして長い経過の末、1492年、コロンブスがアメリカに到達したその年に、スペインはイスラーム勢力最後の拠点グレナダを陥落させた。
この時に、スペイン政府はキリスト教を唯一の教えとして他宗徒に強制する政策を行ったのである。全国に異端審問所が開設され、異教徒は改宗か死を迫られた。とりわけ被害を受けたのは「セファルディ」と呼ばれるスペインに住むユダヤ人であった。彼らは1492年に改宗を拒否したものは追放するという勅書が公布されたために、スペインを離れざるを得なかった。
地中海に四散し、身寄りもいない彼らを受け入れたのは他ならぬオスマン帝国であった。彼らはオスマン帝国内部で貿易商や徴税請負人などに就き豊かな暮らしを享受できた。また先程述べたように、オスマン帝国の寛容な宗教政策のためにユダヤ教も保護された。それも単に保護されるだけではなく、ユダヤ教の中でも神秘主義的な宗教運動が新たにオスマン帝国内で広まりを見せるほどであった。下図のシャブタイ・ツヴィ(1626 - 1676)に至ってはユダヤ教の代表的な「預言者」として、そうとう熱狂的な人気を得ていたため、人心の混乱を懸念したオスマン当局が彼を拘束すると、彼はあっさりイスラム教に改宗してしまった。
一方で、スペインに残ったユダヤ人といえば、キリスト教に改宗したものの「マラーノ(豚)」と呼ばれて、相変わらず差別の対象であった。
このように考えると、当時の16世紀に於いては、むしろキリスト教側のスペインの方が宗教的にはオスマン帝国よりも非寛容的であったことがわかる。そしてフェリペ二世らの掲げる「キリスト教連合軍」という旗印が、彼らとオスマン帝国との長年の確執を「イスラーム教 対 キリスト教」の宗教上の対立であると後世の人々が「誤解」する種にもなったといえる。



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オスマン帝国で神秘主義的なユダヤ教を説いたシャブタイ・ツヴィ。
彼がイスラームに改宗した後も彼の人気は根強く残ったという。



その後ヨーロッパ諸国では、16~7世紀の軍事革命から始まり、19世紀の市民革命、産業革命を通じ国力をみるみる増していき、様々な紆余曲折がありつつも、宗教を政治から除外する「世俗化」の道を歩み始める。
一方そうした近代化に追いつこうとオスマン帝国もまた様々な改革を進めたのだが、その過程で、様々な要素がオスマン帝国の足かせとなり近代化の阻むことになる。その内の一つがこの国の「多民族性」であった。近代的な議会や民主制度には不可欠な「政治的平等」をめぐり、それまでの中心的地位にあった‘ ムスリム‘ と、従属的な地位にあった‘ 非ムスリム ‘ の間で激しい対立が起き始めたのである。非ムスリムはその結果次第に自らを帝国の一員と考えるより、全く別個の「民族」であるという自覚を深めていった。それとともに過去の歴史はムスリムの一方的な支配というものとして記憶されていく。ムスリムの方も自らのアイデンティティを「トルコ人」や「アラブ人」として定義するようになった。こうして帝国は徐々に分裂していくのである。



ではその分裂した後の帝国はどうなっていっただろうか。
考えてみるとかつてオスマン帝国が支配していた地域、すなわちバルカン半島と中東地域に、現在、他宗教・他宗派に対する弾圧や殺戮が横行し――かつてのヨーロッパで行われたような――いずれも深刻な政治的・民族的紛争や宗教対立の舞台になっている事が分かる。前者は90年代のユーゴ紛争、そして後者はパレスチナ紛争はもとより、現在はシリア内戦やイスラーム原理主義をかかげるいわゆる「イスラム国」との戦争である。こうした混乱も、オスマンの緩やかな統治が失われたことの代償なのだろうか…。この問題については、今後もまだまだ考えるべき課題が多く残されている。





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