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2017.03.20 (Mon)

ハチャトゥリアンの「剣の舞」――ソ連と祖国アルメニアのはざまに生きた作曲家

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 バレー音楽「ガイーヌ」の一場面
(有名な「剣の舞」は、3;30)

バレエの内容は当時のソ連各地に設置されていた「集団農場(農民が半強制的に集団で農作業を行う農場)」を舞台に、地質学者(!)のアルメニア人女性を中心として繰り広げられるロマンス。いかにも「社会主義国」らしい筋書きといえばそうだが…



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 劇音楽「仮面舞踏会」よりワルツ
往年のソ連・ロシア音楽の名指揮者と知られるV.フェドセーエフによる「仮面舞踏会」の堂々たる演奏。



今年はロシア革命が起きてちょうど100年目になるという。1917年、ロシアで皇帝(ツァーリ)による専制支配が、労働者や兵士など民衆により倒され、最終的にソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)と呼ばれる、世界初の社会主義国家が誕生したのである。しかしこの国は1991年に崩壊し、現在はロシアと周辺のいくつかの国々に分かれてしまった。
では、現在はすでに失われた国である「ソ連」や100年前の出来事であるロシア革命をここでわざわざ思い出すことに何か意味があるだろうか?実はそれらは普段私たちがよく耳にするあるクラシック音楽の作曲家と大きく関わっているのである。それが今回取り上げるハチャトゥリアンである。
ハチャトゥリアンというと、冒頭の木琴がけたたましく連打され、独特なリズムにあふれた舞曲「剣の舞」が音楽会などでよく演奏され、お馴染みである。またいささか旧聞に属するが、2010年のバンクーバー五輪で浅田真央選手がフリーの演技で使用した「仮面舞踏会」も同じハチャトゥリアンのものであるというのはご存じだろうか?一方は普通のクラシック音楽作品ではあまり類のない、どこか土俗的な民族的な音楽。もう一方ではいかにも西欧のクラシック音楽といえる優雅な音楽。その両方を作曲したハチャトゥリアンとは一体何者なのだろうか。その謎を解く手がかりとして、まず彼の出身に注目してみよう。「ロシア音楽の作曲家」にくくりられがちの彼は、実はロシア人ではない。彼の祖国は「アルメニア」という国である。




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アラム・イリイチ・ハチャトゥリアン(1903-1978)。
プロコフィエフ、ショスターコヴィッチと並ぶソ連音楽の三大巨匠とされている。




Caucasus.png 

現在のコーカサス地方グルジア(ジョージア)より北はロシア連邦共和国内の自治共和国。
グルジア(ジョージア)、アルメニア、アゼルバイジャンは独立国である。



上の地図にあるように、西に黒海、東はカスピ海に挟まれたコーカサス地方にある日本の約13分の1という山がちな小国、それがアルメニアである。しかしハチャトゥリアンが生まれたのはこの国ではない。隣国であるグルジア(ジョージア)のティフリスが彼の生まれ故郷である。このようになった理由には、アルメニア人独特の歴史が関係している。
彼らは自らの王国を12世紀に滅ぼされて以来、各地に離散(ディアスポラ)しながら生活していた。ハチャトゥリヤンの祖先もその一人としてグルジア(ジョージア)に住み着いたと考えられる。
しかしこの状態はアルメニア人にとって必ずしも不遇なだけだったわけではない。彼らはやがて各地を結ぶ強固な商業ネットワークを構築し、中央アジア・中東地域一帯の交易の発展に大きな役割を果たすようになったのである。
彼らの多くは「アルメニア正教」という独自のキリスト教を信仰し、自らを「ノアの箱舟」で有名なノアの直系の子孫と信じた。そして箱舟が流れ着いたとされるアララト山(現トルコ東部)を自らの故郷と思い定めたのである。




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ハチャトリアン作曲 バレー音楽「スパルタクス」より
スパルタクスとフリーギアのアダージョ


アルメニア人は、こうした素朴なアルメニア人意識や神話は共有しつつも、長きにわたりオスマン帝国やロシア帝国など、当時コーカサス地方を支配していた大国の支配を受け入れてきた。
しかしハチャトゥリアンが生まれた1903年前後に彼らは大きな転機を迎える。それは支配者であるロシア帝国を通して近代化の影響を受け、ヨーロッパの「ナショナリズム」思想を受容したことである。この場合のナショナリズムの定義は様々にあるが、ここでは一人ひとりの個々人が、一つの国民(国がない場合は民族)= nationに属しているという意識を持ち、自らが住む土地において政治面、あるいは文化面で自ら決定する権利=自決権(国がある場合はこれを「主権」と呼ぶ)を主張する考えとしておこう(それは単に自らの国民(民族)が一番優れていると考える一般的なイメージとは区別されるものである)。この発想に、それまで支配者である大国の決定に従うだけであった当時のアルメニア人は大きな影響を受け、ナショナリズムの意識に目覚め、自らナショナリズム運動を組織していくのである。

しかしその際にアルメニア人はいくつかの大きな問題に直面していた。まず自らの土地、つまり領土をどのように定めるか、である。当時のコーカサス地方はアルメニア人以外にもグルジア人やトルコ系のアゼルバイジャン人など様々な民族が混住していた。つまりどこに境界線を引いても、異なる民族が同じ領土に含まれてしまうのである。とりわけ各地に居住するアルメニア人を一つの領土にまとめるのは容易なことではなかった。


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19世紀のコーカサス地方の民族分布図。中央から下の断片的にグレーになっている部分がアルメニア人居住地域。


もう一つの問題は、誰をアルメニア「民族」の一員として認めるかという問題である。各地に離散し、その結果様々な背景を持つようになったアルメニア人を、他民族と区別するような指標がなくては、「民族」の形成は図れない。その指標として必要になったのがアルメニア人独自の「民族文化」である。しかしその文化はそれまで自然に受け継がれてきたものでは不十分であった。例えばアルメニア語の話し言葉は、それまでアルメニア人同士でも異なっていたため統一する必要があり、起源そのものは古代まで遡るアルメニアン・アルファベットも、その習得のためにアルメニア人全体で教育する必要があった。また共通のアルメニア人意識を生む「民族文学」や「民族音楽」も新たに創造されなくてはならなかった。こうした課題に取り組み、「民族」を形成する行為を「ネイション・ビルディング」と呼ぶ。
自前の国家を持たないアルメニア人にとって自民族の「ネイション・ビルディング」を独力で行うのは非常に困難であった。しかしこうした行動ができなければアルメニア人はやがて周辺の他民族に同化し、アルメニア「民族」の形成に失敗してしまう。そこで彼らは支配者のロシア帝国が1917年に革命で崩壊した後の混乱に乗じて、アルメニア人国家の独立を図ろうとした。しかし体制を引き継いだソ連によってすぐに軍事的に制圧されてしまう。こうしてアルメニア「民族」の形成は儚い夢に終わるかに思われた…



ところが、新たな支配者となった「ソ連」は、それまで被支配者のナショナリズム運動を抑圧する傾向にあったロシア帝国とは異なっていた。
当時ソ連の指導者であったレーニンやスターリンは、多数派を占めるロシア人の他にも数多くの少数民族をかかえる旧ロシア帝国にあって、各民族のナショナリズム運動を抑え込むことで逆に反発を招き、革命間もない脆弱な政権が倒されるのではないか、ということの方を恐れた。そのため彼らは次のように考えた――むしろ各民族の「ネイション・ビルディング」を助ける方が良いのではないか。将来の国家は、こうした「ネイション」によって構成された「連邦」として再編されるべきである…―こうしてソ連は、「ソビエト社会主義共和国連邦」というその名の通り、各民族共和国の連邦となったのである。

ソ連はアルメニア人に限らず、国内の諸民族が抱えていた問題全般の解決にも積極的に取り組んだ。この一連の政策はロシア語で「コレニザーツィヤ(土着化)」と一般に言われている。まずどこに境界線を引いても、異民族が同じ領土に含まれてしまう問題については、ある国の中で少数派となった民族に政治的・文化的な「自治」を保障することが定められた。もしその自治区の中に他の少数民族がいれば、さらにそれにも自治を認める…これを繰り返すことで当時のソ連では村単位まで少数民族の自治が認められたのである。これによってアルメニア人にも現在のアルメニア共和国がある領域が「アルメニア民族の土地」として与えられた他、それ以外の国々の少数派アルメニア人にも自治が認められた。

一方で各民族の文化活動に際してもソ連は援助した。例として各民族共和国の学校で民族語の教育を積極的に行わせると共に、各地に設置した高等教育機関には地元の民族出身のための入学枠を特別に定め、民族エリートの養成を図る、などである。若きハチャトゥリアンもまたアルメニア文化の発展のために設けられた「ソヴィエト・アルメニア文化の家」に何度も通い、アルメニアの古典詩歌や演劇芸術を学んだという。

こうした非ロシア系の諸民族を優遇する一種の「アファーマティヴ・アクション」的な政策(多数派と少数派を実質的に平等にするために、少数派を優遇する政策)によって、ハチャトゥリアンにも音楽を学ぶ機会が与えられたのである。モスクワ音楽院に留学した彼は、当代随一の作曲家のミャスコフスキーに師事し、研鑽を積む。また作家のゴーリキーに出会った時は「作曲家は民謡を勉強しなさい!」という彼の発言に感銘を受けたという。卒業作品の「交響曲一番」はアルメニアの民族音楽の影響を強く受けたものとされている。

以後ハチャトゥリアンは、幼少期に親しんだ‘ アルメニアの民族音楽 ’と、音楽院で学んだ
‘ 正統なクラシック音楽 ’
の両方の素養を積んだ作曲家として、ソビエト楽壇で知られていくようになる。彼はロシアの詩人・作家であるレールモントフの戯曲を題材にした「仮面舞踏会」を純粋なワルツ音楽として仕上げる一方、彼の代表作の一つとなった「ガイーヌ(ガヤネー)」というバレエ曲(「剣の舞」もその一部に含まれている)は、アルメニアの伝統音楽を彷彿とさせるものにした。いずれもソ連の音楽界では大成功を収めた。他にもハチャトゥリアンは祖国のために「アルメニア舞曲」も作曲している。
当時、同僚で晩年は同じアパートに住んでいたショスタコーヴィッチは「芸術家と民族。アラム・ハチャトゥリアンの音楽の芸術を考える時真っ先に思い浮かぶのはこの対比である」と述べている。




イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 「アルメニア舞曲」



だが何故ハチャトゥリアンは作曲活動でこれほど「民族」にこだわったのだろうか?

この謎を解くには彼の嗜好だけでなく、当時のソ連の芸術家は政府によってある‘ 制限 ’が加えられていたことに注意する必要がある。それは当時、ソ連共産党が方針として掲げていた「社会主義リアリズム」に沿った作品を作るというものであった。この「社会主義リアリズム」、確かにそれ自体は「形式的には民族主義的、中身は社会主義的」といういささか曖昧な目標である。だが芸術にそもそも目的など必要だろうか…?芸術家には本来自由な活動が保証されてこそ、新しい芸術を創造できるのではないだろうか?
ソ連がこうした疑問を退け、自らを正当化した背景には、芸術家と一般の民衆の関係、ひいては芸術と政治の関係に関わる問題がある。
ソ連を生んだロシア革命の勃発時に、一度ここで戻ってみよう。

当時革命には、少なからぬ数の‘ 前衛的な芸術家(アヴァンギャルド) ’が関わり、中には革命側のボリシェヴィキ政権に参加する者もいた。彼らはこれまで現実と乖離してきた芸術が、政治に接近し、前衛的な芸術が‘ 大衆 ’に支持されることで「世界を変革する」ことを目指したのである。しかしこの芸術の‘ 政治化 ’や‘ 大衆化 ’は逆に言えば、芸術が政治に取り込まれ、体制側に都合よく利用されるという危うさもあった。
ソ連芸術の研究者イーゴリ・ゴロムシトクは「こうしたアヴァンギャルド芸術の内部で事実上作り出され、理論的に確立された」「大衆芸術の理念」が「後の全体主義美学の基礎」になったとさえ指摘している。


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ソ連の最高指導者スターリン。民族問題の専門家として知られ、「コレニザーツィヤ」政策を進める一方、芸術家への統制、反対派に対する容赦ない粛清を敢行し、「20世紀最大の独裁者」の一人とさえ言われている。



いずれにせよ、革命後に芸術と政治が一体化してしまったソ連では、芸術はもはや政治的な宣伝手段の一つとなり、内容的にも一般の民衆レベルでも理解可能な「分かりやすい」ものしか許されなくなってしまったのである。芸術家もまた先ほどの「社会主義リアリズム」の方針の下で、「人間の魂の技師」として社会に奉仕することを義務づけられる。前述した「コレニザーツィヤ」政策による民族文化の振興はその義務の一つだった。つまりハチャトゥリアンが「大衆にも分かりやすい」民族音楽を書き続けなくてはならなかったのにはこのような理由もあったのである。彼がかつて受けたソ連の「理想的な」音楽教育もこのように考えると、必ずしも肯定的ばかりには捉えられないだろう。

一方で当局に本来の目的から外れていると指弾されれば、その時点で芸術家はその活動を止めさせられ、運が悪ければ粛清の対象にまでされる可能性さえあった。党のイデオロギーに比較的忠実であったハチャトゥリアンでさえ、一時ショスターコヴィッチらと共に「ジダーノフ批判」と呼ばれる党からの批判を受けて、「自己批判」を公にすることを余儀なくされたのである。当初ボリシェヴィキ政権に賛意を示したアヴァンギャルド芸術家の多くは既に迫害の対象になっていた。



ハチャトゥリアン自身が、こうした民族文化の振興と芸術家の統制が表裏一体となったソ連の文化政策をどのように考えていたか、ソ連時代の伝記しか残っていない現状では正確にはわからない。しかしここで興味深いのは、彼が晩年アルメニア音楽と西欧のクラシック音楽の関係について次のように発言していることである。
「私がいくらあらゆる音楽言語の中でもがいたところで、所詮私はアルメニア人なのだ。しかし、ヨーロッパ人としてのアルメニア人であって、アジア人ではないのだ…我々は文化の高いヨーロッパ民族であることを知るべきだ」。ここには「アルメニア」というソ連の辺境国出身の音楽家の屈折した心情が読み取れる。いくら「コレニザーツィヤ」という形でソ連が各民族の民族文化の創造を手助けしたとしても、そうした文化は、少なくとも音楽面においては「文明的なヨーロッパ」があくまで模範であり、価値基準とされていることをこの発言は示している。
しかし一方で彼は、アルメニアの民族音楽に西欧のクラシック音楽を折衷した自身の作品について「様式がどことなくぎこちなく、ちぐはぐな感じ」がすると言い、「もっと徹底的に様式をつき離し、断固として自分の様式を作るべきだったかもしれない」とも回顧している。しかし大衆に受ける「社会主義リアリズム」の路線に彼が乗り続けている以上、そうした自己表現の探求には限界があったことも明らかだろう。

ソ連の民族政策と文化政策。この大国の政治を利用することで、ハチャトゥリアンは個人的な成功を収めることが出来、アルメニア音楽のためにも貢献できた一方、創作活動の上ではある種の限界をあらかじめ定められてしまったといえるのではないだろうか。
ところでその内容の真偽をめぐって今なお議論が続いている問題の書『ショスタコーヴィッチの証言』には、こうしたハチャトゥリアンなどの体制側の音楽家に代わり、「自分自身の道を探求しなくてはならない」とする「民族共和国の新しい作曲家」の出現について触れられている。そうした野心的な彼らの活動については次回、詳しく見ていくことにしよう。

テリー マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国―ソ連の民族とナショナリズム、1923年~1939年』(明石書店、2011年)
イーゴリ ゴロムシトク『全体主義芸術』(水声社、2007年)
ヴィクトル ユゼフォーヴィチ『ハチャトゥリアン その生涯と芸術』(音楽之友社、1998年)

イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



ハチャトリアン作曲 バレー音楽「ガイーヌ」より剣の舞
ゲルギエフとウィーン・フィルによる「剣の舞」の演奏。
尋常でないスピードだ…由に起こるべくして起こるハプニング?


(門前小僧)



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