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2009.12.01 (Tue)

ハンブルクの二つの赤煉瓦街 ―シュパイヒャーシュタットとバリーンシュタット―

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 引き続きクラシック万歳!!




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



Telemann - Hamburger Admiralitätsmusik


門前小僧は留学でハンブルクにいる都合で、いつもの音楽ブログの連載をお休みし、ハンブルクの名所の紹介に代えさせていただきます。






テレマン作曲  水上の音楽より「ハンブルグの潮の満干」( 6分30秒頃 )
演奏 ムジカ・アンティカ・ケルン



はじめに

今年2015年に日本では、「明治日本の産業革命遺産」として長崎市の軍艦島や北九州市の八幡製鉄所が世界遺産に選ばれ、大きな話題になりました。
実はドイツでも、今年ある産業遺産が世界遺産に登録されました。それが今回ご紹介する、ドイツ国内で最大の港湾を持つ都市、ハンブルクにあるシュパイヒャーシュタットSpeicher--stadt(「倉庫街」という意味)です。下の写真のでもご覧の通り、横浜の赤レンガ倉庫を思わせる景観です。



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Speicherstadt



ハンブルクにはまた、シュパイヒャーシュタットほど知名度はありませんが、もう一つの赤煉瓦街があります。それがバリーンシュタットBallinstadt(「バリ―ンの街」という意味)。
今回は、同じ赤煉瓦造りでも用途はそれぞれ異なるこの二つの産業・近代化遺産を通して、近代と現代のハンブルクを見直してみたいと思います。


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Ballinstadt



1.シュパイヒャーシュタットとは
シュパイヒャーシュタットは1885年から1913年にかけてハンブルク港湾の一角に築かれた、一連の倉庫群のことです。敷地面積は26ヘクタール、東西1キロメートル以上に渡って倉庫が続いています。 
倉庫やそれをつなぐ橋梁の設計を手掛けたのは建築家フランツ・アンドレアス・マイアーです。彼は設計に際し、当時流行していたネオ・ゴシック様式を取り入れました。そのため、倉庫とは思えない優美な建築になりました。
シュパイヒャーシュタットは第2次世界大戦の空襲で、他の建造物と同様、甚大な被害を受けた後、コンテナの普及など港湾施設の近代化が進む中、倉庫としての機能を失いました。代わりに現在ではオフィスが入居したり、ミニチュア博物館や飲食店等も入る、複合的なアミューズメント・パークに生まれ変わっています。その中で、今なおこの建造物の本来の機能を後世に伝えているのが、施設内の博物館です。


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2.シュパイヒャーシュタット誕生の背景
しかしそもそも何故、このような大規模な倉庫群がハンブルクに必要だったのでしょうか。それは当時のハンブルク市がドイツ帝国政府と結んだある協定と関係があります。
19世紀後半に入りハンブルク――起源としては中世のハンザ都市時代にまでさかのぼる、自治権を有する自由都市――としての地位を失い、統一されたドイツ帝国の一部になりました。その際問題になったのが、ハンブルク港に流入する輸入品の関税でした。ハンブルク市はそれまで、輸入品に関税をかけないことで、外国との貿易を発展させてきました。ドイツ帝国の一部に、ハンブルクがなったことで、ドイツの他都市と同様、輸入品への関税が必要になったのです。
しかしハンブルク市はこれに猛反対、帝国政府との交渉の末、1881年に妥協的な協定が両者の間で結ばれました。
これによって、ハンブルク市は例外的に市内に輸入品が免税となる地区の設置を認められたのです。
ハンブルク市はこの新しい地区を、旧市街のすぐ南側にある、港に面した一角に定めます。すぐ様、既にそこにあった1900戸の住居と24000人の住人を移転させた後、輸入品を保管する倉庫の建設が本格的に始まりました。
1888年には皇帝ヴィルヘルム2世を招いて落成式が行われましたが、その後も工事は1913年まで続きました。

3.シュパイヒャーシュタットの交易品
当時のシュパイヒャーシュタットで取引された商品には国外から輸入されたコーヒー豆や、茶葉、クルミを初め、香辛料やオリエントの絨毯もありました。これらはハンブルクを通してドイツ国内へ流通していきました。博物館には、シュパイヒャーシュタットの歴史の他に、こうした当時の交易品などに関しても展示がされています。 


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交易品に関する展示


4.シュパイヒャーシュタットとハンブルクの発展
こうした活発な交易の背景には何があったのでしょうか。
ここで当時の19世紀は産業革命の勃興によってドイツが経済発展し、対外貿易も活発になった時代であることに注意する必要があると思います。
ハンブルク市は、ドイツの対外貿易の拠点として、シュパイヒャーシュタットの建設以外にも港湾や他都市への鉄道路線の拡張を行い、ハンブルクの船会社も各国への航路を拡充しました。このように近代に始まり、現代まで続くハンブルクの発展の背景にはドイツ国内の経済発展とグローバルな貿易の展開があったことが、シュパイヒャーシュタットの歴史から分かるのではないでしょうか。

5.バリーンシュタットとは
バリーンシュタットとはハンブルク市の南部のフェデルVeddelに位置する、20世紀前半に建設された、移民のための滞在施設を指します。かつては55000㎡の敷地に30以上の建物が立ち並んでいました。ナチス政権期に施設は閉鎖され、道路建設のため多くの建物が破壊されました。2007年にこの地に博物館が建設され、往時を偲ぶことができます。

6.ハンブルクの移民とバリーン
しかし何故このような移民のための宿泊施設がハンブルクに必要だったのでしょうか。
その理由として重要なのは19~20世紀当時、ハンブルクがドイツ国内や東ヨーロッパなどから来た移民がアメリカ等「新大陸」に渡る際の重要な「通過点」であったことです。当時約500万人の移民がハンブルクに流入したと言われています。この移民を新大陸まで送るためにハンブルク港から数多くの旅客船が出港しました。バリーンシュタットを作ったアルバート・バリーンもまた、こうした新大陸への移民事業に携わる企業の責任者でした。


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Albert Ballin


彼の父親はデンマークからハンブルクに移住した移民で、ユダヤ系でもありました。彼は乗船手続きやビザ発給など移民手続きを仲介する企業を興しました。
息子のアルバートはこれを受け継ぎ、当時ハンブルク~アメリカ間の船運業の大手であったHAPAG(Hamburg-Amerikanische-Packet-fahrt-Actien-Gesellschaft )と張り合うまでに会社を成長させると、今度はそのライバルと提携、最終的にはHAPAGの取締役にまで出世しました。彼は皇帝ヴィルヘルム2世とも親交がありました。

7.バリーンシュタットの誕生
バリーンは、ハンブルクに来た移民が乗船手続きをする間、一時的に滞在する施設が必要であると考えました。1892年に初めて彼はその施設を建設し、1901年に現在のフェデルに移転させます。これが現在、バリーンシュタットと呼ばれるものです。 
ここでは移民は無料で住居や食事を提供されるだけでなく、病人に対する治療も行われていました。施設内には教会やシナゴーグなどの宗教施設もありました。バリーンシュタットは移民を保護する施設として、当時では先駆的であったといえます。


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博物館に再現された移民のための病院


8.バリーンシュタットの移民
このバリーンシュタットに到来した移民は様々な背景を持っていました。新大陸に渡る人々は豊かな人々から貧しい人々までおり、博物館に再現された当時の旅客船の客室から、両者の差が分かります。


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二等客室


Hamburg,_BallinStadt_museum_2015f

三等客室


貧しい移民はアメリカに渡っても、多くは「アメリカン・ドリーム」を実現できたわけではなく、依然として厳しい生活を送っていたことも博物館の展示は伝えています。 
また当時東ヨーロッパに数多く暮らしていたユダヤ人も19世紀後半から激化したユダヤ人迫害(「ポグロム」)や貧困から逃れ、新大陸へ渡るために、ハンブルクを訪れました。

9.バリーンシュタットと現代の移民
現在のバリーンシュタットには博物館しかありません。しかしそこを訪れる際に注意してほしいのは、実はその周辺街区に今なお移民が数多く暮らしていることです。現代ではヨーロッパ内だけでなく、中東やアフリカからの難民・移民が多いです。ハンブルク市も現在、深刻化する難民問題の対応に追われています。2014年度ではハンブルク市だけでも12000人以上が難民の登録を行いました。難民・移民をめぐっては国内では様々な議論もあります。このようにバリーンシュタットが今の我々に伝える「移民」というテーマは決して過去のものではなく、現代のハンブルク、そしてドイツの未来を左右する重要なものだといえます。

(門前小僧)


<参考文献>
 Martin Krieger. Geschichte Hamburgs. 2006. München.
 Matthias Gretzschel. Kleine
Hamburger Stadtgeschichte. 2008.
München.
 Die Hamburger Welterbebewebung.
Speicherstadt und
Kontohausviertel mit Chilehaus.
2014. Hamburg.
 http://www.ballinstadt.de/. 2015.09.30.
 http://www.hamburg.de/fluechtling
-daten-fakten/. 2015.09.30.





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