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2018.08.25 (Sat)

シュッツとドイツ三十年戦争——戦乱の中の祈りの音楽

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



若きシュッツの処女作「イタリア・マドリガーレ集」の「春は微笑み」。
ヴェネツィア留学時代のイタリア音楽の影響が色濃いといわれる。


クラシック音楽で数々の大作曲家を生んだドイツ。その中で特に「ドイツ音楽の父」と呼ばれる作曲家がいる。実はバッハではない。彼の時代よりもさらに100年前の17世紀に活躍した作曲家、ハインリヒ・シュッツ(Heinrich Schütz, 1585年- 1672年 ドレスデン)その人である。
一般的には、バロック時代のバッハや、古典派からロマン派にかけて活躍したベートーヴェンなどに比べれば、彼の知名度は低いと言えるだろう。我々が、ドイツの古い時代の音楽に耳慣れていないせいもあるが、彼の残した宗教的な声楽曲を中心とした作品群がどれも至って、行儀が良く物静か、悪く言えば強い印象を与えるような作品が少ないのも、一般的に広く知られない理由の一つだろう。




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ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)。テューリンゲン地方の宿屋の息子に生まれ、その美声から合唱隊に入隊後、マールブルク大の法学部に進学。その後ヴェネツィアに留学し、作曲家ジョヴァンニ・ガブリエーリの下で研鑽を積んだ。
1614年にザクセン公に請われドレスデンに移住、宮廷楽長に就任した。その後はデンマークなどの滞在を挟みながらも終生その地に暮らした。



しかし、地味な彼の作風とは裏腹に、シュッツの生きた17世紀のドイツはバッハはもとより、ベートーヴェンの生きた革命の時代と比べても、より過酷で苦悩に満ちたものだった。何しろ、当時の同国を襲ったのは、30年にも渡る、ひたすら人が死んで行くばかりで中々勝敗も決まらない文字通り‘ 絶望的な戦争 ’、いわゆる「三十年戦争」と呼ばれるものだったのだから。シュッツ自身が「われらの愛する祖国ドイツにおいて絶え間なく進行する危険な戦争によって、素晴らしい音楽が後退しただけでなく、所によっては完全に止まってしまった……」と書くほど、当時黎明期にあったドイツの音楽文化は、この戦争によって早くも消滅の危機に瀕した。
ではドイツを物質的にも精神的にも瀕死の状態に追い込んだ三十年戦争とは一体どのようなものだったのか。そしてその中でシュッツはいかにして自らの音楽を守り抜こうとしたのだろうか。



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三十年戦争時の日常。集団処刑の様子を表している。



くしくも三十年戦争は今年、開戦から400年目を迎えるが、過去に起こった出来事、と簡単に済ませられるものでは決してない。
近年の研究者が注目している、この戦争の特徴をいくつか挙げてみると、

① 宗派対立
② 権力をめぐる国内の政治対立
③ 「民間軍事企業」の活動
④ 隣国の大国を巻き込こんだ、出口の見えない長期戦


…正に現在の中東のシリアやイラクで起こっていることそのものではないだろうか。(実際、ドイツの政治学者ヘルフリート・ミュンクラーも近著『三十年戦争』の中で現代の中東紛争との類似性を指摘している)。



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。



シュッツ 「十字架上の七つの言葉」SWV 478
指揮 グスタフ・レオンハルト モンテヴェルディ合唱団



以下ではこれらの特徴を、もう少し詳しく検討してみよう。

まずは①の宗派の対立である。

そもそも「宗派」とは同一の宗教の中で異なる教義を持つ集団を指す(仏教では浄土真宗や日蓮宗などがあり、イスラム教ではスンニ派とシーア派がそれに当たる)。
一方、16世紀のドイツではキリスト教のカトリック対するプロテスタントが代表的であった。両者の違いは様々な点にあるが、その一つが聖職者と平信徒(一般の信者)の関係である。

カトリックでは神と平信徒を仲介する「聖職者」の権威が強い。そして「ローマ教皇」を頂点として、司教・神父へと権威が格付けされるヒエラルキー体制が築かれた。
一方、プロテスタントはそうした聖職者の特権的な地位を廃止し、「万人司祭」の原則の下、牧師も平信徒も平等であるというのが原則である。
またカトリックでは、平信徒は壮麗な教会の中で行われる‘ミサ’に毎週参加しなくてはならない――しかも彼らには分からないラテン語で!
これに対し、プロテスタントは教会の儀式に参加することそのものよりも、平信徒が「聖書」を実際読んで内容を理解することを重視していた。そのため聖書もラテン語から平信徒にも分かる俗語――この場合、英語やドイツ語などを指す――に次々と翻訳されたのである。



 プロテスタンティズム(中公新書)



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世界史でもおなじみの、プロテスタントを代表する二人、
マルティン・ルター(左 Martin Luther, 1483-1546)とジャン・カルヴァン(Jean Calvan, 1509-1564)。

ただプロテスタントは、カトリックと違って一枚岩ではなく、「正統」や「異端」の考え方もない(そもそも‘ プロテスタント ’の語源は、カトリック的な政策に反対(プロテスト)した人々を全てひっくるめてカトリック側がつけた(侮蔑的な)名称だという)。
そのプロテスタントの中で、世界史の教科書でもおなじみなのは、ルターとカルヴァンだろう。ルターは宗教改革の口火を切った人物であり、権威は「聖職者」ではなく「聖書」にあるとして、民衆にも分かるように聖書の‘ ドイツ語訳 ’を行う一方、政治的にはローマ教皇の権威を否定することで、各国の君主の下に教会が従属することも容認した。
他方でカルヴァンは神の救いを得られる者があらかじめ定められているという独特の「予定説」を唱えた。またルターとは違い世俗の権力を否定し、教会による一種の神政政治をジュネーヴで行った。



このカトリックとプロテスタントによる宗派対立が、三十年戦争の引き金になったというのが一般の「通説」である。しかしそれだけで30年もの間、戦争が続いたわけではない。
ここで、現在の我々の生きる世界を顧みてみると、中東を二分するイスラム教におけるスンニ派とシーア派という宗派対立がある。これについて、中東研究者の池内恵氏が「教義の正しさをめぐる争いというよりも、宗派コミュニティ同士の争い」であると指摘していることは、三十年戦争の原因を考える際にも参考になる。


 シーア派とスンニ派 (新潮選書)   



カトリックの教義が正しいか、それともプロテスタントの教義が正しいのか――について、実は、三十年戦争が始まる数年前、1555年の「アウグスブルクの宗教和議」という取り決めで既に「妥協」が図られていた。その結果、カトリックとプロテスタントは教義の内容を問わず‘対等’なものとされ、どちらを選ぶかは、その地を治める‘ 君主 ’に委ねられる(一般の民衆ではない)ことになったのである。(「それぞれの君主にそれぞれの宗教 cujus regio, ejus religio」)。この時点で少なくとも教義に関する問題は棚上げにされた。

しかし一方で「アウグスブルクの宗教和議」で‘ 君主に宗派の選択権 ’が与えられたことで、その君主の‘ 領地全体 ’がカトリック化、もしくはプロテスタントだけに占められることになった。( 改宗に反対する住民はその領地を出ていかなくてはならなかった)
こうした君主によって一つの宗派がある領地に均一的に広げられる過程を「宗派化」という。このような過程を通して、ドイツではカトリックとプロテスタントの地域が次第に明確に二分され、双方の「宗派コミュニティ」の形成が進んでいったのである。



Konfessionsverteilung 1560

当時の神聖ローマ帝国の宗派分布図。桃色がルター派、黄色がカルヴァン派、紫色がカトリック。北部はプロテスタントが、南部はカトリックが多いことがわかる。この分布自体は、現代でもあまり変わっていない。


「宗派化」の形成は、上記の②「権力をめぐる政治対立」とリンクすることで三十年戦争が拡大する要因になった。

これを考える際、当時のドイツが「神聖ローマ帝国」と呼ばれる、一種の「連邦制」的な政治的枠組みを持つ国家、であった点に注意しなくてはならない。
当時300以上の‘ 領邦 ’――諸侯が治める領地や都市国家などを指す――から構成された、この複合的な国家では、政治的な最終決定は、領邦の代表者(「等族」)が出席する帝国議会で図られていた。帝国の行政上のトップである皇帝でさえも、領邦と常に利害を調整しながら政策決定を行わなくてはならなかったのである。
先ほどの「アウグスブルクの宗教和議」も、ハプスブルク家出身でカトリック教徒である皇帝と、カトリックやプロテスタントの領邦の代表の間の交渉によって決まったものだった。つまり双方の宗派は、交渉や合意を通して慎重に互いの勢力のバランスをとっていたのである。


だがこうした交渉と合意の政治に不満を持ち、自らの信仰するカトリックと‘皇帝’の権力の一方的な拡大を望んだのがハプスブルク家の皇帝フェルディナント2世だった。彼は「プロテスタント」が多かったベーメン(現在のチェコ)王国において、自らが信奉する「カトリック」の宗派化を強引に進めようとした。しかしプロテスタント貴族がこれに反発し、皇帝の代官を廊下の外に放り投げるという、前代未聞の事件を起こしてしまう(1618年の「プラハ窓外放擲事件」)。
これを契機にベーメン各地で発生した反乱に対し、皇帝側もスペイン軍やカトリック諸侯の連合軍を率いて鎮圧に乗りだした。これが三十年戦争の始まりとなる。

皇帝軍は1620年の「白山の戦い」で反乱軍を破ると、プロテスタント側を支援するデンマーク軍にも、後に述べるヴァレンシュタインの活躍で勝利した。勢いにのる皇帝側は帝国全体でカトリック側に有利な「復旧令」を1629年に発布する。
だがこの勅令に対してドイツ全土のプロテスタント諸侯は(それまで皇帝に友好的だった者も含めて)、既存の宗派のバランスを崩すような、皇帝の独断専行であると激しく反発した。
こうして、キリスト教内の‘ 宗派対立 ’に、皇帝 対 等族(領邦の代表)の間の‘ 権力闘争 ’が絡み合い、三十年戦争は激化していったのである。



この三十年戦争では、現代でいう③「民間の軍事企業」が特に目覚ましい活躍を見せた。
最近では米軍において、通常の正規軍とは別の「プライベート・ミリタリー・カンパニー」の存在がイラク戦争などでメディアに注目されたが、17世紀のヨーロッパではむしろそちらの方が主流である。‘君主’は基本的に莫大な金を払って「民間軍事企業」、つまり当時の傭兵及び傭兵隊長と契約し、全線で戦わせたのだ。


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アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(Albrecht von Wallenstein, 1583-1634)の胸像(オーストリア軍事史博物館蔵)

この三十年戦争で最強の傭兵隊長として名をはせたのがヴァレンシュタイン
元はベーメンのプロテスタントの貧乏貴族からカトリックに改宗し、妻の資金を元手に一大傭兵軍団を擁するまでにのし上がった彼は、‘皇帝’と契約し、プロテスタント側を各個撃破していた。特にプロテスタント側のデンマーク王クリスチャン4世を破ったことは、ヴァレンシュタインの威信を大いに高めた。また彼は支配した領地に徴税制度を敷くことで、軍事物資の安定的な供給に努める等、当時では先進的な兵站を整備した(ただしその取り立ては厳しく、農村部は疲弊したという)。しかしそれでも傭兵の生活は苦しく、多くは農村での略奪や強盗によって糊口をしのいでいたという。

当時、彼ら傭兵たちの様子を歌った歌が『ジンプリツィスムスの冒険』(邦訳 『阿呆物語』 )という小説の一節にある。

「飢えも乾きも、暑いも寒いも、苦労も文無しも、
あなたまかせのおいらの世界、
火つけ強盗で日を送る、
おいらはけちな傭い兵」

 阿呆物語 上(岩波書店)


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当時の傭兵の服装(オーストリア軍事史博物館蔵)



皇帝側とヴァレンシュタインが率いるカトリック側の一連の勝利に対して、周辺諸国は危機感を覚えた。それはプロテスタントに限ったことではない。
例えば隣国のフランスなどはカトリックながら、オーストリアとスペインを有するこのドイツ ハプスブルク家に挟み打ちにされるのを常に恐れていたため、ハプスブルクの力を弱めるべく、プロテスタント側を暗に支援していた。

一方当時、北方でプロテスタントの強国として成長していたスウェーデンは、『獅子王』の異名を持つ国王グスタフ・アドルフを先頭に北ドイツに侵攻した。
このスウェーデン軍の強さの理由の一つにマスケット銃の「三段戦法」があった。この戦法については、既に織田信長が1575年の長篠の戦いで世界史上初めて採用していたことは以前のブログにも書いた。( 「トルコ行進曲」と二つの帝国(1)―世界史を変えた17世紀 )



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スウェーデンの「獅子王」、グスタフ・アドルフ(Gutavus Adolphus, 1611-1632)


ドイツのプロテスタント諸侯からは、「解放者」として歓迎され、破竹の勢いを見せるスウェーデン国王、グスタフ・アドルフに対して、皇帝フェルディナント2世は当時臣下の讒言でいったんクビにしていたヴァレンシュタインを急いで呼び戻す。
こうしてグスタフ・アドルフとヴァレンシュタインが相まみたのが、1632年のリュッツェンの戦いである。両軍合わせて2万人。この内、半数近くが死傷するという激戦を制したのは、スウェーデンの方であった。
しかしその代償も大きかった。国王グスタフ・アドルフが戦死したのである。指揮官を失ったスウェーデン軍はやがて三十年戦争から離脱せざるを得なくなる。
一方のヴァレンシュタインにも悲劇が待ち受けていた。完全勝利を諦め、敵軍と和平交渉を進めようとしたところ、皇帝によって再び罷免されたのである。しかもその後、彼は皇帝側の刺客によって暗殺されてしまう……フェルディナント2世が彼の反逆を疑ったからとされている。

グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインという両雄を失いながらも、戦争はまだ続いた。ドイツを牽制すべく暗にプロテスタントを支援していたフランスが、ついに皇帝側に対して攻撃をしかけたからである。一方皇帝側も負けてはいない、スペインの援助を仰いだため、戦況はますますの膠着状態に陥った。
こうして現代の中東紛争さながらに、④「隣国の大国を巻き込こんだ、出口の見えない長期戦」がその後も延々と続くことになり、泥沼の様相を呈していく事となった。



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三十年戦争時のヨーロッパ。中央の、紫色の太線の内側が、当時の300の領邦をかかえる神聖ローマ帝国であり、その南東部分がハプスブルク領オーストリア(濃緑色)、フランスの南がハプスブルク領スペイン(オレンジ色)。
帝国にフランス(ピンク色)は挟まれた形になっている。


さて、三十年戦争では‘ 戦い ’ばかりが、人々を苦しめたわけではなかった。最近、異常気象 のニュースをよく聞くが、実は当時のヨーロッパも、1560年頃から「小氷河期」という気候変動が起こり、作物の不作が続いていたのである。それに加えて、先に述べた戦中の傭兵による農村の略奪が起こり、ドイツ全体が‘ 食料不足 ’に陥った。やがて‘ 疫病も蔓延 ’し始め、次々に人々は死んでいく……。
その結果、戦中に全ドイツの人口はなんと、3分の1にまで減少してしまったのである。



本題に戻ろう。このような戦乱に明け暮れた地獄絵図の中で、‘ 芸術活動 ’など本来ならば望むべくもないだろう。
三十年戦争当時、ドイツ人シュッツはザクセン公の下に宮廷楽長として仕えていたが、この様な状況下、当然音楽活動のための資金は削減され、楽団員の援助をシュッツ自ら筆を執って公に‘ 懇願 ’しなくてはならないほどであった。シュッツ自身も旺盛な創作意欲がありながら、やはりオペラなどの大作はとても書けない状況だった。
代わりに彼が取り組んだのは「小教会コンツェルト集」(Kleine geistliche Konzerte)と呼ばれる、声楽曲の作曲である。
この曲は3~5人程度の小規模な編成で、イエスへの賛歌を淡々と歌ったものだ。が、シュッツ自身の「神から受けとったわずかな才能」を辱めないように精魂を込めて生み出した作品、と言われている。彼がそこまで情熱を注いだ背景には、やはり戦争による悲惨な状況があった。ブログの最初の「われらの愛する祖国ドイツにおいて絶え間なく進行する危険な戦争によって・・・」というシュッツの言葉は、この曲の「序言」に載っていたものである。だが彼は続けて次のような力強い言葉を述べている。


「 とりわけ自由な芸術作品や素晴らしい音楽などの形をなしているものはいずれも、呪わしい戦争に必然的に伴う、全般的な崩壊やバラバラの混乱の傍で、人間の眼前に存在している。私はそのことを、いくつか作曲した自らの音楽作品から、自身で経験している。 」



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「小教会コンツェルト集」から。
指揮 ヴィルヘルム・エーマン。シュッツの再評価と録音に先駆的に取り組んだ。
彼もまた第二次世界大戦という、シュッツと同様の戦乱の時代を生きた人物だ。
(ただしエーマンはナチスともかかわりがあるという、中々複雑な背景の持ち主だが・・・)。



意外にも、この曲の音色からは、当時の戦火の暗い影があまり感じられない…むしろ彼の音楽には一抹の光を灯すべく、温かさや明るささえ感じられないだろうか。それが共感を呼んだからだろうか、1639年に最初の第一集が発表されると、当時の聴衆から大きな反響が寄せられたという。



長期に渡って続いた戦争は、ようやく1648年のウェストファリア条約によって終結した。これは無意味な宗教戦争に終止符を打ち、各国の主権とバランスを尊重した初の国際条約として、後世に高い評価を得ている。これ以降、西欧で宗教や宗派の対立を原因とする戦争はなくなったのだ。

( 近年は条約が過大評価されているという研究も現れている。内容をよく見てみると、宗教の寛容については1555年のアウグスブルクの宗教和議の内容をほぼ繰り返したもので、新しいのはルター派に加え、カルヴァン派にも平等が認められたくらいである。また「各国の主権の尊重」も正確とはいいがたく、既に述べた神聖ローマ帝国の300以上の領邦の複雑な権利関係が改めて確認され、皇帝の権力がこれまでよりも制限された程度で、現代の主権平等の原則とはおよそかけ離れたものあった。この「ウェストファリアの神話」は主権国家に基づく国際秩序の起源を見出したいと望んだ19世紀以降の学者が「創作」したものではないか、というのが現在の研究の主流である。)



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ミュンスターでのウェストファリア条約の調印式の様子。



条約の評価はともかく、ドイツにようやく平和が訪れた。
シュッツは同年、「教会合唱曲集」(Geistliche Chormusik)を発表した。これは一説には彼なりに「平和の年に貢献」するために作曲したのではないかともいわれている(Gregor-Dellin, S. 280.)。しかし長引いた戦乱からドイツが回復するには、その後も長い月日を必要としたのである。



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「教会合唱曲集」
指揮ヴィルヘルム・エーマン、ウェストファリア・カントライ演奏。


三十年戦争の終結から300年以上が経過した今の私たちの世界はどうだろうか。
中東を初め世界各地において、宗教上、政治上、経済上の合意やバランスは無視され、いまだ終わりのない対立や戦乱が、再び世界を不安に陥れているではないか。21世紀に於いてさえも、先の見えない状況への焦りや苛立ちに人々は日々苛まれているように見える。
そんな時こそ、シュッツの音楽に一度耳を傾けてみてはどうだろうか。戦乱の最中に生まれた彼の作品の、どこまでも穏やかな調べの根底には、平和と安定への切実な祈りが通奏低音のように響いている、と私には思われる……。


(門前小僧)


参考文献

明石欽司『ウェストファリア条約 その現実と神話』(慶応大学出版会 2009年)
池内恵『シーア派とスンニ派』(新潮社 2018年)
グリンメルスハウゼン『阿呆物語 上』(岩波書店 1953年)
テラール、ロジェ『シュッツ(不滅の大作曲家)』(音楽之友社 1980年)
Gregor-Dellin, Martin, Heinrich Schütz. Sein Leben, sein Werk, seine Zeit, Piper, 1992.
Münkler, Herfried, Der Dreißigjährige Krieg. Europäische Katastrophe, deutsches Trauma 1618–1648, Rowohlt Berlin, 2017.
Schmidt, Georg, Der Dreißigjährige Krieg, C. H. Beck, 2010.


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