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2012.05.02 (Wed)

”まやかし”としてのラデツキー行進曲

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 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

    

1991年のアバドの演奏。今はイタリア人指揮者も普通に演奏します。


冒頭の題名が気になられるかもしれないがまずは2つのクイズを解いて欲しい。

①今年も1月に開催された恒例のウイーン・フィルのニューイヤー・コンサート。
トリはいつもの「美しき青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」で締め括られたが、さてラデツキーの語源は何?

②話題変わって、去年から今年にかけて日増しに激化している、中東の民主化運動「アラブの春」は、なぜ「春」というの? 
 
一見すると何の関わりもない二つの問題だが、とりあえず答えを見てみよう。

①の答え:19世紀に活躍したオーストリアの将軍ラデツキー(Joseph Radetzky von Radetz 1766-1858)を指している。 
②の答え:19世紀、西欧から東欧にかけて波及した反体制・民族運動「諸民族の春」に因んだ。
 
19世紀のヨーロッパと現代のアラブ。もしかしてその時代のヨーロッパでもムバラクやベンアリのような独裁者が倒されたの?と考えた読者は正解。当時のヨーロッパでは体制側の君主と反体制側の民衆の間で血なまぐさい騒乱が頻発していたのだ。しかもその舞台には、あの優雅な音楽の都ウイーンも含まれている。驚くなかれ、当時のウイーンは現代のカイロ、いやもっとひどいダマスカス(シリアの首都)のようなものだった。町中を砲弾が飛び交い、到る所で白兵戦( 剣と剣で戦う戦い )が展開され、バリケードが築かれては破壊される。家屋は焼かれ、死体は道端に累々と積み重なり腐臭を催す有様。まさに地獄絵図そのものだったがこれが当時のウイーンである。実は花の都パリも同様でヴィクトル・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」で登場するバリケード戦はこのときのものだ。
当時のヨーロッパは1848年のフランス二月革命を発端として、ドイツ、オーストリア( オーストリア帝国の支配下にあったハンガリー、イタリア)と、次々に革命が波及して行った、現代のアラブさながらの不穏な時代だったのである。
音楽家のシューマンは徴兵を避けて田舎に疎開し、革命派のワーグナーは捕らえられそうになりスイスに亡命している。
では、体制派であるオーストリアのラデツキー将軍は…?
このヨーロッパ全土に巻き起こる革命騒ぎを、軍を率いて片っ端からつぶしたのである。

それでは一体、ウイーンはどのようにしてこのような騒乱に巻き込まれたのだろうか?何故そのような凄惨な状況の中、かくも愉快な名曲「ラデツキー行進曲」は生まれたのだろう?そしてそこに隠された「まやかし」とは?

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1848年のウイーン。市民がバリケードを築いている。


時は1848年に遡る。当時のヨーロッパはきな臭いにおいに満ちていた。伝統的な王を中心とする絶対君主制を堅持しようとする王侯貴族たちに対して、一方では権力に虐げられた民衆(より正確に言うと労働者 )が対立していた。このような旧体制――ウイーン体制とよばれる――が、ルイ14世の時の絶対王政と大きく異なるのは、民衆が自由・平等・博愛を謳った1789年のフランス革命、ナポレオンによる民衆解放戦争、そして1830年フランスで起きていた七月革命という一連の革新的変化をすでに体験していたことにある。つまり民衆が力をつけてきた時代になった、ということである。革命の原動力になったのは、産業革命や植民地貿易などで力をつけた新興ブルジョワジー( 富裕層 )と中産階級( 一般庶民 )、そして労働者である。七月革命では、フランスのブルジョワだけに参政権が与えられ、依然として労働者は無視された。オーストリアでは更に深刻で、憲法さえも存在しなかった。民衆の怒りは頂点に達し、2月にはパリで革命が起こり、国王ルイ・フィリップが追放される。これに刺激を受け、3月にはウイーンやベルリンでも民衆蜂起が発生。ウイーン体制の元締め役ともいうべきオーストリアの権力者であったメッテルニヒは、この勢いに恐れをなし亡命、オーストリア皇帝フェルディナンド1世は憲法制定などを認めさせられた挙句、一時はウイーンから逃亡を余儀なくさせられた。まさしく‘ アラブの春 ’そのものだ。
 
だが11月になると状況は反転し、体制側は再び勢力を盛り返して、軍を市内に投入、激しい市街戦を繰り広げる。そしてついに革命勢力を殲滅することになる。死者は2000人にのぼったという。
このとき革命勢力側に加担していたヨハン・シュトラウスⅡ世(「ラデツキー行進曲」の作曲者ヨハン・シュトラウスⅠ世の息子。「美しき青きドナウ」の作曲者)は事情聴取を受け音楽活動を一時停止させられる。ウイーンの春は終わりを告げたが、結果的には憲法及び制憲議会が創設されたことで一定の民主化は達成されウイーン体制は崩壊した。

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19世紀後半のオーストリア帝国地図。赤色がドイツ人居住地域。黄緑色がハンガリー人居住地域。西隣にイタリアがある(1848年当時はこの北部の大半がオーストリア領だった)


ここで注意して欲しいのはこの革命で蜂起したのはウイーン市民だけではないということだ。上記の地図でも分かるように、当時のオーストリア帝国は他民族国家。領土はなんと、現在の北イタリア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、ルーマニア北部にまでまたがる 文字どおりの大帝国であったのだ。。ウイーンの三月革命はこれらの諸民族の自立をも促し、ハンガリーではコッシュートを中心として独立運動が発生する。北イタリアではサルディニア国王カルロ・アルベルトがイタリア統一に向けオーストリアに宣戦布告した。内憂外患のオーストリア、危うし!というところで現れたのがヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」の、前述したラデツキー将軍である。
ラデツキー将軍は、若い頃ナポレオン戦争に従軍した経験を持つ有能な司令官であった。が、戦後熱心に主張した軍制改革が政府に容れられず、晩年に差しかかると皇帝の口添えで退役を何とか免れていていた。
だが革命の嵐は彼に転機をもたらす。81歳という高齢ながら野戦司令官として再び彼は、伊のサルディニア王国に対抗するため北イタリアに派遣された。最初は、政府からはなかなか軍資金なども援助されず劣勢だったが、後に勢力を盛りかえし、ノヴァラの戦いでサルディニア軍に大勝してヴェニス、ミラノを占領、オーストリアの圧倒的勝利のうちに戦争は終結した。
戦後北イタリアの総督に任命されたラデツキー将軍は、占領地で武力で抵抗する者は容赦なく追放したが、それ以外は寛容な政策を行ったという。オーストリアの支配下に置かれるも、ヴェルディがイタリアの愛国的なオペラを書き続けながら迫害を受けなかったのはその例だ。

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ラデツキー将軍 性格は厳格であった一方、公正な紳士だったともされる。
 

さて「ラデツキー行進曲」がいつ作曲されたかというと、ウイーンで革命が起きた1848年8月である。この時期オーストリア皇帝はというと、5月に起きた革命によってウイーンから逃亡しアルプスのインスブルックに宮廷を移していた。まさに革命派がウイーンの権力を握ったのである。皇帝派は当然権力の奪還を狙う。利用したのはラデツキー将軍の北イタリアにおける勝利だ。皇帝はこれを手土産にウイーンに帰還を果たす事が出来たのだが、ラデツキー将軍の戦果を市民により効果的に知らしめ、人心を完全に掌握したいと思っただろう。だがこの時代にまだテレビなどの視聴覚メディアは発達していない。そこで代わりに大きな役割を果たしたのが‘ 音楽 ’であった。
委嘱を受けたのは当時の人気作曲家ヨハン・シュトラウスⅠ世(Johann Strauss 1804-1849)。彼が戦勝祝賀会に合わせて作曲した「ラデツキー行進曲」は当初は市民の間では不評だったようだが次第には国民に広く周知され定番曲としての地位を不動のものにする事となる。こうして見ていくと「ラデツキー行進曲」のあの煌びやかな旋律は、単にラデツキー将軍を讃えるだけのものではなかったのだと分かる。同曲は、市民たちに対イタリア戦争の戦果を示すことで、勝者の感覚を植えつけた「まやかし」だ、ともいえるのだ。それはいつのまにか革命精神をも弱らせてしまう――結果的に「ラデツキー行進曲」はプロパガンダの先駆となってしまったわけである。
改めて現代のウイーンのニューイヤー・コンサートで人々の拍手と共にのどかに同曲が演奏されるのを見ると、19世紀ウイーンでナショナリズムをかきたてられた市民の歓呼と熱狂の中、演奏された当時を思いおこしてしまうのは私だけだろうか。

だがその後のオーストリアは坂を転げるように衰退していく。幸いにラデツキー将軍はそれを見ることなく亡くなったがオーストリアはその後のイタリア統一戦争、続く普墺戦争に連戦連敗する。その中でもオーストリア国民は「ラデツキー行進曲」を聴くことで強国という「まやかし」を信じ続けていられた。しかし1914年から1918年の第一次世界大戦の決定的敗北によって大帝国は解体、オーストリアは中央ヨーロッパの一小国に転落した。ではその原因は一体何だったのか…。実はそれはヨハン・シュトラウスⅠ世が作曲したもうひとつの行進曲と関わりがある。それは「イエラチッチ行進曲」である。~ 次回に続く

(門前ノ小僧)


 引き続きクラシック万歳!!

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