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2016.12.18 (Sun)

ボロディン「中央アジアの草原にて」と「だったん人の踊り」―― ロシア人とタタール人の物語

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 引き続きクラシック万歳!!




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ボロディン作曲  「中央アジアの草原にて」   (YouTubeより拝借)

ロシアの皇帝アレクサンドル二世の即位25周年を祝ってボロディンが「中央アジアの草原にて」を作曲したのは1880年である。この曲は、ロシア風の主題と東洋風の主題が交互に現れ、クライマックスでは二つが重なり、ハーモニーを奏でる。それはあたかも、ガスプリンスキーの抱いた、ロシア人とタタール人の共生の夢を表しているかのようだ。



ボロディンの「中央アジアの草原にて」や「だったん人の踊り」といえば、名曲アルバムのCDにもしばしば取り上げられる代表的な管弦楽の名曲だろう。基本的なテーマは二つしかない単調なものでありながら、どこか聴く人に懐かしい想いを抱かせる悠然とした前者と、荒々しいリズムと勇壮なメロディーで、聴く人を圧倒的な熱狂に追い込むような後者。この2つの曲には作曲者が同じである以外にもう一つの共通点がある。それはどちらも中央アジアや、その地域一帯に住む騎馬民族、タタール人をイメージして作曲されたという点である。だが作曲者ボロディンはロシア人。何故ロシア人がタタール人の曲を作曲しようとしたのだろうか?そもそもヨーロッパのロシア人とアジアのタタール人の間にどのような関係があったのだろうか?



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アレクサンドル・ボロディン(1833~1887) 「ロシア5人組」の一人で、本業は化学者、医師だった。



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中央の黄色の範囲がロシアで、西側がベラルーシやウクライナなど東欧 (南に黒海が控える)、東側の緑色が中央アジアのカザフスタン (南にはカスピ海)、黒海とカスピ海に挟まれているところがコーカサス地方となっている。

地図で見ると分かるが、ヨーロッパの東端に位置するロシアは同時に中央アジア(カザフスタンやトルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギスなど)への入口でもある。ヨーロッパとアジアの中間という、この地理的特徴は、西欧諸国などとは異なる、ロシアの歴史に独特な歴史を刻印することになった。


ロシアには元々スラヴと呼ばれる、共通の言語集団が存在したが、国家としての歴史は、一般的には8世紀頃、北欧から「ヴァイキング(ヴァリャーグ)」が移住し、自らの国々を建国していくところから始まる。これらを「ルーシ」と呼ぶのだが、これが現代の国号の「ロシア」の名称につながるのである。
最初に統一されたルーシ国家は、キエフ(現ウクライナの首都)に本拠を置くキエフ大公国(キエフルーシ)であった。同国は隣国のビザンツ帝国(東ローマ帝国)から東方キリスト教を受容し、支配下のスラヴ人に布教を推し進めた。
キエフ大公国は9世紀前半、ウラジミール一世の時代に最盛期を迎えるが、一方で東方のトルコ系 騎馬民族「ポロヴェツ(キプチャク)人」の侵入を度々受け、徐々に衰退し、国内も諸侯が群雄割拠するようになる。

この様な時代に、ボロヴェツ人からルーシを守ろうとしたのが、このオペラの主人公イーゴリ公であり、この伝説的な英雄イーゴリ公ポロヴェツ遠征を行ったという史実を題材に、『イーゴリ遠征物語』が書かれた。これを後年オペラにしたのがボロディンで、「だったん人の踊り」はその一部のバレー音楽である。
実はこの名称は、もともとは「ポロヴェツ人の踊り」だったのである。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ボロディン作曲 オペラ「イーゴリ公」より 『だったん人の踊り』
ゲルギエフ指揮、キーロフ歌劇場(現マイリンスキー歌劇場)公演。



ボロディンのオペラ「イーゴリ公」については詳しく紹介したサイトもあるようなので、内容はここでごく簡単に触れておく。ただ原作の「イーゴリ遠征物語」もそうなのだが、このオペラは英雄譚というには、少々意外な筋書きである。というのも主人公であるルーシ諸公の一人イーゴリは、息子ウラジミールを従え、先ほど触れたポロヴェツ人と一戦を交えるのだが、肝心の戦いには負けてしまうのである。そして息子共々ポロヴェツ人の捕虜になってしまう。しかしポロヴェツ人の長(ハーン)は何故か、勇ましく戦ったイーゴリにほれ込み、自らの側につくよう勧誘する。それだけではない。いつの間にかウラジミールはハーンの娘と恋仲になってしまうのだ(結局ハーンの娘婿となってしまう)。しかしイーゴリは勧誘をはねつけ、隙を見て決死の逃亡を果たす。
さて一方、イーゴリ不在となっていたルーシ国は、その間にイーゴリの妃の兄ガーリチ公によって乗っ取られそうになっていたのだが、イーゴリの帰還によって君主の地位を奪還するに至る。話はそこでめでたしめでたしと大団円になっておしまいになってしまうが、ハーンの娘婿になったウラジミールのその後はどうなったのか…など、肝心の点は不明確なままだがそれもそのはず、実はこのオペラは未完だった為、ボロディンの死後、同じ五人組の1人リムスキー・コルサコフなどによって補われたものなのである。


それでは何故「ポロヴェツ人の踊り」がいつの間にか「だったん人の踊り」になっていたのか。
それを知るにはさらに13世紀以降のロシア一帯の歴史を知る必要がある。
その頃になると、東方から、ポロヴェツ人を超える、別の最強の 騎馬集団が侵略していた。それが「モンゴル人」の襲来である。彼らはキエフ大公国を瞬く間に侵略すると、更に西に進出し、ドイツ・ポーランドの連合軍をワールシュッタット(レグニッツァ)の戦いで破った。一時はイタリアに面するアドリア海にまで進出し、ヨーロッパ人を恐怖に陥れたモンゴル軍であったが、モンゴル帝国の君主オゴタイ・ハンの死去によって、遠征は中断される。
しかし、その後再び征服されたルーシ(ロシア)は約250年に及ぶモンゴル人の支配下に置かれる事となった。
これが教科書の世界史にも出てくる「タタールのくびき」である。(1236~1480)
‘ タタール人 ’とは、支配する側のモンゴル人や配下のトルコ人など含む、「非ロシア系」の遊牧民を指す言葉として、この時から用いられたのである。

この「タタールのくびき」であるが、言葉の印象とは裏腹に、最近の研究では、実態は必ずしもタタール人の圧政ではなかったことが明らかになっている。そもそも当時のルーシ(ロシア)の大半は旧来の諸侯が治め、モンゴル人君主は‘ 間接統治 ’という形でしか、力を及ぼしていなかった。ロシアの正教徒もハーンの庇護のもとにあった。また中国からロシアまで、広大な地域を支配していたモンゴル帝国は、一種の「ユーラシア経済圏」を作り出し、ルーシ諸侯も少なからず、それから恩恵を受けていたのである。
文化的な影響も以外なところに見られる。例えばシャラポワ、ラフマニノフ、そしてツルゲーネフ。日本でもよく知られているこれらの名前は、ロシアとタタール人などの関係を研究している濱本真実氏の著書『共生のイスラーム』(山川出版社、2011年)によると、実はその由来はタタール人の話すアラビア語やテュルク語であるらしい。またチェチェン人など現在のロシア国内に住むムスリムも、この地域に移住してきたタタール人が祖先であった。
一方で、毎年タタール人に貢納を納めるように、ルーシ(ロシア)が義務づけられていたのも事実である。濱本氏の指摘の通り、「タタール人によるロシア支配が結局のところロシアにとってよかったのか悪かったのかの判断はどこに視点をおくかによって変わってくる」のだろうが、現在では、「タタール人のくびき」という名称も、後年再び力を盛り返したルーシ(ロシア)の統一とタタール人支配に対抗したロシア人が、タタール人支配の過酷さを強調するため使用したと考えられている。
 


1380年のクリコヴォの戦いでロシア側の「モスクワ大公国」は、初めてタタール人側を破る事になる。そして15世紀に内部分裂によって衰退したタタール人側の領土を、今度はイスラーム教勢力に対する「キリスト教の拡大」の名の下、侵略を開始するのである。この領土は具体的には、現在の東ウクライナからヴォルガ川沿岸、そしてコーカサス地方に至るステップ地帯であった。――ステップ(ロシア語:степь stepʹ、ウクライナ語:степ step、英語:steppe)は、中央 アジアのチェルノーゼム帯など世界各地に分布する草原を言う。ロシア語で「平らな乾燥 した土地」の意味。
ついにロシアは、1552年にはタタール人国家の一つ、カザン・ハン国を征服する。
一方タタール人側も黙ってはいない。クリミア半島にいたチンギス・ハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイによって建国されたクリミア・ハン国は、ロシア側とステップ支配をめぐって熾烈な抗争を繰り広げた。




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16世紀のクリミア半島。中央にあるのが黒海で、その北側の黄色い部分がクリミア・ハン国、その左上(紫色の部分)がポーランド=リトアニア王国、右上(黄土色の部分)がモスクワ大公国。黒海の南側(赤色の部分)はオスマン帝国。



高校世界史にもあまり登場しない、このクリミア・ハン国というタタール人国家は、ロシアと同様、ヨーロッパとアジアの中間に位置していた。その地理上の特性を生かし、同国は15~16世紀当時、ヨーロッパや中央アジアに一定の政治的な影響力を持っていた。時には、ロシアの敵である、隣国のポーランド=リトアニア王国やスウェーデンなど、、ヨーロッパ諸国とも手を結び、モスクワまで遠征を行ったこともあった。また近隣に住むウクライナのコサック集団にも文化・風俗に大きな影響を与えていたという。(コサックという言葉も「カザフ」というトルコ語から来ているらしい)。
しかしクリミア・ハン国の懸命の努力にもかかわらず、ロシアのステップ支配をくい止めることはできなかった。同国もまた、1768年のキュチュク・カイナルジャ条約によって、今まで後ろ盾であった隣国オスマン帝国の宗主権を失い、後にロシア帝国に併合されてしまう。



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ボロディン 「イーゴリ公」序曲



ではロシアは支配下のタタール人をどのように支配したのだろうか。その際、特に問題になったのが宗教政策である。タタール人が信仰するのはイスラーム教であったが、一方ロシアはキリスト教のロシア正教会が中心。そのためロシア政府は一時イスラーム教を厳しく弾圧し、ロシア正教への改宗を迫ることがあった。しかしそれが激しい抵抗を生むことが分かると、異民族統治の観点から寛容なものに変えたり、またそれが戻ったりとロシアの政策は度々変わった。だが全般的には次第に寛容なものへと移っていったようだ。特に1773年に宗教寛容令を発布した啓蒙専制君主エカチェリーナ二世は、イスラームを奉じるタタール人貴族をロシア人貴族と同等の地位を与え、官製モスクの建設も行った。1789年にはロシア帝国内のムスリムを管轄するムスリム宗務協議会が発足した。
これに対し、タタール人側も徐々にロシア政府に協力する姿勢を見せる一方で、自らのイスラム文化の復興にも力を入れ始めた。その担い手になったのは、中央アジアの綿花の通商などによって財力を蓄えたタタール人商人であり、彼らは自らの故郷にモスクやマドラサ(イスラーム教学院)を建設した。タタール人商人の中にも、ロシア語やロシア文化の受容の方に進む方もおり、ロシア・ムスリム社会の近代化の原動力にもなったことを濱本氏は指摘している。



19世紀に入ると、ロシア皇帝ニコライ一世の反動的な政策がムスリムに警戒心を与える中、タタール人はムスリムとしてだけでなく、自らの「タタール人意識」に目覚め始める。タタール人知識人らの手によってタタール語の文法や正書法が確立し、タタール人向けの新聞が発刊された。クリミアでこうした民族運動の中心になったのがイスマーイール・ガスプリンスキーという人物である。彼はイスラームに基づきながらも、世俗的な要素(例えば近代的な教育制度)も取り入れた、全トルコ系諸民族の復興運動、いわゆる「ジャディード運動」を主導した。
しかしガスプリンスキーはこれによって、必ずしもロシア人に対抗しようとしたわけではない。むしろ彼はロシアの支配下で、タタール人が同国から近代化の恩恵を受けていることも自覚していた。つまり彼が目指したのは、タタール人が自らの民族文化を復興させることで、誇りを取り戻すとともに、政治的にはロシア人と「共生」することであったと濱本氏は指摘している。タタール人の近代化のモデルとして、ロシア人を「兄」と捉えるガスプリンスキーは次のような言葉を残している。「光だ、光をわれわれに与えてほしい、兄たちよ」。


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イスマーイール・ガスプリンスキー(1851~1914)


しかし、20世紀にタタール人の運命は激変する。ロシア革命によって共産主義政権が誕生し、タタール人の新たな希望になるかと思いきや、彼らを待ち受けていたのは、第二次世界大戦中のスターリンによる、過酷な弾圧政策であった。クリミア・タタール人は故郷のクリミア半島から、中央アジアへ強制移住させられ、その途上で多くが亡くなったといわれている。その後故郷に帰還を果たしたクリミア・タタール人は現在でも難しい立場に置かれている。昨今のクリミア半島の帰属問題をめぐって、ロシアとウクライナのはざまで揺れているからである。

このようにロシア人とタタール人の関係は歴史上、非常に複雑な過程を経てきた。ボロディンの二つの名曲も、こうした歴史的背景を踏まえて改めて聞いてみると、その何気ない旋律に、心を動かされるものがあるのではないだろうか。少なくとも私にはロシア人とタタール人の現代に至るまでの1000年以上に及ぶ交流と葛藤の物語が目に浮かんでしまう...



最後だがこの「イーゴリ公」を1969年に当時のソ連がオペラ映画にしている(作品はDVDなどでは絶版になっているがyoutubeで英語字幕のものが見られる)。ロシアと共に、かつて中央アジア各国もその一部であったソ連の作品らしく、中央アジアの大平原を背景として、黒澤映画さながらに何十騎もの騎馬隊が疾走する場面や、遊牧民(?)のエキストラを大量動員して、「だったん人の踊り」を再現するなど、相当な熱の入れようである。かつての「多民族帝国」ソ連らしい芸術作品の一つとして、気になる方はぜひ見てみてほしい。

濱本真実『共生のイスラーム―ロシアの正教徒とムスリム』(山川出版社、2011年)
チャールズ キング『黒海の歴史――ユーラシア地政学の要諦における文明世界』(明石書店、2017年)

(門前ノ小僧)



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