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2017.12.28 (Thu)

『首相』になったピアニスト――ポーランドのパデレフスキ、栄光と挫折

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パデレフスキ作曲 メヌエット 

パデレフスキの作品の中で最も親しまれているモーツアルト風の「メヌエット」。元々はパデレフスキがあるモーツァルト好きの友人にいたずらしようと作曲したもので、自分の名前を伏せてこの作品を演奏したところ、友人はモーツアルトの作曲だとすっかりだまされてしまったという。


古今東西の優れた音楽家の中には、数は少ないが音楽家を副業として全く別の職業に従事する者もいた。クラシックに限れば、有名な例として国民楽派の一つであるロシア5人組(キュイやリムスキー・コルサコフは軍人、ムソルグスキーは役人、ボロディンは化学者)が挙げられる。しかし音楽家でありながら政治家としても活躍した人物となると、果たしてどのくらいいるだろうか?政治家はいわゆる「俗な」職業、「高尚な」芸術家とは対極的なのでは…と思われる向きもあるかもしれない。ましてクラシック音楽と呼ばれる作品が登場した時代は「タレント議員」などという言葉はまだなかったのだから…

ところが20世紀前半、単なる政治家どころか、一挙に一国の首相にまで上り詰めた音楽家がいる。
その名はイグナツィ・パデレフスキ(1860 - 1941)。一般的にはポーランド出身の伝説的なピアニスト、あるいはショパンの全楽譜を編集した(『パデレフスキ版ショパン全集』)ことで知られており、日本にも彼の功績を称えて「日本パデレフスキ協会」が設立されている(故中村紘子氏が会長を務め、現会長は横山幸雄氏)。

こうした音楽的に輝かしい経歴を持つパデレフスキであるが、また第一次世界大戦直後に、ポーランド共和国の首相を一時務めている。だが何故ピアニストとして名を挙げた彼が、芸術とは「異質」な政治の世界にわざわざ飛び込んだのだろうか。音楽家は仮の姿、むしろ政治の方に関心のある野心家だったのだろうか。疑問はまだある。パデレフスキは当時のポーランド国民の支持を失い、首相をわずか1年足らずで辞任しているのだ。その理由は現代の一部の「タレント議員」のイメージにもあるように、知名度は抜群でも政治的には無能だったから、といわれたりもする。しかしさすがに首相に上り詰める程なのだから、政治的な資質が全くなかったとはいえないだろう。当時のポーランド国民が彼に失望した理由とは一体何だったのだろうか……。


180px-Ignacy_Paderewski_1894.jpg

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski) 
音楽家の間でよく云われる「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう。」の名言でも知られる。



まず第一の問い、パデレフスキが首相になった理由について考えてみよう。その前提としてまず彼が生きた当時の祖国のポーランドの状況を考えなくてはならない。
1860年、ポーランド東部の寒村でパデレフスキがこの世に生を受けた当時、「ポーランド」という国は地図上から消滅していた。同国は18世紀後半から3回にわたって、プロイセン、オーストリア、ロシアという、近隣の3大国によって分割されてしまい、それぞれに支配されていたからである(ポーランド分割)。祖国を失ったポーランド人は分割後も独立のために何度も支配者に対して武力で抵抗した。
これに関連してショパンの代表作の一つ「革命エチュード」の逸話はよく知られている.。――1831年、ロシア支配下のポーランドでポーランド人の蜂起(11月蜂起)が起きた際、ショパンはパリ滞在中で病弱であったために蜂起に参加できず、そのまま蜂起はロシア軍に鎮圧されてしまった。怒りと悲しみに打ちひしがれたショパンは代わりに「革命エチュード」を一気に書き上げた――というものだ。(しかし近年では蜂起とは無関係に作曲したという説も有力らしい)。その後も、ポーランド人は1863-1864年に再びロシアを相手に大規模な武装蜂起(1月蜂起)を起こすがこれも同様に失敗に終わっている。


Karte_polnischeteilungen4.png

3度(1772年、1793年、1795年)にわたるポーランド分割。
黒枠は分割前のポーランド領。
青がプロイセン領、赤がオーストリア領、緑がロシア領を表している。



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ショパン「革命エチュード」パデレフスキ演奏



パデレフスキ自身もまた、これら独立革命当時の混乱を直に経験していた。というのも、幼少期に地方の貴族であった彼の父親が1月蜂起に関わったという理由で、ロシア政府によって逮捕、投獄されたのである。
その時の様子をパデレフスキは次のように回顧している。


最初にコサツク(ロシア帝国)が、家を包囲した時に、私は何か恐ろしい事件が勃発すると感じたが、家に入つてくると、父が目的で来たことが解り、私は危険を自覚した。そこで再度コサツクの一番丈の高い人の側に馳せよつて、恐れながらも「お父さんを、どうするの?」と叫んだ。然し彼は答えぬばかりか、私を見ようともしない。それでも私はひるまず、どうしたのか、何故父を連れていくのか、直ぐ帰って来るか、と子供なりの考へで尋ね続けた。すると背の高いコサツクは笑って首を振ると、再び笞をピシピシとならした。

 『パデレフスキー自伝』P.15


父はその後釈放されたが、パデレフスキ一家は領地を追われた。こうした幼少時の体験に加え、幼いパデレフスキの家庭教師をしていた人物もかつて11月革命に参加していた。パデレフスキは彼らの影響などもあり、ポーランドに対する愛国心を育んだのである。
しかし彼自身は当時政治家の道は進まず、むしろ才能ある音楽家としてのキャリアを積むことになる。……彼は場合によっては、祖国愛に燃えながらも音楽家にとどまったショパンと同じ生涯を送っていたかもしれない。



20代後半という遅いデビューながら、ヨーロッパ各地で精力的に演奏会を重ね成功を収めていたパデレフスキは、政治とは無縁の世界に生きているように見えた。しかしある演奏旅行が彼を後に政治の世界に引き入れるきっかけを作る。それはアメリカでの演奏旅行であった。実は当時、経済的に貧しいポーランド人がヨーロッパから大勢アメリカを目指して移民し、デトロイトやシカゴなどの大都市で生活していたのである。
( ちなみにこの時期、チェコのドヴォルザークは、音楽については新興国であったアメリカでニューヨーク・ナショナル音楽院の院長として迎えられ、弦楽四重奏曲『アメリカ』などを作曲している。)
祖国から離れ、孤独で厳しい生活を送っていた彼らは、同じポーランド出身の世界的ピアニスト、パデレフスキの来米を誇らしい出来事として熱心に歓迎した。
ポーランド政治史研究者の宮島直機氏によれば、1891年から1914年まで合計9回アメリカの演奏旅行を行ったパデレフスキは、その度にアメリカにいるポーランド人移民と積極的に交流したという。具体的には、このアメリカという新天地でのポーランド文化やポーランド問題の知識の普及に努め、関連する雑誌の資金援助を行った、などである。彼はまた同国にある「ポーランド救済委員会」という政治組織にも加わり、その中で、徐々に頭角を現していく。こうして彼はアメリカの演奏旅行を通して政治の世界に関わり始めたのである。だが依然として彼の活動の大半は音楽活動であった。



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パデレフスキ「ピアノ協奏曲」



だが運命のいたずらとも言おうか、パデレフスキが政治の表舞台に否応なく出ざるを得なくなった、一大転機が1914年に起こる。人類初の世界規模の戦争、第一次世界大戦である。
言うまでもなくこの大戦は、1914年の6月28日のサラエボ事件でオーストリア皇太子が殺害されたのをきっかけに、ヨーロッパの大国が協商国(英・仏・露)と同盟国(独・墺)に分かれて戦争を始めたのは高校の世界史でもお馴染みのことである。

実はこの大戦はポーランドにとっても独立の千載一遇のチャンスでもあった。と言うのも、それまでポーランドを仲良く一緒に分割支配していたロシアと、ドイツ・オーストリアが争い始めたことに加え、双方共に、相手側の支配するポーランド人に向けて‘ 独立ないし統一 ’を呼びかけることで、相手側から寝返るようにはたらきかけたからである。

ポーランド人はこうした大国の思惑を逆に利用することで、‘ 独立ないし統一 ’を達成しようとしたのだ。その際,、協商国(ロシア)側についたのが、当時ロシアでも国会議員を務めたポーランドの政治家、ロマン・ドモフスキ(1864-1939)という人物であり、同盟国(ドイツ・オーストリア)側についたのが軍人で政治家のヨゼフ・ピウスツキ (1867-1935)という人物であった。


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左: ヨゼフ・ピウスツキ (Józef Piłsudski)
右:ロマン・ドモフスキ(Roman Dmowski)
二人は日露戦争の際に来日もしている。


大戦が始まるとドモフスキは大国アメリカを自らの側につける必要を感じていた。しかしここに問題があった。彼は1912年に自身が始めた、ロシア領ポーランドでユダヤ人排除のため彼らの商品をボイコットするキャンペーンを行ったことで、アメリカのユダヤ人社会から反発を買い、信用を落としていたのである(この騒動には、反ユダヤ主義とは距離をとっていたパデレフスキも巻き込まれている)。そこでアメリカでの知名度が高く、同国のポーランド移民とも密接なかかわりのあるパデレフスキの存在が重要になったのだ。パデレフスキ自身も、自らのピアニスト人生を犠牲にしても、ポーランド独立のために行動しようと決断したようである。彼は自伝で次のように述べている。


「芸術家としての生涯も、一先づ終わりだ。或は永遠の告別かもしれない。既に終わつてしまったのだ」と私は心で思つた。私はこれをはつきりと悟つたが、心は重かつた。

 『パデレフスキー自伝』 P.439


これほどの緊急事態でも、自身は政治家よりも芸術家の方に未練があったようだ...


名演奏家としての高い知名度を生かして、パデレフスキはアメリカ政府に接近し、ついに1916年に時のウィルソン大統領との会談に成功する。目的はアメリカが協商国側の一員として参戦するとともに、ポーランドの独立も支持してもらうことである。だがさすがに一介の「ピアニスト」の説得だけではアメリカはすぐに行動に踏み切れなかったようだ。

同国に最終的な決断を促したのは、結局、ロシア革命(今年100周年記念になる)が勃発したことでロシアが大戦から離脱したことであった。これによってドイツ・オーストリア側が戦力を巻き返すのを恐れたウィルソン大統領はついにアメリカの参戦を決め、ポーランドの独立を含むいわゆる「ウィルソンの14か条」を1918年1月に宣言したのである。
こうしてドモフスキ、パデレフスキの一派(国民委員会)は米英仏の協商国によって公式にポーランド代表として認められた。
だが一方で、その時は既にポーランド全域がドイツ・オーストリア側の占領下にあった。1918年11月についにドイツが降伏すると、いち早くポーランドに乗り込み、権力を掌握したのは元々ドイツ側についていたピウスツキであった。それに対してドモフスキ、パデレフスキらの国民委員会はパリにあった。これでは両者の「二重権力」状態になってしまう。だがドモフスキとピウスツキの間では長年の政治上の対立があり、とても互いに協力できる状態ではなかった。
宮島氏によればそこで仲介役として白羽の矢が当たったのがパデレフスキだった。
1919年1月にポーランドに帰国した彼は首相に就任する。
ここに歴史上はじめて、プロのピアニストが一国の首相にまでなったのである。




では続いて第二の疑問、何故ポーランド国民は独立の「英雄」であるパデレフスキに早々に失望し、彼はすぐに首相を辞めることになったのか、である。

躓きの石になったのは、彼が首相に就任する直前、パリでポーランド代表として署名した第一次世界大戦の講和条約(パリ講和条約)であったといわれている。問題になったのは、ポーランドの「 領土問題 」である。
独立は達成したものの、その領土をどこまでとするのかで連合国、ポーランド、そして敗戦国ドイツの間で交渉は紛糾したのである。
現代の世界においても、しばしば見られる「 領土問題 」だが、ポーランドの場合はよりそれが極端であった。というのもポーランドの領土がどこまでの範囲なのか、当時のポーランド人の間でさえ、意見が割れていたからである。

この問題は根深いので少々詳しい説明が必要だ。
先ほど述べたポーランド分割では一方的に外国に支配されているイメージのあるポーランドだが、実は14世紀後半~分割以前は、逆に周辺諸国を支配する「強国」であった。近年の研究ではこの「帝国」としてのポーランドの性格が注目されている。特に14世紀後半以降、同国は隣国のリトアニアと「合同」して一つの国家を形成し、周辺のウクライナやベラルーシ(当時はルテニアと呼ばれる)に進出していった。その過程でリトアニア人やウクライナ人など他民族を取り込み、14世紀には西方から呼び寄せたユダヤ人やドイツ人も定住したことで、当時のポーランド王国は今でいう「多民族国家」になったのである。


Rzeczpospolita.png

14世紀後半~分割以前のポーランド=リトアニア王国の領土。
黄色がポーランド領(そのわずか北半分が現在のポーランド!)、
赤色がリトアニア領。
周辺の桃色までが王国の最大領土。



ここで問題は、仮にポーランドが、‘ 独立ないし統一 ’を回復した場合、‘ かつての多民族の「帝国」としてのポーランド ’に戻るのか、それとも‘ ポーランド人のみのポーランド国家 ’に変わるのか、ということである。ピウスツキら多くの独立主義者が前者を支持したのに対し、ドモフスキは後者を支持した。
ドモフスキの思想を研究している宮崎悠氏によれば、彼の抱くかつてのポーランド王国像とは、中小貴族(シュラフタ)のための封建的な国家(日本の江戸時代にある士農工商のイメージに近い)でしかなかった。彼らは財力のあるユダヤ人を「優遇」して、肝心のポーランド人の経済発展に寄与しなかったと考えていたからである。――ドモフスキはかつてポーランドが支配下に置いていたウクライナ人やユダヤ人を今度は逆に将来的には領土から排除することで、真にポーランド人のための近代的な「国民国家」が生まれると信じたのである。
一方パデレフスキは、宮崎氏によれば、1916年にウィルソン大統領と会談した際、かつてのポーランド=リトアニア王国に属する民族がそれぞれ独立した国を持ちながらも、一種の連邦を構成するような「ポーランド合衆国」の案を示していたという。



しかし結局のところ、パリ講和会議で決められたポーランドの領土は、ポーランド人側の意見はほとんど反映されないまま、大国同士の外交で決着した。つまりポーランドは独立した国家ではあったが、一部の領土は未解決のまま残ったのである。その上、人口の約三分の一がウクライナ人やユダヤ人などの少数派で占められ、しかもこうした少数派は自治の権利をポーランドに要求したため、最終的にこれらの少数民族を保護する条約も調印された。しかしポーランド国民は(同様に少数派を抱える)ドイツが条約に加わっておらず、不公平であると反発した。


290px-Poland1937linguistic.jpg

第二次世界大戦前(1927年)のポーランドの言語分布図。
中央の赤色がポーランド語話者、西側の青い斜線部分がドイツ語話者、東側の黄緑色がベラルーシ語話者、黄色がウクライナ語話者である。


このように「戦勝国」でありながらポーランドに数々の制約を課す内容の講和条約を調印したことで、パデレフスキはポーランド国内の支持を失っていったのである。
パデレフスキにしてみれば、小国のポーランドが、英米仏など大国に認められた上での独立を勝ち取る為には、不十分な条約も受け入れるしかないと考えていたのだろう。
しかし彼は結局ポーランド国内で孤立し、「英雄」から今度は国の「裏切者」にも等しい扱いで首相を辞任し、祖国を離れたのである。
その後1941年9月、再びナチス・ドイツがポーランドに侵攻したことを受け、パデレフスキは亡命ポーランド政府の財源確保のために、演奏活動を行う。しかしその途上1941年、ついにはアメリカで客死したのであった。



ポーランドは、その後も第二次世界大戦、そして冷戦という時代の激変を経験する事になるのであるが、その途上ではかつてポーランドに居住していたユダヤ人が大量に殺戮され、ポーランド人やウクライナ人も互いの故郷を追放されるという悲惨な出来事が続くのであった。
しかしながら、かつてピウスツキやドモフスキらを悩ませたポーランドの領土問題や少数民族問題は、逆説的だが、これら一連の暴力により「解決」をみたのである。
だが、果たして他の選択肢はなかったのだろうか……
こうしたポーランドの過去の歴史から、いかに学ぶべきかは、現代世界においても、各地で起きる紛争・領土問題・少数民族問題を抱える現代においても、重要課題となっているのである。




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ショパン「英雄ポロネーズ」 パデレフスキ演奏


名ピアニスト、パデレフスキは自らの音楽家としての経歴を生かして、アメリカのポーランド移民社会で巧みに政治活動を行い、その後アメリカ政府との交渉を担い首相にまでなった、二足の草鞋を履く「音楽政治家」であったといえようが、皮肉なことに、彼は愛する祖国ポーランドで自らの支持を得ることができなかった。
彼が晩年、アメリカでショパンの「英雄ポロネーズ」を演奏している映像がある。顔には深いしわが刻まれ頬がやせこけた姿には、容姿端麗で野心的な壮年期の面影はない。しかし演奏の方は若き日を思わせるような情熱的なもので、まるで祖国に対する悲哀と、祖国愛の間で揺れる彼の屈折した思いがそのまま音に溢れているようだ。ショパンがさほど好きではない私でも、彼のショパン演奏には心を揺さぶられるものがある...




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パデレフスキ「メヌエット」自作自演


(門前小僧)


主要参考文献
イグナツィ・パデレフスキ『パデレフスキ―自伝 愛国の音楽者』(第一書房、1940年)
伊東孝之『ポーランド現代史』(山川出版社、1983年)
ティモシー・スナイダー『ブラッドランド ヒトラーとスターリンの大虐殺の真実』(筑摩書房、2015年)
宮崎悠『ポーランド問題とドモフスキ 国民的独立のロゴスとパトス』(北海道大学出版会、2010年)
宮島直機「政治家パデレフスキ」(『ロシア革命と東欧』、彩流社、1990年)




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