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2009.05.02 (Sat)

ベートーヴェン交響曲第5番「運命」~フルトヴェングラーの場合

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 引き続きクラシック万歳!!



1、カラヤンとフルトヴェングラーは違うということ    

百聞は一見にしかず、まず下にある二つの録音をきいて欲しい。前者は「楽壇の帝王」カラヤン、後者は今回の主人公フルトヴェングラー、である。






何を感じただろうか。聴き比べてみると確かに何かが違う。カラヤンの演奏には不思議なことに覇気というか重厚な音の厚みというか、そうしたものが欠けているように思われる。地に足がついていない、どこかぼんやりとした演奏。いや、もっと言うと―ベートーヴェンというものを捉えきれていない―これがしっくりとくる表現だろう。他方のフルトヴェングラーの場合。なかなかこれも表現し難いが重々しく、時に曲の深淵に迫るようなあの響きには圧倒される。この違いは一体何なのか。そしてそれはどこからでてくるものなのか。結論からいうと違いはあって当然なのである。何故ならフルトヴェングラーとカラヤンの間には「音楽の断絶」ともいえるある決定的な価値観の変化が存在したから。それは音楽という存在をどう捉えるかという問題に直結する。以下、その問題に関するフルトヴェングラーの考え方について述べたいと思う。

2、曲をすべて楽譜通りに弾く必要はないということ                                             

少し語弊があるだろう。すべて「イン・テンポ」で弾く必要はないと言い換えてもよい。フルトヴェングラーはまずそれを信条とする。彼は自著「音と言葉」の中で次のように述べている。
 
併し演奏指導の目的から考察してみると、この「譜面に忠実な再現法」はただ貧しい演奏というだけですませておけぬものを含んでいます。最善の場合にしてもそれは一字末句に拘泥する狂信家の「理想」であり、生来の道学先生の「理想」とするものでしかありません。

彼は当時の作曲家の作品をそのまま演奏することは不可能であり(例えば作曲者の指定したフォルテやピアノの実際の強度など後世の人が完璧に関知できる筈がない)それに時間を費やすことは「時間の無駄」と喝破する。彼が重視したものは別にある。それは作品を真に「体験」するということ。彼にとって「体験する」とは作品に対する熱烈な共感とその底辺に流れる混沌とした心情、感覚を正確に知覚することを意味する。そしてそれを最大限聴衆に演奏という行為で目の前に表現するためなら、(たとえそれが楽譜に書かれていなくとも)テンポを自在に変えても構わないと彼は考えたのだ。これはなるほどある意味原始的かもしれない。同時代の指揮者トスカニーニが彼を評して「天才的素人」と言ったのもこの所為である。大体、現代の演奏家の大半は作品をもっと冷静に、学究的に意味づけようとする。例えば「この作品の成立の背景には作曲者のこんな過去があった」とか「作曲者はこれこれの楽器をここで効果的に使おうとした」等々。しかしフルトヴェングラーはそれらを無視する。彼の頭の音楽とはそんな機械的な、無機質なものではなかった。彼にとって作品から生み出された音楽だけが全て。その他は第二義的なものでしかなかった。ここまで来るとフルトヴェングラーとカラヤンを分つ断絶もおのずと分かろう。それはつまるところ、作品に対する接し方、考え方にあったのだ。

3、曲の「混沌」を呼び戻すということ

ではフルトヴェングラーは具体的に何を以って曲を演奏しようとしたのか。その鍵となるのが先に書いた曲の底辺に存在する「混沌」である。混沌とは一体何か。そのことを考える前にまず、フルトヴェングラーはそもそも元は作曲家であったということを確認しておかなくてはならない。彼は音楽の作られ方というものを知っていた。音楽を作る時、作曲家はまず何を考えるだろう。いきなりドレミの音符が頭に浮かぶわけではない。あるのはもっと抽象的なインスピレーション、感情である。(もっとも現代の作曲家は構造原理などいうものを持ち出して機械的にやってしまうかもしれないが。)それは直接言葉で表現したりすることはできない。何故なら言葉の終わる所に音楽があるからだ。それが「混沌」である。混沌を音符によって形象化するという作業こそ作曲である。演奏家はそれを楽譜から再現する。この際重要になるのが演奏家はその曲からもう一度混沌を呼び戻さなくてはならないということだ。これがカラヤンを含め現代の演奏家に不足している。彼らは元から作曲家ではないからだ。彼らは曲の背景に存在するものを知らない。あるのは「この曲をどううまく、効果的に演奏するか」である。フルトヴェングラーはその危険をよく知っていた。彼は繰り返しその危険を訴えたが一体幾人がそれを理解しただろう。感情に流されない冷静な「原典主義」による演奏。それが当時もてはやされ、そして現在個性の無さという面から徐々に反省されているものである。ところでここである疑問が湧く。混沌を呼び戻すのは良いとしてでは実際、演奏家に求められているものは何なのか。作曲家になれ、といっているのではない。重要なのは演奏家の「人格」である。19世紀まで演奏家はある意味芸人だった。超絶技巧を駆使して聴衆を喜ばせれば良かった。しかしそれは真に聴衆を感動させはしない。フルトヴェングラーの演奏がある人がいうに「体の中からきらきらと砂金のようなものが出てくる」ものだったのは必ずしも技術だけではない。演奏家自身の心に宿る情念である。その強靭な情念の放出を聴衆は受け止めるとそこに「感動」が生まれる。演奏行為の本質はそこにあるとフルトヴェングラーは考えたのだ。

4、曲を「有機体」として捉えること

さて、ここでフルトヴェングラーの曲の解釈の仕方について述べたい。フルトヴェングラーは曲の細部にはそれほどこだわらない。曲の「全体」を捉えようとする。彼はまず曲の混沌を中心に据えそこから部分がいかにして全体と呼応するかを見極める。そして部分と部分がつながり展開する様を明瞭に示してみせる。また曲の混沌を見出す際の手がかりとして部分を読み解くということも強調している。そもそも部分だけを過度に強調しあたかもそれが個性であるかのごとく振る舞う演奏家はいくらでもいる。しかし曲をまるごと取り出して料理するとなると未熟な演奏家は作品への切り口が見つからず四苦八苦し、「そのような考え方は古臭い」というのが関の山だろう。そしてそのようなものに限って「原典主義」を声高に叫ぶ。(ただしそうではない演奏者ももちろんいる)フルトヴェングラーとの違いはここにも如実に表れている。次に曲の「緊張と弛緩の交互作用」について。フルトヴェングラーの演奏でしばしば指摘されるのは「ダイナミックレンジの広さ」、すなはちフォルテッシモとピアニッシモのあまりの落差と曲のテンポの伸縮だ。何故このような行為が許されるのか。それは先に音楽的「体験」の為にあると書いた。ただ、これらはあくまで表面的、外見的なものである。これは「そもそも音楽とは何なのか」という根源的な問いにつながってくる。何故なら音楽をそのようにいじくりまわすことに何の意義があるのか、その究極的な目的は何なのかという問いに答えられなければ意味がないからだ。フルトヴェングラーの答えはこうだ。音楽とは「有機体」であると。はて有機体とは何か。有機体とは生物である。呼吸し、盛もあれば弱々しい時もある。中心もあれば部分もある。音楽にも始まりと終わりがあるがそれは生物に対応させるならさしずめ生と死だろう。フルトヴェングラーはゲーテに深く心酔していたといわれており、ゲーテの著書『音響論』には「有機体の拡大と収縮の極性作用によって音楽のリズム、長調と短調、さらには『高度の有機体』としての耳の働きが説明されている」といわれ極めてフルトヴェングラーの考えに近いという(芦津丈夫氏)。音楽は生きている。生きている存在として扱う。このように考えた人が一体どれほどいただろうか。音楽とは楽譜に書かれたものとしてしか認知しなかった人がどれほど多かったことか。かれはベートーヴェンの解釈についてこう述べている。

解釈する人のなさねばならぬことは一つしかありません。・・・全作品をその構成ぐるみ、生きた有機体として身を打ち込んでそこに生きることです。(音と言葉)

5、すべて偉大なものは単純であるということ

さて、今回の本題に再び戻ろう。何故フルトヴェングラーにはベートーヴェンが似合うのか。そして何故ほかの演奏家はベートーヴェンにはまり損なうのか。何故カラヤンはブラームスは芳醇に弾けてもベートーヴェンでは貧相な音しか鳴らせないのか。今まで辿ったフルトヴェングラーの論理に従えばおのづとそれも見えてこよう。ベートーヴェンという作曲家の位置は今でも安定していない。一見楽節法に準拠しながらも「第五番」のあの動機は尋常ではない。古典派の最後の巨匠と見る向きもあればロマン派の輝かしい創始者と見る説も成り立つ。つまり、過度期の作曲家なのだ。だからこそどのように弾いたら良いか分からないしどのように弾いても良さそうな気がする。だがそのような甘い見方はすぐに破られる。フルトヴェングラーによるとベートーヴェンは一つの弦楽合奏、あるいは一つの交響曲の総体的な様式をつかむことにかけては正確を極めているのに、各種の楽器やオーケストラに内在している可能性、その官能的な充溢を利用することをまるで忘れているそうだ。だから大編成の管弦楽は用を為さないし、古楽演奏のように「古典的な」ベートーヴェン像を求めても(それもそれで一貫しており愉しい演奏なのだけれど)やはり「第五番」や「第九番」ではいま一つ満たされない気がする。精神性が感じられないのだ。ではどのように演奏すれば良いのか。そこでフルトヴェングラーの出番となる。彼は「文献的な理解」には目もくれずただひたすらベートーヴェンの曲の心臓部である「混沌」を「部分」である楽譜から読み解き、消化して(そのためには演奏家の人格形成がもっとも重要である)自分なりの表現で作曲家の伝えたい真の姿を聴衆のまえにさらけだす。聴衆は感動し「名演」がここに生まれる。フルトヴェングラーは必ずしも単なる「ロマンティカー」ではない。彼は楽節法によって適度に構築された中に底知れぬ心情をたたえたベートーヴェンだけが自らの指標であった。ワーグナーではなかったのだ。彼はこうも言っている。

作品という成果が一層単純であり、その意味する所が明白であればある程、いよいよその前提は複雑であり、錯綜したものである、と。 
――音と言葉―
(門前ノ小僧) 





ベートーヴェン : 交響曲第5番ハ短調(運命)ベートーヴェン : 交響曲第5番ハ短調(運命)
(1997/08/06)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

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1947年5月27日の復帰演奏会
フルトヴェングラーの歴史的ライヴ録音






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