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2013.05.05 (Sun)

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(一)            <教養>は一日にしてならず―メンデルスゾーンの生きたドイツ市民社会(二)

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 引き続きクラシック万歳!!


ヴァイオリンをやっている皆さん、3大ヴァイオリン協奏曲というとどの曲かお分かりですか。
「マツコと有吉の怒り新党」(テレビ朝日)の‘ 新三大○○ ’のコーナーの冒頭でも、有名なメロディが流れているメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルト(協奏曲)が先ず出てくるのではないでしょうか。後はチャイコフスキー?私も初めはそう思っていましたが、実はメンデルスゾーン、ベートーヴェン、ブラームスなのだそうです。(良かった~チャイコフスキーが入っていなくって?これは本当に難物です。)勿論、音楽は自分が楽しめればよいので、こういうものに左右される事もないのです。このコンチェルトの何楽章が素敵だなとか、一番好きだなとか、色々なコンチェルトを是非聴いてみて下さい。
私自身のメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトとの出会いは、だらだらとヴァイオリンを続けていた中学生の或る日、突然、先生からメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを弾いてくるよう申し渡された時です。嬉しさと同時にあまりの長さに初めは怖気ずき、生まれて初めてヴァイオリンコンチェルトなる物のレコードを親に買ってもらった記憶があります。その時、スピーカーから出てきた音楽は、エレガントにシルクの様に艶やかに歌うヴァイオリンの音色と、走馬灯のように美しい風景をめくるめくかいま見せているかの様な、詩情あふれる旋律とハーモニー…絶景でした。( vn.ピンカス・ズーカーマン)
そして、これが普段自分が弾いているのと本当に同じ楽器なのだろうか…と、つくづくイケメンヴァイオリニストの映っているジャケットを眺めながら陶然とその音色を聴いていた事を思い出します。こんな世界もあるのだな…と。



チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲チャイコフスキー : ヴァイオリン協奏曲
(1995/10/21)
ズーカーマン(ピンカス)

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メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトの方は、
バーンスタインが指揮を担当している。
カザルスとアイザック・スターンに見出されたズ―カーマンは
録音年代から推測すると未だ10代だったのではないか。



それにしても‘メンコン’が入っているのに‘チャイコン’は何故入っていないのだろう、などの疑問から、しばらく御無沙汰していたコンチェルトのCDを聴いたり弾いたりしてみました。何故しばらく弾いていないかと云えば、コンチェルト( 協奏曲 )は、本来、オーケストラをバックに従えて格好良く一人( ソロ )で弾いてみせる、ヴァイオリニストの名人芸を堪能する為に作曲された音楽、だからです。内外のコンクールでも最後の砦は矢張り‘ コンチェルト ’になっています。一生のうちでオーケストラを雇うお金(スポンサー)や実力がある限られた人しか弾く機会はなかなかありません。
それでも、依然としてヴァイオリンをやっている人の最終目標到達地点 として君臨し続けているのが、矢張りコンチェルトでしょう。何故あまり面白くもないスケールやエチュードなどの基本練習を繰り返しやらされているのか…?と云えば、これらのコンチェルトを初めとする難曲を弾くために必要なテクニックだからです。裏を返せば、基本に忠実にきちんきちんと積み重ねていく事によって、実は誰でも弾けるようになるのです。確かに、コンチェルトはエヴェレスト級です。が、どんなに険しく厳しい難所があっても慌てることは事はありません。何故なら、どんな難しく見える箇所も‘ 基本的なパーツ ’がちょっとややこしく組み合わさっているに過ぎないのですから…。例えば、メンデルスゾーンの冒頭の滑り出しは、わずかワンフレーズの間に第2→第4→第5→第4→第3と次々にポジションが動きます。後にはオクターブで、第1→第2→第4→第6→第8ポジション移動したりします。ギターの様にフレットが付いている訳ではないので、ヘロヘロになるか、音程がはずれてしまうでしょう。けれど、この‘ 基本パーツ ’を一度習得してしまった人には、高い山も少しも怖くはありません。楽に登れる様になる筈です。左手のそれぞれのポジションの位置と手の形が出来ていれば、その型を崩さぬよう意識して、なるべくユックリ、シズカ~ニ何回も練習してみましょう。――勿論、この‘ 基本パーツ ’は土台となるので、体にきっちりと覚えこませないといけないので、多少の根気と時間はかかります。私もいまだにスケールなどの基礎練習だけは欠かしませんが、慣れてしまえばTVを見ながらでも出来ます。(注 小さい子は真似をしないで下さい。)       
新緑の美しい時期、筑波山の山登りもさぞかし気持良いに違いありませんが、命がけで(?)登る世界の山々にチャレンジするのも、また大きな醍醐味と言えるのではないでしょうか。

「あなたは何故エベレストを目指すのか
そこに山があるから(Because it is there. )」
ジョージ・マロリー

      

イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。





アイザック・スターンの、力強さの中にも哀愁が漂う名演。




中学生の時には気にも留めなかったのだが、、メンデルズゾーン家は、ヨーロッパでは長い間差別されてきた(イエス・キリストが十字架にかけられたのはユダヤ教徒によるものだった為、また宗教的な対立などの理由による)ユダヤ人の一族である。何故ベルリンにいたのか?

三代遡ると、彼のお祖父さんは、当時「ドイツのソクラテス」「第3のモーセ」などと呼ばれた高名な哲学者モーゼス・メンデルである。(後にドイツ風にメンデルスゾーンと名乗った)
まず祖父モーゼスに関しては、貧しい聖書筆写師の子としてドイツのデッサウに生まれ、ユダヤ人の貧困階層のため就学できず、父から聖書や哲学、タルムードなどユダヤ的教育を施される。その後一家でベルリンに移住する。同地で貧困と戦いながら、ほぼ独学で哲学等を修得し、ラテン語、英語、フランス語なども修めた。また、ジョン・ロック、ヴォルフ、ライプニッツ、スピノザなどの哲学に親しみ、これらの教養がかれの哲学の下地となる。
モーゼス・メンデルは1754年には、ドイツの劇作家レッシングを知る。また、カントとも文通で交流を深めた。レッシングの数々の劇作において、ユダヤ人は非常に高貴な人物として描かれていた(なお、レッシングの代表作「賢者ナータン(ドイツ語版)」のモデルはこのモーゼス・メンデルスゾーンである)。これらはモーゼスに深い感動を与えるとともに、啓蒙思想(あらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方)へと彼を導き、‘信仰の自由’を確信せしめた。その後、処女作としてレッシングを賞賛する著作を書き、レッシングもモーゼスに対する哲学の著作を書き、互いに親交を深めた。
モーゼス・メンデルスゾーンの名声は高まり、1763年にはベルリン・アカデミー懸賞論文で、数学の証明と形而上学に関する論文でカントに競り勝つ。後にカント哲学を論難する人物とみなされるに至った。
彼は、当時キリスト教徒から蔑視されていたユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学的知識を普及させ、人間としての尊厳を持って生きることが必要であると説いた。そうした目的を成し遂げるためには、信仰の自由を保証することが必要であるとした。そしてこうした考えを、体系的でない、いわゆる「通俗哲学」として表現した。ユダヤ教徒の身分的解放という点で、モーゼス・メンデルスゾーンの果たした役割は大きい。  ~ Wikipedia による

さて、宗教的差別や人種的偏見と闘ったこの「ユダヤのソクラテス」と言われるこの偉大な祖父と、子供達だけでもとユダヤ教からキリスト教に改宗させるなどしてベルリンで銀行家として成功し大富豪となった世にたけた父親を持つフィリックス・メンデルスゾーン。しかし当時は依然として、どんなに富裕であってもユダヤ人は一歩門から出れば近所の悪童からユダ公などとからかわれたり石を投げられたりしたので、イジメや差別に合う事を怖れた両親は、当時、ドイツの貴族がそうしていた様に学校には行かせず最高の教養人を家に招いての英才教育を終日施した。
フィリックス・メンデルスゾーンは特に音楽に突出していたが、画もプロ顔負けの腕前で、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語と語学も堪能だった。( 今の日本の若者も学ばなければならない事が多く大変だが、フィリップス・メンデルスゾーンも遊ぶ暇なく勉学・習い事に日夜忙しかったのです。)唯一の遊びといえば、兄弟姉妹でやるシェークスピア劇の‘ 真夏の夜の夢 ’ごっこであった。
大邸宅である自宅の一部の大広間は音楽サロンとして開放され、小オーケストラなどが招かれ舞台が設けられるなどして「日曜音楽会」が開催された。主に古典派のモーツアルトやハイドンなどが演奏され、メンデルスゾーン兄弟もバイオリンやピアノで加わっていた。そのうちこの幼き天才フィリックス・メンデルスゾーンの作曲した音楽も演奏される事になり第二のモーツァルトとまで言われた。
このメンデルスゾーン家のサロンは、本格的な演奏が楽しめる上に贅沢な昼食付き(!)だったのでますます評判となり、ベルリンの名士はもとより、言語学者のグリム(『グリム童話』の編者)、文学者フンボルト(ベートーヴェンと同じ自由主義者、フンボルト大学を創設――後にベルリン大学となり、グリム、フィヒテ、ヘーゲル、マルクス、アインシュタイン等が学んだり教えたりする事となる。)、哲学者ヘーゲル(ドイツ観念論最大の哲学者)、詩人ハイネ(シューベルトを初めシューマン、ブラームス等ドイツリート(歌曲)に歌われた)、他にも著名な画家等が、このメンデルスゾーン家のサロンに集った。そこで行われた演奏会には、世界的な音楽家ウェーバー、パガニーニ、シュポア、フンメル、リヒャルト・ワーグナー(作曲家、実は「音楽におけるユダヤ性」を書いた反ユダヤ主義者、ヒトラーに多大な影響を与える)、ダーヴィド(メンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを初演)など参加するようになり、いつの間にか私的な家庭音楽会(ハウス・ムジーク)の枠を越え、ベルリンでは貴重な公開演奏会の位置を占めるようになる。
十代の中頃より、人間的な成長と見識を高めるため、豊かな財力を持つ親は心配ながらも、ヨーロッパ各地への教養旅行(演奏旅行)に出す。各地で、ゲーテ、ベルリオーズ、ショパン、シューマン、ヨアヒム、などと知り会っており、影響を与え合っている。年老いた文豪ゲーテからはその才能を称賛され(彼はモーツァルトやベートーヴェンの演奏も生で聴いている)、彼にイタリア旅行を進められ、交響曲「イタリア」を書いたが、ラテン系のイタリア人気質と(少々享楽的で怠け者?)合わないと言ったりもしている。
話はそれるが、その頃日本では、ユダヤ人の様な桁違いの金持ちの子弟こそいないが、今より5歳早い15歳で元服( 成人の儀 )をすると、「かわいい子には旅させろ」と武家の子は他所の藩校などに‘ 遊学 ’という形で武者修行の旅に出ていた。これも教養旅行だろう。明治に入ってからは、上級武士の子であった滝廉太郎メンデルスゾーンが創設したライプツィッヒ音楽院に日本人としては二人目の留学生として留学している。ちなみに、滝廉太郎といえば、「箱根八里」と並んで「荒城の月」は、文部省編纂の中学唱歌に掲載され、も~いくつ寝ると♪ の「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などは、幼稚園唱歌に収められた。また最近になって「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったと判明したそうである。という事は、滝廉太郎の曲を初め、今でも私たちに馴染み深い文部省唱歌は、当時すでに十分世界に通じる質の高いものであったということになろう。
メンデルスゾーンの曲は、ヴァイオリンコンチェルトの他にも、あげたらきりのない程の、親しみやすい名曲を数〃残している。劇音楽「真夏の世の夢」、序曲「フィンガルの洞窟」、交響曲「イタリア」「スコットランド」、宗教曲では、3時間以上の大作オラトリア「エリヤ」、室内楽では、弦楽八重奏曲、ピアノ三重奏曲、ピアノ曲では「無言歌」…。

人気があり引張りだこだったメンデルスゾーンだが、他にもいろいろ意義深い仕事を成し遂げている。

・バッハとベートーヴェンを深く敬愛し、研究した。
・当時は古臭い教会音楽だった筈の、100年前のバッハ「マタイ受難曲」を掘り起こし研究し、初演した
(このことがなければ、今日、ここまでのバッハブームや研究は行われていないかも知れない。)
・他国に先駆けて産業革命が起こった近代都市ロンドンにおいて、特に歓迎された。
 反響の大きかった「エジプトのイスラエル人」などヘンデルの曲が、逆輸入の形でドイツで紹介される事になった 。 ( その頃ロンドンには有名なユダヤ人銀行家ロスチャイルド家の三男が政財界で権勢を振っていた。)
・ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団――世界初の市民階級による自主経営オーケストラとして発足した。身分や階級に関係なく入場料を払えば誰でも聴く事ができた。――の指揮者に招かれ、音楽面だけでなく、市と何度も交渉し、市立オーケストラに昇格させ、年金制度を導入するなど、一流のオーケストラに育てた。
指揮棒を使っての細かな表情を出す指揮をする、初めての人となる。(それまでの指揮者やコンサートマスターは、拍子や強弱位しか指示をしなかった)
・ドイツ初の音楽学校となるライプツィッヒ音楽院を創設。ユダヤ人にも門戸を広げ、貧しい人には奨学金を出すなどした。教師陣にはシューマンやその婦人でピアニストのクララ・ヴィークも名を連ねた。(ユダヤ人であった神童ヨアヒムは12歳で入学した。後にシューマンにブラームスを紹介したバイオリニスト)
・メンデルスゾーンが資金を集め、聖トーマス教会(西側)にバッハの胸像を彫った「バッハ記念碑」建てた。除幕式では、全バッハ作品によるオルガン特別演奏会を開いた。
・シューベルトの交響曲第8番「グレイト」を初演する。

バッハからベートーヴェンとドイツ音楽の伝統を受け継ぎ、その継続と発展に日夜努力を惜しまず貢献し、自身の優れた作曲以外にも、欧州各地の演奏旅行とで、終に過労の為早くに早世してしまったメンデルスゾーン。またユダヤ人の地位向上のため常に戦い続けたもう一つの顔のメンデルスゾーン。けれど彼は、本当はキリスト教徒でもユダヤ教徒としてでもない、ユダヤの一音楽家として、また一人の人間として生きる、という芸術家の誇りと衿持をもって世界の人に認めて欲しかったのではないか。その彼の魂の依り所であり彼を支えていたのは、‘ バッハ ’などの 音楽ではなかったか。
100年後に起きたユダヤ人の過酷な運命を思うと、この音楽が特別なものに聴こえてくる…。




メンデルスゾーン:VN協奏曲メンデルスゾーン:VN協奏曲
(1996/10/21)
ボストン交響楽団

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演奏:スターン(アイザック) ボストン交響楽団
指揮:小澤征爾

名匠であり、イツァーク・パールマン、ピンカス・ズーカーマン、シュロモ・ミンツという
ユダヤの天才ヴァイオリニストの師匠でもある。
自身もウクライナで迫害を逃れる為、幼い頃よりアメリカに渡ったユダヤ人だが、
世界に散らばる、祖国を持たないユダヤの同朋を常に気にかけ、音楽家として政治的にも尽力した。2001.9.11ニューヨークで起きた同時多発テロの数日後、心臓発作で亡くなった。
1948年には、正式にイスラエル国が誕生している。





メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人
(1985/11)
ハーバート・クッファーバーグ

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三代にわたるメンデルスゾーン家の実像と苦悩に迫る。
翻訳は、金田一耕介扮する「犬神家の一族」などでお馴染みのミステリー作家の横溝正史
の長男横溝亮一氏。クラッシック通で知られている。


(爽)




 引き続きクラシック万歳!!

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<教養>は一日にしてならず―メンデルスゾーンの生きたドイツ市民社会(二)

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 引き続きクラシック万歳!!

 

イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

   

メンデルスゾーン作曲『夏の夜の夢』序曲より 結婚行進曲




メンデルスゾーンと聞いて皆さんは何をイメージするだろう。「有名なヴァイオリン協奏曲の作曲家でしょ」とか少し詳しい人なら「結婚式に流れる行進曲も彼の作曲よね」と答えるかもしれない。しかし彼の人生ともなるとあまりピンと来ないのではないか。それもそのは筈、彼の経歴を調べてみれば分かるが劇的な出来事はほとんどない。しかも彼は今でいう「インテリ」でもあった。銀行業を営む裕福な家庭に生まれたことももあり、彼は幼いころから英才教育を受けていた。そのため音楽だけでなく語学(母語のドイツ語に加え英語、フランス語、イタリア語更にはラテン語、ギリシャ語!)を修め、絵の才能も開花させたという。しかも彼は祖父が大哲学者モーゼス・メンデルスゾーンであり、自身も巨匠ゲーテに会うなど知的な交流にも事欠かなかった。このように書くといかにもメンデルスゾーンは近寄りがたい人のように思われるし、劇的な生涯など望むべくもない。
しかしここである疑問が出てくる。何故メンデルスゾーンは音楽家にもかかわらず音楽だけでなく様々な教育を受ける必要があったのだろう。第一の理由はもともと親が彼を音楽家にさせるつもりがなかったというのがあるが、それなら何故逆に彼は音楽を学ばなくてはならなかったのだろうか。すると次に考えられる答えは「教養」の為だ、というものである。実はこの「教養」こそが今回重要なキーワードになるものであり、メンデルスゾーンの生きた19世紀ドイツ前半の社会の一端を知る手掛かりになるのである。
 

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フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847)


ここで注意してほしいのはドイツ語における「教養」の意味である。それは今の日本でよく見られる「教養のための○○」というような、うんちくを沢山覚えることとは訳が違う。「教養」をドイツ語では"Bildung"というが、これはもともと動詞の"bilden"「作る」に由来する。では何を作るかと言えばそれは「人間の内面」である。つまり「教養」の意味には、生まれたばかりの未熟な自己の内面を、長い人生をかけて完全な人格へと築き上げていく、という意味が含まれているのである。
この概念を特に重要視したのは19世紀では主に市民階層であった。もちろん貴族でも良さそうな気がするがこれには訳がある。19世紀は市民革命と産業革命によって王・聖職者・貴族の力が弱まり、市民の勢力が強まった時代であった。しかし貴族と市民の間には依然として「生まれ」を基準とする身分格差が残っていた。貴族は自らの血統を誇りにしつつ、市民を軽蔑していたのである。当然市民はこれに反発し、「生まれ」に代わる価値観を探すようになる。この時見出されたのが「教養」であった。「教養」の持つ、人生においてたゆみなく修養すれば誰もが完全な人格に到達出来るという考えは彼らを引き付け、血統に安住する上層階級を逆に批判できるようになったのである。また19世紀前半のドイツ市民社会は英仏のそれとは異なる事情も抱えていたことも重要である。当時政治的、経済的革新がドイツでは実現していなかったため、それらを基盤とする市民という概念自体が非常に曖昧なものだった。そこで貴族や農民と自らを分ける‘ アイデンティティ ’として「教養」が選ばれ、教養を備えた人々を市民とみなすようになったのである。ここにおいてドイツに特有な市民概念"Bildungsbuergertum"「教養市民層」が誕生したのである。
では何をすれば「教養」を持った人物とみなしてもらえるのだろうか。重要なのはそれは職業や出身大学などの資格では必ずしも決まらない事である。むしろそれは文芸活動や音楽活動に従事し自己の内面に「望ましい感情」を喚起することで得られるのである。当時のドイツ市民社会と音楽の関係を研究している宮本直美氏は例として高等教育を受けたエリート役人の多くが余暇にアマチュアとして楽器を弾いたり合唱サークルに参加したことを挙げている。特筆すべきことは楽器演奏にしても合唱にしても一朝一夕に出来るものではない点である。長い修養を通して初めて上達するからこそ、"Bildung"「教養」にふさわしいのである。つまり音楽活動は一種の「自己教化」であって、決して単なる大人の気晴らしではなかったのだ。このような市民層の間での活発な音楽活動はアマチュアの合唱においてはオラトリオ・ブームへとつながり、メンデルスゾーンもこの流れに乗ってバッハの「マタイ受難曲」を再演したり、オラトリオ「エリヤ」を作曲している。

 
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ベルリンにおいて結成された合唱団体「ベルリン・ジングアカデミー」の専用ホール。この伴奏を受け持つ楽器奏者のための養成機関が後に現在のベルリン・フィルに発展した。後には似たような団体が各地で結成されるようになる。





イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。




メンデルスゾーン交響曲第3番「スコットランド」第1楽章
アーティスト 指揮ニコラウス・アルノンクール


またこの「教養」概念はドイツ・ユダヤ人とも密接な関係を持っていた。当時のドイツ・ユダヤ人はゲットーと呼ばれる隔離された居住地区からようやく解放され、一般のドイツ人と同じ生活を送ることが徐々に可能になりつつあった。(メンデルスゾーンの祖父であり哲学者のモーゼス・メンデルスゾーンが、啓蒙思想によりユダヤ人自らが自己を解放しヨーロッパ社会に同化する道を説き‘ユダヤ教改革運動’が進んだ。)しかし一方では民衆の間のユダヤ人差別は根強かった。その時ユダヤ人を引き付けたのが「教養」概念であった。先にも書いた通りこの概念の特徴は、誰もがそれを努力によって得ることが出来ることであり、目指された目標も完成された人格という「普遍的」なものであった、という点がある。「教養」によって‘貴族’と‘市民’という違いを超越したのであれば、当然‘ドイツ人’と‘ユダヤ人’の違いも乗り越えられるはずだ、ユダヤ人はこう信じて率先して「教養」の道に進んでいったのだ。こう考えると豊かなユダヤ人家庭が子息に英才教育を施す理由には単に立派な人間になってもらうことだけではないと分かる。それは引いては将来ドイツ人のユダヤ人「差別」を除去することにも繋がってほしいという切実な願いがあったのだ。やがて「教養」と啓蒙が市民社会の主流となる中で、ユダヤ人も一時は他のドイツ人と「平等」に扱われているという感触を抱くに至った。

だが一方で、ユダヤ人の夢見る「教養」の世界とは全く別の世界も19世紀のドイツでは早くも見られるようになる。転機はナポレオンのドイツ侵略である。圧倒的なフランス軍の強さの源を、「国民」の一体感が要となっている事に気付いたドイツ人は、当時分裂状況であった自国の統一を叫ぶようになる。そこで強調されたのは「教養」概念の理想である完成された普遍的な‘ 人格 ’に代わる、固有の‘ 民族 ’性であった。民族に固有のものは何かといえばそれは歴史であり、伝説であり、神話である。いずれも非合理的な要素や感情をはらんでいるのが特徴である(ロマン主義)。 やがてこうした神話や非合理的な感情をモチーフにした作品が文芸や音楽の中に登場し始める。古ゲルマン伝説を下敷きに書かれたオペラ「ニーベルングの指輪」の作者ヴァーグナーはその代表と言えよう。彼はメンデルスゾーンを始めユダヤ人を批判するに至ったのが、その理由もまた彼らが単にユダヤ人だからだけでなく、‘ユダヤ人が、非合理的な感情やドイツの民族性に対立する「理性」や「教養」の代表’であると考えたからであった。しかし時代の流れが徐々にこうした「民族主義」に進む一方で、ユダヤ人は現実から目を背け「教養」の理念にしがみつづけた。その中には「教養」の目指す究極の人間性が実現できるとして平等の理想を掲げる社会主義へ走るユダヤ人が現れたり、フロイト等のように「教養」の取る理性的な立場から非合理的な人間の無意識を検証する知識人も現れた。

そのような彼らにとって1933年に反ユダヤを掲げるナチスが政権を取ったことは何よりの皮肉であったかもしれない。というのもナチスの支持者となったのは、かつて「教養」の理念のもと共に自己を磨き合いながら、その後に起こった世界大戦と経済恐慌によって見る影もなく落ちぶれた末にナチスに最後の望みを託した「市民層」であったのだから…。





メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」他メンデルスゾーン:交響曲第3番「スコットランド」他
(2010/10/20)
クレンペラー(オットー)

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メンデルスゾーンと同じユダヤ人の名指揮者オットー・クレンペラー(1885~1973)が残した録音。クレンペラーはナチスの迫害でドイツからアメリカへ亡命し後にイギリスへ渡り、当地でフィルハーモニア管とともにこの録音を残した。メンデルスゾーンの時代のユダヤ人の状況と自らのそれとのあまりの変動ぶりにクレンペラーは何を思ったのだろうか。演奏は非常に重厚なものである。




                    
ユダヤ人の「ドイツ」―宗教と民族をこえて (講談社選書メチエ)ユダヤ人の「ドイツ」―宗教と民族をこえて (講談社選書メチエ)
(1996/06)
ジョージ・L. モッセ

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ドイツの近現代史家ジョージ・L・モッセがドイツ・ユダヤ史を「教養」の観点から捉えなおした著作。モッセ自身もナチスの迫害でイギリス、アメリカへと亡命したユダヤ人である。





教養の歴史社会学―ドイツ市民社会と音楽教養の歴史社会学―ドイツ市民社会と音楽
(2006/02/17)
宮本 直美

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19世紀前半のドイツの市民社会を「教養」と「音楽」の関係をから描写した歴史学・音楽学・社会学を横断する著作。





イヤホンかヘッドホンでの視聴をお勧め致します。

                     

クレペンラーが1969年にバイエルン交響楽団を振ったメンデルスゾーン交響曲第3番「スコットランド」第4楽章。後半が短調に改変されている。

※画像はWikipediaより転載
( 門前ノ小僧 )





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