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2010.11.26 (Fri)

岡田暁生氏の「音楽の聴き方」を読む

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 引き続きクラシック万歳!!



秋も深まれば、芸術の秋といわれる。人間の感性が――五官がいろいろ触発される変化に富んだ季節である。五官とは、広辞苑で調べるまでもないが、一応調べてみると、眼・耳・鼻・口(舌)・皮膚の事である。五と漢字を変えると、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚の事になる。よく、研ぎ澄まされた感性!などと芸術家を褒める文句に出会うが、すべては五官から始まるならば、動物の方がより研ぎ澄まされてやしないか。そして子供など動物的な方がより芸術に向いているという事になるのか……。我家の子供は専ら臭覚と味覚のみを研ぎ澄ましている。

さて、秋は読書の秋でもある。去年、岡田暁生氏が「 音楽の聴き方 」という本で吉田秀和賞( 音楽評論家吉田秀和氏に因んで毎年優れた評論に与えられる )を受賞したので読んでみた。その本の中で、クラシック音楽を聴く( 或いは表現する )際に必要なのは、身近なものから得た感覚を頼りに、言葉にする大切さを力説している。よくクラシック音楽は、‘ 精神的で高尚なもので、言葉では説明出来ないがゆえに、その存在価値がある ’と言うようなカッコイイが観念的なとらえ方を批判し,‘ 音楽も言葉で捕えられる範疇にある ’と言い切る。それは何もベートーヴェンの曲だからドイツ語で分からなければならない、という意味ではなく、我々がクラシック音楽を聴いた時に、素直に感じたままを身近なものとして捕え、自分自身の言葉を使って感じ取れれば良いのだと……。例えば、聴きながらいろいろな情景を思い浮かべてみたり、雪のしんしんと降る真夜中の一本道のような…とか、兵隊さんが誇らしげにに勇ましく行進して行くようにとか、夕暮れ時の真っ赤なこぼれ落ちそうな夕日の映える景色がどこまでも果てしなく広がり、だとか――私達は日本人なので日本語に置き換えるのであるが――このように音楽を言葉に置き換える作業を通して、クラシック音楽も身近なものとしてとらえ感じる――大切さを語っている。そう言えば、先日のNHKのスーパーレッスンでピアニストのシフが、生徒に身振り手振りを交えながら、実に表現豊かな言葉を駆使して教え、時には笑ってしまう程であったが、そういう表情豊かな言葉を通して説明を受けた生徒が言葉からの刺激を受けると、もともと豊かなのであろう感受性を大いに発揮し、音色が不思議と違ってくるのである。感受性が先か言葉が先か、鶏と卵の議論になってしまうが、矢張り、先に言葉ありきなのだろうか…。 (爽)


音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
(2009/06)
岡田 暁生

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「音楽の聴き方」の読み方

音楽について書くのは難しい。音楽は文章やせりふでなりたっておらず、絵画のように視覚化もできないので言葉で表現しにくいからだ。例えば私たちは素晴らしい音楽を聴いた後にその感想を言おうとするが、その道の専門家でもない限り、「よかった」や「素晴らしかった」以外に何も言えずもどかしい思いにかられる。私達が小説や詩についてならいくらでも話せ、書けるのに(小学生でさえ読書感想文を書くのだ)音楽については沈黙してしまう理由も、そのような点にあるのだろう。
そもそも「読む」行為がともなう小説や、「演じる」行為がその根幹をなす演劇に比べ、音楽は耳だけで聴く受動的な芸術と思われがちである(三島由紀夫はこれをマゾヒスティックと表現している)。能動的な体験を通して作品の内面性に迫るというよりは、人の感覚にじかにダイレクトにうったえかけてくるものなのだ。そのため何が芸術的に良い作品でどれが名演奏なのかどこか判然としないことがある。ベートーヴェンの第九交響曲とCMソングの違いは何か、と問われてすぐに答えられる人はそういまい。私達が音楽に対して持っている「好き嫌い」の理由を問われても同様だろう。このような、‘ 音楽の特性 ’にまつわる疑問を「言葉」で丁寧に説明してくれたのが本書である。
 
筆者の岡田暁生氏は、音楽を理解するためには、音楽がもつ様々な「 型 」を意識する必要があるという。これが本書の前提だ。そのために筆者はまず聴き方に注目し、これを感性面と言語面に分ける。
まず極力言語を介在させない「 感性面 」について筆者は、私達の中に存在する「 内なる図書館 」――周囲の環境や社会によって形成、蓄積された自らの内面性――それにある音楽が適合するかしないかが「 好き嫌い 」を生むという。いうなれば小さいころからロック音楽に親しんできた人にとってはクラシック音楽は意味不明であり、その逆も同様であるわけだ。
次に「言語面」についてだが、最初に筆者は、音楽を言葉を通じて聴く事を軽んじていた19世紀ロマン派の西欧の音楽評論を批判する。当時はワーグナーを中心として音楽は他の芸術を超越する――なぜなら音楽は言葉などで表現しきれないものでありそれゆえ神なき時代における神的存在であるからだ――と大真面目に主張されていた( ちなみに、それ以前のカントなどはこれと正反対のとらえ方をして音楽は語れないがゆえに下等なものと考えていた )。彼らは一方で音楽作品を論じながら、一方では「 それでも音楽は語りきれない 」と言い続けたのである。この姿勢は現在の音楽評論家や私達一般にもみられるものだ。だが筆者はそれに疑問を投げかける。はたして音楽は本当に語れないものなのか。評論家達の使う音楽専門用語や形而上学の語彙なしには音楽は語れないものなのか…。筆者は指揮者がオーケストラのリハーサルの時に発する言葉や、日本舞踊の指導の際に使われる、音楽を身近な比喩でたとえる「 わざ言語 」に注目し、私達も「自らの‘ わざ言語 ’を用いて、音楽を聴き理解すべき」、と主張するのである。
筆者は続いて音楽自体の特徴に注目することで音楽の「 型 」を浮かび上がらせる。ここで指摘されるのが‘音楽’と‘言語’の類似性だ。言葉は一見平易なようで実は単語、文節、文章と多様な文法構造のうえに成り立っている。同様に音楽にも守られるべき「文法」が存在する。ソナタ形式やロンド様式はその一例だろうし、曲の中でも交響曲の四楽章構成等はそれに当たる。曲の節回し、ラッパの使用一つとってもそれには多様な意味が含まれているし、固有の歴史的背景もあるだろう。このような背景を多く内包している音楽が一般にいう芸術的な作品であると筆者はいう。
確かにそれぞれの音楽に優劣をつけるのは難しく、するべきでもないだろうが少なくとも聴いてなんとなく理解できる曲とそうでない曲の差は、どれだけ‘音楽言語’で語れるものなのか、という点にあるのだろう。
だが19世紀以後になると、音楽の言語的構造はあまり顧みられず、音楽=サウンドという考えが広まり(それを助長したのが先に見た同時代に成立した音楽評論である)、ついにはジョン・ケージの「音楽の響きそのものに注目する」思想まで飛び出したわけである。
それでは演奏はどうか。これもまたその作品における「文脈」にそっておこなえば良いのだが問題がある。演奏者は基本的に、楽譜を通して音楽を再創造するわけだが、それ以外に参考できる、作曲した当時の慣習などは時代を下るにつれ忘れられ失われいく…。現代では、アドルノのいう「作品はよそよそしく、既に冷たくなっている」状態だ。この問題を自らの主観の投入によって克服しようとしたのが名指揮者フルトヴェングラーだという。彼については以前別の文で述べたことがあるが、彼の思想と本書を対比するのも面白く、彼の演奏ははそれこそ「精神的な演奏」といった形而上学的な賛辞が寄せられやすいが、実際の彼の「ベートーヴェンと私達」という論稿を読むと、「わざ言語」こそ出てこないが、その音楽の形態の必然性の究明――つまりは言語的な意味づけ――が見られると個人的には思う。ただ彼は、音楽云々よりもまずその背後にある混沌を理解せよ、と主張したからその意味からすると、音楽の言語性を超えた事を彼は考えていたようだ。
それはともかく以上の事実から、筆者は「音楽は国境を超える」という考えの虚構を指摘するのである。興味深い推論だが、音楽が筆者の言うとおり一種の言語だとするなら演奏の巧拙はともかく、それを深く理解できるのは結局はその音楽が生まれた国や地域、あるいは作曲家の故郷においてではないのか。いくら外国人が三味線を上手に奏しようと、独特の節回しの意味をはたしてどれだけつかんでいるか疑がわしい。反対に日本人演奏家でどれほど難技巧の曲を弾きこなそうとも、少しもその演奏がいわば「歌えていない」人もよく見かける。( 筆者の岡田氏によると西洋ではそういう演奏は下手なのではなく、そもそも「 音楽になっていない 」のだそうだ )
筆者にとって「音楽を聴く」行為とは、意味を探すこと、つまり他者を探すことだという。とすればそのために音楽が言葉である理由はおのずと見えてこよう。
最後に音楽と社会の関係について筆者は述べる。音楽は単なる作曲家や演奏家の専有物ではない。それを聴かせる対象は誰で――18世紀なら貴族、19世紀以後なら主として市民――どこで聴かせるか――コンサートホールのみならず宮殿や教会、サロン、それに家庭内である時代もある――によって音楽の形態は変わってくるだろう。つまり音楽は社会の規定を受けるのだ。
逆に音楽が社会に与える影響も見逃せない。聴衆が音楽を聴き、互いに共有することで一体感が醸成され、それが大きなエネルギーに成り得るのだ。私見ではこの方面の音楽の適用例では、まず国歌がまさにそうであると思う。時として音楽は政治的事件にも繋がる。ドイツでナチスがワーグナー音楽をプロパガンダとして利用しようとしたのはあまりにも有名であり、後の空襲のなかでもフルトヴェングラーの演奏を聴こうとして会場へ集った聴衆の熱意も推して知るべきである。
だが現代において問題なのは、正ににこうした音楽と社会の関係性がすでに失われており実感できないでいる事である。音楽は単なる「商品」として世界中に出回り、主に個人の趣向にとどまるのみだ。だからこそ前項のような聴くだけの「受け身」のものとして音楽が認知されてしまう。かつては家庭でピアノの連弾などの‘ 行為 ’を通して音楽を共有しながら、知り楽しんでいった人々が、いまやCDなどの記録媒体で孤独に聴くのみになってしまった。人々はそのように変化していった音楽から次第に離れて行き、ともに踊るといった‘ 行為 ’を通して音楽と関われるジャズヘと向かっていく。現在のクラシック不人気の理由もこうしたところからきているのだろう。
筆者の結論は音楽の「する人」(演奏家)、「聴く人」(聴衆)、「語る人」(評論家)の特権的分化が人々の音楽離れを加速させ、音楽を‘ わけのわからないもの ’に変化させた、ということである。では、どうすればよいかはもう自明だろう。筆者の提案は音楽を「する人」、つまりアマチュアの存在意義を積極的に認めこれを復活させる事だ、とする。そして、臆することなく自らの言葉で「語り」(すなわち‘わざ言語’で)音楽を自分なりに表現していこうということである。
 このように音楽は単に無機的に空間と時間の中を流れるものではなく、さまざまな「型」の存在を知ることでより愉しめるものへとなり得る事が分かった。自分の知らない音楽も「内なる図書館」に合わないからと言って拒絶することなく「型」の存在を意識しながら聴いて理解すれば、もっと自分の趣味を広げられる。筆者が本書で問うたことは音楽との付き合い方があまり上手でない(特にクラシック音楽については)私達日本人にとって大事なことかもしれない。

( 門前ノ小僧 )



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