FC2ブログ
2019年10月 / 09月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫11月

2012.05.03 (Thu)

悲しみの「イェラチッチ行進曲」

 TOP頁に戻る
 引き続きクラシック万歳!!



イヤホンやヘッドホンでの視聴をお勧め致します。
     
    
        
      

           

ラデツキー行進曲」なら誰でも聞いたことがある。では「イエラチッチ行進曲」は?と尋ねられて聞いたことがある人はあまりいないだろう。事実この曲は有名な音楽事典を当たってみても詳細な説明は見つからない作品だ。それにしても何なのだろう、この朗らかな、明るい調子は…。「イエラチッチ行進曲」を初めて聞く人ならだれでもこれが行進曲だと思う人はいないだろう。むしろ朝の目覚めに良さそうな軽快な曲、何がしかのダンスの曲にも聴こえるかもしれない。
 
 
  
 イエラチッチ

イエラチッチ 祖国クロアチアでは現在でも英雄とされる


「イエラチッチ行進曲」も前回の「ラデツキー行進曲」と同様、戦争に勝利した将軍をたたえてヨハン・シュトラウス1世が作曲したものだ。だが今回は少し毛色が違う。ラデッキーやシュトラウスはオーストリア人であったが、今回の主人公イエラチッチ将軍は、実はオーストリア人ではない。
ヨシフ・イエラチッチ(Josip Jela'cic 1801―1859)は現在のクロアチア出身の将軍であり、クロアチアの総督であった。クロアチアという国はあまり聞いたことがないかもしれないが名ピアニスト、ポゴレリッチの父親の故郷、1990年代の悲惨なユーゴ内戦の舞台と言えば、あるいは知っている人もいるかもしれない。
クロアチアは19世紀当時はオーストリア帝国の支配下にあった。その支配に置かれるまでの経緯は長くなるため詳細は省くが、要はバルカン半島の南に位置するイスラム教徒中心のオスマン・トルコ帝国に対するキリスト教側の最前線としてクロアチアは重視され、隣国のハンガリー、そしてそのハンガリーを支配するオーストリア帝国の統治下にあったのだ。
だがそのクロアチア < ハンガリー < オーストリア帝国 というピラミッド状の支配構造は、1848年に起きたウイーン3月革命とそれに続くヨーロッパ全土に広がる民主化運動「諸国民の春」によって大きく動揺する。
一連の反体制・独立運動の先鞭をつけたのは他ならぬハンガリーだった。ハンガリーの有力貴族コッシュートはオーストリア帝国からの独立を宣言し宣戦布告。これに対しオーストリア帝国政府は首都のウイーンの民衆の騒乱や対イタリア戦争にかかりきりでハンガリーに軍勢を回すだけの余裕がなかった。そこでどうしたか。オーストリア政府はクロアチアに目をつけたのである。
当時クロアチアは直接の支配下にある「ハンガリーからの」分離独立を主張し、実際にハンガリーに対して反乱を起こしていた。その主導者こそ‘ イエラチッチ将軍 ’に他ならない。彼は革命前からハンガリー内のクロアチア人と同朋の南スラヴ民族を糾合して一つの国家を建設する「イリリア運動」に協力し、ハンガリーに対抗してクロアチア独自の議会を招集し農奴制の廃止などの諸改革を進めた。そしてハンガリーと交渉が決裂するや、自ら軍勢を率いてハンガリーに攻め入ったのだ。一方、当初はイエラチッチを危険視し彼の官職を剥奪していたオーストリア帝国政府もこの動きを見て、直ちに彼を将軍に任命する。いわばイエラチッチはオーストリア皇帝からの「お墨付き」を貰ったわけだ。以後彼はハンガリー討伐の先兵として長く苦しい戦闘を戦うことになる。
 
 
蝨ー蝗ウ_convert_20120502200929

濃い青色がハンガリー領。緑色がクロアチア領。当時の巨大なオーストリア帝国は多民族国家だった。多数のドイツ人とマジャール人を合わせても全国民の半数にとどかない。他に、チェコ人、ポーランド人、ルーマニア人、クロアチア人、スロヴァキア人、セルビア人、スロベニア人、ムスリム人、イタリア人、ルデニア人、ユダヤ人…民族のるつぼといえる。


ここで皆さんは何故イエラチッチはハンガリーと共にオーストリア帝国に対抗しなかったか、といぶかしく思うかもしれない。ともにオーストリア帝国の支配下にあるのだから共闘の余地はあったはずだ、と。だがそうでないところにこの地域の独特の歪みがある。クロアチアはかなり昔からハンガリーに支配され虐げられてきたのである。またイエラチッチらは、ハンガリーが独立することでハンガリー内の「マジャール人(ハンガリーの民のこと)化」が進みクロアチア人もまたハンガリー人に同化されてしまうのではないか、と危惧したようだ。一方ハンガリーにしてみたら、自国の領土の一部と考えているクロアチアが分離を主張するなど論外であっただろう。対立は避けられなかったのだ。 
 イエラチッチはオーストリア軍と手を結び、苦戦の末ハンガリーの首都ブダペストを占領した。がハンガリーの独立勢力を完全に破るにはなお数カ月を要した。
戦闘終結後、彼はウイーンに行く。当然、今回の功績を称えられ、クロアチアの大幅な自治が果たされるであろうことを期待していたに違いあるまい。だが結果は悲惨だった。クロアチアは結局ハンガリーの支配下におかれたままであった…何故ならハンガリーもこの戦闘で敗れたことより、独自の議会を廃止させられ、オーストリアの直接支配下に再び入る事になったからである。その内にあるクロアチアも同様にオーストリアの直接統治を受けることになる。自治の権利もいくらか認められたようであるが、結局革命以前と大差はなくなってしまったのだ。
クロアチア国民は痛く失望したことだろう。だがそれ以上に彼らを驚かしたのは、総督イエラチッチの姿であった。あれほどかつてクロアチアの自治を掲げながら、今となっては味方であった筈の反オーストリア系の新聞を次々に非合法化していったのである。彼は死ぬまでクロアチア総督を務めあげたが、ついに彼の統治下で再び独立の機運が高まることはなかった。これらは、彼が心ならずも下した結果であったのか、それともそもそも彼はオーストリアに忠誠をつくした人物だったのか(彼は若い頃ウイーンで教育を受け、オーストリア軍の中で育った)、今のところ私には分からない。
そしてもう一つ重要なのは、このオーストリア帝国政府がクロアチアに対して行った一連の仕打ちはその後、自分達の方にもはね返ってきた、という事である。
三月革命以後、オーストリア帝国が対外的に連戦連敗を繰り返したことは前回に書いた。それはそうだろう、諸民族の混合であるオーストリア帝国軍がまともな働きをしたとは思えない。
オーストリア政府もついに妥協を余儀なくされ、ハンガリーを一つの国家に格上げし、オーストリアと同君連合を取るという体制(オーストリア・ハンガリー二重帝国)を敷いた。その過程でクロアチアもハンガリーと協約を結び、ある程度の自治を獲得する。
しかしそれでも尚、クロアチア国民の独立への願望は日に日に勢いを増し、特にハンガリー政府のとった、同じスラブ系のクロアチア内セルビア人への優遇政策も結局役に立たず、返ってクロアチア人とセルビア人の結束を強めてしまう事となる。
そして第一次世界大戦、ついに栄華を誇った大帝国は1919年のサン=ジェルマン条約で瓦解した。結束もないバラバラの状態のオーストリア帝国軍はほとんど戦力にならなかった。
 
その後のクロアチアの歴史は非常に複雑であるため詳細は省く。しかし近年――1990年代の内戦は触れておかなくてはいけない。当時ユーゴスラビア連邦に属していたクロアチアは再び独立を宣言する。しかし同国内のセルビア住民が反対したため内戦に発展、多くの死者を出し、20万人ものセルビア人が国外脱出したのだ。――だがここで歴史を振り返り考えてみれば、先の19世紀後半クロアチア人とセルビア人はともに結束してオーストリアからの独立を目指していたのである。「重し」となっていたオーストリア・ハンガリー帝国も崩壊し、チトーの独裁も終焉し、冷戦の緊張も無くなった90年代になり、今度は同朋であるはずの両者の対立が浮き彫りになったのだ。これもまた悲劇といえよう。
「 イエラチッチ行進曲 」が作曲されたのは「 ラデツキー行進曲 」の翌年の1849年。作曲者ヨハン・シュトラウス1世が急死した年でもある。シュトラウスとしてはオーストリアの輝かしい勝利に花を添えようと純粋に楽しい曲を書いたに違いない…。だが、その曲が背負う歴史は「ラデツキー行進曲」以上に複雑で、かつ悲劇的なものとなっていったのだ。 
 

             蜀咏悄_convert_20120502200013

1990年代のクロアアチア紛争の後。瓦礫の山と化している。この紛争をもって、ようやくクロアチアは独立を達成する。 

※画像はWikipediaより転載

(門前ノ小僧)







 引き続きクラシック万歳!!

 TOP頁に戻る




関連記事
20:26  |  オーケストラの名曲  |  EDIT  |  Top↑
 | BLOGTOP |