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2016.03.16 (Wed)

㈠ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(ハンブルク編) ㈡ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(ポーランド編) ㈢ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(西ウクライナ・オーストリア・チェコ編)

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 引き続きクラシック万歳!!



ドイツのハンブルクに来たのは丁度一年前の三月。大学で一年間の語学と歴史の勉強を兼ねての留学であった。
ドイツはまだ日中でもコートなしでは要られない寒さで、何日かの晴天を除けば、空は墨を流した様にどんよりとした暗い雲が覆う日が――ハンブルガー・ヴェター(天気)と云われる――続いていた。が、着いた当初の私は、昔から憧れ思い描いていた西欧の街並みや名所にすっかり心を奪われ、ドイツでの新たな生活への期待に胸がふくらんでいた。



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来たばかりのハンブルク



語学の勉強やドイツでの慣れない新生活にあたふたしているうちに5月になった。この月には「港の誕生日」(Hafengeburtstag)と呼ばれる祭りがハンブルクで開かれる。
ハンブルクといえば、まずドイツ最大の港湾を備えている産業都市として知られているが、このお祭りでは、昔ながらの帆船や軍艦など、普段はお目にかかれないような船が次々に来航する。最終日にはそれらの船がパレードを行うと聞いて、私も港へ駆け付けた。
岸辺一体は見物人で埋まるほどの大人数である。普段の悪天候とは打って変わって、雲一つない澄み渡るような快晴の中で、帆船が号砲を打ち鳴らしながら、ゆったりと目の前を航行している。そのような様子を見ていると、帆船が数多く行き来していた18世紀当時のハンブルク港が目に浮かんできた。



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「港の誕生日」祭りで航行している帆船 (動画)



その18世紀当時(1721年)、ハンブルクに移り住んだのが、作曲家のゲオルグ・フィリップ・テ―レマンであった。彼は死ぬまで当地で暮らし、「ハンブルクのさざ波」や「ハンブルク鎮守府の音楽」などハンブルク港にまつわる音楽を作曲している他、ハンブルクの教会やオペラ座のために、カンタータやオペラも作曲した。 
彼の博物館がハンブルクにようやくオープンしたのは2011年。つい最近のことである。



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夏のハンブルク港




こんな私でも人並みにホームシックに近いものがやってきたのは、留学からしばらくしてからである。生活にも普段の授業にも慣れていくと、最初の頃の物珍しさが次第に薄れていく。初めの頃はただの散歩でさえ時間を忘れるくらい楽しいものであったのに、暇な時間を持て余し始めると、遠い異国の地に一人居る事がことさらに意識されてくるのだ。一緒に時間をつぶせる知合いは、未だそれほどいなかった。まして話が合う友人となるとほとんどいなかった。ドイツ語もまだ中途半端で言いたいことも言えない。焦燥感が次第に募っていった…。

しかしそのような中で、心の支えにもなったのは他でもない、クラシック音楽だった。ハンブルクの中心地から電車(バス)で20分位の所に他人とシェアする形の民家を見つけ、住むことが出来たのだが、そこの自分の個室に備え付けのステレオが置かれていたのである。日本でも好きでよく聴いていた、全く同じクラシック音楽がそのステレオから流れてくることで、心に或る種の落ち着きが生まれたように思う。NDR(北ドイツ放送)のラジオが流す音楽専門番組は毎日のように聴いていた。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ヤコビ教会のオルガンを弾くオルガニスト、ルドルフ・ケルバー(引退直前の彼の演奏を聴くことができた)



ハンブルクで最初に行ったコンサートはオルガンのものだった。何故オルガンかといえば、ドイツのオーケストラやオペラなら、日本でもしばしば来日公演が行われるが、オルガンは当地でしか聴けないと思ったからだ。ハンブルクではヤコビ教会のオルガンがシュニットガー・オルガンという歴史的に名高いタイプのものだと云うので、2,3回聴きに行った。(17世紀末にアルプ・シュニットガー(Arp Schnitger)が製作し、1990年代に時代的オルガンの修復家として知られるユルゲン・アーレント(Jürgen Ahrend)が修復した。)
5月に近郊のリューベックを旅行した時には、かつてブクステフーデがそこで演奏し、バッハもその音色を聴いたというマリエン教会も訪ね、戦後新たに作られたというドイツ最大級のオルガンも聴いた。これも人を圧倒するような大音響で聴きごたえがあったが、どちらかと云えば、私はより小ぶりなヤコビ教会の方が気に入った。トランペットのような輝かしい高音から地を震わせる様な重厚な低音まで、多彩な音色をすぐそばで堪能できたからだ。その音色は演奏会の間じゅう、教会の中一体にこだましており、教会の壁につるされた歴史的な絵画とともに、私をあたかも遠い昔の時代にいざなってくれているようであった。




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ヤコビ教会のオルガン



しばらくすると夏休みが終わり、新学期が始まった。その時期ドイツでは難民問題に関するニュースで持ち切りで、ハンブルク市内でも新たにやってきた難民の姿をしばしば目の当たりにした。中央駅の前には彼らのために食事を提供するボランティアのテントが設置され、難民用の住宅も各地区に建てられ始める。一方で他都市では難民排斥のデモも起き、パリのテロ事件やケルンの襲撃事件(ハンブルクでも同様の出来事があった)はドイツ社会に衝撃を与えた。難民受け入れをめぐる議論の対立はドイツ国内で先鋭化する一方だ...。
ハンブルクは、だがそうした戦争や迫害から逃れてきた人々を受け入れてきた歴史がある。ハンブルクにはかつて遠くスペイン・ポルトガルから宗教的迫害を受けたユダヤ人が移り住んでいた。そのためこの街はユダヤ人音楽家とも関係が深い。有名なものでは作曲家フェリックス・メンデルスゾーンや指揮者のオットー・クレンペラーがいる。メンデルスゾーンは1809年にハンブルク有数の銀行家の家に生まれ、クレンペラーは幼少期をハンブルクで過ごしていた。
その後、第二次世界大戦のナチスによる迫害で、ハンブルクのユダヤ人口のほとんどは失われてしまったが、彼らがこの街に残した文化的遺産は、近年改めて注目されてきている。



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フェリックス・メンデルスゾーンの生誕記念碑


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ハンブルク国立歌劇場にあるマーラーのプレート




身を切るような寒さの中、11月にはオペラ「死の都」で有名なコルンゴルトを聴きに、ハンブルク国立歌劇場に行った。
ハンブルクには様々な音楽関係の施設があるが――本格的なコンサートホールであるライスハレや現在港湾に面した場所に建設が進められているエルプ・フィルハーモニー(ただし完成がたびたび延期され、建設費も膨らんだことから地元では不評を買っているようだが)
――ハンブルクでオペラを見るなら、ここが定番だろう。シュテファンプラッツ(Stephanplatz)というバス停のすぐそばで、市役所などがある街の中心部からも近い。戦災でかつてのオペラ座の建物が焼失したため、現在ではガラス張りの近代的な建物となっている。歴代の音楽監督には、グスタフ・マーラーや、ベルリン・フィルの初代常任指揮者であるハンス・フォン・ビューローなどがいる。今シーズンからはケント・ナガノが音楽監督を務めている。
チケットは安いものでは1000円台 (!) と学生にとっては手ごろな価格であるとはいうものの、劇場に行ってみると観衆は年配の人がほとんどで、大学生などの若者は自分を入れてもそれほど多くはなかった。劇場が若者向けに安い席を提供したりなど、客層の開拓の試みを行っているというのもうなずける。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します



ハンブルク国立歌劇場の「死の都」のプロモーションビデオ



演奏はダイナミックなものというよりは、手堅い印象であったが、十分に楽しめるものだった。
「死の都」はハンブルクで1920年に初演された。内容としては亡き妻マリーを思い続ける主人公のパウルが、妻にそっくりな女性マリエッタに思いを寄せつつも苦悩する、というものである。そうしたパウルの姿に業を煮やしたマリエッタが、パウルの前でマリーの遺髪をもてあそぶと、彼は激高しマリエッタを殺害してしまう。これでは何とも陰鬱だが、結末でしかし実は、マリエッタや彼女の殺害はパウルの「夢」に過ぎなかったことが分かる。夢から覚めたパウルが二度と戻ることのないあの世の妻への未練を絶ち、新しい人生を歩もうとするところでオペラは終わる。

私の中で特に印象に残ったのは、倒錯したパウルの心理が「夢」という一風変わった形で表現されている点である。公演の解説によれば、「夢」を作品の根本に据えたオペラは、「死の都」の登場までほとんどなかったという。19世紀までのオペラでは、夢はあくまで作品中で登場人物によって語られたりするだけで、副次的な役割しか果たしていなかった。まして人間の心理をそれで表そうという試みは皆無であっただろう。しかし20世紀に入るとストリンドベリの『夢の戯曲』(1902)など夢そのものを題材にした作品が現れる。同時代に精神分析家のフロイトが『夢判断』(1900)で普段見る夢から人間の無意識を探ろうとしたことは有名であり、「死の都」もフロイトからの影響が指摘されている。

しかしこの今回のハンブルク・オペラの演出には少し違和感を覚えた。というのも、オペラの筋書きをかなり変更しているからだ。例えばマリエッタと女中を同じ歌手が演じたり、マリエッタを殺した後もパウルの夢は覚めずに続いたままで、人生を悲観し絶望した彼が、自ら死を選ぶという悲劇を暗示させる形で終わらせている、などなど...。特に後者の演出は曲想やオーケストレーションが煌びやかで明るいコルンゴルトの音楽にそぐわない。確かにオペラの原作であるジョルジュ・ローデンバックの小説「死都ブルージュ」は悲劇で終わるので、それとは符合しているのであろうが…。




12月になると、この時期にしては予想外に暖かい日が続いた。どうもこの冬は異常気象だったらしい。
そんな中、ハンブルクの歓楽街 ‘ レーパーバーン (Reeperbahn) ’に友人と一緒にでかけると、面白いものを見た。それはこの歓楽街で開かれているクリスマスマーケットである。他のクリスマスマーケットがもっぱらクリスマスのための買い物や食事をするためのものであるのに対し、ここでは軒を連ねた飲み屋はもちろんのこと、野外ディスコのようなものまであり、深夜まで人々が暖かいグリューワイン(Glühwein)を飲みながら、おしゃべりに興じたり、ダンスをしたりしているのである。私もおかげでそこで楽しい一晩を過ごすことができた。

ハンブルクという都市は、特に近代以降ドイツの最も重要な貿易港として発展するに従い、都市自体も拡大していった。かつて船員が日中の辛い肉体労働を終え、夜な夜な繰り出していた、港付近にある歓楽街もその発展の一つである。
その一角で幼いころ、荒くれ者の船員相手にピアノを弾いていたのが、1833年にハンブルクに生まれたヨハネス・ブラームスである。彼は貧しい自らの家庭を支えるため、ピアノの演奏でお金を稼いでいたのだ。やがて才能が認められ、ウィーンへと移住したブラームスは、故郷への郷愁を感じつつも、死ぬまで帰ることはなかったという。現在では戦災で焼失した生家付近に記念碑が建てられている他、博物館も別の場所にある。



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幼少期のブラームス(ブラームス博物館より)



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ブラームスの生家跡に立つ記念碑


 
次回は、夏休みに出掛けたポーランドなど東欧の音楽について紹介してみたい。

(門前ノ小僧)



㈡ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(ポーランド編)


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 引き続きクラシック万歳!!



留学先のドイツの大学の夏休みがそろそろ始まろうとする頃である。折角夏休みが取れるからと、ドイツ国外の旅行をあれこれ考えていた。やはりヨーロッパといえば華の都パリか、それとも千年の都ローマか…。だが当時、ある地域が私の頭の中から離れられなくなっていた。それはヨーロッパとはいってもその東にある、東ヨーロッパ」と言われる地域、特にポーランドとその周辺である。現在では「中央ヨーロッパ」とも呼ばれる地域である――この地域は共産主義勢力が支配する東側に属し、冷戦――アメリカを中心とする資本主義勢力とソ連を中心とする共産主義勢力の対立――が崩壊するまでは(1989年)、日本をはじめ西側諸国の人々がなかなか足を踏み入れる事のない、ベールに包まれた存在だった。
近年になってようやく、人の往来が活発化し、経済も成長している。私もこの地域の光と影が複雑に入り混じる歴史が徐々に明らかになっていくにつれ、ぜひ一度は訪れてみたいと思っていた。その矢先、ハンガリーのとある大学のセミナーに参加しないか、という誘いが舞い込んできたので、これを機会にポーランドやハンガリー辺りでも旅行しよう、ついでにその地域の音楽も聞いて回ろう、ということで私の中央ヨーロッパ(中東欧)への旅が始まった。



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現在の「中央ヨーロッパ」と呼ばれる地域。冷戦崩壊後は、ロシアと同一の地域とみなされるのに反発したポーランドやチェコの人々は従来の「東ヨーロッパ」よりもこちらの名称をよく用いる。


とは言うものの、私事になるが、中央ヨーロッパ(中東欧)旅行はハプニングの連続であった。失敗について書き出すときりがないのだが、何しろ私がどうにかこうにか話せるのは英語とドイツ語だけ。ポーランドのワルシャワで乗ったバスは、乗客は自分の目的地を見つけると、運転手の近くに行って合図し降車していく。バスにはアナウンスが無く、私は目的地を一度も見たことがないため、どこで降りてよいか大いに困った。
同じくポーランドのクラクフからブダペストに行くときはアナウンスがあったにはあったのだがポーランド語が分からず、予定のバスに乗り遅れ、急きょ夜行列車で移動することに。これで安心と思い列車の中でその晩は熟睡したが翌朝、起きてみると何かがおかしい。見ると腰に着けたままのポシェットが見事に開いており、そこにある財布がそっくりなくなっているではないか。目を移すと脇のリュックサックも開けられてしまった。スリだと、思わずその場で飛び上がったが、ドイツの銀行のカードも一緒に持って行かれてしまった。ブダペストに着くと、すぐに宿泊先に直行し、カードを止めてもらうよう国際電話を掛けたが、おんぼろ電話なのか回線が途中で切れてしまう。何度やっても同じだったので、業を煮やして自ら中央駅まで出向いて、今度は公衆電話を片っ端から試してみたが結果は同じ。そのためブダペスト滞在中はカードをひょっとして犯人に使われてしまうのではないか、と気をもむ日々を送らざるを得ず、旅行を楽しむどころではなかった。(幸いカードの残高はドイツ帰国後変わりがないことを確認できた)。



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ポーランドの寝台列車。


しかしそれをもってしても、洗練された西欧とは異なる、中央ヨーロッパ(中東欧)のもつ圧倒的な印象は私の中で損なわれなかった。
例えばポーランドに於いては、戦災で破壊された後に再建された美しいワルシャワの旧市街がある一方で、クラクフなどの市街地を歩くと、薄汚れた住宅も度々見かける。だがそれら住宅地も言葉を換えれば、観光客向けに小奇麗に修復されていないため、もと社会主義国らしい昔のままの古びたたたづまいがそのまま残り、生々しいまでの歴史的な存在感を醸し出していた。訪ねた季節が夏だったせいもあるが、東欧というと連想しがちな暗く寒い荒涼とした雰囲気はみじんも感じられない。周辺の自然も非常に豊かで、バスの窓から眺めた、どこまでも伸びる丘陵地帯とその先に見える古城を黄金色に照らす夕日の風景は、見とれる程美しいものだった。



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第二次世界大戦で破壊され、のちに再建されたワルシャワの旧市街。



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クラクフ、カジミェシュ地区の路地裏。



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ポーランドの夕暮れ。



だが、中東欧で本当に興味深いのは、そこに住む、あるいは住んでいた人々の歴史だろう。
古来この地域に住んでいたのはスラヴと呼ばれる言語を話す人々であった。
中世初期になると、大小の国家が勃興した後に、現在のドイツ・オーストリア・スイス・チェコ・オランダ・ベルギーなど包括する神聖ローマ帝国、それを構成するボヘミア(今のチェコ)王国など西部一帯、そして中部にポーランド王国とリトアニア大公国(後に合同)、南部にはハンガリー王国が成立し、現在の中央ヨーロッパ地域の基本的な国々が形作られた。




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14世紀頃のヨーロッパ。地図中央右の水色の地域がポーランド王国、その右隣の薄緑色がリトアニア大公国、左隣の茶色がボヘミア王国、ポーランドの下の青色がハンガリー王国である。




ここで重要なのは、この中東欧地域が割合平坦な地形であるため、東西南北から人の移動が盛んに行われていたことである。
これによって非スラヴ系の人々も、中世以降、この地域へ続々と流入していく。特に重要なのは、西から来たドイツ人とユダヤ人である。
前者はドイツ商人やカトリック・キリスト教を布教する修道士などである。
後者のユダヤ人は事情がより複雑で、元々はドイツ等西ヨーロッパに住んでいたのだが、12世紀以降に活発化した十字軍に激しい迫害を受けた。その頃、金融業で豊かであったユダヤ人の財力に注目し、彼らにポーランドへ移住を進めたのが当時のポーランド国王カジミェシュ3世であった。彼の招きに応じて多くのユダヤ人が東欧に移住した。彼らは安全を保障される代わりに、市街地の中のユダヤ人街やユダヤ人だけが住む「シュテトル」という町で非ユダヤ教徒から隔離された生活を送った。そのためユダヤ人は当地で独特の宗教文化をはぐくむことになる。
一方で13世紀には、東からモンゴル軍が来襲し、ワールシュッタットの戦いでヨーロッパ連合軍を破るも、中東欧支配には失敗する…。
より大きな脅威は、16世紀に南から侵攻してきたオスマン帝国であった。オスマン帝国はバルカン半島、そしてハンガリーを支配下に置く。こうして東欧にイスラーム文化の要素も加わったのである。
その後、ポーランドの混乱に乗じて18世紀には、教科書にも登場するいわゆる プロイセン・オーストリア・ロシアによる「ポーランド分割」が行われ、この地域の文化事情をさらに複雑なものにしていく。後にショパンが、ポーランド独立を訴えたのも、この出来事が背景にある。
この分割以降プロイセン、オーストリアから共にドイツ語文化が、ロシアからはロシア語文化が中東欧に入ってくるのである。
その後ポーランドは1918年に独立を達成するまで(ワルシャワ公国による一時的な独立を除けば)、100年以上もの長きにわたり、祖国を失ったまま三国に統治されることとなる。



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18世紀頃の「ポーランド分割」以降のヨーロッパ。
前記の地図と見比べると一目瞭然だが、水色のポーランドは消え、地図中央だいだい色の地域がプロイセン、緑色がオーストリア、き緑色がロシアとなる。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



「革命エチュード」は、1830年にワルシャワでロシアの支配から独立を求めてポーランド人が起こした「11月蜂起」の失敗を、当時パリに住んでいたショパンが聞いた際に、祖国を想い作曲したものといわれている(もっとも真偽のほどは定かではないが…)。
演奏者のホロヴィッツはポーランドの隣国ウクライナの生まれで、ユダヤ系の父を持っていた。




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2013年に開館したワルシャワにある「ポーランド・ユダヤ人」博物館。手前にあるのは第二次世界大戦時にナチス・ドイツに鎮圧されたポーランド・ユダヤ人の蜂起記念碑。



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ポーランドのヴロツワフの市庁舎。かつてはドイツ領であったため、ドイツ語名で「ブレスラウ」と呼ばれ、ドイツ人やユダヤ人、ポーランド人など多くの民族が混住する町であったが、現在はほとんどがポーランド人人口である。




ちなみに、ポーランド第二の都市であり、中世にはポーランド王国の宮廷が置かれていた古都、クラクフには「カジミェシュ地区」と呼ばれる街区がある。これがかつてのユダヤ人街で、現在でも多くのユダヤ教会堂であるシナゴーグが残されている。その中でとりわけ私が強い印象を受けたのが、「寺院シナゴーグ」と呼ばれる改革派ユダヤ教徒が19世紀に建てたものである。外観は西欧風ながら、内部は天井がムーア(イスラム)様式、細部の装飾はポーランドの伝統的様式を踏まえたものといわれ、さながら中東欧の多彩な諸文化の混合を一つの建築に見るようである。



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「寺院シナゴーグ」の内部。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



若手のクレズマー楽団 Tempero のプロモーションビデオ。


こうした文化の混淆は ‘音楽’にもみられる。東欧ユダヤ人の作り出した民族音楽「クレズマー」は東欧の様々な音楽の影響を受ける一方、アメリカ等に移民したユダヤ人によって、新大陸にも広まる。現在でも人気の高いミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』はそうした東欧ユダヤ人の音楽を下敷きにしている。また東欧ユダヤ人の音楽は日本でもある曲として影響を与えた。それが 『ドナドナ』で、これももとは東欧ユダヤ人の歌曲である。そこで歌われる彼らの言葉「イディッシュ語」はドイツ語の方言をユダヤ伝統のヘブライ文字で表したハイブリッド言語であった。

こうして中東欧の多文化性を体現していたと言ってよいユダヤ人社会は、第二次世界大戦のホロコーストでほとんど消滅してしまう。いや、ユダヤ人だけではない。かつて東欧一円に暮らしていたドイツ人も第二次世界大戦後はドイツへ追放され、ムスリムの居住していたボスニア・ヘルツェゴヴィナでは冷戦後凄惨な民族浄化も行われた。
だが忘れてはならないのは、こうした悲惨な結果に至る以前の中央ヨーロッパには、各民族の共存が不完全な形であれ、形成されていたということである。民族問題に苦しむ現代世界において、この中東欧の歴史が私たちに教えるものは多いのではないだろうか。

今は失われたユダヤ人の遺産である 「クレズマー」音楽を直に聴く機会を得たのは、私がクラクフを訪れた時であった。場所はかつてユダヤ人の富豪が建てた私的なシナゴーグ。近年修復され、現在でも数は少ないがユダヤ教徒の祈りの場となっているが、見学も自由に出来る。そこで演奏していたのは若手のクレズマー楽団「Tempero」。聴衆は私を入れて3、4人ほどで何となく地味な演奏会が予想された。ところがいざ始まった演奏は、奏者全員が息をぴったり合わせ、一分の隙もない。曲はジャズ風にアレンジされお洒落な印象だが、白熱する個所ではまるで火を噴くような激しさであった。礼拝の準備をしているはずのユダヤ教徒さえもいつのまにか足を止めて演奏に聞き入っていた。後で聞いたところ奏者は全員ポーランド人であるそうだ。しかしこれも本来多文化的なものであったクレズマー音楽が、ユダヤ人の枠を超えて広がっている証しなのかもしれない。


私の中東欧の旅はまだ続き、しまいにはウクライナまで足をかけることになるのだが、その辺りについてはまた機会を改めたい。


(門前ノ小僧)



㈢ドイツ・ヨーロッパのクラシック音楽を訪ねて(西ウクライナ・オーストリア・チェコ編)


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チェコの作曲家ドヴォルザークによる オペラ「ルサルカ」より「月に寄せる歌」
歌唱はルチア・ポップ



前回はポーランドの町と音楽を、中央ヨーロッパの歴史を交えながら紹介してみたが、今回も西ウクライナ、オーストリア、チェコなど、かつて中央ヨーロッパの大帝国であったハプスブルク帝国を構成していた国々を紹介してみたい。

ウクライナ西部の都市リヴィウの町を訪ねたのは、去年10月初旬頃だっただろうか。何故急にウクライナに行く事になったかというと、夏にハンガリーの大学のセミナーで知り合った友人から「一度私の出身の町に来てくれたら、案内をするわ」と誘ってもらったからである。ウクライナの冬は零下30度と想像を超える寒さらしいので、どうせ行くのならまだ暖かい季節にと、さっそくドイツの大学の新学期が始まる直前に来てしまった。

ウクライナは日本人の90%が行かない国だと昔あるTV番組で紹介されていたことがある。しかも昨今ではウクライナ東部のロシアとの紛争のせいでウクライナ全体が危ないかのような印象が先行しがちだ。しかし実際私が訪ねたリヴィウは、紛争地帯からはるか遠く西にあり、別名「小ウィーン」と称されるような美しく、落ち着いた町であった。小ぶりで観光客も多すぎず、しかし街並みの多くは、市民によって、19世紀そのままのものが大切に残されているのである。

友人の案内に導かれ、石畳の狭い路地を抜けると、ふと自分の視界が開け、眼前に幅の広い車道に沿って、緑豊かな帯状の広場が広がった。その広場の真ん中に、町のシンボルであるオペラ・バレエ劇場が建っていた。その純白の大理石の壁面は、その日の澄んだ青空の下、ひときわ輝いて見えた。



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リヴィウのオペラ座


この町には一つの興味深い特徴がある。それはこの町の名前だ。ウクライナ語名では「リヴィウ」もしくはルヴィウ)だが、この名前が定着したのは実は最近のこと。その前はポーランド語名の「ルヴフ」(英語名でもこれが通用しているようだ)や、ドイツ語名で「レンベルク」<とも呼ばれていた。
実はこのリヴィウが3つの名前を持つのには、様々な国々に支配されたという過去が背景にある。
13世紀にウクライナのガーリチ(ガリツィア)公によって都市が建設された後、ポーランド=リトアニア王国に支配され、1772年以降はオーストリアのハプスブルク帝国に「ガリツィア地方」の一部として編入された。そして第一次世界大戦後には、再びポーランドに支配され、第二次世界大戦が終結して初めて、ウクライナの下に戻ったのである(ただしこの当時のウクライナもソ連の下にあり、それから正式に独立したのは冷戦後である)。ただハプスブルク帝国の一部であったという過去は、今でもリヴィウの市民に「ヨーロッパ」の一員であり、ウクライナの隣国ロシアとは異なるという意識を与えている。

このようにリヴィウを支配する国家が目まぐるしく変わる過程で、様々な民族がこの町に流入し、混住した。19世紀のハプスブルク帝国支配の時期を例にとれば、政治的支配者としてウィーンから派遣されたドイツ人の官僚の他に、貴族など上流階級を占めるポーランド人、商業・金融業に従事していたユダヤ人などがいた。ウクライナ人は主として農民を構成していたため、むしろリヴィウなど都市部には少なかった。こうした多民族性はリヴィウだけでなく、当時のハプスブルク帝国全体にいえることであった。
多民族性は、リヴィウの文化を多様なものにするだけでなく、独特な文化の形成もうながした。
一例として、互いに対立するカトリック(ポーランド人などが信仰)と東方正教(ウクライナ人が信仰)を統一し、16世紀末に誕生した 「統合教会」(ギリシャ・カトリック)がある。現在でもリヴィウには、西欧のカトリック教会に典型的であるバロック様式の建築の内部に、東方正教風のイコン(東方教会における聖像)などが置かれた、独特な様式の教会があちこちに見られる。


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近年まで統合教会の総本山だったリヴィウの聖ゲオルギウス教会


流れてきた教会音楽も、西欧の「グレゴリオ聖歌」とは異なる。言葉はもちろん、その音色には、「グレゴリオ聖歌」に聞き取れる「明るさ」よりもどこか「悲しみ」を漂わせ、神の荘厳さを静かに称える、静謐で神秘的な東欧の雰囲気が濃厚に出ている。


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統合教会の伝統的な聖歌


一方で20世紀以降、リヴィウは不幸な歴史を辿った。この町の所属をめぐって、ポーランド人とウクライナ人の間で、激しく争われたのである。第二次世界大戦中には、ナチス・ドイツに占領され、市内のユダヤ人の多くが虐殺された。その後にリヴィウを占領したソ連軍は、今度はウクライナ人を弾圧する。大戦後には、リヴィウがウクライナに属したため、市内の多くのポーランド人がポーランド領に「移住」した(逆にポーランド領に居住していたウクライナ人も、同時期にウクライナに送還された)。こうした歴史の闇は非常に深いものがあるが、冷戦後ポーランド人とウクライナ人は困難を乗り越え、「和解」に達している。「(カトリックと東方正教という違いはあるが)私たちは同じキリスト教徒。和解することを学んだのよ」と友人は後で静かに語っていた。




さて次に、今年の2月頃訪ねた都市はウィーンである。ウィーンはハプスブルク帝国の首都として発展し、芸術の都として栄えてきたことはあまりにも有名だろう。

ウィーンに来たからにはぜひオペラを観てみたいと思い、3日間という短い滞在期間中、ウィーン国立歌劇場に通った。そこで上演されていたのは、「マノン」と「ルサルカ」だった。

「マノン」は、その美しい旋律の由、皆に愛されるオペラであるが、ヴァイオリンの名曲「タイスの瞑想曲」などでもおなじみの作曲家フランスのジュール・マスネの作品である。男を迷わす魔性の女マノンと、彼女にほれ込んだ純情な騎士デ・グリューの引き起こす悲劇が筋書きだが、親しみやすい旋律のアリアも随所にあり、音楽的にも楽しめる。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ウィーン国立歌劇場の「マノン」のプロモーションビデオ




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ウィーン国立歌劇場


余談だが、ウィーンを代表する国立歌劇場で二晩もオペラを観るのに、高額な桟敷席や平土間席を買うのは、学生の私には無理だった。そこであらかじめ目をつけていたのが、‘立見席’。上演中立ったままという欠点はあるが、料金がたった3~4ユーロ、日本円では500円以下(!)なのである。当日券なので上演1時間前から行列に並び、その後2時間もの間、さながらすし詰めの満員電車のような桟敷席に立ち続けて観ていた。



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休憩時の立見席。目の前の手すりに寄りかかれるようになっているが「座席」ではない。そこで、場所取りのため観客は持ち込んだマフラーを巻いて、目印にしている。



一方、「ルサルカ」は曲中の甘美なアリア「月に寄せる歌」はよく知られているとはいえ、必ずしも日本では頻繁に上演されるような作品ではないと思われる。作曲したのは交響曲第9番「新世界から」で有名なドヴォルザークである。彼は、19世紀当時ハプスブルク帝国に支配されていた祖国、チェコの民族文化の復興のためのオペラを作曲したいと思っていた。そこで筋書きとしては、チェコ版「人魚姫」といえる、チェコの民話「ルサルカ」を題材にし、全編の歌詞をチェコ語で書いたオペラを作曲したのである。主人公の水の精ルサルカの住む非現実の世界と、彼女を愛する王子の住む現実の世界が、オペラの中で交錯し、幻想的な雰囲気を湛えた作品になっている。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ウィーン国立歌劇場の「ルサルカ」のプロモーションビデオ




3日間のウィーン観光を終えて、最後に向かったのはチェコのブルノとプラハだった。ブルノはチェコの南部モラヴィア地方の中心都市であり、ハンブルク編で紹介した作曲家コルンゴルト、あるいは作家のクンデラや「メンデルの法則」を発見した植物学者メンデルの生まれ故郷でもある。



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ブルノに居住したこともあるモーツァルトを称えて作ったというモーツァルト像(ただデザインには批判も…)


ブルノでは個人的な失敗も経験した。夜にウィーンからバスで乗ってきたのだが、その晩泊る予定のホステルに向かうと、なんとそのホステルが閉まっているのだ。予約案内を確認したところ、チェックインの時間が指定されており、その時間をとうに過ぎていたことが分かった。しまった、このままでは野宿だと焦って急いで今夜泊まれる場所を探し、一件のホステルにめぼしをつけると、連絡もせずにすぐに直行してしまった。

するとそのホステルの前に若者が一人立っている。煙草をくわえ、だらしのないみなりからすると、地元のヤンキーのようだ。だが案外ホテルマンかもしれないと思い直し、おぼつかない英語で今夜泊まれないかと頼むと、相手は自分はホテルマンではないが、今夜は泊まらせてやるという返事がきた(ホテルマンはとうに帰宅したそうだ)。どうも、彼はこのホステルの宿泊客らしく、今夜は自分は外出するから、自分の空いているベッドを貸すという話らしい。これはありがたい、と喜んだのもつかの間、彼は突然ホステル代にしては法外な金額をふっかけてきた。それなら断ろうと思ったが、このホステルの代金も知らないし、そもそもこれを逃すと野宿になってしまうではないか...泣く泣く有り金をはたいた。

ヤンキーはそれを懐におさめると、私をホステルの中へ通した。室内には既に何人か客がくつろいでいた。ここで偶然にも、その中に東洋人の顔だちをした男性が日本語のアニメを見ている。ひょっとして日本人客ではないかと恐る恐る話しかけると、やはりそうだった。そこで彼にここのホステル代を尋ねると、案の定、非常に安い。これは騙された。するとまだヤンキーが近くにいたので、問い正したところ、要領の得ない返事しかしない。彼のたどたどしい英語もよく分からない。しかし私も、彼に渡してしまった旅費を少しでも取り戻そうと、懸命である。
しばらくこのような調子でもめていると、周りの客が何事かと集まってきた。特にその中の一人のチェコ人の女学生が、私とヤンキーの間で通訳をしてくれた。他の客も私に加勢してくれた。そうこうするうちに、まだ室内に一つベットが余っていると客の一人が教えてくれ、ヤンキーの分を借りずに済むと分かった。ヤンキーも結局、しぶしぶお金を返してくれた。こうしてその夜はそのホステルに何とか泊まることができ、翌朝宿泊代をホテルマンに払って一件落着となった。私を助けてくれたお客さん達とは、この一件ですっかり仲良くなった。



最後のプラハでもホテルで土産物が紛失したり、ひと騒動あったが、無事に観光を終えることができた。残念ながらプラハでは時間もあまりなかったので、音楽をゆっくり聞く余裕もなかったが…。



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プラハの国立歌劇場


(門前小僧)



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