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2015.08.18 (Tue)

「怖い音楽」連想ゲーム~怒りの日

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 引き続きクラシック万歳!!


嘗ての日本では、「怖い話」――怪談噺を聴き涼をとる、というのが、夏の夜の風情ある過ごし方であったが、「怖い音楽」となると人はどんな曲を連想するのだろうか。特にクラシック音楽の世界では…
  
丑三つ時(?)、死神がヴァイオリンを弾き、骸骨が現れ、うごめき自由奔放に踊り回る音楽は、サンサーンスの有名な交響詩「死の舞踏」だ。 この曲では、死神役の独奏ヴァイオリンは態々‘ 調弦 ’を変えて演奏されるのだが、同様の効果はマーラーの交響曲第4番の第2楽章などでも見られる。                    



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。
                      

                  

サンサーンス作曲 交響詩「死の舞踏」

深夜零時を告げるハープの音。続いていきなりヴァイオリンの不協和音が悲鳴の如く闇夜を突き破るかの様に響きわたり、不気味な雰囲気が醸し出される。骸骨が踊り回る音楽であるために、三拍子のワルツとなっているが、ヴァイオリンに続く、フルート・弦楽合奏が受け取るその主題は、中世のセクエンツィア「怒りの日」に基づく主題であり、これは‘ 死 ’を表すものとされていると言う。
                     



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19世紀フランスの画家べックリンの「ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像」
西洋では、中世以来、ヴァイオリンは‘ 死神 ’と結び付けられていたそうである。縁起でもないとお怒りになるかも知れないが――揺らめく音色の妖しげなところは、ヴァイオリンの醸し出すもう一つの魅力と言えよう。 



この「怒りの日」の主題はもっと直截的な形では、ベルリオーズの「幻想交響曲」第五楽章でのチューバが奏でる主題にも聴くことができる。
ここでは、現代のチューバではなく、当時のセルパン(古楽器。マウスピースコルネット族の低音・金管楽器である。蛇の様にくねった形に曲げられた長い円錐形をしており、これが名前の由来である)を使った演奏を聴いてみよう。




ベルリオーズ作曲 「幻想交響曲」第五楽章。 「魔女の夜宴」の音楽であり、最後はむしろ騒々しいグロテスクな踊りの音楽となって終わる。
見慣れぬ管楽器セルパンの蛇にも似た姿は悪魔を思わせるものとして有名である。(悪名高い?)




因みに「死の舞踏」とは、ヨーロッパ中世、疫病(ペスト)や戦争による死の恐怖から、人々が倒れるまで踊り狂ったという集団ヒステリーのことであり、多くの絵画の主題となった。
同じ主題に基づくリストの「死の舞踏」の方もなかなかの怖ろしさである。



リスト作曲 死の舞踏
冒頭から怒りの日の主題が出てくる。



さて、これらの曲の基となった「怒りの日」とは、一体、何であろうか?世界が破滅する終末(ハルマゲドン)において、「キリストが過去を含めた全ての人間を地上に復活させ、その生前の行いを審判し、神の主催する天国に住まわせ永遠の命を授ける者と、地獄で永劫の責め苦を加えられる者に選別する・・・日」(wikipedia)、いわゆる 『 最後の審判 』 の事である(ミエランジェロの有名な名画が描くあの日である)。



世界の破滅、死者の復活、神による裁き、永遠に続く地獄での苦しみ…今度はヴェルディの「レクイエム」から、「怒りの日」を聴いてみよう。
                    


ヴェルディ作曲 「レクイエム」
このヴェルディの曲は、中世のセクエンツィアに基づくものではなく、この恐ろしい世界の終末を自由に描写したものである。

                     

さてこれらの源流にある、中世のセクエンツィア「怒りの日」は、さぞかし怖い音楽か?というと次の様なものである。
歌詞(ラテン語)とその訳を掲げておく。(ウィキペディアに基づく)



                   
  
Dies ira, dies illa    怒りの日、その日は
solvet saclum in favilla: ダビデとシビラの預言のとおり
teste David cum Sibylla 世界が灰燼に帰す日です。  
Quantus tremor est futurus,審判者があらわれて  
quando judex est venturus, すべてが厳しく裁かれるとき 
cuncta stricte discussurus. その恐ろしさはどれほどでしょうか。

Tuba mirum spargens sonum 奇しきラッパの響きが
per sepulchra regionum, 各地の墓から
coget omnes ante thronum. すべての者を玉座の前に集めるでしょう。
Mors stupebit et natura, つくられた者が
um resurget creatura, 裁く者に弁明するためによみがえる時
judicanti responsura 死も自然も驚くでしょう。
Liber scriptus proferetur, 書物がさしだされるでしょう。
in quo totum continetur, すべてが書きしるされた
unde mundus judicetur. この世裁く書物が。
Judex ergo cum sedebit, そして審判者がその座に着く時
quidquid latet, apparebit: 隠されていたことがすべて明らかにされ、
Quid sum miser tunc dicturus? その時哀れな私は何を言えば良いのでしょう?
Quem patronum rogaturus? 誰に弁護を頼めば良いのでしょう?
Cum vix justus sit securus. 正しい人ですら不安に思うその時に。

Rex tremenda majestatis, 救われるべき者を無償で救われる
qui salvandos salvas gratis, 恐るべき御稜威の王よ、
salva me, fons pietatis. 慈悲の泉よ、私をお救いください。

Recordare Jesu pie, 思い出してください、慈悲深きイエスよ
quod sum causa tua via: あなたの来臨は私たちのためであるということを
ne me perdas illa die. その日に私を滅ぼさないでください。
Quarens me, sedisti lassus 私を探してあなたは疲れ、腰をおろされた
Redemisti crucem passus 十字架を堪え忍び、救いをもたらされた
Tantus labor non sit cassus. これほどの苦しみが無駄になりませんように。
Juste judex ultionis, 裁きをもたらす正しき審判者よ
donum fac remissionis, 裁きの日の前に
ante diem rationis. ゆるしの恩寵をお与えください。
Ingemisco, tamquam reus: 私は罪人のように嘆き
culpa rubet vultus meus: 罪を恥じて顔を赤らめま
supplicanti parce Deus. 神よ、許しを請う者に慈悲をお与えください。
Qui Mariam absolvisti, (マグダラの)マリアを許し
et latronem exaudisti, 盗賊の願いをもお聞き入れになった主は(ルカ23:39-43)
mihi quoque spem dedisti, 私にも希望を与えられました。
Preces mea non sunt digna: 私の祈りは価値のないものですが、
Sed tu bonus fac benigne, 優しく寛大にしてください
Ne perenni cremer igne. 私が永遠の炎に焼かれないように。
Inter oves locum prasta, 私に羊の群れの中に席を与え
et ab hadis me sequestra, 牡山羊から遠ざけ
statuens in parte dextra. あなたの右側においてください。(マタイ25:31-34)

Confutatis maledictis, 呪われた者たちが退けられ、
flammis acribus addictis, 激しい炎に飲みこまれる時、
voca me cum benedictis. 祝福された者たちとともに私をお呼びください。
Oro supplex et acclinis, 私は灰のように砕かれた心で、
cor contritum quasi cinis: ひざまずき、ひれ伏して懇願します。
gere curam mei finis. 終末の時をおはからいください。

Lacrimosa dies illa, 涙の日、その日は
qua resurget ex favilla 罪ある者が裁きを受けるため
judicandus homo reus: 灰の中からよみがえる日です。
Huic ergo parce Deus. 神よ、この者をお許しください。
pie Jesu Domine, 慈悲深き主、イエスよ
Dona eis requiem. Amen. 彼らに安息をお与えください。アーメン。



グレゴリオ聖歌の時代の音楽だけあって、おだやかな静けさに溢れた曲であるとも聞こえるが、歌詞を見ると、世界が破滅し、墓から屍が甦り、生前隠しおおせた筈の罪を神が暴きそれを永遠の炎で罰するという、恐ろしい終末の最後の審判の場面が歌われているわけである。
レクイエムとはこの最後にも出てくるrequiem「安息を」という言葉に由来するが、正式にはカトリック教会での「死者のためのミサ曲」と呼ぶそうである。このセクエンツィアだけではなく、キリエ、アニュス・デイ等を含む一連の曲が歌われる。(通常のミサとは異なり、グローリアやクレドは歌われない) レクイエムという呼称は入祭唱(Introitus)にあるRequiem æternam dona eis, Domine(主よ、永遠の安息を彼らに与えたまえ)による。
                  


グレゴリオ聖歌が出た所で、我々が良く耳にする最も人気のあるモーツァルトのレクイエムをここで聴いてみよう。
下記の内藤氏が著作で紹介している、ホグウッドの演奏である。
                   

アーメン・コーラスだが、あれ?と思う人も多いだろう。下を参照してほしい。




クラシック音楽 未来のための演奏論

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「怖い音楽」から少々話がそれるかもしれないが、この本で、指揮者の内籐彰氏がこの曲に関係して、「レクイエム」を「鎮魂歌」と訳すことに異議を唱え次のように語っているが、以上のことを踏まえれば、もっともだと頷ける。

「レクイエム」の歌詞は・・・「魂を鎮める」どころか逆に「騒魂」といったほうがふさわしいと思えるような、凄まじい言葉が続きます。(上のセクエンツィアの歌詞のこと、引用者註)・・・ひたすら恐れおののきつつ、曲の半分以上を使って必死に赦しを願い、気も狂わんばかりに涙し、後悔して、叫んでいるのです。・・・当時のカトリック教徒にとってみれば、自分たちがいずれ厳しく裁かれることになる「最後の審判」が、心底恐ろしかったはずです。その恐怖心から、「何とか助けてほしい」と訴え、最後には「自分だけでも天国へ」と神に対し逆効果になるかもしれない本心まで丸出しにしています。
                             
魂を鎮める我々の文化との甚だしい隔たりを感じて、このように強い口調になっていると思われる節もあるが、この氏の言葉には全く同感できる。


内藤氏の本には、アーメン・コーラスのフーガの発見とその意義が興味深く説明されており、詳しくはそちらを参照して戴きたいが、かいつまんで言うと、作曲者の死により未完に終わったレクイエムにおいて、自筆の部分は「涙の日」の途中までとされていたが、それに続くアーメンコーラスの最初の16小節の草稿が新たに1961年に発見された。この16小節のスケッチはフーガを展開させるには十分であり、音楽学者モーンダーがそれを完成させ、また、モーツァルトの弟子ジュースマイヤーの補筆を多く訂正して出来たモーンダー版で演奏したのが、このホグウッドの演奏である。
このアーメンコーラスを含む版としては、モーツァルト作品の演奏者として名高いアメリカのハンマークラーヴィア奏者レヴィン(Robert Levin)によるものもある。



このレヴィン版による「涙の日」と「アーメンコーラス」を素人と半玄人による演奏で聴いてみよう。
                    


演奏 レバノン交響楽団 合唱はベイルート・アメリカン大学の合唱団 
(同大学ホール 2012年) 

弦楽器の音程が怪しかったり、管楽器の外れた音も聞こえたりするが、ベイルート・アメリカン大学での、熱の籠ったこの演奏は色々なことを考えさせる。
今話題の、新国立競技場設計者、ザハ氏はこの大学で数学を学んだ後渡英し、建築を学び、その道に進んだということを今回改めて同大学のことを調べて知ったが、この大学は、アメリカの宣教師が1866年(慶応2年)に設立し、以来アラブ世界全体に多くの政治家、学者を輩出した名門大学である。
レバノン、あるいはベイルートというとどんなイメージを抱くだろうか。ここで年齢が関わってくるが、私に華やかな文化の街というイメージがあるのは、往年の「兼高かおる世界の旅」を観た世代だからだろう。ウィキペディアによるとこの番組ではベイルートを「東洋のパリー(パリ)」と呼んで紹介したそうである。
しかし、宗教、民族の微妙な、つまり危ういバランスの上に成り立っていた繁栄と平和も1975年に始まるレバノン内戦で崩れてしまい、1984年には、学識でも人格でも真に尊敬すべき知識人かつ政治学者であり、当時ベイルート・アメリカン大学の学長であったマルコム・カー(Malcolm Kerr)が、大学の構内でテロリストに射殺されるという事件も起こった。事の次第は、彼の妻の回想録に詳しいが、その大学でこのような演奏会が、近年開かれたということには、感慨深いものがある。
                               


Come With Me from Lebanon: An American Family Odyssey (Contemporary Issues in the Middle East)


Come With Me from Lebanon: An American Family Odyssey (Contemporary Issues in the Middle East)




さらにこんなことも連想される。そもそもセクエンツィア「怒りの日」の歌詞に描かれる「最後の審判」は終末論――現世の破滅、死者の甦り、新たな神による裁き――に基づく。この終末論はある意味で‘ 一神教 ’の必然的な帰結ではないだろうか。
全能の神が正義の神であるならば、不正が横行し、勝利する現世の有様がそのまま許されるはずがない。必ず現世は罰せられ、不正の下で死んだ義しき人には改めて正しい酬いが与えられねばならない。そうなってこそ、全能で正義の神が存在する甲斐もあろうという次第である。
この理解が正しいかどうかは別として、終末論は、ユダヤ教(「エゼキエル書」「ダニエル書」)、キリスト教(数々の黙示文学、特に「ヨハネ黙示録」)だけではなく、実はイスラム教もそれを受け継いだのである。特に1990年代以降終末論はアラブ世界に流行し、現在のISを生み出す背景の一つとなったのだと云う。
                               
                               


イスラーム国の衝撃 (文春新書)

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現在最も注目すべき気鋭の学者 池内恵氏による



確かに終末論は、文字通り受け取るならば、ある意味暴力的である。更に、D.H.ロレンスは、終末論の底にある歪んだ優越感と劣等感を憎み、その生涯の最後の著作「黙示録論」を著した。確かに、世界の破滅―ハルマゲドンーを自ら惹き起そうとしたオウム真理教や現在のISを見ると、単に外面的な暴力だけではなく、精神の歪みを感じさせる。

生の形の終末論は西洋の歴史の中では主流の中ではなく、実は周辺的にしか登場しない。(例えば紀元千年に終末を予想、期待する千年王国や、ノストラダムスの予言など。)
しかし、例えば「ヨハネ黙示録」を聖書から外すなどということは決してしなかった。そして、実際20世紀ドイツの神学者ブルトマンは、‘ 終末論 ’を「非神話化」し、つまり、現実に目前に起こる世界の破滅を説くものと解するのではなく、それを内面化し、人間の行う決断に関して厳しくその倫理を問うものとして終末論を解することになった――この私のブルトマン解釈が正しいかどうかはともかく、何かしらの形で終末論を内面化して変形しなければ文明として成熟することは出来ないだろう。

池内氏のブログにもあったが、聖書の言葉をそのまま受け容れることを「原理主義的」と言うならば、アメリカのキリスト教原理主義者や現在のイスラム教原理主義者だけではなく、「万人司祭」を唱え、全ての人間が直接聖典を読めるように現地語訳を促したルターもまた「原理主義者」の一人と言える。ルターが聖書に戻れと主張し、それが三十年戦争の惨禍を齎したのと同様に、現在クルアーン(コーラン)に戻れと唱える「イスラム原理主義者」も簡単に収まることない戦禍を引き続き世界に齎すだろう。



「怖い音楽」というテーマで始めた連想ゲームのつもりが、とんでもない所まで行き着いてしまったが、最後に、ドイツに起こった長く悲惨な三十年戦争時に書かれたシュッツの有名な「音楽による葬送」で締め括ろう。惨禍の中で、この曲は作曲されたが、ルター派の敬虔な信者であったシュッツは、カトリックの死者のためのミサ曲とは異なる形式の、この葬送の音楽( ドイツレクイエムと後世呼ばれる )を作曲した。ここでは終末論は姿を潜め、しかし、死の悲しみを歌いつつも、義しき者を必ず救う神への深い信頼が歌われる。
長い戦禍の中でもこのような曲が作曲され、演奏され、後世にそれが遺され伝えられ続けるという所に、人間の不思議さが存在すると思う。
                  



(ネモローサ)  



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