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2017.08.02 (Wed)

旧ソ連の音楽(1)クレーメルとその仲間たち (2)イヴァシキンと1920年代の音楽

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 引き続きクラシック万歳!!



旧ソ連の音楽(1) クレーメルとその仲間たち


ギドン・クレーメルと言えば、私の世代の人間にとっては若手の演奏家というイメージがどうしてもあるのだが、その彼も今年の二月で七十歳の誕生日を迎えた。それでも、やはり、クレーメルには若さが似合う。それかあらぬか、今から十年前の2007年、つまり、彼が六十歳を迎えた年には、Sempre Primavera(英語で言えばAlways Springつまり、常に春)という演奏会を開いていて、YouTubeでそれを視聴することができる。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



58分頃から、Sempre Primaveraと題してベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『春』の編曲版を始めとして春の音楽を集めたメドレーを演奏する姿は若々しい。



クレーメルは、現在最高のヴァイオリニストの一人であり、昨年は、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞し、巨匠たちの仲間入りをしたとも言えそうである。しかし、巨匠然としたところがなく、永遠の青年といった趣があるところに彼の魅力がある。かつて「権力誇示の一部としての称号、勲章および賞状を伴う過剰な表彰狂詩曲」といった表現で彼はソ連体制下での褒章を評したのだが(『クレーメル青春譜 二つの世界のあいだで』アルファベータ)、世界文化賞受賞後のインタヴューで述べた次の言葉は、この辛口の批評と矛盾するところはない。

私は受賞すべくして受賞するアーティストの群には属していません。以前のソ連では、多くのセレブ・アーティストが名声に名声を重ねるべく何度も賞をもらったものです。私は受賞するたびに、これはサプライズではなく、私が正しいことしていることに対するモラル・サポートだと思っています。正しいことをする、これは五十年のキャリアを通して容易ではないことを知っています。それは往々にして、一般的な慣習や考え方に逆らうことになるからです。自分が自分自身であり続けるため、自分が信ずる価値を守るためには、戦う必要があるからです。(産経ウェブより)

ギドン・クレーメルは1947年2月27日、旧ソ連統治下にあったラトビアのリガに生まれ、モスクワ音楽院でオイストラフの下で学び、1970年23歳でチャイコフスキーコンクール優勝する。当時のソ連での特権であった国外での活動も徐々に許され、天才として世界中で認知され始め、1977年、ドイツ滞在中にソ連政府に「二年間の国外滞在」を申請し、ドイツの雑誌とのインタヴューでこの希望を明らかにする。これは当時にあっては、国家への反逆と看做され、ソ連国籍を剥奪されかねない行為である。だが、この申請は例外的に認められ、二年近くは、鉄のカーテンの内外で活動することができた。しかし、二年後、結局のところはソ連市民権を放棄させられる。彼が音楽家としてこの「故国」に戻るのは、冷戦終結後の1988年であった。
これらの出来事の詳細は、上で言及したクレーメルによる自伝、『クレーメル青春譜』(以下では『青春譜』)から知ることが出来るのだが、この書は(この時期での三度の結婚と三度の離婚を含む)彼に関する事実だけではなく、それら及び時代全体に関するクレーメル自身の考察を含んでいる。この書を読むことで、クレーメルという人物をいささかなりとも理解することができ、彼の魅力を知ることが出来る。
彼が敢行したソ連から西側への脱出という行為を考えてみよう。一見勇気ある行為だが、そこには厄介な事情も存在する。
「誤った」音楽活動が直ちに芸術家としての生命ではなく、端的に粛清や収容所送りといった生命の危機をも意味したスターリン時代とは異なり、ブレジネフ時代にあっては、不満を抱きつつも、反体制の活動にさえ加わらなければ、ソ連に留まって、命の危険を感じることなくある程度の生活が送ることが出来た。
しかし、そのブレジネフ時代のソ連から、自由を求めて多くの演奏家が西側へ逃れた。彼らの多くは社会主義体制に批判的な考えを持っていたが、‘ 体制批判の発言の自由 ’という政治的な自由を求めてと言うより、芸術上の自由、つまり、‘音楽家としての自由な活動 ’を求めて西側へ逃れた。
これは考えようによっては我儘で贅沢な話だとも言える。彼らは、世界的に見ても一流の演奏家で、西側へ行けば、演奏の機会も曲目も自由に選ぶことができ、なおかつ、西側ではソ連での生活を遥かに超える豊かな生活を送ることが可能である(当時クラシック音楽で社会的な名声と富が保証される時代であった)。他方、普通のソ連国民、そして、外国に知られてはいない音楽家たち(作曲家たちはたとえ才能があっても大抵はこちら属していた)には、そのような贅沢な選択肢は存在しない。

なぜクレーメルは社会主義体制を逃れて西側へ逃れたのか。それは彼の芸術上の野心あるいは金銭的な欲望を満たすためであったのか。
『青春譜』には、「ムジクス・ソヴィエティクス」(ソヴィエト的音楽家)という章がある。ここには、「理知の人」としてのクレーメルの真骨頂が見られるのだが、そこにその答えが見出される。

まず彼は、「体制のせいで、平均的なソ連国民の心の仕組みと生活態度に何か根本的に不道徳なことが根づいてしまったのである」と述べる。「ソヴィエト体制は――皇帝専制政権と同じように圧制機構であり・・・(悪しき)人間の特性を強化した。体制が加えた圧力によって、追従主義の傾向が促された。・・・(辛うじて残った)誠実さは、しばしば偽善、二重道徳、卑下、虚偽、自己保護および尊大さのあいだの、まさにさまざまな振る舞いの束に変形された。」ソ連体制は、人間があらゆる搾取から解放される理想的な状態に到るまでの階梯の一段である。しかし、この階段を上るように導くのは、真理を既に所有している一部の選良たち、つまり、共産党であり、党は、単に経済のみならず、政治、学問、芸術、思想あらゆる場面で“正しさ”の規準を示した。それは完璧に正しいものであり、それを批判し、そこから逸脱することは許されない、逸脱は死をも意味する――結局の所は、強大な権力を持つお上のいう事には従わざるを得ないという点では皇帝専制政治と何ら変わるところはない。そのような圧政下では、「毎日の生活は、密告や上司の好意を得ようとする努力・・・および力の誇示から成る巧妙な振る舞いの網を紡ぎだしていた。個人の弱点は、人間を強くするはずだった体制をほとんど侮辱する。」相手が皇帝であれ、共産党であれ、権力を持つものに対して媚び諂うのは、人間の性である。だが、単に阿諛追従が要求されただけではない。党は単に強大な力を有するだけではなく、‘ 正しさの規準 ’でもあったのである。体制は常に“正しい”のであり、それに従う者も“正しい”人間でなければならなかった。個人は自らの弱さを示してはならない。

秀でた芸術家は、スポーツで鍛えられ、丈夫で模範的でなければならなかった。そして、レパートリーもまた・・・古典的で保守的な基準とイデオロギー的に「健康な」基準との混合である。ソヴィエトの音楽はつねに進歩し、パイオニアであり、空想上のより良い未来における曖昧な何かのために戦っていた。演奏もまた、軍旗のように掲げられていた――ポスター風で説得力があり、一元的だった。

このような体制下では、芸術が存続することは極めて困難である。というのも、

すべてが党の価値に従属させられ、党の旗の下には大衆文化、分かりやすさ、「健全さ」およびあの不吉な「社会主義リアリズム」なる用語が謳われていた。問題のあるテーマや、未解決あるいは解決不可能なテーマと取り組んだ音楽や文学あるいは他の芸術形態は、いずれも不審とされた。

人間は不完全な存在であり、人間がその中で生きる世界も不完全である。それ故に生まれる様々な感情、悲しみ、苦しみ、喜び、憧れが形となったものが芸術である。「問題のあるテーマや、未解決あるいは解決不可能なテーマと取り組」む所にその存在理由があるのであり、明白な解答しか存在しないならば、芸術は単なる気晴らしの道具に成り下がる他ない。

このような体制下で音楽家として生きることは、人間性を何かしらの形で歪める。
「ムジクス・ソヴィエティクス」の中で、クレーメルが描く著名な音楽家の肖像、例えば、ユダヤ人として生まれ、ユダヤ人であるだけで迫害の対象となったスターリン体制をも(恐らくはKGBの協力者となって)生き延びたヴァイオリニストのコーガンや、内なる反抗心を隠し続け、念願の西側への亡命を果たした直後心臓発作でこの世を去った指揮者のコンドラシンのそれらは痛々しい。


本の紹介 ➡ クレーメルの青春譜


それでは、西側世界、あるいはソ連邦崩壊後のロシアであればもう問題はないのか。残念ながらそうではない。共産主義という妖怪の代わりに、今度は‘ 商業主義 ’という魔物がそこには存在する。上に述べた社会主義体制が齎した悪は「自由主義体制」にも存在する。『青春譜』のエピローグにある言葉を引こう。

巨大な売り上げをもたらすスター・システムが、音楽界を推進する駆動力である。量が質に勝り、知名度が音楽的内容より重要になっている・・・芸術が我々の感情を開く道であり、その感情とは当然ながら純粋な喜びや明るい気持ちだけではないことが、ますます理解されなくなっている。思いを致す媒体としての音楽は、深みのない‘ 娯楽 ’という機能のために排除される・・・この宇宙からはすべての問題や不安が押しのけられる。

二つの体制を比較した、次のような言葉も、自らと同じく西側へ逃れたチェリストであるロストロポーヴィッチのことを語る「のるかそるかの大勝負」の章に見出される。

ソヴィエト・ロシアでは、・・・ツァ―リ(皇帝)であれスターリンであれ、‘ 父親としての理想像 ’が崇拝の対象で、不可侵の人物だった。これに対して西側では、一種の‘ 人気 ’を強要する傾向が支配している――できるだけ多くの人に気に入られ、誰にでも話しかけ、誰の声にも耳を傾けようと努力する人――これが社会の規範だった。その裏には・・・商売の原則も隠されている。この法則は、芸術の世界においても支配している。・・・ラジオやテレビはオペラや交響曲の断片で「クラシック・ヒット」や「心地よい音楽」、音楽の体験をメンタルヘルスのための消耗品に低下させ気に入るような形でつまみ食い文化を提供している。 

クレーメルの面目躍如たる所は、西側に移住した後も「自分が自分自身であり続けるため、自分が信ずる価値を守るために」戦い続けた、と言って言葉が強すぎるならば、自らの理想を追い求め続けた所にある。
オーストリアのロッケンハウスという場所に自分の友人たちを集め、‘ ソ連に留まり続けていた作曲家たち ’の作品も含めて、「三十年にわたり、室内音楽の頂点を目指し・・・新・旧、有名・無名をふくめて二千曲」を演奏し、営利とは可能な限り離れた形で音楽祭を主催し続けた(現在では運営を若き後輩に譲っている)。また、故国ラトビアを始めとするバルト三国出身の若き演奏家たちを集め、クレメラータ・バルティカというアンサンブルを結成し、後輩の育成に努めると共に、彼の「仲間」の作曲家の作品の演奏に携わっている。もっとも、下に紹介するヴィデオで語られているように、彼はそこで指導者ではなく、先輩ではあるが、「同僚」である。『青春譜』の言葉を藉りれば、そこは、皆で築き上げた「我が家」である。このヴィデオではこの「我が家」でくつろぎ、伸び伸びと活動するクレーメルとその若き仲間たちの姿を見ることが出来る。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



クレメラータ・バルティカとロッケンハウス音楽祭が主な主題となっている。本文では触れなかった、クレーメルが紹介し有名になったアルゼンチンの作曲家ピアソラの曲の演奏も出てくる。(9:50~)



クレーメルは、『青春譜』で「臆するところのなさ、感情の赴くままにできる能力」を持つアルゲリッチやバーンスタインを自分とは「まったく異質な音楽家」であると言い、自分には「自分が音楽を演奏することでのみ表現できる内的な悩みを、いわば感情的に許容し、自制し、思索する傾向が多分にある」と記している。ここから、「知的な」演奏家としての彼のイメージが生じるが、最初に紹介したインタビューでは、「私は自分を知的な演奏家と思ったことはありません。知的なことが勲章とも思いません」と述べる。『青春譜』を読んでもその通りであると思う。例えば、彼にとってヒーローであったロストロポーヴィッチに関して、反体制派の代表である小説家ソルジェニツィンを匿い、国外退去を余儀なくされる等々の彼の華々しい行動について、「社会的なポーズでもありうる」という疑念を表明する鋭い洞察を示しながら、この書物には他人の悪を糾弾する冷たさ、あるいは、暗さは全く感じられない。彼は鋭い理知を持ちながら、その限界も弁えており、その理知は彼の感情を支配することはない(再びロストロポーヴィッチを例に取れば、彼の傑出した様々な面は素直に認め、一時は不仲となった彼と再び和解出来た事を心から喜んでいる)。クレーメルに最も相応しい名称は、理想家であり、感情・情熱がその元にあり、理知はそれを支える補助に過ぎないのではないか。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



マルティノフの作曲  Come In! for 2 Violins and Orchestra (1988)
クレーメルとクレメラータ・バルティカ

マルティノフはクレーメルの最初の妻タチアナの再婚相手、作曲家であり神学者でもある。


ソ連滞住中から、彼は努めてソ連での新しい非体制派の作曲家たちの作品を紹介し、インタヴューでは「ソ連を離れたとき、ソ連に残した友人たちに仕えたいと思いました」と述べている。彼がそこで名を挙げた旧ソ連出身の作曲家には、ペルト、シュニトケ、グヴァイドゥ-リナがおり、多少なりともその曲も聴いたことがあるが(私事だが、ペルトは若い頃よく聴いていた)、カンチェリ、シリヴェストロフ、ラスカートフ、デシャニコフ、ヴスティンとなるともう駄目である。しかし、是非とも彼らの音楽を聴いてみたい。というのも、『青春譜』のエピローグは次のような言葉で終わる・・・

私にはひとつのことがますます意識される――それは人格の役割であり、厳格な規則に屈せず、自らの使命に責任を負い、各自の生きる道を求め、理想を持ち、その理想を惑わずに追求する、人間の偉大な意義である。‘ 自分自身の内なる声 ’・・・を探し、小さな声であれ、大きな声であれ、美しい声でも、それほど美しくなくても、見つけられたなら、人は勝利したのである・・・ソヴィエト国家が強要した巨大なコーラスにおいて、ともに歌うのをひたすら拒否した、あの個人的な声が、今でも、最も美しかったように思える・・・「道はない、だが我々は歩まなければならない。」そしてこの道に対しては、結局は体制ではなく、ひとりひとりが自分で責任を負うのである。

真の意味での音楽芸術は、このような意味での個人の間で成り立つ営みである。そのような音楽、「ソヴィエト国家が強要した巨大なコーラスにおいて、ともに歌うのをひたすら拒否した、あの個人的な声」とはどんなものであったのか・・・。
次回以降、これらの作曲家の音楽の試聴記を綴ろうと思っているのだが(その前に、彼らの紹介者でもあるチェリスト、イヴァシキンのことに触れようと思う)、何か一つ旧ソ連時代の音楽を紹介したい。共産主義は歪んだユートピア思想であるが、超越的なものを一切認めない唯物論である。その反動として、超越的なものを求める宗教心がその体制下で高まるのは当然である。クレーメル自身には信仰はないが、クレーメルとクレメラータ・バルティカが演奏したマルティノフの曲を聴く時、美しい曲なのだが、この強烈とも言える美しさは一体どこから来るのだろう、と思わず考えさせられる曲である。

(ネモローサ)



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旧ソ連の音楽(2) イヴァシキンと1920年代の音楽



「旧ソ連時代」の音楽全般を紹介する邦語の書籍というものがなかなか見当たらない中で、ロシア文学者の亀山郁夫氏の『チャイコフスキーがなぜか好き』(PHP新書)は、グリンカから現代音楽の作曲家に到るまでのロシア音楽を論じていて真に有益な、また、楽しく通読出来る本である。ドストエフスキーの作品の翻訳で有名になった亀山氏であるが、ロシア革命前後のロシア・アヴァンギャルド芸術(前衛芸術)の研究の第一人者であり、しかも、自身がチェロを奏する氏は、本編全体に亘って、深い学識に基づきながらも個々の作品への愛着を情熱を籠めて語り、読者をして飽きさせる事がない。
氏は、ロシア音楽の特質として「熱狂」と「ノスタルジー」、そして往々にして現れる「アイロニー」の三つを挙げる。ロシア正教、そして、キリスト教以前の異教という精神的な風土の中から「全体の幸福という『黄金時代の記憶』」が生まれ、この「黄金時代」を求めて「熱狂」と「ノスタルジー(感傷)」の両極端の間を揺れ動き、また、それらによって無意識に流されようとする際に「風刺の毒」、アイロニーを以って時にそれを押しとどめる、このような図式の中で、二百年に亘るロシア音楽史を氏は語る。

ソ連体制下の現代音楽もその流れの中の一齣である。
 

  亀山郁夫著 『チャイコフスキーがなぜか好き』(PHP新書) 



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



旧ソ連の一部であったアルメニア出身の作曲家、アーヴェト・テルテリャーン(1929-1994)による『交響曲第6番』(1981)。
彼は、前回のブログで名前を挙げたカンチェリの友人であり、アルメニアを代表する作曲家である。彼を顕彰するホームページがあり(http://www.terterian.org/en/)、多くの作品をダウンロードして聴くことが出来る。



現代音楽は難解であると言われる。実際今紹介したテルテリャーンの交響曲も何回か聴いているが、耳に馴染むというには程遠いものである。もっとも多くの現代音楽とはそのような慣れを拒否するものであるから当然と言えば当然であるが、しかし、鐘のような音に続いて、不穏な持続する不協和音の背後からお経のような人声や陰鬱なメロディーが交じり、途中で少し盛り上がるが、それも中途で終わり、結局は鐘の音の中で静かに終わっていく…という様なこの曲をどう理解すればよいのか。この曲のことは、チェロ奏者アレクサンドル・イヴァシキンの文章(Alexander Ivashkin: "The paradox of Russian Non-Liberty "The Musical Quarterly 1992)で知ったのだが、彼は、「ゴーゴリやドストエフスキーからマンデリシュタームやアフマートヴァに到るどんな時代のものであってもロシア芸術を『氷山』と呼ぶことが出来るかもしれない」と記し、この曲を含めてロシア・ソヴィエトの音楽を氷山に喩えている。確かに耳に聞こえるこの音楽の底に、耳には聞こえない巨大な何かが潜んでいると思えば、無意味な音の響きではないと思うこともできよう。
上の文章でイヴァシキンの言う「氷山」の意味ついては、後で紹介するとして、それから離れても、旧ソ連の音楽を理解するに際して、この氷山の喩えはなかなか役に立つ。現代音楽とは言っても、そこにはそれまで培われてきたその場所特有の文化の痕跡が残っているのであって、その音楽文化の伝統という目に見えない水面下の部分があってこそ、水面より上にあり目に見える、つまり耳に聞こえる音楽の部分のあり方も決まるのではないか。
社会主義体制下での「反体制派(dissident)」としての現代音楽作曲家を、何世紀にもわたるロシアの文化と歴史という文脈の中で理解するという姿勢は、イヴァシキンにも通じる。
1985年に時の共産党書記長ゴルバチョフによりペレストロイカが始まり、1989年にはベルリンの壁が崩壊、1991年、ソ連邦解体、社会主義体制は終焉しが、まだペレストロイカの熱気が冷めやらぬ1990年に、イヴァシキンは、先ほど触れた文章を掲載した音楽雑誌に「スターリンの恐怖と社会主義リアリズムのキッチュ(古臭く通俗的なけばけばしさ)」の時代の終わりを寿ぐ一文を寄せている。("Letter from Moscow Post October Soviet Art: Canon and Symbol" The Musical Quarterly 1990) その文章の中で彼は、今目前で生み出されている芸術は、社会主義リアリズム以前の1920年代、1930年代初期の前衛芸術の 直接の継承者であると語る。

‹注›マンデリシュターム(1891 - 1938年)は、 ロシアのユダヤ系詩人。高踏的な象徴主義の詩から離れ、より親しみやすい「アクメイズム」をアフマトーヴァらと共に始め、多くの人にその詩が愛された。スターリンの政権下で収容所に送られそこで死亡した。死後もその詩は、アフマートヴァの詩と共に人々に愛され続け、ソ連邦体制下で苦しむ人の希望の灯である続けた。
‹注›アフマートヴァ。(1889年 - 1966年)、ロシアの詩人。マンデリシュタームとともに20世紀前半から中葉のロシアを代表する詩人。アフマートヴァの作品は初期の叙情的な短詩から後期のスターリン政権下で圧制に喘ぐすべての人を代弁した普遍的な作品まで幅広く、特に後者にはスターリンによる大粛清の犠牲者に奉げたため、長らく封印された連作長詩『レクイエム』などがある。
‹注›アレクサンドル・イヴァシキン   クレーメルと同じくソ連出身で、体制に付和雷同することを潔しとしない音楽家であるイヴァシキンは、ロストロポーヴィチとグートマンと並び称されるソ連のチェロ奏者であると同時に、文学・思想にも造詣が深く、ソ連崩壊後は国外に去り、最後はロンドン大学でロシア・ソ連音楽の研究、紹介にも尽力した。多数のCDを録音しているが、シュニトケやロストロポーヴィチの伝記をも著し、ロシア・ソ連音楽に関する論文も多数物する才人である。クレーメルの一歳年下であるが、2014年にその生涯を終えた。


  アレクサンドル・イヴァシキン著 『シュニトケとの対話』



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ニコライ・ロースラヴェツ(1881~1944)のチェロソナタ第1番(1921)、第2番(1921~1922)、チェロはイヴァシキン。
ロースラヴェツは、スクリャービンの影響の下、「音組織の新しい体系」を提唱し、ロシア革命後の芸術上の革命を追求するロシア・アヴァンギャルド(前衛芸術)の代表的な芸術家となるが、他の前衛芸術家と同様に、人民には理解不能な作品を創作する「形式主義者」との烙印を押され、作曲家としての活動を不可能にされ、不遇のうちに生涯を終えた。



さて、ここで簡単に二十世紀のロシア・ソヴィエト音楽の流れに触れておこう。
グリンカ、ムソルグスキー、ボロディン、また、チャイコフスキーを輩出した十九世紀に続く、二十世紀においてもロシア音楽の泉は涸れることはなかった。
文学の上では二十世紀初頭は「銀の時代」と呼ばれ、象徴主義とアヴァンギャルドの詩人たちが活躍したが、(ちなみに「金の時代」と言われるのは、プーシキン、トルストイ、ドストエフスキーらの十九世紀)、音楽でも、革命前にはスクリャービンがおり、ロシア革命(1917年)の混乱の中で、ストヴィンスキーやラフマニノフは亡命者となったが、故国に残った多くの音楽家が、芸術上の革命を果たそうと様々な試みを為した。
しかし、スターリンが政権を取ると、「社会主義リアリズム」が提唱され、芸術家の受難の時代が始まった。多くの芸術家が、「反革命」の断罪を受け、自己批判を迫られ、収容所に送られ、また、場合によると、拷問の末に処刑されもした。音楽家も例外ではなかった。革命初期の様々な新たな芸術上の試みは中断され、キッチュと形容されるべき作品が持て囃される中で、ショスタコーヴィチやプロコフィエフらは、様々な工夫を重ねながら真正な芸術作品を作り続けた。1953年のスターリンの死によって恐怖と屈辱の時代がひとまずは終焉し、フルシチョフ政権の下で「雪融け」の時代を迎え 西欧の同時代の現代音楽が紹介された。公認の音楽は依然として「社会主義リアリズム」に沿うものであり続けたが、多くの若者がこの現代音楽に引き寄せられ、ブレジネフ政権下、60年代、70年代を通じて「反体制派(dissident)」の音楽家として生きることとなった。この大勢はペレストロイカが始まるまで変わらなかった。

イヴァシキンによると、「 ‘雪融け’に始まった新たなソヴィエト音楽は、1980年代になってようやく革命初期の1920年代に達した高みに再びたどり着いた 」とのことである。それでは、20年代の高みとは何であったのか。
革命期の前衛芸術家たちは確かにプロレタリア芸術を唱えたが、それは、政治社会の革命に追随するのではなく、むしろそれに先行し、「知性が辿るべき、遠い未来に到る道を切り拓くべきものであった。」(画家フィローノフの言葉)慣れ親しみ手垢のついた現実は、偽りの現実であり、‘根源にある真の現実 ’に到る道を示すのが芸術である。
ウラジーミル・ヴェルナツキー(1863-1945)という科学者思想家によれば、地球の進化は、「ジオスフィア(無生物の物体)」から「生物圏」へと進み、更に「ノウアスフィア(精神圏)」に到るという。生物の出現が地球上の酸素の増加を齎し、その環境を不可逆的に変えたのと同じように、人間の精神的な活動が今後地球のあり方を決定的に変え、「ノウアスフィア(精神圏)」を創出する。このような考えは当時の有力な思想家、例えば、フロレンスキイも共有する所であり、彼は芸術家に大きな影響を与える存在であった。フロレンスキイは、また、未来に目を向けると同時に過去へ、民族の根源への探求が為されるべきだとした。実際、当時の人類学・心理学・言語学は、人間の心理・神話・言語の深層に、精神的な世界を見出せるとしたからである。芸術とは、このような精神圏(ノウアスフィア)を指し示す象徴である。
精神、物質、神話、科学が一体となった新たな世界像を創造するという営みを芸術が担うのに相応しい人物が、実際当時の音楽家にはいた。ロシア革命の僅か二年前に亡くなったスクリャービンである。彼の交響曲五番『プロメテウスー火の詩』(1910)は、生者と死者、精神と物質が一体となった世界を夢見る彼の神秘主義的な思想を表現するものであり、音に対応する光も同時に演奏されるのである。

〈注〉フロレンスキイ(1882年 - 1937年)は、ロシア正教会の司祭、神学者、宗教学者、哲学者、歴史家、文献学者、詩人、数学者、技術者、発明家、音楽家、言語学者。モスクワ神学大学の教授を務めた。学者・芸術家としての彼に向けられる多くの称が示すように、神学・哲学のほか、理系分野、芸術領域においても才能を発揮したことから、ロシアのレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれる事もある。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



スクリャービン作曲 『交響曲第5番プロメテウス』
現代のテクノロジーを使って彼の「色光ピアノ」を実現したもの。
(演奏は、9;45~)



スクリャービンは言う、「次のことが理解されねばならない、宇宙は我々の想像力、我々の創造的な思考、我々の意志という質料から成り立っているのであって、それ故に、我々がわが手の中にある石と呼んでいる意識の状態と、我々が夢と呼んでいる意識の状態は、その材料に関する限り、違いはないのだ。石も夢も同じ質料から出来ているのであり、その二つは、同様に現実的なものなのだ。」物質と精神を一体化するこの言葉を引用し、現代芸術の創造原理だとするのは、ボリス・アサフィエフ(1884-1949)である。彼は作曲家であり、音楽学者、批評家であり、革命前後の音楽界に大きな影響を与えた人物であった。若き日のショスタコーヴィチも『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を彼に捧げた(但し後に不幸なすれ違いでそれを取り下げることとなる)。

イヴァシキンによると、『プロメテウス』の初演の際にチェレスタ (小型のアップライト・ピアノのような形態の楽器。)を演奏していたのが、作曲家シチェルバチョフである。彼がロシア象徴派の詩人ブロークの詩を基に作曲した『交響曲第2番』について、「即興、開かれた形式、均衡の欠如、慣習的な平衡との訣別、これらすべてにより機械的な法則によっては支配されない生物のような交響曲となっている」とイヴァシキンは言う。調性を保ってはいるが、既存の明確な形式に従わず、合唱とソプラノとテノールの独唱とオーケストラが、ブロークの詩の世界を描き出すこの交響曲を、イヴァシキンは「自然の一要素としての音楽」とも評する。

イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



残念ながらシチェルバチョフの『交響曲第2番』はYouTubeにはないようである(2008年にBotstein指揮アメリカン交響楽団によるライブ演奏の録音がデジタル化されiTuneその他で聴くことが出来る)。代わりにやはりブロークの詩に基づくピアノ曲を見つけた。再び残念ながら録音状態が良くないが、それでも魅力的な曲である。


シチェルバチョフはレニングラード音楽院の教授となり、ポポーフらを育て、前述のロースラヴェツやアサフィエフ、また、若き日のショスタコーヴィチらと共に20年代のソ連での新しい音楽世界を創出した。イヴァシキンの言葉を引くと、「1920年代は、無制約の実験の時期であり、音は、不自然な文脈が洗い落とされ、根源的な音楽の要素の世界に深く、より深く分け入った…1920年代は、精神圏への探求の第一歩が踏み出された時であった。」



今回僅かではあるが、色々と調べてみて印象深かったのは、この「銀の時代」の精神文化の豊かさである。ロシア革命の故に多くの著名な、ベルジャーエフのような知識人や、ストラヴィンスキーやカンディンスキーのような芸術家が亡命したが、そういう人間を生み出した、革命前に確かに存在していた土壌が、革命後の‘ ソ連に留まった ’知識人、芸術家をも生んだのであるから、この豊かさは考えてみれば当然のものである。イヴァシキンは、若き日のショスタコーヴィチを含めた当時の音楽家や聴衆の音楽に関する考えに影響を与えたとして、前述のフロレンスキイやアサフィエフと共にドストエフスキー研究で有名なバフチンの名前も挙げている(Ivashkin: ”Symbols, Metaphors and Irrationalities in Twentieth-Century Music” in Mimesi Verita e Fiction 2007)。アサフィエフの文章には明示的ではないが明らかにバフチンの影響があるとのことであるし(David Haas: “Boris Asaf’yev and Soviet Symphonic Theory” in Musical Quarterly 1992)、ショスタコーヴィチのペトログラード音楽院での学友であったピアニストのマリヤ・ユーディナはバフチンの教え子であり、バフチン・サークルの一員であったそうである。イヴァシキンの言葉は決して牽強付会ではない。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



この時代の文化の豊かの証拠として、やはり録音の状態はあまり良くないのだが、ルリエー(1892-1966)が、古代ギリシアの女性抒情詩人サッフォーの詩に作曲した歌曲(Grečeskie Pesni 1914)を聴いてみたい。この詩をロシア語に訳した、ヴャチェスラフ・イワーノフの名は亀山氏の先の本にも見ることが出来るが、彼は象徴派の詩人であると共にギリシア古典から始まるヨーロッパ文学・思想に該博な知識を有し、その知識を基にロシア民族の使命を論じた思想家でもあった。革命により亡命し、ローマがその終焉の地となった。



作曲者のルリエーは、クレーメルがその再評価に努めた作曲家の一人でもあるが、ロースラヴェツと同じく革命後もソ連に留まり、革命政府の一員となった。しかし、その前衛的な姿勢が批判され、亡命の途を選び、イヴァシキンによると、パリに亡命していた音楽家たち(ストラヴィンスキーやプロコフィエフ、後者は後にソ連へ戻ることになる)と共に「ユーラシア主義運動」に参加し、「西欧のモダニズムとは異なる、ロシア音楽の、新しく正しいアイデンティティを確立する」ことを目指した。

キリスト教以前の異教文化が残り、西のカトリックに比べ、神秘的、儀式的な要素をより多く持つ東方正教を奉じると共に、タタールの軛と呼ばれるモンゴル人の支配を長く受け、帝国の発展に伴い東のアジアに向けて膨張し、域内に多くの非ヨーロッパ民族を抱えるロシアは、西欧とは異なる存在であらざるを得ない。この状況を肯定的に捉え、そこにロシアの本質を見ようとするのが、このユーラシア主義である。
この「ユーラシア主義」は日本とも無縁ではない。そこに参加していたアレクサンドル・チェレプニン(1899-1977)は、革命によりパリに亡命した後、日本及び中国を訪れ、その滞在中に伊福部昭や早坂文雄を始めとする、多くの音楽家の指導に当たった。伊福部に大きな影響を与え、また、彼の主催した「チェレプニン賞」で優勝したことが伊福部が作曲家としての経歴を歩むことを決定的なものにしたという話は有名である。


イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



チェレプニン作曲 チェロ・ソナタ第1番(1924)。
チェロ演奏 イヴァシキン。
因みにアレクサンドルの息子イヴァン・チェレプニンも作曲家であり、、最近テレビでよく見かけるモーリー・ロバートソン氏のハーヴァード大学での師であった。ニコニコ動画での「モーリーチャンネル」でこのイヴァンのことを面白おかしく語るモーリー氏の動画が今は見られないのが極めて残念である(モーリー氏のような人だけを「タレント(才人)」と呼ぶべきだろう)。



さて冒頭の話に戻らなくてはいけない。新たな音楽言語を通して、西欧だけではなく、東のアジアにも亘る人類全体の記憶の根源にあり、物質と精神の二元論を超える精神世界を表現しようとする芸術上の大胆な試みは、スターリンの下で、平板な音楽を求める「社会主義リアリズム」により中断を余儀なくされた。しかし、先に記したように、スターリンの死後の「雪融け」により当時の同時代の様々な前衛的な音楽技法が紹介された。若き音楽家たちは、それらの摂取、消化に努めたが、単なる模倣に甘んじることはなかった。根源的な世界(ノウアスフィア(精神圏))の象徴としての音楽を創作するという20年代の課題、あるいはロシア音楽全般の課題を、それらの新たな技法を活かしながら果たすこととなった。ロシア音楽をイヴァシキンは氷山に喩えたが、その意味するところは、ロシア音楽は、耳に聞こえる音に尽きるものではなく、自らを超えた何かを表す一種の暗号であり、その音楽を理解するためには、聖書解釈と同様の解釈行為が必要とされる。60年代70年代は、このような音楽を創造するための準備期間であり、80年代にこの努力が花開き、身を結ぶことになった。
最初のテルテリャーンの交響曲に戻ろう。イヴァシキンによると、テルテリャーンは、アルメニアこそが人類の文明を育んだ揺籃であり、アルメニア語はインド・ヨーロッパ語の原型である信じているとの事である。(ノアの箱舟の行き着いた先は、アルメニア人にとっての聖山アララト山であり、確かに印欧祖語はこの地域から西はヨーロッパ、南はペルシア、東はインドに人間の移動と共に広がったと考えられる)テルテリャーンは、この交響曲にアルメニア正教での祈りの言葉や自然界の音を取り込むと同時に、楽譜にはアルメニア語のアルファベットが記されており、この音楽は、「ヨーロッパ文化を葬る葬送」と名付けてもよいとイヴァシキンは言う。

イヴァシキンは、まだペレストロイカが希望を人々に与えていた1990年の文章(Letters from Moscow)を、20年代の音楽を受け継ぐ80年代の音楽のさらなる発展を願いながら希望に満ちた調子で終えている。しかし、その2年後の文章(The paradox of Russian Non-Liberty)では早くも自由化による社会全体の混乱の中で、改革への幻滅が語られる。だが、この状況においてこそ、ロシア音楽の本質が見えてくる。このことに関してはまた回を改めて紹介したい。

(ネモローサ)
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 引き続きクラシック万歳!!

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